メタエンジニアの眼シリーズ(120)TITLE: 「真実を告げる書と「はるかな記憶」」
書籍名;「はるかな記憶」 [1994]
著者;カール・セーガン 発行所;無限社
発行日;1994.1.1
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
「真実を告げる書」副題は「異星人からのメッセージ」では、人類史の始まりの書として独特の位置を占めているとした。『全世界200万部突破、遺伝子に秘められた科学的生命創造の真実。1973年12月、ラエルは異星人エロムと遭遇。そして、彼等から地球人類の過去と未来に関する重要なメッセージを受け取った。』その内容が書かれていた。
その後、世界的な宇宙物理学者セーガンの数冊の著作を読んだ。そして、「真実を告げる書」との共通する考え方にたどり着いてしまった。読み始めた当初は、両者は相いれないものと思っていた。方や神託のようなもので、もう一方は、純粋な物理学者の著書だからである。しかし、両者は「人類を含む宇宙全体の最適性」を求めていることで、共通している。
「はるかな記憶」の副題は、「人間に刻まれた進化の歩み」となっている。帯には、「われわれはどこから来たのか―宇宙の創生から人類の誕生まで」とあるのだが、この訳には、聊か違和感を覚える。原題は、
「SHADOWS of FORGOTTEN ANCESTORS」であり、この場合のANCESTORSは、20世紀初頭以前のすべての人類をさしているように思える。彼は、彼の専門の立場から、現代社会の文明の行く末を案じている。
無限に広がる大宇宙は、素粒子からできている。生命体も非生命体も同じなのだが、生命体には自然淘汰という宿命がある。進化と自然淘汰の関係はどうなっているのだろうか。セーガンは前著「コンタクト」では、宇宙に無数に存在する生命体は、一つのシステムによって全体調和が図られているとした。人類もその中の一つなのだが、宇宙における人類の位置は、地球における微生物の様なものと考えられる。眼に見えない微小な存在だが、ウイルスのように外部に害を与える可能性がある存在か、酵母菌のように、外部に利益をもたらすものなのか、人類はどちらに向かっているのだろうか、といったようなことに思える。
この書が書かれたのは、20世紀最後の頃なのだが、二つの大戦後に平和が訪れたと思っていたところへ、米ソの冷戦が激しくなった。人類の歴史をたどると、そのことが古代からの必然のように思えてくる、というのが著作の始まりらしい。冒頭の「日本のみなさまへ」には、次のようにある。
『この本の着想は、日本の科学者をはじめ、何世代にも及ぶ数多くの科学者の努力の集積から生まれている。こうして生み出された進化的な考え方に基づく新しい全体像は、学校でも教えてくれないし、十分に理解されてもいない。この新奇な世界観に初めて出合ったときは、とても受け入れられないように感じるだろうし屈辱感から立ち直るにはたいへんな励ましを必要とするだろう。しかしこの本の著者としての経験からいわせてもらうならば、人類の起源や、人類と他の生き物たちとの関係をじっと見つめることから、何よりも力強い慰めと説明を得ることができた。
私たちは、どの国の読者も、この本のいくつかの個所で気分をそこなうことを願っている。むろん不快感そのものが望ましいからではない。世界を、私たちの希望的観測ではなく、自然界の事実から導かれた新しい観点から見ることは、少なからず痛みを伴うからである。しかし、人類が自分自身について知ろうとしない限り、来るべき時代への挑戦はありえない。』(pp.2)
聊か、気負った文章に思えるのだが、これは共同著者のアン・ドールヤン(シナリオライター、テレビプロデューサー)の影響かもしれない。
続いて、「はじめに」には、著作の動機が書かれている。
『この本自体に着手したのは、1980年代初頭であった。そのころ、米国とソ連の軍拡競争が悪化していた。抑止、威圧、自尊心、恐怖といった理由で増強されていった核兵器は六万基にもなり、両国はまさに一触即発の状態にあった。互いに自国のみを正当化し、ときにはヒト以下に貶める言辞まで用いて相手を非難した。米国は、この冷戦に一兆ドルを投じた。土地を除く国内の全物資を買っても、なおお釣りが来るような金額であった。その一方、国内ではインフラストラクチャーが崩壊し、環境が劣悪化し、民主主義の手続きが覆され、不正が世に満ちあふれていた。そして、世界最大の債権国だった米国は、いつの間にか最大の債務国に転落していた。何で、こんなめちゃくちゃなことになったのだろうか、と私たちは自間自答した。どうすれば、この状況から抜け出せるのか?それ以前に、この状況からの脱出は可能なのか? 』(pp.16)
