生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(78) 淡路島での4日間(その3)

2024年05月13日 07時05分26秒 | メタエンジニアリングのすすめ
その場考学との徘徊(78)    

題名;淡路島での4日間(その3) 場所;淡路島 月日;2024.4.7~9
テーマ;古事記と現代社会の共存


・旅の目的
桜の満開の時期に、淡路島で4日間を過ごした。目的は、3つあった。
① 古事記のおのころ島に滞在すること
② 鳴門の渦潮を船からみること
③ 今は、リゾートの島となっている現状を、少し体験すること

・往復については、
往路;無料航空券で、羽田から伊丹空港へ
 そこから、淡路島の中心の洲本バスセンター行きの高速バスで、ホテルまで直行
帰路;ホテルから新幹線の新神戸までの直通バス
 そこから、新幹線で東京へ戻る

・大日程
 第1日目;洲本の街歩き
 第2日目;レンタカーで駆け巡る
 第3日目;路線バスの旅
 第4日目;3日夜までに決める

・第3日目の詳細

 昨日は終日レンタカーの旅だったが、今日は路線バスの旅の日。目的は鳴門の渦潮なので、洲本から福良までの約1時間半のバス旅になる。幸い、1時間に一本の割合で走っているので、時刻を気にすることはない。
 渦潮の見学には、日にちと時刻の両方を選ばなければならない。60年前の高校の修学旅行では、せっかくの観潮船だったが、渦は全く見ることができなかった。

 先ずは、大潮の日かどうかで、今日は「春の大潮」だそうで、大潮の中でも満潮の潮位が高い。次に時刻なのだが、これは淡路島の南端が満潮になってから6時間後が最高のようである。そのことは、船内でのパネルで分かったので、後に説明をする。

 洲本バスセンター発は8:53に決めた。福良到着は10:16。約30分後に出港の船が、そのタイミングになることは、ネットで調べるとすぐに分かる。30分は、売店を物色するには丁度良い。



 乗船券は、予約が原則のようだが、大型船なので、当日でも心配は無い。ダメならば、次の便でも良い。



 乗船すると、出航前に頭からすっぽりかぶる雨カッパの着装をする。今日は、風も強いそうで必須だそうだ。出港時には、消防用ホースからの盛大な見送りがあった。鳴門海峡までは30分ほどかかるが、説明が途切れなく続くので、船内を探検する時間も無いほどだった。
 甲板には、貴賓室もあるのだが、一番下のパネルとDVD映写が面白かった。特に、鳴門海峡だけに渦潮ができるのが、淡路島の大きさが関係していることは、発見だった。最大で、高さ1.5メートルの海の滝ができるのだ。




 どこを航行中かも、パネルからリアルタイムで分かる。ついでに鳴門海峡は、両側から飛び出す長い砂州の為に、絞り効果で中央部が余計に加速されることも、この地図から納得が行く。その場考学的には、良い発見だった。



 
 渦潮は、どこにできるか全く予想がつかない。しかも、できるとすぐに消えてしまうので、デジカメで瞬間を捉えるのは至難だった。おまけに、風が予想外に強い。しかし、何度かトライするうちに、渦の発生の前兆が分かるようになり、なんとか連続でもなく、Videoではなく、一枚の写真を撮るこつを覚えた。






橋の下を通過の際には、橋の上からの見学者と手を振り合う。



 下船後に、ターミナル内のレストランで昼食をとった。あたりに海鮮丼の店がいくつかあるが、ここからだと次に出向する船を見ることができる。
 注文したのは、「しゃきしゃき七色丼」で、お米が淡路島の形をしていた。




 昼食後には、すぐ目の前の「淡路人形座」で、伝統芸能の人形浄瑠璃を楽しむことで、切符を購入後、開演時刻までの約1時間は町内散歩を楽しんだ。幸い、自焙煎のコーヒーを飲ませてくれる店があり、コーヒー談義も聞かせてもらった。






 場内には、各種説明のパネルや人形が置いてあり、勉強になる。「おひねり」を推奨する為の、説明書と包むための紙まで置いてある。商売熱心だ。開演前の説明も、かなり念入りに行われた。演題は、最も有名な場面で、よく分かった。






洲本への帰りの路線バスも、最終便が19時なので、ゆっくりとあたりを満喫することだできる。
路線バスの旅も、熊本の絵画古墳巡りで味を占めて、地方ではよく利用するようになった。
 


ジェットエンジンの技術(14 )第17章 第1世代(1960年代)の民間航空機用エンジン

2024年05月11日 08時42分52秒 | メタエンジニアリングのすすめ
ジェットエンジンの技術(14)
第17章 第1世代(1960年代)の民間航空機用エンジン

 この10年間は、民間航空機の第1世代と言われるように、大型航空機による国際間ルートが完成し、それに応じた機体が次々に開発されてエンジンの需要も急増した。一例としてボーイングの航空機の種類と型式証明の時期、及び搭載エンジン名は以下の通り。
 B707-120B 1961.3 JT3D-1  
 B707-138B 1961.7 JT3D-1  
 B707-400 1962.2 Conway Mk508
 B707-300B 1962.5 JT3D-3   
 B707-320B 1963.4 JT3D-3B  
 B720 1960.6 JT3 C-7
 B720B 1961.3 JT3D-1   
 B727 1966.1 JT8D-1   
 B727-200 1967.11 JT8D-17
 B737-100 1967.12 JT8D-7   
 B737-200 1967.12 JT8D-9
 B747-100 1969.12 JT9D-7A

 このリストから分かることは、機体の仕様が変わるたびに、エンジンの派生型が搭載されてゆくということで、このことが新規のエンジン開発における重要事項になっている。つまり、新規に開発される機体が、将来どのような方向に改造されてゆくかの見極めである。それらは、長距離型、短距離型、長胴型などが考えられる。
長距離型への変更は、乗客数を減らして、その分燃料搭載量を増やし、エンジンを増強すればよい。短距離型は、逆に燃料搭載量を減らして、乗客数を増やす。離着陸回数が数倍になるので、エンジンは低サイクル疲労寿命を長く設定しなければならない。長胴型は、単に乗客数を増やすためで、エンジンは出力を大幅に増やす必要がある。このような派生型のエンジンを、将来のエアラインの要求に従って、比較的軽度の設計変更で可能にすることは、当初の基本設計段階で盛り込んでおかなければならない。さらに、このようなエンジン全体の構想設計に属するノウハウは、繰り返し新規のエンジンを開発する組織の内部にのみ、系統化され伝承される。当然ながら、これに相当するダグラス社とロッキード社の旅客機も就航し、競争はますます激しくなった。そのことは次の第18章で述べる。エンジンに関しては、この時期は低バイパスエンジンの開発と実用化が進み、更にバイパス比を高めた、高バイパスエンジンの開発が競われ始めた。

17.1 ターボジェットからターボファンへ

 1959年、ボーイング707と720用の発注が開始された。初期のB707はJT3C ターボジェットエンジンを搭載していたが、騒音が大きく燃費も悪かった。そのため、経済性を求めるエアラインからはより高性能なターボファンエンジンの登場が望まれていた。1961年3月、JT3D搭載のB707-123とB720は、アメリカン航空で同日に運行を開始した。しかし、次に開発されたB707-300シリーズは、JT3D ターボファンのみの注文だった。

