生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

八ヶ岳南麓の24節季72候  紅花栄, 年々変化する花々と動物たち

2016年05月27日 08時52分56秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
紅花栄(小満の次候で、5月26日から30日まで)

年々変化する花々と動物たち

八ヶ岳南麓での生活もいつの間にか16年目を迎えている。その間に環境も随分と変わった。リスが姿を消して、代わりにイノシシとキツネが現れるようになった。小鳥も、大型の赤ゲラや雉を見かけなくなった。同じ季節でも庭に咲く花も変化している。
 H20のこの時期の花は、桜草と錨草だった。しかし、今年は未だ咲く気配がないばかりか、錨草の群生は消えてしまい、わずかに数株が残るだけになっている。

動物の変化は、鳥類も含めて人家が増えて、林が減ったせいと思われる。昔の別荘は、周りの木々を残したが、最近はすっかり更地にしてしまう。我が家と同じように庭つくりを楽しむためなので、文句は言えない。

 今年の今はエクスバリー、藤の花、ブルーベリーの赤ちゃん実だ。
定番のエクスバリーは木の生長では、隣の匂いつつじに負けるが、花の数では圧倒している。





藤の花は、我が家へ上る道の途中にある大きな木だ。見上げると、木のてっぺんまで花でおおわれている。この16年間の生長のせいだ。上のほうが花の付きがよく、少し満開を過ぎたのか、路肩は花びらで埋まっていて、冬に落ちたカラマツの残骸をすっかり覆っている。風が吹き抜けると、桜吹雪ならぬ、藤吹雪になる。







佐倉の友人のY氏が、ブログに「ブルーベリーの花が満開」と書かれたのは、4月16日だった。
当地の開花は、40日遅れだったが、ようやく青い実がつき始めた。
いつもの大型のミツバチがせっせと働いていてくれるのは、ありがたい。





 メタエンジニアの眼シリーズ(02);「明六雑誌」とその周辺

2016年05月24日 10時47分44秒 | メタエンジニアの眼
書籍名;「明六雑誌」とその周辺

編集者;神奈川大学人文学研究所
発行所; お茶の水書房 発行年、月;2004.3   文献番号;KMB004
初回作成日;H26.7.19 最終改定日;H28.5.24


                                                              
「明六雑誌」が発行されたのは、明治7年から8年までのたった20ヶ月間であった。明六社は森有礼により提唱され、投稿者は福沢諭吉、西周、津田真道などの当時の錚々たるメンバーであった。掲載された論文は114編で、文明開化論、言語政策、婦人問題、哲学、思想、政治、経済、法律、教育に及んでいたと、序文で述べられている。

神奈川大学で、この書の研究会が持たれたのは、その原本が同大学の図書館に所蔵されている為であろう。巻頭に写真等が示されている。この雑誌に掲載された論文の価値は、副題にある、西洋文化の受容にあるのだが、もっとも有名なのは、文中に翻訳されている西洋の文献の和訳に用いられた「和製漢語」である。代表的なものは科学、哲学、法学などだが、その数は有に1000語を超している。表3(pp.181)に依れば、合計1566語で、多くは消滅したが、現有語として528語が存在する。
 中でも、「西周の人生三宝説」で用いられた語は多く現在の科学・政治・文化の中で使われている。彼が、その文章の中で、西洋文献や著者名などを逐語訳していたためであろう。

西周の人生三宝説は、掲載途中で雑誌が廃刊となったので,未完の説と云われている。また、彼の育った儒教の環境と、西洋哲学のいいとこどりの色彩が強く、「失敗した真理」などとも云われている。
人生三宝説の三宝とは、健康・知識・富有である。彼は、その執筆の意図を
『今茲に論する趣旨は此一般福祉を人間最大の眼目と立て、此れに達する方略を論せむとす』
と記されている。ここで、福祉という言葉は、happinessであり、現在では幸福とすべきであろう。そして、彼は一般人の最上極処のhappinessを達成するための方略として、人生の三宝を挙げている。そして、中でも知識=教育が最も大切な基礎であるとしている、即ち、健康は人生の大前提ではあるが、知識の増進(=教育)が、健康の維持と富有の確保に決定的であるからである。また富有については、
『金と富の差別は経済学に譲るべし』としか述べずに、別途の著書「百学連環」の制産学(現在の経済学)の中で論じている。