幸い、本の完成とともに、冷戦は終結したのだが、彼の考えは変わらなかった。
『そこで、私たちは、核軍拡競争の政治的感情的な起源を調べてみることを思い立った。まず行き当たったのが第二次世界大戦だった。そして、そのもともとの原因は第一次世界大戦にあった。第一次世界大戦は国民国家の台頭の結果でありつき詰めていけば、その起源は文明の始まりにまでさかのぼった。文明は農耕や牧畜によって始まり、それ以前には、ヒトが周囲にある自然の恵みや、狩りによっ て暮らしていた長い時代があった。どのあたりの時代であったのか、どの時点であるのか明確にいうことはできないが、人類が現在置かれている苦境「根」は、まさしくこうた過程の中にあった。それに気づく前に、私たちは、最初の人類、さらにはその相先に当たるものたちを探し始めていたのであった。やがて私たちは、ヒトが自らに仕掛けたワナを理解するためには、ヒトが登場する以前のはるかな時代の出来事を知ることが重要であると考えるようになった。』(pp.16)
これが、真の動機になっている。
そして、彼自身の立ち位置については、次のように述べている。
『これから述べることは、多くの科学分野の最新の成果に基づくものである。ただ、まだ現在の知識だけでは不十分であることを、読者の方には心にとめておいていただきたい。科学はまだ未完成である。科学とは、近似的な方法を積み重ねて、自然界の完全で正確な理解に近づいていくものであるが、まだその条件が完全に満たされているというにはほど遠い。主要な発見の多くが今世紀に入ってから、それもこの一〇年の間になされたことからしても、目標がまだ遠いことは明白である。科学には、議論や訂正を重ね、絶えず向上し、苦しい再評価に耐え、そして、常に革命的な視点を持つことが宿命づけられている。ヒトとはいかなる存在であるか、という命題に近づき理解するための鍵となる、いくつかの段階については、その分野を再構築するために十分な知識の蓄積ができてきているようにも思うのではあるが。』(pp.18)
本文は、「ヒトの来た道」から始まっている。
『みなし児の来歴― ヒトとはいかなる存在なのか? ヒトはどこから来たのか? なぜ、現在のような進化の道を歩み、他のコースを進むことはなかったのか? それとも、ヒトは、すでにこの世にはいない祖先たちの手によって良くも悪しくも操られており、自らを制御することなんてできはしないのか? その本性を変えられるのか?社会をよりよい方向に向けられるのか? 子孫たちに、現在より快適な世界を残すことができるのか? ヒトを苦しめ、文明を崩壊に導く魔の手から逃れることはできるのか? 何を変えるべきかが、長い目で見て判断できるほど、ヒトは賢明か? ヒトは自らの未来を信じることができるのか?』(pp.27)
が、根本的な問いになっている。
そこから、延々とヒトの歴史が始まっている。多くのページはダーウィンの進化論の成立の前後と、発表後の世の中の様々な階層や専門家の意見が書かれている。
『自然淘汰を人類に適用しようとすると、「神の言葉」と「絶対に相容れない」ものとして非難の対象になるのは当然のなりゆきである。人類に神が与えた優越性、言葉で明確に意思を伝える能力、理性で判断する天分、自由意思と責任感、堕落と救済、神のキリストへの顕現、聖霊の内在。これらは人類が神の意のままにつくられ、キリストによって救われたものであって初めて成り立つ。その起源を獣に引き下げるダーウィンの考え方と、両立することは明らかにありえない。進化という考え方を認めれば、「全能の神の属性の大半が、われわれの心の中から追放されてしまう」のである。』(pp.116)
といった具合になる。
ヒトが被った自然淘汰の例が、いくつか挙げられている。一例が、熱帯アフリカで起こった「鎌型赤血球」の話になっている。この赤血球は、マラリアの原虫を攻撃する一方で、遺伝子を受け継ぐと重症な貧血患者になるという特徴がある。そして、その結果が以下のように記されている。
『一七世紀、オランダの奴隷商人たちは西アフリカ黄金海岸(今のガーナ)まで到達した。そこで多数の奴隷を買ったり、新たに捕らえたりして、カリブ海のキュラソー、南米のスリナムという二つのオランダ植民地に送り込んだ。キュラソーには、マラリアはない。だから、そこで過ごす奴隷たちにとっては、鎌型赤血球は貧血の原因となる悪いものでしかなく、それを持つことの代償は何もない。一方スリリムは、マラリアの流行地である。鎌型赤血球の遺伝子を持っているかどうかが、ときには生と死を分けることにもなりかねない。
