生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

優れた日本文化の文明化のプロセス(18)番外3

2015年11月27日 09時43分40秒 | メタエンジニアリングと文化の文明化
                                                 
             
番外3 イスラム文明の盛衰プロセス

第17回の話の中で、次の様に書きました。
 『岩波書店がアリストテレス全集を発刊した際には、諸外国から賛辞が贈られたとの事実がある。西欧のルネッサンスがスペインでのレコンキスタがイスラム文明を導入するきっかけとなり、その際にアリストテレス全集のイスラム語版の存在を知り、あわてて西欧の言語訳を作り、それを当時の印刷技術で広めたことが、中世の非合理的な世界から抜け出す原動力となったとの説もある。ちなみに、それまでイスラム文化圏であった地域の多くは、アレキサンダー大王に支配された地域が多く、アリストテレスは若きアレキサンダーの師であった。古代ギリシャの自然科学の知見を素直に受け継いだイスラムが、中世のヨーロッパを席巻していたと時代と言えそうである。』

 レコンキスタについて、Wikipediaでは概要を次のように記している。『レコンキスタ(スペイン語:Reconquista)は、718年から1492年までに行われた、キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動の総称である。ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服とそれに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落によるナスル朝滅亡で終わる。レコンキスタはスペイン語で「再征服」(re=再び、conquista=征服すること)を意味し、ポルトガル語では同綴で「ルコンキシュタ」という。日本語においては意訳で国土回復運動(こくどかいふくうんどう)や、直訳で再征服運動(さいせいふくうんどう)とされることもある。』
先年、スペインを旅行した時にはこの基本的な歴史的事実を知らずに、大いに恥ずかしかった。

 この超長期間にわたるイスラムの西欧に対する優位性を明確に記した書物に出会ったので紹介したい。題名は、ストレ-トに、『奴隷になったイギリス人の物語―イスラムに囚われた100万人の白人奴隷』で、著者は大航海時代のノンフクション作家の第1人者として紹介された英国人。2006年にアスペクト社から発行された,406ページの大作だ。



 意外な内容を紹介する前に、大航海時代のはるか後のある話を思い出した。『母をたずねて三千里』だ。あの話は、イタリアに住む少年が、アルゼンチンの裕福な家に出稼ぎに出たまま帰らない母親を訪ねる物語だったと思う。近代でも、多くの日本人移民が南米に渡ったのだから、このような地域の貧富(というよりは文明化の程度)のサイクリックな変化は、将来も続いてゆくものだと考えた方がよさそうに思う。

 本題に戻る。物語は、モロッコに巨大な宮殿をつくり(歴史上最大と云われているが、材料が基本的には土だったので、砂漠の風で完全に風化してしまった)、巨大な軍隊を持っていた大スルタンのひろばでの儀式から始まる。そこでは、無理に太らされた白人奴隷の売買が行われていた。
当時(1700年前後)は、ヨーロッパ各地やアメリカ新大陸で、白人が奴隷として連れさられるケースが頻発したそうで、モロッコ、アルジェ、チュニス、トリポリなどで奴隷として長期間酷使された事実が、近年明らかになった。
主人公の少年は、11歳のときにたまたま乗っていた船が地中海で海賊に襲われ、以降23年間奴隷としてモロッコのスルタンの近くで働かされた。たまたま、上記の儀式でスルタンの目にとまり、その後を過ごしたので、王宮内部や外交にも接する機会が多く、歴史の証言者になることができた。しかし、拷問でイスラム教に改宗させられ、去勢されてから妻を娶らされる。この間、イギリス大使等との交渉で少数が帰国するが、だれも真実を語らず、また話の多くは現代まで信じられていなかった。しかし、この少年(23年後にはだれの目にも、キリスト教徒のイギリス人とは見えなかった)の話が、かつての友人の証言から信用できると判断がされたという記録が発見されて、著者がこの作品を書くきっかけとなった。