 JT3Dエンジン・シリーズの改良が進み、熱サイクルの圧力比の向上、遷音速ファンの採用などで推力と燃料消費率が向上し、同じ機体でもより長距離の運航が可能になった。
 B707-320にJT3D-3B型を搭載したのが-320Bである。ターボファン化により燃費が大幅に向上し航続距離が伸びたため、東京-モスクワ間ノンストップ飛行や、偏西風などの天候条件が揃い搭載量の制限を行えば太平洋無着陸飛行も可能になった。


図17.1 初期のJAL所有のエンジンの比較
(JALのパネルを基に筆者が作成)

 JT3Dエンジンの改良が進む中で、短中距離旅客機用のより小型のJT8Dエンジン・シリーズの開発が始められた。この際の設計の基本方針は、堅牢で信頼性が高いことであった。
B727にあわせて1964年にJT8D-1が型式承認を得た。このエンジンは、その後推力を12,250-21,000 ポンドまで幅広く広げ、B727、B737、DC-9にも搭載された。350社のエアラインで採用され、総生産台数は14600台で総運転時間は15億時間に達した。草創期のターボファンエンジンでは比類なき製造数を誇れたのは、基本設計が後の推力の増減のための派生型エンジンに適したからであった。このエンジンの存在も、このような基本方針が後の新型エンジンの開発設計時の重要事項として引き継がれてゆくことになった。

 この期間の後半は、いわゆるジャンボ機の開発競争であった。エンジンの大型化と信頼性の向上により、主要エアラインはこぞって機体の大型化による旅客コストの削減を求めた。エアラインの直接運航費は燃料である石油の値段の乱高下により大きく変動する。燃料費が全体の50%以上を占める期間もたびたび出現する。エアラインが求めるのは、「シート・マイル・コスト」と呼ばれる旅客一人を1マイル運ぶためのコストになる。ジャンボ機はこの点で圧倒的に有利になる。このことが1970年当初から始まると考えた機体会社とエンジン会社は、こぞって高バイパス・エンジンの研究を始めた。
当初それは軍用機用のエンジンからの転用であった。現在もそうであるが、新規エンジンの研究と開発費の総額は、計画通りの生産台数でも総合収支の回復には10~20年を要する。従って、特に欧米では新規のエンジン開発は軍用機用エンジンの開発費で行い、それを後に民間機用エンジンに改良する手法が採られた。

 米軍の大型輸送機CX-X計画は1963年後半に始まり、搭載エンジン4発、総重量249トン、積載量81.6トン、巡行マッハ0.75の条件が示された。積載量を乗客数に換算すれば、例えば荷物を含めて一人100kgとすると800人が可能となる。この仕様に対して、ロッキード社、ボーイング社、ダグラス社、マーティン社、ジェネラル・ダイナミクス社がこの提案に応えた。
この大型機のエンジンに関しては、最大推力が18トンの高バイパス・ターボファンエンジンの開発が必要となり、P&WとGEが開発競争を行った。例えば、JT3D-5Aのファンの直径1.3m、バイパス比1.4、最大推力9.5トンであり、それに対して、高バイパス比のJT9D-1は直径2.36m、バイパス比は5、最大推力は18.6トンとなる。ファンの直径を、ほぼ2倍にする設計が必要であった。

 この米軍の大型輸送機C5Aは、ロッキード社に開発が委ねられることに決定された。エンジンは、GEのTF39であった。敗れたボーイングとP&Wは、この開発の技術を民間機用に向け、B747の機体とエンジンの開発に注力することになった。JT9Dエンジン・シリーズの開発は、このために始められ、1966年に地上運転を開始して、1968年には米軍機のB52を改造したFTB(フライインング・テストベッド)による空中試験飛行が行われた。そして、1969年2月にB747の初号機の初飛行が行われた。さらに、パンアメリカン航空による初の商業飛行が1970年1月に行われた。このような、順調な機体とエンジンの同時開発は、現代の技術をもってしても、なかなかできるものではない。当時の軍用機用の研究と開発が、いかに入念に行われていたかの証である。B747の機体は、その後様々な改良とエンジンの換装が行われ、Boeingによる製造は2020年現在続けられている。

 高バイパス・ターボファンエンジンでは、ファンの入口径が巨大になるので、ファンブレードには鳥などの衝突に耐えられるだけの強度と軽量化が同時に必要になる。そこでP&Wは、ファンブレードの素材にチタン合金を用いて、軽量化と強度の両立を図った。一方で、RRは複合材を用いたブレードで開発を進め、最後の鳥打ち込み試験(この試験は、エンジン全体の試作が完了し、最大回転数の試験が終了してから行われる)に失敗し、機体会社への納入遅れのために倒産して、その後長期間にわたって国営会社(RR1971)となってしまった。
GEがCX-X計画に提案してロッキードの機体と共に競争に勝利したのはTE39エンジンで、バイパス比は8、圧縮比は25、タービン翼の冷却設計によって1370℃という温度を達成したことであった。TE39の初号機は1965年に試運転し、大型の軍用輸送機C-5Aは1968年に初飛行を行った。その後、このエンジンは民間機用にCF6として改造され、マクドネル・ダグラス DC-10とB747の代替え用エンジンに選ばれた。
高バイパスターボファンエンジンは熱力学的な効率が大幅に向上し、燃料消費率を一気に25%以上改善することができた。また43,000lb(約19.5t)の推力はジャンボジェット機の長距離飛行を可能にした。B747の初の定期運航路はニューヨーク―ロンドン間であった。

 私は、その後GEとPWAの両社の研究部門とも付き合うことになったのだが、GEは熱力学と材料の開発を伴った高温化技術に優れ、PWA社は流体力学と高負荷タービンの開発に熱心であったと記憶している。この時期の開発競争の余韻とも思える。

17.2 J3エンジンの開発と実用化

 国産ジェットエンジンの開発が国内に定着した歴史には紆余曲折があった。1955.2年にGHQによる航空禁止が一部解除され、日本企業による航空機製造が再開されたが、空白の7年間で世界のエンジン技術は格段の進歩を遂げており、単独企業の独力では開発が不可能な状態になっていた。通商産業省(現経済産業省)は、1952年11月に「航空機製造法」が施行された後、翌年6月に航空機生産審議会において「ジェットエンジン試作研究に関する特別措置」を公表して、試作するメーカーには助成金を出すとして募集を開始した。

 最初に名乗りをあげたのは、元中島のエンジン部門を引き継いだ富士重工系の会社で、助成金320万円を受け、1954年に「JO-1」を完成させた。しかし、これは実用には程遠いものであった。そこで、石川島播磨、富士重工、富士精密、新三菱の4社が共同出資して資本金1億6千万円の日本ジェットエンジン株式会社(NJE)を設立した。しかし、通産省は欧米のあまりに進んだエンジン技術を見るにつけ弱気になり、予算は縮小していった。アメリカ製エンジンのライセンス生産のほうが、開発費もかからずに、早期に技術を取得できるのではないかとの考えが主流となっていった。
 