三世紀後の現在、両地の奴隷の子孫たちを調べると、鎌型赤血球を持つ人がスリナムにはたくさんいるのに、キュラソーではほとんどその痕跡さえ認められなくなっていることがわかる。キュラソーではこの赤血球が「負」の淘汰を受け、スリナムでは西アフリカ時代から引き続いて「正」の淘汰を受けたのである。人間のような繁殖速度の遅い生物でさえ、この程度の短い時間で自然淘汰が進むことがわかる。一定の人間集団には、必ず遺伝的な素質の「幅」というものがある。周囲の環境が、その中から特定の素質を引き出す。「進化」というのは、遺伝と環境とが手を携えて行う協調作業である。』(pp.126)
それから、様々な生物の進化や絶滅、食物連鎖などの話が断片的に続いている。そして、彼の専門分野に話しが移ってゆく。
『異星人の地球観― 地上にひしめいている多様な生命の姿を詳しく調べるために、太陽系の外から生物学者がやってきたとしよう。彼はまず、それらのすべてがほとんど同じ素材で構成されているのに気づく。
同じ分子は常に同じ働きを持ち、遺伝子の「暗号表」さえ共通である。互いの老廃物を吸いながら緊密な連携を保って生活し、互いに相手に依存しつつ、狭い地球の表層を分かち合っている。
単に「親族」というだけでは片づけられない関係がそこにはある。この結論は見たままの事実である。
けっしてイデオロギーなどではない。権威や宗教による支えや熱烈な支持者の弁護があるからではなく、観察と実験を積み重ねた結果としてそういえるのである。』(pp.248)
そこから、「生」と「性」の話に移り、上巻が終わっている。
次に、下巻に移る。下巻の冒頭には、「種の起源」の一節が挙げられている。
『われわれが生物を見るとき、未開人が何だかわけもわからずに
船を眺めるのと同じようには見なくなったとき―
また自然が生み出したすべてのものは、それぞれ長い歴史を持っているとみなすとき―
そして大きな機械的発明は、多くの労働者の労働や経験、理性、
そして失敗さえもが総合的に組み合わされたものであるのと同じように、
われわれが生物の複雑な構造や本能を、所有省にとって
役に立つたくさんの工夫の積み重ねの結果であると考えるとき―
これは私の経験でいうのだが、われわれが生物をこんなふうに見るとき
博物学の研究はもっともっと面白くなることだろう― (「種の起源」一八五九・第一五章)』(pp.8)
ここでは、ヒトと他の生物との違いが、様々な方面から検討されている。
『ヒトの優位という欺購― われわれヒトはこめ地球を支配している。その地位はいくつかの基準から断言できる。地球上にあまねく存在すること、多くの動物を隷属させていること(上品にいうと家畜化である)、地球上の光合成による一次生産のかなりの部分を収奪していること、地球表面の環境を変化させていること……。なぜ、ヒトなのだろうか。冷酷無情な殺し屋たち、逃走の名人たち、どんどん増殖するものたち、肉眼で見えるような捕食者にはほとんど見えない小さな生物たち― 前途洋々たる生物はいくつもあるのに、裸のちっぽけで傷つきやすい、霊長類の一種が、他のすべての種を従え、この地球を丸ごと領有しているのはなげなのだろうか。
なぜヒトは、他の種とそんなに違っているのだろうか。それとも、違いなどないのだろうか。すべてのヒト個体に当てはまり、他の種には絶対に当てはまらない、まぎれのないヒトの定義は、解剖学やDNA塩基配列などからはできるかもしれない。しかし、それは目的にそぐわない。』(pp.265)
つまり、彼の意図するところは、ヒトの特殊機能や能力のことだ。
『もし、ヒトに優位な地位を与えるほどの明白な特徴が、今のところ化学的、解剖学的には認めることができないからには、他にとりうる手段は、われわれの行動を探索することしかない。ヒトの日常的な行動の総体をもって、ヒトを定義できる可能性はあるが、そのうちの驚くほど多くの行動を、他の霊長類もできるのである。たとえば、ここにコンサルが成し遂げたことの記録がある。マンチェスターの動物園がー八九三年に初めて入れたチンパンジーである。』(pp.266)
そして、このチンパンジーが、ヒトと同じ行動を、あらゆる場面においてできたことを示している。そして、プラトン、アダム・スミスや近年の哲学者が唱えたヒトの特徴に対して、論理が不完全だったことを指摘している。そして、議論はついに「宗教」に至る。これこそ、確定的な違いではないだろうかというわけなのだが、