この事実は、8世紀から15世紀末までのイスラムの圧倒的な対西欧の有利が終わって、西欧にルネッサンスが広がった後でも、なをこのような優位性が長期間保たれていたことを示している。文明の衰退のプロセスとそれに要する期間についての、一つの貴重な事例になると思う。

訳者(元 朝日新聞出版局)は、あとがきで次のように記している。
『もうひとつ驚いたのは、イスラム教対キリスト教の対立は今と同じゃないか、という思いだった。十字軍やそれ以前からの宿敵対立の図は、まるで変化していない。サミュエルル・ハンチントンのいう「文明の衝突」は、永遠に続くのだろうか。・・・』

 現代社会に暮らす日本人も、西欧文明の中心地を誇る欧米人も、この一千年に亘るイスラム優位の世界を過小評価していることは、文化の文明化のプロセスを考える際の要注意事項だと痛感する次第です。

                  2015.11.27 その場考学半老人 妄言

メタエンジニアリングで考える日本文化の文明化(17)文字文化と文明

2015年11月07日 15時28分51秒 | メタエンジニアリングと文化の文明化
文化の文明化のプロセス 第7話 文字文化と文明

1.文化から文明へのプロセス

 世界4大文明の発生はあまりにも有名だが、それの基になったそれぞれの地域での文化については、それほどに有名ではない。文明と呼ばれるような状態になったのは、概ね紀元前3000年ごろだと思うのだが、それぞれの地域の文明以前の文化と呼ばれているものには次のものが挙げられる。

① 黄河文明     良藩・龍山文化、二里頭文化など
② インダス文明   ハラッパー文化
③ メソポタミヤ文明 ウバイド文化
④ エジプト文明   ナカーダ文化 

 そして、それぞれの地域で共通しているのは、独自の文字が発明され、それが文字文化となったところで文明化が急速に進むことになったことのように思われる。最も古いとされているメソポタミヤでは、紀元前3200年頃にウルク古拙文字が発明されたとされている。また、紀元前1700年代にバビロニアを統治したハムラビ王が発布したハムラビ法典は有名であり、楔形文字で記されている。このレプリカは岡山の博物館で見たことがある。
黄河地域での甲骨文字、エジプトのヒエログリフも有名になっている。文字文化の発展は、様々な教訓や物語・歴史などを次の世代に容易に伝えられることが可能になる。そのことにより、文化の文明化が急速に進むものと考える。



ハンムラビ法典が記録された石棒(->裏側)、ルーブル美術館所蔵 (Wikipediaより)

2.文化の文明化への条件

 このテーマについては、文化人類学や比較文明論などの分野で多くのことが語られているが、エンジニアリングの立場からの著作は見当たらない。すなわち、文明を作ることと、おおきなものを作ることは、同じことが云えるのである。云いかえれば、大きなものをつくり続けることが、文明の成立につながるとも言える。

 例えば、航空機の例をとれば、古代の神話時代から、大空を飛ぶという考えは、ほとんどすべての未開文化に存在した。それがライト兄弟の成功で現実味を帯びると、一斉に世界中の発明家が試作を繰り返し、その技術の伝播により現在の飛行機にまで発展を遂げた。
 つまり、エンジニアリング的に考えると、文明化の条件は次の4つに要約される。

① 多くの人々が、長期間ある望みを持ち続ける。
② 技術の伝承システムが確立し、次々に改良が続けられる。
③ 改良が、より合理的で普遍的な方向へ向かう。
④ 大きな障害が起こっても、それを乗り越える力が存在し続ける。

 発明や発見は世界史の中で無数に存在するし、今後も無数に発生する。その中には長期間にわたって改善が進んで成長するものと、途中で途切れるものに分かれる。例えば、印刷技術は古代中国で最初に発明されたと言われている。しかし、現代文明につながったのは、グーテンベルクの印刷機であった。古代中国では、上記の4条件の①と②が満たされなかったのであろう。蛇足だが、現代日本でイノベーションが起こらない原因も、この4条件のいずれかが満たされていないために、すぐれた研究成果が実を結ばないのだと考えられる。つまり、現代日本では、①と②は充分すぎるほどに満たされているのだが、③と④に問題が存在する。③については、日本文化独特の拘りから抜け出せずに、ガラパコス化に向かってしまう場合が顕著であることが、色々なケースで実証されてしまった。また、④については、経営者のリスク回避傾向が欧米に比べて強く、せっかくの発明やアイデアが、道半ばで選択と集中の犠牲になってしまうケースが多い。