                                                                               

メタエンジニアリングの眼シリーズ (01);百学連環

2016年05月24日 09時16分29秒 | メタエンジニアの眼
新たに「メタエンジニアの眼」シリーズを始めました。メタエンジニアリングを考えてゆく上で用いた参考図書の記録です。現在5つのカテゴリーに分けていますが、「文化と文明への眼」は、その第1号です。

書籍名;百学連環
編集者;印刷博物館    文献番号;KMB003
発行所;凸版印刷    発行年、月;2007.9
初回作成日;H26.7.19   最終改定日;H28.5.24


                                                                 
「科学と技術」日本近代思想体系14、岩波書店(1989)には、実に興味深い話が多く書かれている。メタエンジニアリングの研究には欠かせない著書のひとつである。
 その中の第1は、西周(にし あまね)の「百学連環」。西は日本初の哲学者と云われるが、啓蒙家、官僚などの側面もある。最も大事なことは1862から3年間オランダに留学して、当時の西洋科学と哲学を基礎から学び、多くの科学と技術に関する英語の日本語訳をつくったことである。その意味では、日本初のメタエンジニアリング者とも云える。Wikipediaには、次のような記述がある。

『西 周 (にし あまね、文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日) は江戸時代後期から明治時代初期の幕臣、官僚、啓蒙思想家、教育者。貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。勲一等瑞宝章(1897年)。
西洋語の「philosophy」を音訳でなく翻訳語(和製漢語)として「希哲学」という言葉を創ったほか、「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」など多くの哲学・科学関係の言葉は西の考案した訳語である。上記のように漢字の熟語を多数作った一方ではかな漢字廃止論を唱え、明治7年(1874年)、『明六雑誌』創刊号に、『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』を掲載した。著書に『百学連環』、『百一新論』、『致知啓蒙』など。森鷗外は系譜上、親族として扱われるが、鷗外の母方の祖父母及び父が養子であったため血のつながりはない。』

 なを、出生地については次の記述があるので、津和野では是非拠ってみたいところだ。
(その後、たっぷりと一日をかけて津和野を散策した。森鴎外生家は大繁盛だったが、こちらは誰もいなかった。両家は線路を挟んでほんの数分の距離しか離れていない)
『石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鷗外の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだという蔵が保存されている。』

 「百学連環」は、彼の京都の私塾で明治3年から教えられたことを、彼の死後纏められたものと云われているが、総論は30頁弱で比較的読みやすい文章で書かれており、随所に英語が出るが、いちいち逐語訳が付いている。つまり、この単語ごとの性格を期した翻訳が新語を生み出したと云うことなのだ。
 彼は、英国のEncyclopediaを熟読し、そこから色々な知識を得たようだが、その語源をギリシャ語に求めて、「童子を輪の中に入れて教育なすとの意なり」としている。Wikipediaには、次のような記述があるので、彼の解釈は正しい。

『百科事典を意味する英語 encyclopediaは、ギリシャ語のコイネーの"ἐγκυκλοπαιδεία"から派生した言葉で、「輪になって」の意味であるἐγκύκλιος(enkyklios:en + kyklios、英語で言えば「in circle」)と、「教育」や「子供の育成」を意味するπαιδεία(paideia パイデイア)を組み合わせた言葉であり、ギリシャ人達が街で話し手の周りに集まり聴衆となって伝え聞いた教育知識などから一般的な知識の意味で使われていた』