『ヒトと動物との間にある違いとして、しばしば主張されるのが、宗教の有無である。宗教を持ち、安静を得るのは人間だけだといわれる。しかし、宗教とは何だろうか。どのようにしたら動物が宗教を持っているかどうかを知ることができるのだろうか。『人間の由来』の中でダーウィンは「イヌは自分の主人を神と見なしている」との表現を引用している。アンブローズ・ビアス 「『悪魔の辞典』で有名な米国の作家」は、畏敬の念とは「人間が神を、イヌが人問をあがめる態度」であると定義した。動物ではオメガがアルファを神のようなものと見なす。オメガの服従とへりくだりの深さまでは、現存している宗教のほとんどが及ばない。イヌや類人猿がどれほど深く畏敬の念を感じているのか、厳格な「主人」や確固不動のアルファに対する態度がどれほど敬虔なものか、神聖だという感覚を持っているのか、許しを乞うために祈るのか、あるいは、慰めや、自分にまさる影響力を見いだそうとするのか― これらは、知るのが困難である。
強く賢い両親に育てられ、教えられ、しつけられた動物、順位制に適応するようにされた動物、さらに、
生殺与奪の力やアメとムチで身を固めた威圧的な人間に直面してきた動物たちには、宗教的と呼んでいるものに近い感覚があってもおかしくない。 多くの晴乳類、そしてすべての霊長類がこれらの条件を満たす。』(pp.305)
さらに、道具やそれを創造する技術については、このように記している。
『確かに、われわれは知性と技術なくしては、文明を生み出すことはできなかったであろう。しかし文明とは人間の特性であるとか、あるいは文明とは知性と手先の器用さが人間の求めるレベルにまで到達することであるといったいい方をするのは不公平だろう。地球上に人間が登場してから初めの九九パーセントの期間は、文明がない状態だったからだ。われわれはそのときもまぎれもない人間ではあったが、まだ文明を持つに至ってはいなかった。だが、数十万年どころか数百万年前にさかのぼるヒトあるいはヒト科の化石といっしょに、しばしば石器を出土する。彼らは、少なくともある程度の能力は持っていた。まだ、文明というところまで到達していなかっただけである。 人間は道具を使い、他の動物は道具を使わないということから、人間を道具を使う動物であるとか、道具をつくる動物であるという定義を行おうとする動きもあった。』(pp.309)
しかし、すべてのヒトが道具を作るわけではない。また、他の霊長類にその能力が隠されているかもしれない。だれも確信を持つことはできないであろう、としている。
そして、テーマは冒頭の平和や民主主義に逆行する政策に戻る。
『一万世代前、祖先の多くが小さな集団に分かれていたころは、こうした傾向も、種の存続に都合よく働いていたのかもしれない。なぜこれらの感情はほとんど反射的なのか、なぜそれらはたやすく誘い出されるのか、なぜそれらがすべての扇動者や政治屋などの職業の源泉になっているのかはよくわかる。しかし、大昔の霊長類の性質を軽減するのに、自然淘汰を待つわけにはいかない。 それには時間がかかりすぎる。作業は手持ちの道具を使ってやるしかない。道具とはすなわち、われわれは何者であるのか、われわれはいかにしてこの道を歩んでいるのか、そしてわれわれに不足している点をどのようにして超越するかを理解する能力のことである。最悪の結末に至ることのない社会をつくり始めるのはそれからのことだ。』(pp.348)
彼はまた、「核の冬」を唱えたことでも有名になっている。ここでは、そのことを言っているように思われる。さらに続けて、
『さらに過去一万年という視点から見ても、異例の変化が最近になって際立ってきている。人間は自分たちをどう組織化するか考えてみよう。アルファ・オスに対して、自分を卑下する恭順と服従が必要となる順位制は、アルファの世襲制と共に、かつては世界の標準的な政治構造だった。この制度が、正しく適切であることは、高邁な哲学者や宗教の指導者によっても正当化されてきた。これらの制度はいまや地球上からはほとんど消滅してしまった。同じように、運命づけられたものだとか人間の本性と深く調和しているものだとの理由づけで偉大な思想家が擁護してきた奴隷労働も、今や世界的にほとんど廃止されるにいたった。ほんのわずか前まで、世界中でごく稀な例外を除き、女は男に従属するものとされ、等しい地位と力を否定されていた。これもまた、あらかじめ決まっていることであり、不可避のことだと考えられていた。この点に関しても、変革への明臼な兆しが、いたるところにある。民主主義と人権と呼ばれるものに対しての共通の理解が、多少の行きつ戻りつを伴いながらも、地球に広がりつつある。』(pp.348)
「多少の行きつ戻りつ」が、現代文明社会にあって、政治や科学の世界で起こっていることへの彼の結論だと思う。「エピローグ」は、『人類の夜明けから文明の創造にいたる進化の歴史を綴るという作業の核心部分は、このシリーズの次の本での課題になる。』で結ばれている。