3.漢字を用いる日本語の価値

 最近、日本の漢字と仮名の混淆文字文化と英語などアルファベットなどを文字とする文字文化についての著者が散見されるようになった。大方は、日本式は難しくて普遍性がないと批判的なものだが、中には漢字文化が最近のノーベル賞多発の大もとにある、と断言した著書もある。私は、この説を大いに支持したい。
漢字の起源は象形文字のものが多く、例えば、太陽を表す「日」や、樹木を表す「木」、それを組み合わせて、木の後ろから日が昇る「東」などは有名であろう。そして、中国とは異なり、日本の漢字は古代中国の漢の時代の文字の形状をそのまま保とうとしている。

 西欧文明が明治維新に導入された際に、多くの学問分野が漢字で表わされるようになった。例えば、物理と化学だが、物の理を理解する学問、物の化ける様を研究する学問など、文字からその内容を理解することは、小学生でも容易にできる。内容どころか、その本質を旨く言い当てたものもある。例えば、「物性」という単語は有名で、英語には相当する単語は無く、そのために様々な物性に関する研究が、「物性研究」の名のもとに集合されて、著しい成果を上げているとの説がある。

 一方で、PhysicsとかChemistryという文字列は、それだけで内容を理解できない。英語の学問分野の多くは、古代ギリシャ語やラテン語からそのままの形で表されるようになったのだが、その為に文字列から本質を理解することはできない。更に、日本語が特殊であるが故に、多くの文献が日本語訳されている。この事実は世界的に珍しい傾向だそうで、多くの著書では、この為に日本語で作成された論文がリファーされずに、大学の世界地位が低めに出てしまうことを嘆くことが記述されている。

 しかし、岩波書店がアリストテレス全集を発刊した際には、諸外国から賛辞が贈られたとの事実がある。西欧のルネッサンスがスペインでのレコンキスタがイスラム文明を導入するきっかけとなり、その際にアリストテレス全集のイスラム語版の存在を知り、あわてて西欧の言語訳を作り、それを当時の印刷技術で広めたことが、中世の非合理な世界から抜け出す原動力となったとの説もある。ちなみに、それまでイスラム文化圏であった地域の多くは、アレキサンダー大王に支配された地域が多く、アリストテレスは若きアレキサンダーの師であった。古代ギリシャの自然科学の知見を素直に受け継いだイスラムが、中世のヨーロッパを席巻していたと時代と言えそうである。
 近年のノーベル物理学賞は、この日本語の文字文化と、膨大な日本語訳の文献が大きな原動力の一つとなっているという考え方も、あながち無視できないように思う。英語の文献を読みあさるのも、知識の拡大につながるのだが、翻訳技術に長けた専門家が訳した日本語を熟読すると、原文では表れていない、その奥にあるものが見えてくるように感じることがある。






 以上の3枚は、岩波書店のアリストテレス全集の発刊と同時に発行された「月報」による。

 このような思考過程を経ると、古代においても現代においても、独特の文字文化が文明化のプロセスの重要な要素であることが明白になるのではないだろうか。
                            2015.11.7 その場考学半老人 妄言

ブログ;その場考学との徘徊(初めに)

2015年11月02日 11時19分32秒 | その場考学との徘徊
新しいカテゴリー「その場考学との徘徊」について

 気がついてみると、カテゴリーの数も9つになってしまった。しかし、旅行記に関するものは無かった。どのようにしようかと考えた末がこのカテゴリーになりました。その場考学半老人としては、その場考学を背負っての徘徊が丁度良いように思われます。
 