そのような中で、日本初のジェット練習機であるT-1は、搭載するターボジェットエンジンもまた国産品であることが決定し、1956年にNJEと防衛庁でエンジン試作の契約が成立した。しかし、開発は困難を極めて、次第に全ての会社がエンジン開発ビジネスに消極的になっていった。
 その中にあって、ただ一社というよりはただ一人敢然と継続にチャレンジした人がいた。有名な土光敏夫である。1957年に石川島重工業が武蔵野の中島飛行機のエンジン工場の跡地に、ジェットエンジン専門工場としての田無工場を開設した。その時の逸話はこのようなものであった。
 『終戦の翌年である1946年に石川島重工業の社長となった土光はその後、東芝の再建や、国鉄の民営化に道を開いた80年代の行財政改革などで剛腕を振るった。ただ日本の産業史に残る最も輝かしい業績は、航空機エンジン産業を興したことだろう。重工大手各社が投資リスクの大きさゆえ、尻込みする中で、1957年に東京・田無工場を開設し、本格参入した。 その際、土光は全社幹部を集めた決起集会で、自らのあだ名通りの「怒号」を飛ばした。「焦土となった日本が工業立国として復活するには、最も難しい航空機エンジンに挑戦するしかない。そこで成功しなければ、日本の工業輸出品は世界で認められない」と。 そして、「航空機エンジンに社運を賭ける」と宣言し、壇上の机を思い切り殴りつけた。土光の拳は血に染まった。』(文献14章の(13)より引用)

 この発言が無ければ、現在の日本のジェットエンジン・ビジネスは存在しなかったとも云えるほどの発言であったと云われている。この時点で他の4社はJ3に見切りをつけ、ジェットエンジンから手を引くことになり、以降現在まで防衛庁関連のターボジェットエンジンの開発はIHIがほぼ独占的に行うことが続いている。

 この間に国産エンジンは中級ジェット練習機の初飛行には間に合わず、ブリストル・オルフュースのMk805を搭載したT1-1ジェット練習機が生産されることになり、1960年に初飛行が行われた。J3エンジンは、量産第一期の20機と第二期の20機に間に合わず、第三期の20機でようやく量産化できる見込みとなった。しかし、航空自衛隊の教導飛行方針が変更され、機体の配備数を削減することから、第三期分の20機で生産終了した。

 なお、上記のIHI田無工場は、その後も国内最大のジェットエンジンの生産工場であったが、周辺の市街地化により2007年に福島県相馬市に移転した。その後、跡地の一部は公園となり、「ジェットエンジンのふる里」という名の記念碑が建てられており、毎年OB会が清掃を行っている。


 図6.2ジェットエンジンのふる里の記念碑 (IHI提供)

コラム;Boeing機がレシプロからジェットエンジンへの大転換を図った時の秘話(8)

 1960年代から現在まで、夥しい数の経営指南書が発行された。その中にあって、T.J.ピーターズとR.H.ウオ-タマンの著書、「エクセレント・カンパニー」講談社(1983)は、その題名と共に有名になった。その冒頭の「序」の中に、次の終戦直後のボーイングの話が出てくる。 
 
 エクセレント・カンパニーの基本はプロダクト・チャンピオンと称する自分の信念に基づいて突っ走る従業員の実話が中心なのだが、それについてのボーイングの幹部との話が紹介されている。
 
 終戦直後に、「そのチャンビオンたちがいすぎて困ってるくらいなんだ」との話しは、次の事実を語っていた。ボーイングがいかにして後退翼型のBoieing707で民間航空機では最初の大成功を収めたかと、当初ターボプロップ型B-52のジェット機化としての利点を証明した時の裏話だった。
 
 それは、ボーイングの技術者の一群が、終戦直後にドィツ軍の技術者の部屋に侵入して、ファイルを必死になってあさっている光景であった。そこから彼らは、ナチスドイツが後退翼型航空機に多くの利点があることを認めていた事実をつかみ、シアトルに戻って直ちに風洞を使った実験を行い、後退翼型機の基本形状を決めた。彼らはB-52の設計を最初から完全にやり直し、膨大な提案書をまとめて空軍に提出した、とある。 (p.12-13を参考)
 
 この逸話からも分かることは、このように、他国の技術者の個人的なファイルを丸ごと持ち出して、そこから次の技術開発を始めるということは、やはりエンジンの進化の系統化はまさに、ヒトからヒトへということだと考えられる、この場合は、敵対した戦争当事者間の系統化であった。


その場でメタエンジニアリング(その1)その場で進化思考 

2024年02月22日 11時12分13秒 | メタエンジニアリングのすすめ
その場でメタエンジニアリング(その1)            
 定年退職後の10年間は、どっぷりとメタエンジニアリングに嵌まってしまった。その結果、最近のその場考学では、「その場でメタエンジニアリング思考」が習慣となってしまった。そのいくつかを紹介してゆこうと思う。

題名;その場で進化思考

 太刀川英輔著「進化思考-生き残るコンセプトをつくる」(2021)は、現代人がイノベーションを創出する能力を備えているのは、生物学的な進化論から説明できるという。これは、まさにエンジニアリングに関するメタ認知だと思う。
そこで、少し引用しながらメタエンジニアリング思考を試みる。

① 優れたデザイン(創造)の定義
・関係性こそが良いデザインの本質にある (p.12)
・創造とは、人とモノとの新たな関係性を生み出すこと
・人類の創造は、あらゆる分野の専門分化によって矮小化した (p.13)

② 創造は進化を模倣している
「疑似進化能力」;身体の一部を進化させるために道具がつくられた 
 (例)目=顕微鏡、望遠鏡、声=拡声器、消化器官=調理法、冷蔵庫、足=靴、乗り物

③ 創造とは、言語によって発現した「疑似進化」の能力である (p.48)


これらのことをメタエンジニアリング的に拡張解釈すると、以下になる。

・ヒトによる創造は、エンジニアリングにより発現した人類の生存能力の進化である。
 一般に、動物の進化とは、生存競争に勝つために、そのための必要能力を高める方向に進化してゆく。ところが、ヒト以外の動物は、エンジニアリングの能力が無いために、自分自身の体の一部を進化させなければならない。これには、膨大な時間を要する。しかし、人類はエンジニアリングという能力を身につけたために、その創造物によって、疑似進化をすることが可能になった。

・眼の進化;敵を素早く発見するために、動物の目は進化をした。しかし、人類は顕微鏡や双眼鏡により、小さな物や遠くの物を発見できるようになった。

・声の進化;遠くの仲間に危険を知らせるために、また、敵を威嚇するために、動物は独特の発声をする。そして、その発声を明確かつ大きくするように進化してきた。しかし、人類は拡声器により、その進化を獲得した。

・消化器官の進化;動物は、自身の体がより強固になるような消化器官を進化させてきた。人類は、それと同等な進化を調理法の開発や、冷蔵庫を創造することで、短期間に進化させることができた。

・足の進化;動物は、敵から逃げるため、または敵を捕らえるために足の能力を進化させてきた。人類は、様々な乗り物を発明して、その能力を獲得した。また、悪路を長時間移動する必要のある動物の足の裏は進化させてきたが、人類は靴を発明して、その能力を獲得した。

 このように考えてゆくと、「ヒトによる創造は、エンジニアリングにより発現した人類の種としての生存能力の進化である」から「ヒトによる創造は生物の進化そのもの」との結論になる。