「百学連環」は、学(Science)と術(Art)の連環が総体的・体系的に説かれた書と云われているので、メタエンジニアリング的には、大いにそそわれる。つまり、百の学は連関していると云う訳なのだろう。
古代ギリシャの自然学も、古代ローマのLiberal Artsも科学と芸術と技術は一体であった。レオナルドダビンチまでは、全ては一つの個の中で統合されており、そこから後世に残る優れたものが次々に生まれてきたのだと思う。連関の輪が怪しくなってきたのは、宗教戦争と産業革命であろう。つまり、近代科学による工業化が問題だった。だとするならば、工業化から知的社会文明に移る際には、又元の連環に戻ることが必要であるようにも思われるのである。そのような妄想の基に読み進めてみた。

(蛇足)いずれにせよ、英語ではきちんとした語源が保たれているが、日本語はさっさと「連環」の語を捨ててしまい、「辞典」にしてしまった。そこで、百学分立が盛んになってしまった。(註1)

 総論の次の第2節は「学術技芸 Science and Art」であり、次の記述がある。

  『学の字の性質は元来動詞にして、道を学ぶ、あるいは・・・、名詞に用ゆること少なし。実名詞には多く道の字を用ゆるなり。』
 現在では、XX学ばやりで、もっぱら名詞に使われているが、改めて新鮮な学に対する態度が伺える。術については、次の記述がある。

   『術の字は其目的となす所ありて、其道を行くの行の字より生ずるものにして、即ち術の形なり。都合良くあてはめるというの義なり。芸の字元を藝の字より生ずるものにして、植え生ぜしむるの意なるべし。学術の二字即ち英語にてはScience and Art、ラテン語には、・・・。

   術に亦二つの区別あり。Mechanical Art(器械技) and Liberal Art(上品芸)原語に従ふときは則ち器械の術、又上品の術と云う意なれど、今此の如く訳するのも適当ならざるべし。故に技術、芸術と訳して可なるべし。技は支体を労するの字義なれば、総て身体を働かす大工の如きもの是なり。芸は心思を労する義にして、総て心思を働かし詩文を作る等のもの是なり。』

つまり、技と芸の関係は、身体の動きか思考の働きかの関係と云っている。
文字の意味を突き詰めるとそのようになるようなのだが、Liberal Art(上品芸)⇒芸術、
Mechanical Art(器械技)⇒技術、と変化した経緯は面白い。
この書物は、1989年に発行されたのだが、巻末の解説を記した飯田賢一の文は「日本における近代科学技術思想の形成」と題して、次の記述がある。

『明治15年に「理学協会雑誌」が発刊され、当時は「理学」はいまの科学・技術分野全体の総称でもあった。(中略)佐久間象山以来の技術=芸術という受け止め方は、「工業大辞書」完結の大正初期のころまでなおひきつがれていたことになる。(中略)総じて、明治時代を通じ、人間がものをつくる生産技術にあっては、芸術と同じく手工的な技(わざ)や巧(たくみ)が肝心なものと受けとめられていたのに対し大正デモクラシー期の国際交流の高まりの中で、科学(理論)と技術(実践)との結びつきが促進され、生産技術は自然科学の応用(applied science)という考えが、急速に普及・定着しはじめた、といって差支えあるまい。 』

この文は、その後「日本科学技術思想史の特質」、「技術文化史の三段階」と続くのだが、ここでは省略する。


(註1)「百学連環」と云う言葉は、実は復活をしていた。2007年に日本書籍出版協会と日本雑誌協会が共同で纏めた、「百学連環 - 百科事典と博物図鑑の饗宴」凸版印刷 印刷博物館発行(2007)である。その年に行われた展覧会の記念本なのだが、日本工学アカデミーの「根本的エンジニアリング」や「メタエンジニアリング」とほぼ同じ時期に突然に復活したことは、必然的な関連を感じる。
 冒頭の「ご挨拶」は、こんな言葉で始まっている。

『「百学連環」という素晴らしい言葉がありました。百にもおよぶ学知は、ひとつの環をなして連なっている、そんな理想を表現しています。明治の文明開化をになった知識人、西周の造語であり、エンサイクロペディアの邦訳語ということです。』