書籍名;「はるかな記憶」 [1994]
著者;カール・セーガン 発行所;無限社
発行日;1994.1.1
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
「真実を告げる書」副題は「異星人からのメッセージ」では、人類史の始まりの書として独特の位置を占めているとした。『全世界200万部突破、遺伝子に秘められた科学的生命創造の真実。1973年12月、ラエルは異星人エロムと遭遇。そして、彼等から地球人類の過去と未来に関する重要なメッセージを受け取った。』その内容が書かれていた。
その後、世界的な宇宙物理学者セーガンの数冊の著作を読んだ。そして、「真実を告げる書」との共通する考え方にたどり着いてしまった。読み始めた当初は、両者は相いれないものと思っていた。方や神託のようなもので、もう一方は、純粋な物理学者の著書だからである。しかし、両者は「人類を含む宇宙全体の最適性」を求めていることで、共通している。
「はるかな記憶」の副題は、「人間に刻まれた進化の歩み」となっている。帯には、「われわれはどこから来たのか―宇宙の創生から人類の誕生まで」とあるのだが、この訳には、聊か違和感を覚える。原題は、
「SHADOWS of FORGOTTEN ANCESTORS」であり、この場合のANCESTORSは、20世紀初頭以前のすべての人類をさしているように思える。彼は、彼の専門の立場から、現代社会の文明の行く末を案じている。
無限に広がる大宇宙は、素粒子からできている。生命体も非生命体も同じなのだが、生命体には自然淘汰という宿命がある。進化と自然淘汰の関係はどうなっているのだろうか。セーガンは前著「コンタクト」では、宇宙に無数に存在する生命体は、一つのシステムによって全体調和が図られているとした。人類もその中の一つなのだが、宇宙における人類の位置は、地球における微生物の様なものと考えられる。眼に見えない微小な存在だが、ウイルスのように外部に害を与える可能性がある存在か、酵母菌のように、外部に利益をもたらすものなのか、人類はどちらに向かっているのだろうか、といったようなことに思える。
この書が書かれたのは、20世紀最後の頃なのだが、二つの大戦後に平和が訪れたと思っていたところへ、米ソの冷戦が激しくなった。人類の歴史をたどると、そのことが古代からの必然のように思えてくる、というのが著作の始まりらしい。冒頭の「日本のみなさまへ」には、次のようにある。
『この本の着想は、日本の科学者をはじめ、何世代にも及ぶ数多くの科学者の努力の集積から生まれている。こうして生み出された進化的な考え方に基づく新しい全体像は、学校でも教えてくれないし、十分に理解されてもいない。この新奇な世界観に初めて出合ったときは、とても受け入れられないように感じるだろうし屈辱感から立ち直るにはたいへんな励ましを必要とするだろう。しかしこの本の著者としての経験からいわせてもらうならば、人類の起源や、人類と他の生き物たちとの関係をじっと見つめることから、何よりも力強い慰めと説明を得ることができた。
私たちは、どの国の読者も、この本のいくつかの個所で気分をそこなうことを願っている。むろん不快感そのものが望ましいからではない。世界を、私たちの希望的観測ではなく、自然界の事実から導かれた新しい観点から見ることは、少なからず痛みを伴うからである。しかし、人類が自分自身について知ろうとしない限り、来るべき時代への挑戦はありえない。』(pp.2)
聊か、気負った文章に思えるのだが、これは共同著者のアン・ドールヤン(シナリオライター、テレビプロデューサー)の影響かもしれない。
続いて、「はじめに」には、著作の動機が書かれている。
『この本自体に着手したのは、1980年代初頭であった。そのころ、米国とソ連の軍拡競争が悪化していた。抑止、威圧、自尊心、恐怖といった理由で増強されていった核兵器は六万基にもなり、両国はまさに一触即発の状態にあった。互いに自国のみを正当化し、ときにはヒト以下に貶める言辞まで用いて相手を非難した。米国は、この冷戦に一兆ドルを投じた。土地を除く国内の全物資を買っても、なおお釣りが来るような金額であった。その一方、国内ではインフラストラクチャーが崩壊し、環境が劣悪化し、民主主義の手続きが覆され、不正が世に満ちあふれていた。そして、世界最大の債権国だった米国は、いつの間にか最大の債務国に転落していた。何で、こんなめちゃくちゃなことになったのだろうか、と私たちは自間自答した。どうすれば、この状況から抜け出せるのか?それ以前に、この状況からの脱出は可能なのか? 』(pp.16)
