生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(93)高坂正堯と塩野七生

2018年10月20日 08時47分38秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(93)                   
TITLE: 高坂正堯

書籍名;「世界地図の中で考える」 [1968,2016] 
著者;高坂正堯 発行所;新潮選書
発行日;2016.5.25
初回作成日;H30.9.27 最終改定日;H30.
引用先;文化の文明化のプロセス Converging

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 高坂正堯の名は、私の学生時代に大いに流行った。この本も当時読んだ記憶がある。学生社会が、一般社会に繋がっていることを知らせてくれたように思う。しかし、当時は「文明」の変化やそのプロセスに関して全く興味がなかったので、内容の記憶はない。50年ぶりに読み返そうと思ったのは、文芸春秋に毎回載っている塩野七生の短文だった。

 彼女は、ローマ人やギリシャ人の歴史に関する大著をおえたあとで、まず、海外体験のある文豪(漱石、鴎外、荷風)を読み、続けて国際政治学者の彼の作品を読み始めたとある。そして、この投稿文を書いた。
 彼の業績を一通り記した後で、『だがここでは、『世界地図中で考える』と題された一冊 にしぼることにする。「新潮選書」で、値段も千四百円と安いから一般向き。一般の読者 向きという理由には、文章の流れの良さもある。学者でも文人並みの文章が書けるのだ、と思わせてくれる一冊。ほんとうは抜粋などはしたくないが、・・・。。』(P92,日本人へ・184)
 そして、その中から「あとがき」に記された文章を引用している

 『この作品のあとがきで、彼は次のように言っている。 「われわれは二重の意味で、前例のない激流のなかに置かれている。ひとつには通信・運輸の発達のおかげで世界が ひとつになり、世界のどの隅でおこったことでも、われわ れに大きな影響を与えるよう になった。(略)そして歴史の歩みは異常なまでにはやめられた。次々に技術革新がおこり、少し前までは考えられもしなかったことが可能に なる。われわれの生活はそれ によって影響を受けるから、がれわれは新しい技術に適応するための苦しい努力をつづけなくてはならないのである。』(本書のP289)
 このことは、50年前と、今とは何も変わっていない。
 
また、彼の人物像については、昔を思い出す記述があった。
『この時期の高坂さんへの非難はすさまじく、学者らしくないとの同僚たちからの批判に始まって、政府寄りの保守反動だと、彼が教えていた京都大学には、打倒・高坂 と書かれた立て看板まであったという。 しかし、政府べったりの保守反動と非難された当時の高坂さんの頭を占めていたのは、日本が再び敗戦国にならないためには何をすべきか、であったのだ。』(P93,日本人へ・184)

 また、挟まっている栞には、こんな文章があった。
 『先生は岡際政治の話をプラトン、アリストテレスから始め、アテネの時代でも民主主義は衆愚政治に陥る恐れありとしでブラトンの考えに同情を示したり、大国のメ ルクマークとしで、軍事力、綴済力、人口、面積、政治体制など種々の要素を分析していった。軍事力では劣勢のアテネか、何故ペロボネソス戦争で勝利を収めたかを考え、経済力に関しではベネツィア、オランダそして日本の限界説を説き、人口、面積に関しては中国、イントの 総合力の弱を論じた。そして逆に何かいい基準はないかと学生に質した。』(栞の小町恭士の文より)
 当時の大学の授業はこのような内容だったのだが、今はどうなのだろうか。

 本文は、タスマニア人がイギリス人によって絶滅された事実の説明から始まっている。そのことは、猪木正道によるこの書籍の紹介文が分かりやすい。
 『タスマニアの悲劇の原因を追求してゆくと、人体の内部で微生物がデリケートな均衡を作 っている話に到達し、国際政治の勢力均衡論への視野が大きく開けてくる。特定の細菌や ビールスさえ、みな殺しにすれば病気をなくせると考えている人々は、戦争の原因を何か ーつの要素に求め、この要素を除去することによって永久平和を実現できるものと夢想する人々と比較される。 歴史の知恵からいかに学び、現代の狂気をどうして越えるかを教えてくれる本書を、私は―人でも多くの同胞に続んでほしいと思う。 猪木正道』(裏表紙より)