 ちなみに、私の「その場考学」が始まったのは1980年だったので、その時の文章を紹介します。
Design Community Seriesの第11巻 その場考学シリーズ2 その場考学のすすめ(初版)からの引用ですが、固有名詞の部分を削除しました。

「その場考学とは、その場・その時を最も有効に過ごすために、実生活における知力を備えた鼎型人間の育成と実践とを目指す工学である。(中略)
当時貧乏だった英国が、小金持ちになった日本に目をつけたことからロールス・ロイス社との国際共同開発に20年間従事しました。
設計技師の最大の敵は、時間です。時間との戦いに如何にして勝つかが最大の課題と言えるでしょう。ほおって置くと何でも頼まれて、自分の時間(純粋に設計をする)が無くなる。そこで計画的な時間の管理方法と、小さく時間を稼ぐ方法を考えて実行しました。
私がその場考学に目覚めたのは 1980年。RR社との国際共同開発が始まりかけた時だ。度重なる長期海外出張で、その前後の一週間(つまり合計2週間)机上の書類の山にウンザリしていた頃だ。のんびり屋のRR社のエンジニアの仕事振りをよく見ると、なるほどと思われるものがいくつか見えた。要するに仕事を手っ取り早く片付ける技があるのだ(勿論、有能な秘書の存在もあるが)。どんどん取り入れるうちに その数は20を超えた。その頃から海外出張前後での机上の書類の山の存在期間は1週間から、3時間に変わった。その時から、「その場考学」の名前を自ら付けることにして今に至っている。だから、課長時代から いつもえらく時間が余ってしまう。会社での深残業の話を聞くと、いつもこのことを思い出す。

   その場考学は、言い換えると日常業務のフロントローディングと言える。日常繰り返し起こることに一寸したルールを決めて、予め何かを用意しておく。それだけのことで、時間が大いに節約できる。
 工学ではなくて考学とした理由は、工学ではいかにもおこがましいし、常に考えることを念頭にすることをモットーとするためのである。考学が工学となる日が来れば理想的なのだが、それはなかなかに難しい。」

 そこで、旅行に関してもその場考学流のフロントローディングを実践しているわけです。その場考学も徐々にではありますが進化を続けており、最近はメタエンジニアリングになっております。つまり、私にとってのメタエンジニアリングはその場考学の一分野で、その時その場で正しい決断をするためには、メタエンジニアリング的な知識と思考方法が必要ではないだろうか、というわけです。


ブログ;その場考学との徘徊(01)  長岡京の発掘

2015年11月02日 07時09分57秒 | その場考学との徘徊
題名;長岡京の発掘
テーマ;古文書による場所の特定の最初は、・・・。

城崎温泉で借りたレンタカーで大阪空港に向かう途中で、長岡京に立ち寄ることにした。奈良の平城京から平安京に落ち着くまでの日本史は、稀に見る権力争いが面白い。天智系と天武系の争い、大仏開眼の製造と式典の規模の背景、藤原氏による日本書紀編纂意図に関する諸説など興味深い書物はいくらでもある。整備された平城京跡は、二度ほど訪れた。往くたびに資料館が整備されてゆく過程も楽しみの一つになる。対照的に放置されている紫香楽京跡も二度だが、長岡京は今回が初めて。なにせ京都市内の続きのようで、まるで遺跡の感じが湧いてこない。

 旅の計画は、観光案内書にあった「中山修一記念館」だった。私立のものだが長岡京の全てが分かるように書いてある。京都縦貫自動車道のICからも近いので、寄らぬ手は無い。
 中山修一記念館では、こぎれいな庭も含めて小一時間楽しむことができた。すでに故人の「中山修一」の表札がかかった門を入ると、直ぐにボランティアの男の方が丁寧な説明を始めた。見学料は無料。




話は、中山氏が作成した長岡京の全体地図の説明から始まった。初めに畑の中の沼地が蓮池と比定され、その位置から大極殿が割り出されて、全体が明らかになった。蓮池の位置が碁盤目のどの位置かが、古文書の記録にあったので、そこから全体を割り出すことで、容易に全体を算出することができたそうだ。また、年表と当時の新聞記事が展示されており、その説明が続いた。