幸い、本の完成とともに、冷戦は終結したのだが、彼の考えは変わらなかった。
『そこで、私たちは、核軍拡競争の政治的感情的な起源を調べてみることを思い立った。まず行き当たったのが第二次世界大戦だった。そして、そのもともとの原因は第一次世界大戦にあった。第一次世界大戦は国民国家の台頭の結果でありつき詰めていけば、その起源は文明の始まりにまでさかのぼった。文明は農耕や牧畜によって始まり、それ以前には、ヒトが周囲にある自然の恵みや、狩りによっ て暮らしていた長い時代があった。どのあたりの時代であったのか、どの時点であるのか明確にいうことはできないが、人類が現在置かれている苦境「根」は、まさしくこうた過程の中にあった。それに気づく前に、私たちは、最初の人類、さらにはその相先に当たるものたちを探し始めていたのであった。やがて私たちは、ヒトが自らに仕掛けたワナを理解するためには、ヒトが登場する以前のはるかな時代の出来事を知ることが重要であると考えるようになった。』(pp.16)
これが、真の動機になっている。
そして、彼自身の立ち位置については、次のように述べている。
『これから述べることは、多くの科学分野の最新の成果に基づくものである。ただ、まだ現在の知識だけでは不十分であることを、読者の方には心にとめておいていただきたい。科学はまだ未完成である。科学とは、近似的な方法を積み重ねて、自然界の完全で正確な理解に近づいていくものであるが、まだその条件が完全に満たされているというにはほど遠い。主要な発見の多くが今世紀に入ってから、それもこの一〇年の間になされたことからしても、目標がまだ遠いことは明白である。科学には、議論や訂正を重ね、絶えず向上し、苦しい再評価に耐え、そして、常に革命的な視点を持つことが宿命づけられている。ヒトとはいかなる存在であるか、という命題に近づき理解するための鍵となる、いくつかの段階については、その分野を再構築するために十分な知識の蓄積ができてきているようにも思うのではあるが。』(pp.18)
本文は、「ヒトの来た道」から始まっている。
『みなし児の来歴― ヒトとはいかなる存在なのか? ヒトはどこから来たのか? なぜ、現在のような進化の道を歩み、他のコースを進むことはなかったのか? それとも、ヒトは、すでにこの世にはいない祖先たちの手によって良くも悪しくも操られており、自らを制御することなんてできはしないのか? その本性を変えられるのか?社会をよりよい方向に向けられるのか? 子孫たちに、現在より快適な世界を残すことができるのか? ヒトを苦しめ、文明を崩壊に導く魔の手から逃れることはできるのか? 何を変えるべきかが、長い目で見て判断できるほど、ヒトは賢明か? ヒトは自らの未来を信じることができるのか?』(pp.27)
が、根本的な問いになっている。
そこから、延々とヒトの歴史が始まっている。多くのページはダーウィンの進化論の成立の前後と、発表後の世の中の様々な階層や専門家の意見が書かれている。
『自然淘汰を人類に適用しようとすると、「神の言葉」と「絶対に相容れない」ものとして非難の対象になるのは当然のなりゆきである。人類に神が与えた優越性、言葉で明確に意思を伝える能力、理性で判断する天分、自由意思と責任感、堕落と救済、神のキリストへの顕現、聖霊の内在。これらは人類が神の意のままにつくられ、キリストによって救われたものであって初めて成り立つ。その起源を獣に引き下げるダーウィンの考え方と、両立することは明らかにありえない。進化という考え方を認めれば、「全能の神の属性の大半が、われわれの心の中から追放されてしまう」のである。』(pp.116)
といった具合になる。
ヒトが被った自然淘汰の例が、いくつか挙げられている。一例が、熱帯アフリカで起こった「鎌型赤血球」の話になっている。この赤血球は、マラリアの原虫を攻撃する一方で、遺伝子を受け継ぐと重症な貧血患者になるという特徴がある。そして、その結果が以下のように記されている。
『一七世紀、オランダの奴隷商人たちは西アフリカ黄金海岸(今のガーナ)まで到達した。そこで多数の奴隷を買ったり、新たに捕らえたりして、カリブ海のキュラソー、南米のスリナムという二つのオランダ植民地に送り込んだ。キュラソーには、マラリアはない。だから、そこで過ごす奴隷たちにとっては、鎌型赤血球は貧血の原因となる悪いものでしかなく、それを持つことの代償は何もない。一方スリリムは、マラリアの流行地である。鎌型赤血球の遺伝子を持っているかどうかが、ときには生と死を分けることにもなりかねない。