・滅亡のある条件
ここでは、ポーランド人の人類学者の文章を引用している。
 『ー八〇三年にイギリスは三人の役人、七人の兵士、六人の自由人、二十五人の囚人を、相当数の家畜と共に送り込み、その後間もなく十五人の軍人と四十二人の囚人が増強された。
八〇七年には、植民者の数は再び増大された。こうして、植民が始まると共に、タスマニアの土着民族とイギリス人の侵入者の間に激しい戦いが展開されることになった。』
『イギリス人はタスマニア土人を撃破し、追いつめて行った。一八三〇年には、植民当初五千人ほどいた土着民は二百三人に減って保護地に囲われることになった。そして、一八四二年には四十四 人、一八五四年には十六人という具合に減りつづけ、一八七六年に最後に生き残った一人が七十六歳で死に、それによって、タスマニア土人はこの世から完全に姿を消したのである。』(pp.16)

『タスマニア土人は白人に勇敢に抵抗した 。そして数千から数百になったとき彼らは降伏した。降伏した人びとは羊を与えられ、保護地に入れられた 。彼らはそれによって狩猟生活の不安定の代わりに豊富さを得、明日の生活を保証されたのである。しかし、彼らは亡びつづけた。そして彼らが絶滅 したことがいかに不可避であったかを理解するためには、生存条件の変化が彼らの内面的生活を破壊したことを考慮に入れなくてはならない。』(pp.18)
 そして、彼一流の文明論としては、
『私はこのの文章に強い印象を受けた。なぜなら、それは優れた強い文明に圧倒された、劣った弱い文明の悲劇を極限状況において示しているからである。近代に人類の文明はヨーロッパを中心として著しく発展した。人間は疑いもなくより豊かになり、先進諸国においては飢え死にすることはなくなった。そして、この過程において、西欧諸国が果した役割は否定するべくもない。しかし、この過程は同時に、苦しみに満ちたものでもあった。』(pp.19)
第二次世界大戦後の暫くは、文明論が盛んで、「優れた強い文明に圧倒された、劣った弱い文明の悲劇」という言葉は、あちこちで使われていたと思う。

・英米の違い―知恵と生命力

 当時のいわゆる列強の帝国主義について述べた後で、このテーマを追っている。
 『なんと言ってもイギリスとアメリカはちがう。そして、 ひとつの文明はその成功においても失敗においても、自己の方法による以外にしかたがないのである。イギリス人の「判断力、技術、洗練、節度」は、文明を伝えるものと伝えられるもの、統治者と被治者の間の距離の前提と、同化しえないという諦念の上に立っていた。すなわち、彼らは問題が本質的に解決しえないものであることを認めていたが故に、技術において秀れることができたのであった。
これに対してアメリカ人はすべてのものをその文明へと同化しうるという前提の上にたって行動している。 少なくともアメリカ合衆国という国家は、その原則の上に立ったが故に作られることができたのであった。
このイギリス入とアメリカ人の相違は、彼らが外国に出かけたときの態度に如実に現われている。イギリス入は外国に出かけても、イギリスの習慣を保ち、その土地の習慣になじまない。それどころか、その土地の社会に溶けこもうとせず、イギリス人だけの社会を作る。香港でも、シンガポールでもニユー・デリーでも、イギリス人たちは小さなイギリスを作り上げたが、それは今日でも土着の社会とはまったく独立した清潔さを保っている。』(pp.184)

 そして、
『この場合、どちらがよいのかという問いを発しても、余り意味がない。アメリカはイギリスのまねをするわけにはいかないからである。イギリスは文明を伝えることの困難さを認識し、同化を不可能と考えていた。そこに知恵が生れた。それに対し、アメリカ人は世界を作り変えることに関して、より楽観的である。彼らは知恵よりも、生命力によって特徴づけられているのである。 だから、彼らはより多くの成功をおさめると共に、より多くの失敗を犯すことになるであろう。 それはアメリカの宿命と言えるかも知れない。』(pp.185)
 このことは、明治維新から太平洋戦争の敗戦後の日本の経験にも当てはまる。

そのうえで、本題ともいえる、アジア主義と日本人の考え方、についての章が始まる。
『あるときは強力になって日本外交そのものを支配し、あるときは認識できないほど弱くなるという浮沈を記録しながら、しかし、急速に西洋文明を取り入れる日本のなかで根強く存在しつづけて来たアジァ主義的な心情は、どこに根を持ち、そして、いかなる意味をもつのであろうか。』(pp.217)
つまり、「アジアという価値観」が、根強く日本人の心に存在したと述べている。

先ずは、明治維新当時の精神の異常さについての例を挙げている。
『たとえば、卸治の初年には国字の改良が主張され、森有礼のように漢字を廃して、アルファベットを使うことさえ提案された。そして、日本人の体質改善も説かれた 「日本人は生れつき智巧みなれども根気甚だ乏し、これ肉食せざるによる」。 だから、日本人も小児のときから牛乳を飲ませ、牛肉を食べさせて育てて、根気強い国民にしなくてはならない。なぜなら、「牛 は獣中の魯鈍なるものなり、牛を食ふて育ったものは、牛の如くに久しきに堪へる」からである。 実際、外国婦人との結婚による人種改良という考えさえ唱えられた。』(pp.218)