・進化の速度と、絶滅に至る速度の関係
 
 他の動物に比べて、進化のスピードが極端に早いということは、絶滅までの期間が短く、かつ絶滅に要する時間も短くなると云うことになるであろう。
 このような懸念は、21世紀になってからの多くのイノベーションにあてはまるように思う。上にあげたヒトの諸器官の疑似進化は確かに「生物としての進化」と呼べる物だが、例えば、様々なSNSやチャットGTP等は、生物の進化というよりは、生物としての退化のように思えるからである。
このようなことを、いかにして克服するかが、メタエンジニアリングの主題の一つになる。

メタエンジニアリングのちから(第1回)

2020年07月13日 15時40分12秒 | メタエンジニアリングのすすめ
はじめに

 エンジニアリングには強い力がある。20世紀最大の哲学者といわれるマルチン・ハイデガーは、原爆製造の事実を目の当たりにして、俄かに技術論の講演を各地で始めた。その内容と趣旨は、次のようなものだった。人間は、地球上にあるもののすべてを掘り出し、かき集め、自分たちに役立つモノを作ろうとする。その行動は、何者にも止めることはできない強力な力によるもので、これからの人類を支配してゆく。

 この「何者にも止めることはできない強力な力」というのは、全生物の中で,ヒト科だけが持っている能力で、「よりよく生きようとする」本能なのだから、いかんともしがたい。ハイデガーは哲学者として、そのことを言いたかったのだと思う。
 その証拠に、現代はイノベーション時代といえるほど、イノベーションがもてはやされている。その一つ一つが、人類の文明をどのように変えてゆくのか、分からないままに、とにかく進み続けてゆく。そのエンジニアリングに、接頭語の「メタ」が付くと、どうなるのだろうか。それが本書の狙いとなっている。「メタ」は、一般的には、一つ上の次元を示している。エンジニアリングの一つ上の次元は何であろうか。
 
 「メタ」に関する具体例を二つ挙げて、理解を深めていただこうと思う。一つは古代ギリシャ、もう一つは現代の企業の話になる。
 古代ギリシャのアリストテレスは、万学の祖と云われている。彼は、ありとあらゆる自然を詳しく研究した。彼の全集には、動物、植物、人間、自然現象、社会現象など、ありとあらゆるものが取り上げられている。それは「自然学」、英語ではPhysicsと命名されている。彼の死後、それらのおおもとを追求しようとした部分が改めて纏められた。当時の命名は「自然学の後から来るものども」というのだが、英語ではMetaphysicsと呼ばれている。日本語では形而上学なのだが、この日本語は、分かりにくい。
 
 現代の企業の話では、このような著書が発行されている。菊澤研宗著「ダイナミック・ケイパビリティの経営学―成功する日本企業には共通の本質がある」朝日新聞出版[2019] 
 内容は、企業が一皮むけるためには、「ダイナミック・ケイパビリティ」が必要で、通常業務の「オーディナリー・ケイパビリティ」とは、一つ上の次元で考えて行動しなければならない、というものだが、そこから引用する。
 『人間の言語機能には、「叙述する機能」と「論証する機能」があるという。叙述機能とは現実世界を説明したり、記述したり、まさに実在を叙述する言語の役割のことである。これに対して、論証機能とは、現実世界に関する記述や叙述や説明が正しいのかどうかを論証する言語の役割のことである。これら2つの言語機能には階層があり、明らかにより低次の機能は叙述機能であり、より高次の機能が論証機能となる。そして、現実を叙述する言語を「対象言語」と呼び、現実の実在世界と対象言語との関係(真偽)について論証するより高次の言語を「メタ言語」と呼ぶ。その関係は、対象言語(叙述機能)がメタ言語(論証機能)によって柔軟な形で制御されるという関係にある。』(pp.232)
 ここで、「現実を叙述する機能」を通常のエンジニアリングと考えると、「論証する機能」は、まさにメタエンジニアリングにそうとうすることになる。つまり、この「現実世界に関する記述や叙述や説明が正しいのかどうかを論証する言語の役割のこと」が、まさに、エンジニアリングとメタエンジニアリングの関係を表していると思う。マルチン・ハイデガーが云うところの暴走するエンジニアリングに対して、一つ上の次元で正しいかどうかの論証を加えることが、メタエンジニアリングの第一義と思われるのです。

 このシリーズ「メタエンジニアリングのちから」の構成は、つぎのように考えている。
 第1章では、人類の文明史の中では、常にエンジニアリングが次の文明への導きをしたことを中心に、人類社会における歴史的なエンジニアリングの力を説明する。
 第2章では、その結果が現在なのだが、現代の多くの解決困難な問題は、過去のエンジニアリングが創りだしたことを述べる。
 第3章では、それらを解決してゆくのが、メタエンジニアリングのちからでることを説明する。
 第4章では、それらの力が何故メタエンジニアリングに備わっているのか、その中身を解明してゆく。
 第5章では、色々な場でのメタエンジニアリングの実践について述べる。
 最後に、この著作を始めるにあたっては、8年間に及ぶ日本経済大学大学院メタエンジニアリング研究所と、その後に開設されたメタエンジニアリング研究所における研究成果を多く取り入れた。研究所の仲間諸君に謝意を表します。
                                      その場考学研究所 勝又一郎

科学・メタエンジニアリング・工学(7) 第2章 現代科学が生まれたとき(その2)

2016年03月20日 09時27分22秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第2章 現代科学が生まれたとき(その2)

2 自然科学と非自然科学の関係の変化


 欧州の学問体系は、キリスト教信仰のために長い中世を経験した。そして、ベーコン、デカルト、ニュートンなどにより変化が始まったが、自然科学の哲学からの分離は、彼ら以降さらに一世紀を要した。つまり、自然科学と人文科学の分離が起こったのは、19世紀後半で、この書の発行された1901年でさえも、上記のような状態だった。それが僅か100年足らずで完全に分離をして、お互いが結合どころか、疎遠になってしまった。

 当時は、人文科学にのみ実生活への価値が認められていたわけで、その突然の価値観の逆転は、第一次、第二次世界大戦の結果であると考えてみたい。つまり、当時の自然科学を駆使して開発をした兵器なしでは、何れの国も勝利をおさめることが出来ず、航空機に始まり、遂には原子爆弾まで実用化をしてしまった。そこで、哲学までもが、かのハイデッガーの名言通りに、「技術が世界を支配することになってしまった」と主張し始めた。
しかし、この価値観の未来はいかにも危険すぎる。やはり、自然科学は、価値の如何に拘わらず、自然の中の普遍性をありのままに理解するためのものであり、社会への価値は文化科学が生みだすものと理解した方が、地球と人類の持続的文明にとっては良いように思われる。そのことは、自然科学が生みだしたものであっても、その社会への価値判断は文化科学にゆだねられるべきとの結論になる。

 個性化的なものを一般的に記述することは、現代の自然科学の得意分野なのだが、彼の時代には未だ明確でなかったのかもしれない。当時は、科学に対する価値観の違いが現代とは真逆で、私は当時の文化科学と自然科学の価値観を支持する立場にある。そこに、新たなメタエンジニアリングという概念の価値を見出そうとも考えている。すなわち、「メタ」という感覚から、自然科学と非自然科学の関係を見直して、分離から再び統合の方向への変化を期待するものである。現代の唯物文明から抜け出す手段は、そのことによってのみ可能性が出てくるのではないだろうか。