三世紀後の現在、両地の奴隷の子孫たちを調べると、鎌型赤血球を持つ人がスリナムにはたくさんいるのに、キュラソーではほとんどその痕跡さえ認められなくなっていることがわかる。キュラソーではこの赤血球が「負」の淘汰を受け、スリナムでは西アフリカ時代から引き続いて「正」の淘汰を受けたのである。人間のような繁殖速度の遅い生物でさえ、この程度の短い時間で自然淘汰が進むことがわかる。一定の人間集団には、必ず遺伝的な素質の「幅」というものがある。周囲の環境が、その中から特定の素質を引き出す。「進化」というのは、遺伝と環境とが手を携えて行う協調作業である。』(pp.126)
それから、様々な生物の進化や絶滅、食物連鎖などの話が断片的に続いている。そして、彼の専門分野に話しが移ってゆく。
『異星人の地球観― 地上にひしめいている多様な生命の姿を詳しく調べるために、太陽系の外から生物学者がやってきたとしよう。彼はまず、それらのすべてがほとんど同じ素材で構成されているのに気づく。
同じ分子は常に同じ働きを持ち、遺伝子の「暗号表」さえ共通である。互いの老廃物を吸いながら緊密な連携を保って生活し、互いに相手に依存しつつ、狭い地球の表層を分かち合っている。
単に「親族」というだけでは片づけられない関係がそこにはある。この結論は見たままの事実である。
けっしてイデオロギーなどではない。権威や宗教による支えや熱烈な支持者の弁護があるからではなく、観察と実験を積み重ねた結果としてそういえるのである。』(pp.248)
そこから、「生」と「性」の話に移り、上巻が終わっている。
次に、下巻に移る。下巻の冒頭には、「種の起源」の一節が挙げられている。
『われわれが生物を見るとき、未開人が何だかわけもわからずに
船を眺めるのと同じようには見なくなったとき―
また自然が生み出したすべてのものは、それぞれ長い歴史を持っているとみなすとき―
そして大きな機械的発明は、多くの労働者の労働や経験、理性、
そして失敗さえもが総合的に組み合わされたものであるのと同じように、
われわれが生物の複雑な構造や本能を、所有省にとって
役に立つたくさんの工夫の積み重ねの結果であると考えるとき―
これは私の経験でいうのだが、われわれが生物をこんなふうに見るとき
博物学の研究はもっともっと面白くなることだろう― (「種の起源」一八五九・第一五章)』(pp.8)
ここでは、ヒトと他の生物との違いが、様々な方面から検討されている。
『ヒトの優位という欺購― われわれヒトはこめ地球を支配している。その地位はいくつかの基準から断言できる。地球上にあまねく存在すること、多くの動物を隷属させていること(上品にいうと家畜化である)、地球上の光合成による一次生産のかなりの部分を収奪していること、地球表面の環境を変化させていること……。なぜ、ヒトなのだろうか。冷酷無情な殺し屋たち、逃走の名人たち、どんどん増殖するものたち、肉眼で見えるような捕食者にはほとんど見えない小さな生物たち― 前途洋々たる生物はいくつもあるのに、裸のちっぽけで傷つきやすい、霊長類の一種が、他のすべての種を従え、この地球を丸ごと領有しているのはなげなのだろうか。
なぜヒトは、他の種とそんなに違っているのだろうか。それとも、違いなどないのだろうか。すべてのヒト個体に当てはまり、他の種には絶対に当てはまらない、まぎれのないヒトの定義は、解剖学やDNA塩基配列などからはできるかもしれない。しかし、それは目的にそぐわない。』(pp.265)
つまり、彼の意図するところは、ヒトの特殊機能や能力のことだ。
『もし、ヒトに優位な地位を与えるほどの明白な特徴が、今のところ化学的、解剖学的には認めることができないからには、他にとりうる手段は、われわれの行動を探索することしかない。ヒトの日常的な行動の総体をもって、ヒトを定義できる可能性はあるが、そのうちの驚くほど多くの行動を、他の霊長類もできるのである。たとえば、ここにコンサルが成し遂げたことの記録がある。マンチェスターの動物園がー八九三年に初めて入れたチンパンジーである。』(pp.266)
そして、このチンパンジーが、ヒトと同じ行動を、あらゆる場面においてできたことを示している。そして、プラトン、アダム・スミスや近年の哲学者が唱えたヒトの特徴に対して、論理が不完全だったことを指摘している。そして、議論はついに「宗教」に至る。これこそ、確定的な違いではないだろうかというわけなのだが、