そして、日本人の言動と内面については、このように記している。
 『好きな国としてあげられるのは、アメリカ、スイス、フランスなどの西洋諸国なのである。
朝鮮や中国やインドなど、近隣のアジア諸国を好きな国としてあげる人の数はずっと少ない。
しかし、そのような事実にもかかわらず、また、世論調査に現われる圧倒的な数字にもかかわ
らず、「アジア」は日本人の心のなかで大きな位置を占めている。より正確に言えば、それは世 論調査のように、人間の表面的判断を計量する調査によっては捕捉しえない人間の心の深みに位置している。そして、ときどき氷山の一角のように、その姿の一部を現わすのである。たとえば 日本が西洋の文明を急速に取り入れて近代国家となり、やがて同じアジアの国である清朝と戦うようになったとき、相当多くの人々がそれをアジアを救うための方策として、心理的に正当化しようとした。』(pp.218)

更に、和辻哲郎の文章を引用して、
『近代以後にあっては、ヨーロッパの文明のみが支配的に働き、あたかもそれが人類文化の代表者であるかのごとき観を呈した。従ってこの文明を担う白人は自らを神の選民であるがごとくに思い込み、あらゆる有色人を白人の産業のための手段に化し去ろうとした。もし十九世紀の末に日本人が登場して来なかったならば、古代における自由民と奴隷とのごとき関係が白人と有色人の間に設定せられたかも知れぬ。』(pp.219)
『永い間インドおよびシナの文化の中で育って来た黄色人であるにもかかわらず、わずかに半世紀の間に近代ヨーロッパの文明に追いつき、産業や軍事においてはヨーロッパの一流文明国に比して劣らざる能力を有することを示した。さらに精神文化においても、インド人やシナ人自身がすでにその本質的な把握を失い去っている高貴な古いインド文化・シナ文化を今なお生ける伝統として保存し、これに加えてギリシャ文化の潮流に対しても新鮮な吸収力を有することを示した。』(pp.220)

また、エドガー・スノウの文章も引用している。
『ヨーロッパ諸国に戦争をしかけたことに真実の後悔を感じている日本人はほとんどいない。
それどころか、彼らはヨーロパ人をアジアから追い払ったことに秘かな誇りを感じているのである。 だから、 日本人は中国の復興について思う。 毛沢東が青年時代にツアーのロシアに対する日本の勝利を喜んだように、多くの日本人は今日中国が復興して西欧諸国が撤退することを求め、ロシアとやり合っているのを、大東亜共栄圏という日本の失われた夢の継続と見なしている。アジアという彼らの世界における白人の優越への恨みの共通性は、日本人と中国人との間につねに存在した。』(pp221.)
 GPUが中国に抜かれて状況は一変したが、かつて、このような期間が存在したことは、忘れてはならないのだろう。そのことは、次の文章にもつながっている。

日本人とそのほかのアジア人の違いについては、
『アジアと日本の精神的・経済的なつながりを強調する立場は、漠然とした形で広汎に存在するのである。そして、それは理論的なものではなくて、心情的なものなのである。私自身そのことを何回も経験した。なぜなら、日本とアジアとの経済的なつながりが他のものに増して重要であるということは、理論的には到底言えないものだからである。ここ十数年先のことを考えるならば、中国と東南アジアを合わせてもその国民総生産は日本の二倍にはならない。したがって、アジアとの経済的なつながりは限られた重要性しか持たないのである。』
 続けて、『彼らは「近代に現れた最大の侵略者は西欧である」という点では一致してしている。それ以外に一致するところはないのである。人種、言語、文化、宗教などにおいて、アジアはひとつであるどころか、余りにも多様である。第二に、日本とアジアとを同一視することは正しくない。西欧諸国が訪れたとき、日本は西欧諸国と異なる文明を持っていたことは明らかであるが、しかしそのときすでに日本の文明は、その起源である中国の文明と相当異なるものだったのである。とくに、日本における封建制度の存在が重要であり、その点で日本が西欧諸国と共通するところを持っていたことは、多くの学者によって指摘されているところである。』(pp.223)