3 百学連環からの逸脱

 Encyclopediaの訳語は、百学連環から百科事典になってしまった。
西周(にし あまね)が、Encyclopediaを訳した「百学連環」は、総ての学(Science)と術(Art)の連環が総体的・体系的に説かれた書と云われている。古代ギリシャの自然学も、古代ローマのリベラルアーツも科学と芸術と技術は一体であった。レオナルドダビンチまでは、全ては一つの個の中で連環をもって統合されており、そこから後世に残る優れたものが次々に生まれてきたと思う。
 連環の輪が怪しくなってきたのは、宗教戦争と産業革命であろう。つまり、近代科学による工業化が問題だった。だとするならば、工業化から知的社会文明に移る際には、又元の連環に戻ることが必要であるようにも思う。

「科学と技術」日本近代思想体系(14)、岩波書店(1989)には、実に興味深い話が多く書かれている。メタエンジニアリングの研究には欠かせない著書のひとつであろう。
 その中の第1は、西周の「百学連環」である。西は日本初の哲学者と云われるが、啓蒙家、官僚などの側面もある。最も大事なことは1862年から3年間オランダに留学し、当時の西洋科学と哲学を基礎から学び、多くの科学と技術に関する英語の日本語訳をつくったことであろう。その意味では、日本初のメタエンジニアリング者とも云える。

 Wikipediaには、次のような記述がある。
『西 周 (にし あまね、文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日) は江戸時代後期から明治時代初期の幕臣、官僚、啓蒙思想家、教育者。貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。勲一等瑞宝章(1897年)。
 西洋語の「philosophy」を音訳でなく翻訳語(和製漢語)として「希哲学」という言葉を創ったほか、「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」など多くの哲学・科学関係の言葉は西の考案した訳語である。上記のように漢字の熟語を多数作った一方ではかな漢字廃止論を唱え、明治7年(1874年)、『明六雑誌』創刊号に、『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』を掲載した。著書に『百学連環』、『百一新論』、『致知啓蒙』など。森鷗外は系譜上、親族として扱われるが、鷗外の母方の祖父母及び父が養子であったため血のつながりはない。なを、出生地については次の記述があるので、津和野では是非拠ってみたいところだ。
 石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鷗外の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだという蔵が保存されている。』


「百学連環」は、彼の京都の私塾で明治3年から教えられたことを、彼の死後に纏められたものと云われているが、総論は30頁弱で比較的読みやすい文章で書かれており、随所に英語が出るが、いちいち逐語訳が付いている。つまり、この単語ごとの正確を期した翻訳が新語を生み出したと云うことなのだ。



彼は、英国のEncyclopediaを熟読し、そこから色々な知識を得たようだが、その語源をギリシャ語に求めて、「童子を輪の中に入れて教育なすとの意なり」としている。
英語ではきちんとした語源が保たれているが、日本語はさっさと「連環」の語を捨ててしまい、「辞典」にしてしまった。そこで、百学分立が盛んになってしまったと考えられる。

 この書物は、1989年に発行されたのだが、巻末の解説を記した飯田賢一の文は「日本における近代科学技術思想の形成」と題して、次の記述がある。
『明治15年に「理学協会雑誌」が発刊され、当時は「理学」はいまの科学・技術分野全体の総称でもあった。(中略)佐久間象山以来の技術=芸術という受け止め方は、「工業大辞書」完結の大正初期のころまでなおひきつがれていたことになる。(中略)総じて、明治時代を通じ、人間がものをつくる生産技術にあっては、芸術と同じく手工的な技(わざ)や巧(たくみ)が肝心なものと受けとめられていたのに対し大正デモクラシー期の国際交流の高まりの中で、科学(理論)と技術(実践)との結びつきが促進され、生産技術は自然科学の応用(applied science)という考えが、急速に普及・定着しはじめた、といって差支えあるまい。』
 この文は、その後「日本科学技術思想史の特質」、「技術文化史の三段階」と続くのだが、ここでは省略する。



「百学連環」と云う言葉は、実は復活をしていた。2007年に日本書籍出版協会と日本雑誌協会が共同で纏めた、「百学連環 - 百科事典と博物図鑑の饗宴」凸版印刷 印刷博物館発行(2007)である。その年に行われた展覧会の記念本なのだが、日本工学アカデミーの「根本的エンジニアリング」や「メタエンジニアリング」とほぼ同じ時期に突然に復活したことは、必然的な関連を感じる。
 
 冒頭の「ご挨拶」は、こんな言葉で始まっている。『「百学連環」という素晴らしい言葉がありました。百にもおよぶ学知は、ひとつの環をなして連なっている、そんな理想を表現しています。明治の文明開化をになった知識人、西周の造語であり、エンサイクロペディアの邦訳語ということです。』

(以下は次号にて)

メタエンジニアリングのすすめ 第15話の6

2016年03月14日 13時05分36秒 | メタエンジニアリングのすすめ
科学・メタエンジニアリング・工学(6)

第2章 現代科学が生まれたとき(その1)
 
1 哲学からの分離

 人類が、将来にわたって科学を捨て去ることは無い。しかし、英国の産業革命に始まる現代の科学文明は、完全に唯物文明に変質してしまっている。当然のことながら、科学は物質だけのものではない。自然科学と人文科学とがあるように、物質と精神を同等に組み合わせた文明があるはずで、それが次の文明と考えられている。文明と文化の「文」は、宇宙の屋根(一)、その下に魂と物をX字に結ぶとも云われている。

・精神文明と物質文明、あるいは文化科学と自然科学



 精神文明と物質文明を十字に結ぶと本当の科学文明ができあがる。かつて、産業革命が佳境を迎えて、哲学から自然科学が完全に分離した時を迎えて、ドイツの哲学者ハインリッヒ・リッケルト[1939]は、「文化科学と自然科学」の中で、このように科学を定義していた。 
 『勿論科学の「統一性」は決して科学の全部門の一様性であってはならぬ。何となれば、あたかも世界が多様であるように、科学も多様な目標を立て、それに到達すべき種々の方法を完成するときに初めて此の世界の各部分を全部抱合することができるからである。(中略)科学の最上の統一はむしろ、多くの多様な部門を結合してそれ自身に完全な「有機體」とする統一であろう。この方向に本著の趣旨もまた動いているのであって、この意図から本著は理解されなければならぬ。』(pp.10)
 この文章は、哲学者の文章で多少分かりにくいのだが、考え方がメタエンジニアリングに通じる。つまり、哲学が多くの学問に分化して、大きく分けて自然科学と非自然科学に分かれたのちに、その包含する範囲と区別を明確にして、人間社会にとってそれぞれどのような結合により真に役立つものになるかといった問題を解こうとしている。彼は、非自然科学の代表を「歴史学」(つまり、人間の社会に現実に起こったこと)に置いている。しかし、各々の具体的な歴史は特殊であり、自然科学の目指す一般化とどのように結合するかを考えていたと思われる。