その場考学との徘徊(07) 新宿駅新南口

2016年05月21日 19時32分40秒 | その場考学との徘徊
新宿駅新南口

 新宿駅発の高速バス乗り場「バスタ新宿」がオープンして1か月が過ぎた。その間に、新宿から八ヶ岳PAまで わが奥さんは2度ほど利用させていただくこととなった。以前よりもかなり快適だそうだ。
 ところで、大都市の景観としての東京は、世界で何番目なのだろうか。




ロンドンやパリには明らかに負けそうだが、観光立国の第1条件のように思う。新宿駅の新南口の景観が一気に変わったのは、バスタ新宿に負けずに嬉しい。改札口を出ると、視界が一気に広がる。中央線、山手線、小田急線の線路がすべて足の下に通っているのだから、横幅が思ったよりも広く感じられる。
ゆっくりと休むことのできるテラスも感じが良かった。





 ここから見ると、遠近法のおかげで、NTTドコモのビルも奇異に感じることはない。偶然なのか、高さもほぼ揃っていて、他の場所のような見苦しさは感じられない。日本の大都市も、中小の都市も、もう少し景観の改善に対しての戦略を立ててもらいたいものだ。京都も奈良も、いろいろな手立てのわりには、改善どころか悪化しているように思えて仕方がない。

その場考学との徘徊(05A) 野川から深大寺へ、谷と台地を交互に貫く京王線

2016年05月12日 15時11分33秒 | その場考学との徘徊
3日続きのぐずついた天気が終わり、からっと晴れた日、正に五月晴れ。ただし、最高気温の予想が27℃なので、ウオーキングは午前中に限る。ということで、急遽京王線で二駅、芝崎駅に来ました。
 



そこから野川を2kmほど遡ると、中央高速が上を通る。遊歩道は整備されているのだが、なぜか、途中に案内地図も場所の表示も全くなかった。そこで右折をすると深大寺に突き当たることができるのです。正面に「岩に線刻された観音様」がおわします。





深大寺にお参りをして、南側の水生植物園へ。菖蒲、アヤメ、カキツバタの競演でした。



再び、深大寺を横切って植物園へ。未だ、10時半だが、入口の深大寺そばの店だけは早くからやっている。
細切りそばと、太切りそばを注文。(12時過ぎに通りかかったら、長蛇の列、早めでよかった)
私は、そばとは思えないほどの歯ごたえの、太切りが好きです。



ちなみに、上にある小さな四角いお皿は、「そば饅頭」用です。ゆであがる前に、お茶で喉を潤しました。

植物園は、バラフェスタが始まったばかりなのだが、お年寄りで大混雑。皆さん、立派なカメラをお持ちだ。






つつじの花は終わりでしたが、面白いつつじの大木があったので、パチリ。





帰りは、鬼太郎茶屋の前からバスで調布へ。次回に備えて市役所で市内観光地図をもらいました。


 
 ところで、この野川は実は、新宿駅から発する京王線の谷と台地を交互に貫く地形の一つなのだ。このことは、かなり前から気になっていたのだが、この機会に纏めてみよう。

 都心から西へ向かう鉄道でも京王線と、中央・小田急・西武線には大きなちがいがある。
それは、新宿から調布までの駅名や町の名前でわかる。新宿から府中までの京王線は、中央線とほぼ並行して、真西に向かって走る。違いは、国分寺崖線などの崖線の上か下かの違いだ。

 京王線を新宿から西へたどると、谷と岡(台地)が、ほぼ一駅ごとに交互に代わる。
新宿 ⇒山谷(谷) ⇒初台(台地) ⇒幡ヶ谷(谷) ⇒笹塚(台地) ⇒代田橋(谷) ⇒明大前 (台地)⇒下高井戸・桜上水(谷) ⇒八幡山(台地) ⇒芦花公園(谷・水無川) ⇒千歳烏山(台地) ⇒仙川(谷) ⇒つつじが丘(台地) ⇒芝崎 (谷・野川)⇒武蔵野台(台地)
といった具合に、見事に「台・山」と「谷・川・橋」を交互に並べることができる。