『ヒトと動物との間にある違いとして、しばしば主張されるのが、宗教の有無である。宗教を持ち、安静を得るのは人間だけだといわれる。しかし、宗教とは何だろうか。どのようにしたら動物が宗教を持っているかどうかを知ることができるのだろうか。『人間の由来』の中でダーウィンは「イヌは自分の主人を神と見なしている」との表現を引用している。アンブローズ・ビアス 「『悪魔の辞典』で有名な米国の作家」は、畏敬の念とは「人間が神を、イヌが人問をあがめる態度」であると定義した。動物ではオメガがアルファを神のようなものと見なす。オメガの服従とへりくだりの深さまでは、現存している宗教のほとんどが及ばない。イヌや類人猿がどれほど深く畏敬の念を感じているのか、厳格な「主人」や確固不動のアルファに対する態度がどれほど敬虔なものか、神聖だという感覚を持っているのか、許しを乞うために祈るのか、あるいは、慰めや、自分にまさる影響力を見いだそうとするのか― これらは、知るのが困難である。
強く賢い両親に育てられ、教えられ、しつけられた動物、順位制に適応するようにされた動物、さらに、
生殺与奪の力やアメとムチで身を固めた威圧的な人間に直面してきた動物たちには、宗教的と呼んでいるものに近い感覚があってもおかしくない。 多くの晴乳類、そしてすべての霊長類がこれらの条件を満たす。』(pp.305)
さらに、道具やそれを創造する技術については、このように記している。
『確かに、われわれは知性と技術なくしては、文明を生み出すことはできなかったであろう。しかし文明とは人間の特性であるとか、あるいは文明とは知性と手先の器用さが人間の求めるレベルにまで到達することであるといったいい方をするのは不公平だろう。地球上に人間が登場してから初めの九九パーセントの期間は、文明がない状態だったからだ。われわれはそのときもまぎれもない人間ではあったが、まだ文明を持つに至ってはいなかった。だが、数十万年どころか数百万年前にさかのぼるヒトあるいはヒト科の化石といっしょに、しばしば石器を出土する。彼らは、少なくともある程度の能力は持っていた。まだ、文明というところまで到達していなかっただけである。 人間は道具を使い、他の動物は道具を使わないということから、人間を道具を使う動物であるとか、道具をつくる動物であるという定義を行おうとする動きもあった。』(pp.309)
しかし、すべてのヒトが道具を作るわけではない。また、他の霊長類にその能力が隠されているかもしれない。だれも確信を持つことはできないであろう、としている。
そして、テーマは冒頭の平和や民主主義に逆行する政策に戻る。
『一万世代前、祖先の多くが小さな集団に分かれていたころは、こうした傾向も、種の存続に都合よく働いていたのかもしれない。なぜこれらの感情はほとんど反射的なのか、なぜそれらはたやすく誘い出されるのか、なぜそれらがすべての扇動者や政治屋などの職業の源泉になっているのかはよくわかる。しかし、大昔の霊長類の性質を軽減するのに、自然淘汰を待つわけにはいかない。 それには時間がかかりすぎる。作業は手持ちの道具を使ってやるしかない。道具とはすなわち、われわれは何者であるのか、われわれはいかにしてこの道を歩んでいるのか、そしてわれわれに不足している点をどのようにして超越するかを理解する能力のことである。最悪の結末に至ることのない社会をつくり始めるのはそれからのことだ。』(pp.348)
彼はまた、「核の冬」を唱えたことでも有名になっている。ここでは、そのことを言っているように思われる。さらに続けて、
『さらに過去一万年という視点から見ても、異例の変化が最近になって際立ってきている。人間は自分たちをどう組織化するか考えてみよう。アルファ・オスに対して、自分を卑下する恭順と服従が必要となる順位制は、アルファの世襲制と共に、かつては世界の標準的な政治構造だった。この制度が、正しく適切であることは、高邁な哲学者や宗教の指導者によっても正当化されてきた。これらの制度はいまや地球上からはほとんど消滅してしまった。同じように、運命づけられたものだとか人間の本性と深く調和しているものだとの理由づけで偉大な思想家が擁護してきた奴隷労働も、今や世界的にほとんど廃止されるにいたった。ほんのわずか前まで、世界中でごく稀な例外を除き、女は男に従属するものとされ、等しい地位と力を否定されていた。これもまた、あらかじめ決まっていることであり、不可避のことだと考えられていた。この点に関しても、変革への明臼な兆しが、いたるところにある。民主主義と人権と呼ばれるものに対しての共通の理解が、多少の行きつ戻りつを伴いながらも、地球に広がりつつある。』(pp.348)
「多少の行きつ戻りつ」が、現代文明社会にあって、政治や科学の世界で起こっていることへの彼の結論だと思う。「エピローグ」は、『人類の夜明けから文明の創造にいたる進化の歴史を綴るという作業の核心部分は、このシリーズの次の本での課題になる。』で結ばれている。