 この本との出会いは,「科学の本100冊」村上陽一郎[2015]だった。図書館の新刊本の棚で見つけて、読み始めた。1番目はアインシュタインの「自伝ノート」、簡潔にまとめられていて、ついつい読んでしまう。村上氏自身の科学知識の源を辿ることにもなるので大いに勉強になる、お勧め本だった。「文化科学と自然科学」[1939]は、第86番目。題名もさることながら、『この本の中のいくつかの項目で、私は、現在のような意味での「科学(自然科学)は、十九世紀ヨーロッパに誕生した、という意味のことをのべています。』以下、興味深い文章が続くので、もとの本をどうしても読みたくなった。
 1939年発行だが、岩波文庫の青帯本なので、何とかなるだろう。早速、世田谷区の図書館で検索したが、「なし」。次は、Book Offだが、これもNG。最後の手段はAmazonで、古本が8冊見つかった。値段が面白い。最安値は¥580で手ごろだが、次が¥3000付近に3冊、最後の2冊は何と¥18,900とある。貴重本は高値が多いが、これほどのバラツキは珍しい。早速に最安値を注文した。ちなみに、入手した第2刷の定価は、四十銭であった。勿論、横書きは右から左で旧漢字と旧仮名使いだった。引用は現用漢字と、一部を除き新仮名使いに改めた。

 冒頭の第6,7版の序には次のようにある。この記述を通じて、彼の論理が当時の様々な学者によって異論が出され、そのたびに彼が内容を見直し、改訂版を発行し続けたことがわかる。
 『本書のこの新版は、第3版(1915年)及び第4,5版(1921年)に対してと同様、ていねいに校閲せられ、若干の補遣が加えられている。(中略)それはこの、ロシア語、スペイン語及び日本語の翻訳さえ出ている小冊子に、どこまでも入門書としての特色を残さねばならなかった以上、是非もないことである。』(pp.8)

 科学に対する現代の価値観との違いが鮮明で、私は当時の文化科学と自然科学の価値観を支持する立場にある。正に、メタエンジニアリングだと感じたからである。本文を引用する。

 『私はむしろ、もし科学が文化生活の内実をあらゆる点で公平に取扱うと思うならば、文化生活は(その内容の特殊性のために)単に一般的にばかりではなく、個性化的にも(つまり歴史的にも)叙述されねばならぬといふ、その理由を示そうとするものである。そこからやがて個性化的手続きと価値関係的手続きとの必然的結合に対する洞察が生じてくる。』(pp.12)

 彼は、「非自然科学」を「文化科学」と命名した。現在の人文・社会科学であろう。そして、『文化科学の基礎が価値であるといふことは、多くの人には多分、もう殆ど「自明」のことと思われている。』(pp.16)と断言をしている。つまり、当時の自然科学は、自然をありのままに見つめるものであり、まだ社会に対して直接に価値を生み出すものとは考えられていなかった。

 彼は、「文化科学と自然科学の課題」として、次のように述べている。
 『非自然科学的な経験的諸学科の共通関心・課題及び方法を規定して、自然研究者のそれらに対して境界区画をなし得る概念を展開するという目標である。私は文化科学という語が最もよくかかる概念の特色を示すと思う。そこで我々は、文化科学とはどういうものであり、自然研究とどういう関係に立つものであるかという問いを提出しようと思う。』(pp.23)
 また、第2章の「歴史的状況」では、次のように述べている。
 『自然科学的時代(私は勿論17世紀のことを言っているのである)の哲学は自然科学とは到底切り離せない。この哲学―デカルトなりライプニッツなりを思い起こしていただきたいーは自然科学的方法の解明に従事して、これまた成功を収めている。そして結局18世紀の末にはもう近世最大の思想家(カントを指す)が、方法論にとって決定的な自然の概念を確立し、それを物事の「不変的諸法則にしたがって規定された限りに於ける」現存在とするとともに、自然科学という最も普遍的な概念を確立して、多分それを、見極める限りの将来に対して最後的なものにしたのである。』(pp.29)

 そのような思想は、第4章の「自然と文化」に、次の文章で より明確に説明されている。
『自由に大地から生じるのは自然産物であり、人間が耕作播種したときに田畑の産するのは文化産物である。これに従えば、自然はひとりでに発生したもの「生まれたもの」及びおのれ自らの「成長」に任せられたものの総体である。文化は、価値を認められたもろもろの目的に従って行動する人間によって直接生産されたもの、或いは(もしそれが既に存在しているならば)少なくともそれに付着せる価値のゆえにわざわざ擁護されたものとして、自然に対立する。』(pp.48)であって、当時の価値観からは、自然科学自体の価値は、非自然科学のなかでのみ生まれると考えられている。さらに、「自然に対立する」は、デカルトやカントなどの西欧的な自然観を強く感じる。
 そのことは、第6章の次の言葉で明白になってくる。
 『自然科学の諸成果を現実の上に適用するということ、換言すれば、その諸成果の助けを借りて我々の環境に通じ、それを計算するどころか、技術によって支配することまでできるといふことは不思議がる必要はない。』(pp.86)
つまり、「技術」もその特殊性において、文化の一部なのだろう。こうなると、現代の工学はおおいに困ったことになるかもしれない。
また、第11章の「中間領域」では、たとえば生物の進化の科学的な検証について、自然科学なのか、歴史学なのかといった問いに対して、中間領域の存在を認めている。
 『自然科学における歴史的要素に関しては、近代では主として生物学、殊に謂わゆる系統発生的生物学が問題になる。それは周知のごとく、地球上に棲む諸生物の一回的な発生過程をその特殊性に於いて叙述せんと試みるので、そのために実際もう度々歴史的科学と称せられて来たのである。』(pp.173)
 そうすると、工学も、中間領域と云えなくもない。
ここで、「技術によって支配することまでできる」と宣言していることは、西欧型文明の不幸の始まりとも思える。

(以下は次号にて)

科学・メタエンジニアリング・工学(4)

2016年03月14日 12時48分11秒 | メタエンジニアリングのすすめ
科学・メタエンジニアリング・工学(4)

第1章 科学と工学と技術を繋ぐ(その2)

4 メタエンジニアリングの主機能

 日本工学アカデミーが2009年11月に出した提言によれば、
「社会課題と科学技術の上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す広義のエンジニアリング」を『メタエンジニアリング(英語では、上位概念であることを強調して Meta Engineering と表現)』と名付ける、である。従ってその主機能は、「俯瞰的視点からの潜在的社会課題の発掘と科学技術の結合あるいは収束を根源的に捉え直す」との命題に答えるための広義のエンジニアリングの実践ということになる。

(この項は、以前にご紹介しましたので、以降は割愛いたします。必要な方は返信を頂ければ、個別にお送りいたします。)

5.比較文明学とメタエンジニアリング

「近代世界のおける日本文明、比較文明学序説」梅棹忠夫著、中央公論新社[2000]という著書がある。国立民族学博物館で1982年から1998年まで開催された谷口国際シンポジウム文明学部門での梅棹忠夫氏の基調講演の内容が纏められているものだ。
 第10回のテーマは「技術の比較文明学」であり、その中で興味深い記述がいくつかあったので、メタエンジニアリングの研究の一部として考察を試みる。



 その前に、比較文明学について少し触れておこう。梅棹は「比較文明学というような学問領域は、純粋に知的な興味の対象になり得ても、どのような意味でも、実用的な、あるいは、実際的なものにはならないであろう」と言い切っておられる。なんと工学と対照をなす領域ではないか。文明と文化の関係についての見方は『時間的な前後関係をもつものと考えてよいのかどうか、すこし違った見方をしています。(中略)文化というものは、その全システムとしての文明のなかに生きている人間の側における、価値の体系のことである。』としている。また、システム学とシステム工学の違いを、『システム工学は目的があるけれども、システム学は必ずしも目的を持っていない。「目的なきシステム」というものもあるのではないか』と記している。メタエンジニアリングの中に、目的のないエンジニアリングを想定すると、どんなことになるのであろうか、興味が湧く。