最後に、「技術の位置」と題して、様々な例が記されている。いずれも現代文明が技術によって翻弄されていることを語っている。
『なんと言っても、人間にあたらしい力を与える技術は、人問を未知の領域に踏み込ませるものなのである。 そこには予想もされないような危険があるかも知れないと考えるのが常識的であり、かつ謙虚な態度なのである。
実際、未来学のひとつの大きな目的は、こうした技術の副作用をできるだけ予知し、それを除去することなのである。それは、ますます早く技術が進歩する時代において疑いもなく必要である。』(pp.266)
このことは、私はメタエンジニアリングを考え始めて、真っ先に思ったことと一致している。

『新しい技術を習得することはちょっと考えるとなんでもないようだが、そうした必要に迫られた人の立場に立ってみると実に大変なことなのである。彼は人生の途中で始めからやり直しをしなくてはならない。今までの経験が無用になったということは、彼の心を曇らせるだろう。たとえ、彼の生活を経済的に保障することができたとしても、社会的地位や生き甲斐の喪失はなんともならないのである。こうして、ひとつの 新しい機械でも、実に多くの問題を与える。社会全体に及ぶ工業化がきわめて多種多様な調整のための努カを必要とすることは明白である。』(pp.267)

『そして、未来学がその関心の対象としている二つのこと、すなわち未来における危険の予知と予防、及び未来における状況の予測と適応の努力は人間にとって不可能なことではない。人間は電子計算機などの技術的手段の発達と、それに伴う方法的な発達のおかげで、上にあげた二つのようなことをする能力は、一世代前には考えられなかったほど増大したからである。その意味で、人間は技術を制御することができる。』(pp.268)
 この時代は、まだこのような認識だったのだ。電子計算機の加速度的な発展である、ムーアの法則は、まだ現実のものとしては存在しなかった。

・テクノクラシーの重圧

『現代人は捉え難い状況に不安を感じているだけでなく、自分たちは自分でその運命を切り開いているのではなく、なにものか目に見えないカに操られて動いているのではないか、という不満感を持っている。なぜなら、現代社会の決定機構は大衆民主主義と電子計算機という二つのものによって象徴されている。そしてこの二つはきわめて異なった雰囲気を持つものではあるが、しかし、普通の人間にはなじみ難いものであることでは共通しているのである。』(pp.284)
 このことは、ハイデガーの技術論に一致している。

更に、フランス人の哲学指向については、ドゴールの外交政策と「五月革命」での事実を通して、次のように結論付けている。
『それはフランスの指導者たちが、高度工業社会に関するさまざまな問題に、哲学的な関心を持って来たことのおかげであった。先にあげたフランスの未来研究『一九八五年』は、ますます相互依存が強まる今後の社会において、社会のいとなみに対して人々の「参加」をいかにして保証するかが重要な課題であることを、指摘していたのである。知識人や官僚や政治家が参加して自発的に作っているフランスのクラブでもそのようなことが討議されていた。未来の問題について論ずることは、それにふさわしい哲学的な洞察があれば、まことに有意義なのである。』(pp.286)
 ここでも、フランス人の基礎教養である哲学の重要性が示されている。

そして、「あとがき」では、塩野七生の引用部分の後で、次のように結んでいる。
『皮肉なことに、こうした状況はかつて多くの人々の夢であった。人々は世界のどこにでも手軽に行け、世界中のできごとを早く知りたいと思ったし、文明ができるだけ早く進歩することを願った。そうした願望は大体のところ実現したのである。そして、実現した願望が今やわれわれに問題を与えている。 そのような状況を捉えるためには、なによりも事実を見つめなくてはならない。とくに、文明 について早急な価値判断を避けて、その恩恵と共に害悪を見つめることが必要であると、私は考えた。明治以来、今日まで日本人は西欧文明に対して、極端な反応を示して来た。すなわち・・・・。』(pp.290)

『実際には、文明そのものが光の面と闇の面を持っている。そしてその二つは離れがたく結びついているのである。さらに言えば、どれが光の面で、どれが闇の面かを一概に言うことさえできないであろう。ひとつの場所とある状況で善いものが 、別の場所と異なった状況では悪となる。文明は人々の希望でもあり、同時に負担でもあるのである。 私はこの書物で、文明をそのようなものとして捉え、そのような文明の波が地球の上でどのような模様を作り出しているかを描こうとした。現代の世界を捉えるひとつの試みとして世に問いたいと思う。
―九六八年八月一六日  高坂正尭 』(pp290.)

冒頭に帰した、塩野七生の短文は次の文章で結ばれている。
『その全員が、高坂正尭の云う、安全保障とは軍事にとどまらず、文明にも視野を広げてこそ明確に見えてくるもの、という考えに共鳴していたのである。
五十年後の今の三十代は、この一書をどのように読むだろうか、と考えてしまう。』(文藝春秋,pp.93)