話の後で、本棚に並べてあった本のページをめくってみた。S59年に発行されたNHKブックの記述が面白い。これならばなんとか手に入るだろうと、庭を眺めて退散。

帰宅後に図書館のHPで検索をすると、世田谷区の保存庫にあることが分かり、早速に予約をした。便利なもので、翌日には歩いて5分の図書館に本が到着した旨のメールが入る。その本の中から概要を紹介しよう。なにせ最後の章では、奈良時代と平安時代の間に、長岡時代を入れるべきとの主張をされているので、熟読の価値がありそうだ。

福山敏男、中山修一他、「新版長岡京発掘」NHKブックス464 (1984)

 この著書から、いくつかの部分を抜粋する。
・はじめに
 最初の版はS43に発行されたが、資金不足で発掘の生データなどを報告書代りに載せただけだったので、新版として全面変更で再出版したとある。

・よみがえる長岡京
 多くの教科書には「桓武天皇は奈良から一度山城に都を移したのち、平安京をつくり始めた」という程度にしか、長岡京のことは登場しない。

・発掘への足がかり
 「長岡京は“仮の都”だから資料も残っていないし、遺跡など見つかったこともない。まともに研究に値しない都だ」とかるくあしらわれた。

・蓮池跡の発見
 刈り取ったあとの田園風景はいつも淋しいものだ。(中略)そのとき、ふと前方の一画が他の場所と色も違い、なんとなくじめじめしているのに気がついた。その部分は、ちょうど正方形の型をしている。大きさは約百二十メートル四方ぐらい。きっとむかし池かあるいは沼地みたいなものだったのではないだろうか。そう考えたときハッとした。長岡京に関する「類聚三代格」の文献の中に次のような記述があることを思い出したからである。
 「長岡左京三条一坊八、九、十五、十六町、二坊三,四、六町を勅旨所藍畑、三条一坊十町を近衛府の蓮池にせよ(延暦十四年一月二十九日太政官符)」



 この官符は、平安京が出来た後のもので、平安京の寸法をこの土地に合わせると、蓮池のサイズがぴったりと一町分に合致をしたので、都(この場合は平安京)全体の条坊の道を現在の地図に当てはめて見ると、驚いたことに多くの地区で当時と同じ名前が地名となって残っていることが分かった。そこで、長岡京は平安京とほぼ同じ規模で、同じような建物配置の都だったとの仮説に基づいて都全体の地図を作成した。
 この地図により、当時の大極殿の位置が特定されて、そこの発掘を始めると、次々に柱の跡が見つかった、という経緯が書かれている。

 これは、あの有名なシュリーマンによるトロイの発掘を思わせる、すばらしい話だった。




その場考学との徘徊

日本人は歴史的にも「場所」に特別な意識を持っている。西田幾多郎の「場所的論理」は有名だが、ハイデガーの「存在と時間」に対して、直ちに「場所の概念が欠落している」と世界に向かって発言をした和辻哲郎や、「一所懸命」の排除に固執した織田信長も多くの著書で述べられている。「現場、現物」という言葉は日本流の製造業では重要な言葉だ。千年以上も昔のことであっても、やはり現場に立って何かを気づき、そこからすばらしいことを発想することは、どの分野でも共通のことに思えた。そして、その発想の原点は、それまでに蓄積された多くの知識と教養であることも。
中心にJR長岡京駅と阪急京都線の長岡天神駅があり、周囲は密集した建物で埋め尽くされた現代の土地から、この様な発掘がはじまり、全貌が明らかになってゆく過程は、その発想と完結までの執念に現代のイノベーションに通じるものを感じた次第です。

 小一時間の時を静かな場所で過ごして、近くの長岡天満宮へ向かった。参拝者駐車場に車を止めて、お参りの後で辺りを散策。大きな池があり、ここにも由来が書いてあった。