 本論に戻る。従来の技術論の在りていに触れたあとで、『工学的な技術論では、原理や材料、性能の評価に重点が置かれております。現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点が抜けていたのではないでしょうか。』とある。技術者はそんなことは無いと否定するだろうが、確かに20世紀の技術の生産物にはそのようなものが多かったように思われる。一方で21世紀には入ってからの所謂イノベーションと評価されるものには、「現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点」が深く盛り込まれているのではないだろうか。
 続いて、日本の文明と技術に対する欧米の見方を批判した後に、日本独特の事情についての評価が続く。そこには、工学者と異なる独特の見方が存在する。

 現代日本はベンチャービジネスが不得意とされている。その為に色々な政策や方策がとられているのだが、彼の見方は違う。『日本の場合、19世紀前半までに小経営体がひじょうに発達していました。(中略)小経営体というのは藩だけではありません。旗本領、寺社領などもあります。ものすごい数です。それによって組織の運営というものがどういうものかということを200年以上にわたって経験してきた。』とある。当時の社会では同じような傾向はドイツに見られるが、その他の国々では顕著ではなかった。現代でも日本の中小企業は健在だが、江戸時期の様な地域の殖産興業にはなかなか結びつかない。これは経営論だけの問題ではなく、工学と技術の力が昔ほど旨く社会に及んでいないからではないだろうか。
 また、総合技術についても、『日本の技術がうまく展開してきた背後には、総合技術の存在があったということも重要な要素ではないかと考えております。大仏建立や道路網の建設においても、総合技術がすすんでいたのではないかとかんがえます。』
 個人主義と集団主義についての見方は、『欧米と日本では個人主義のありかたがちがうのだと考えています。(中略)欧米の個人主義は豆つぶをあつめたみたいなもの。豆と豆との間には空気しかない。日本の個人主義は粒と粒のあいだを柔軟に拘束するものがあり、全体がゲル状態になっているのではないか。個人と個人をむすびつける文化的、心理的な要素がひじょうにたくさんあるのです。』

 技術の移転については、『部分的技術の導入はできます。しかし、全体の文明システムとして運転しようとおもったら、まずできないのではないでしょうか。』と断言されている。中国は、皇帝と官僚による長いい支配体制があり、インドのカーストと女性解放問題、韓国の両班組織の問題など、基本的な社会の伝統を較べて、日本が有利であると結論している。『中国のひとは人間操縦術みたいなものにたいへん熱心です。それは中国文化全体をつらぬくひとつのプリンシプルであると思います。人倫の話です。日本は人倫のことはあまり興味を持っていないようです。物をどうするか、これが日本技術の根底にあるのではないかとおもいます。』

 技術の情報化についても示唆に富んでいる。比較文明学の見方では『差異化とか付加価値化とかいろいろな表現がありますが、それらをすべてひっくるめて「情報化」ということばでくくれるのではないでしょうか。いまや技術は必要を満足させるという話ではなくなっています。(中略)技術の芸術化、あるいは技術の自己目的化が始まっている。日本技術はそこへきております。』である。1990年代の初頭にすでにこの様に技術のゆく先を見極めておられたことには驚きを感じる。
 
以上が、比較文明学者の日本の技術についての見方だとすると、メタエンジニアリングが取り組むべきいくつかの問題が見えてくる。
① 「現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点」
② 「目的なきシステムというものもあるのではないか」
③ 「技術の芸術化が始まっている」
④ 「技術の自己目的化が始まっている」
などのキーワードになると思う。これらをメタエンジニアリング的に捉えるならば、次のようになるであろう。

① 「現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点」
⇒人文科学や社会心理学などの見方を取り込み
② 「目的なきシステムというものもあるのではないか」
⇒工学の新分野になり得るのか?形而上学的な発想との関連を想定する。
③ 「技術の芸術化が始まっている」
⇒人間国宝の工芸家は、芸術の側で優れた工学を取り入れている。その逆を考える。
④ 「技術の自己目的化が始まっている」
⇒製造分野では、多品種少量生産がとうの昔に始まっているが、工学として考えると俯瞰的とは違った側面に注目する必要がある。技術の自己とは何か。


6 地球環境問題とメタエンジニアリング 

従来型のEngineeringとMeta Engineeringの関係を、様々な視点での世の中の動きと関係づけて考える。
この発想は、某大学院から国際学級向けの特別講義を依頼されて、国際環境問題についてメタエンジニアリングの立場から考えたときに得た結論である。現在生じている国際環境問題を、従来型のエンジニアリングで解くには、余りにも広範囲・複雑・長期間であり、改善の速度が悪化の速度に追いつくことはできないであろう。従って、新たなエンジニアリングであるメタエンジニアリングが必要になる。


① 環境問題の「社会問題化」とは、環境経済学、環境社会学などの発生と、それらの緩やかな連携の段階を示す。
 
② 環境問題の「国家としての問題化」とは、社会的な問題が国家としての組織的な問題に発展したことを示す。
 
③ 環境問題の「全地球的な問題化」とは、全ての国家のそれぞれの問題が組織的な統合をされなければ、根本的な解決が望めない段階を示す。

近代は偉大な時代であり、工業化社会は優れた世の中であった、と将来の歴史は評価をするだろう。たかだか百年か二百年ほどの間に近代工業社会の文明が人類と地球のすべてを急激に変えたと云えるからである。
しかし、この評価は現代が環境問題をどのように解決するかによって大きく変わってくる。人類社会における最悪の世紀だったとの評価を受ける可能性もある。従って、文明を語るには環境問題を避けて通ることはできない。このことについてメタエンジニアリングの考え方で現時点での考えを纏めてみようと思う。ここでメタエンジニアリングは、まだ学問的に成立したわけではないので、論旨が弱いことはご容赦をお願いする。

 先ずは、普遍的なものの代表として辞典から入ることにしよう。
「環境科学大辞典」講談社(昭和55年)という大きな辞典がある。その中の用語説明ではどのようになっているのであろうか。
「環境」の項目は、『生態学的には、環境はすべての外部要因と、生物の生命と発展に影響を及ぼす種々の作用との総体である、』で始まる。また、「環境工学」は、『人類の活動はどんなものであれ、その環境に多かれ少なかれ影響を及ぼす、』で始まる。つまり環境とは、もともとは生態学の問題であり、人としての活動の全てであるということのようなのだ。
昔からよく言われた、「環境決定論」や、和辻哲郎の「風土」を思い浮かべる定義のようだ。


・環境問題の歴史的推移
 

環境問題の学問的な歴史的推移を大雑把に追ってみよう。
環境問題の歴史は、①鉱害の時代、②公害の時代、③開発と自然保護の時代、④地球環境問題の時代とに分けられている。これは、学問面での主役が、自然科学(鉱害、公害)⇒法学、経済学⇒社会学の問題へと推移してきたように見える。しかし当然、社会学のみでは環境問題は解決できない。何故ならば、現代の地球環境問題は、加害源が複合的で特定化が困難であり、加害と被害の関係が不明瞭になっているという最大の問題が存在するからである。
 そこで、再び自然科学と工学の出番になるのだが、従来の範疇を超えた、「社会学⇒新たな工学(メタエンジニアリング)」という図式が見えてくるのである。