 そして、谷に相当する各駅の近くからは、川沿いや暗渠上に遊歩道ができている。
それらは、今回の野川から東へ順に、仙川、烏山川(水無川)、玉川上水、神田川、渋谷川といった具合だ。そして、これらには中央線と京王線の間に湧水が必ずある。今回の深大寺もそのひとつだが、井の頭公園、烏山の寺町にある高源院の鴨池などは有名になっている。

 川沿いの遊歩道には、それぞれの特徴があって面白い。
井の頭公園から流れる神田川は、両岸どころか、川底までコンクリートで固められた個所が多い。玉川上水は人工川だが、江戸時代の自然のままで、並木が美しい。川幅は狭いが深そうだ(江戸・明治に比べればかなり浅くなったはず)。野川は反対に自然のままの浅い流れになっており、川幅は広い(もっとも通常は中央の細い流れで、遊歩道から川面に降りる階段の下に、もう一本の遊歩道がある)。案内板もそれぞれで、玉川上水には、多くの橋ごとに地図と歴史が語られているが、野川には、少なくとも昨日の2kmの間は、何もなかった。






玉川上水に沿って、世田谷・杉並区間は東八道路(第2甲州街道)の工事中。上水は、道路の中央分離帯になるようだ。

 都内の自然だけ(道路や鉄道の表記がなく、高低差と川(暗渠も含む)の地図があれば、面白いことがいろいろとわかるはずだ。

レスター市の思い出

2016年05月03日 10時45分39秒 | その場考学との徘徊
レスター市の思い出

今朝(5月3日)、朝一番のニュースは、イングランド・プレミヤリーグで岡崎慎司が所属するレスターが132年ぶりに初優勝したとのニュースだった。レスターは、ロンドンから北上する特急で1時間ほど、線路はそこで二つに分かれて、西へ行くと次の駅がダービー、東の次の駅はノッチンガムで、両市は昔から独自の強いチームを持っている。(ちなみに、英国は鉄道網というくらい線路が網の目になっていて、曜日によってルートが異なるのは、当たり前。はじめのうちは、行き先が心配になった。周りの人に確認をしても、返事はいつもI hope so.)

私が、Rolls-Royceとの新型ジェットエンジンの共同開発で、英国通いを始めたのは1979年、当初はロンドンの真西にあたる海岸の港町ブリストル。世界中のワインの集散地で、ワインフェスティバルの時は、1週間の間、町中が酔っ払いだらけだった。海賊フックのバーや、ブルマーというレストランでは、ウエイトレス全員が、本当に昔の女子生徒がはいていた、あの昔のブルマーをはいていた。西のセヴァーン・ブリッジを渡るとウエールズになる、面白い街だ。しかし、そこからすぐにプロジェクトはRRの聖地のダービー市に移った。そして、毎回レスターを通った。



サッカーの試合は、平日の終業後に行われることが多く、毎回ダービーの設計事務所からノッチンガム在住の友人の家へより、そこで軽いサパーを食べて出かけた。夕食のディナーは試合後なので、11時過ぎ。当時は、ダービーの2チームは弱く(Division2)、試合を見に行くのはいつもノッツ・フォーレスト(Division1の常連)だった。レスターは多分Division3。





約10年後には、次のGEとの共同開発エンジンのChief Engineerだったが、わが方の技術者が足りずに、GEの英国子会社の技術者を20人ほど借りることになった。その事務所がレスター市にあった。そこは、ジェットエンジンの聖地だったのだ。敷地内にはジェットエンジンの生みの親のホイットルが、初めてガスタービンの自立運転試験に成功した研究室があった。毎日のように、GEのメインチームがいる米国オハイオ州のシンシナティーとのテレコンで、エンジニアの作業内容の調整をしたことを思い出す。レスターは、いろいろな思い出のある街だ。