・工学から社会学への主役の移動は、なぜ起きたのか


この主題に不満な工学者は多いと思う、しかし落ち着いて反省をしてみよう。
『世の中には数え切れないほどの学問分野がある。「なぜ」を問うものは多くない。社会学はその数少ない学問の一つである。社会は私たちに影響を与えるこうした事柄にたいして、「なぜ」という問いを発して、時には批判し、時には新たな提案を行うのが社会学という学問である。』
『環境の社会学は、私たちがこの時代に、この社会の中に生きているということの意味を問うための学である。環境を考えることは生き方を考えることである。』
これらの文は、関、中澤、丸山、田中共著「環境の社会学」有斐閣、2009の冒頭の言葉である。

以前に、「物理学はなぜを問わない。なぜ万有引力が存在するのか。なぜ相対性原理があるのかは問わない。」と書いたことがあった。工学も近代機械文明の中にあっては、WhatとHowに夢中になり、次第にWhyが軽視されてきたように思える。そこに落とし穴があったようだ。
一方でメタエンジニアリングは、学問分野を超えた根本的な「なぜ」を問い直すことを一つの手段としている。

工学から社会学への主役の移動について、なぜそうなったかを考えてみる。この著書には、『信用されなくなった専門家たちは、「科学的知識が足りない」「ゼロ・リスク症候群にかかっている」といって大衆を攻撃する。リスクについて述べる場合には、われわれはこう生きたい、という観点が入ってくるのである。リスクというのは煎じつめると価値観と文化の問題であるとの指摘が古くからある。』とある。これが、社会学から見た工学への見方になる。

 社会学での言葉に「目的移転」という表現がある。『いったん技術とか制度が安定すると、それらの手段を使って達成するはずだった目的がどこかへ行ってしまい、手段の維持をめぐる問題にエネルギーがそそがれるということになりやすい。』ということなのだ。エンジニアリングでは、手段の目的化と云えることなのだろう。実は、エンジニアリングの世界ではこのことが頻繁に起こっているのではないだろうか。目先の技術的な成果に集中してしまい、本来の大目的からそれてしまうことがしばしば見受けられる。このことは、過去の環境問題ではしばしば見受けられたことであり、社会学への傾倒の一つの原因であったように思えてくる。

一般に、リスクが見つかる度に、それを新たな科学技術によって抑え込むと云うのが、20世紀後半の社会がとってきたやり方である、と社会科学者が指摘をする。しかし、原因が地球単位で複雑化をすると、自然科学者は不確実な予測を出さざるをえなくなる。そこからエンジニアリングのジレンマが始まっているのだ。

(長くなりますので、この続きは次号にて)

メタエンジニアリングのすすめ 第15話の3

2016年03月13日 09時00分22秒 | メタエンジニアリングのすすめ
科学・メタエンジニアリング・工学(3)

第1章 科学と工学と技術を繋ぐ(その1)

1 科学と現代工学の最大問題 


 現代文明が崩壊の危機に直面しているといわれ始めて十数年が経過した。その原因の多くは、地球環境を破壊するまでに拡大した科学技術による唯物文明のグローバル化によるものと考えられている。地球温暖化による環境破壊の影響の甚大さに、世界中の全ての国で温暖化対策を実行するとの合意が、2015年12月12日にパリで開かれていたCOP21の会議で採択された。これにより、ようやく人類共通の危機感が共有されたことが証明された。ここまでに、21回もの大国際会議が必要であったことは、如何に難題であったかがうかがえる。
 その席での合意内容の重要な項目は、先進国から途上国への対策のための資金援助であった。これは、「科学と技術が問題を解決してくれる」との期待が込められている。しかし、これからの世界において、科学と技術というものが、問題を創り出すよりも多く かつ早く問題を解決してくれるという仮定は、はたして正しいと言えるであろうか。
 過去の環境破壊のスピードは、問題が発見されてから対策を講じることで、何とか破壊を免れることに成功した。フロンガスによるオゾン層破壊などは、好例であった。しかし、グローバル化と途上国の経済的発展のスピードが、過去の何れの時代よりも高速化しつつある現代において、その確信はない。新たな科学技術の創造物のImplementationは、より慎重でなければならない。即ち、潜在する課題の未然の発見である。
 現代の工学のあり方の大問題について、面白い論文に出合った。詳細は第3章の「欧米のメタエンジニアリング」に記すが、中身は以下の言葉で始まっている。
 『エンジニアリングは学会、職業、そして概念として進化し続けている。エンジニアリングの概念を記述することも、継続的に明確かつより正確に進化するプロセスであるとともに、それは常に、更により明確に、より正確になる可能性を持っている。
 そこで、我々はエンジニアリングの本質を見つけようとこのプロセスの小さな一歩を踏み出し、さまざまな種類のエンジニアリング活動に共通しているものを特定し、その定義の幅を広げることを試みる。任意のエンジニアリング活動の共通点として必要な条件を提案する。また、仮想的な定義として、メタエンジニアリングというコンセプトを提案する。
我々は、科学とエンジニアリングとを区別し、重要な側面で互いに対向していることを示す。お互いの方向は正反対でだが、両立しないものではない。両者の統合的な視点を識別し、サイバネティックループを介してそれらを相乗的に関連付けることができる。また、エンジニアリングと産業にも相乗的な関係があることも示す。これら2つの統合的な視点から、エンジニアリングの役割が科学と産業の「サイバネティックな架け橋」として、更にはそれらと社会との懸け橋であることを示すことができる。
 我々の提案した定義がもつ意味の帰結として、また、グローバル化現象により生じる新たな要請として、そしてグローバルエンジニアの養成の必要性が増すことにより生じる要請として、エンジニアリング教育でなされるべき重要な変更も示す。(中略)王立工学アカデミーのフェローのSir. Robert Malpas (2000) によると、「いわゆる新経済はエンジニアリングのプロセスを通じて形成され、かつ形成され続けてきた。エンジニアリングが社会と経済に浸透することが明らかになった。」(pp. 6-9) エンジニアリングが世界を変える上で重要な役割を果たしている、しかし、エンジニアリングは、それによって変えられている世界に適応して変わりつつあるのだろうか?』である。
 この論文に示されたメタエンジニアリングの定義は、我々のものとは異なる点もあるのだが、その発想は全く同じところにあるので、敢えて紹介する。

2 細分化された科学と工学のおおもと

 現代の科学と工学は、もちつもたれつの関係にある。工学が最新科学によって進化をするのは当然なのだが、科学もまた、最新工学の成果なしには、前に進むことはできない。そこで、科学と工学は文明という大木の枝であり、根っこは一つでなければならないとの考えが成立する。このような概念は、抽象的と言われるかもしれないが、何事によらず根もとはしっかりと固めておかないと いけない。
「文明の設計」という視点から考えると、現代の細分化された科学と工学は詳細設計に相当する。そこで、構想設計、基本設計に相当するものをしっかりと押さえておかないと、正しい製品を設計することはできない、ということである。
 この構想設計、基本設計に相当するものは、メタエンジニアリングである。「メタ」の持つ意味は、アリストテレスの形而上学では、「すべての自然学が出尽くした後で、そのおおもとを探る」であったが、最近の欧米では、「新たな物事を設計する際の設計の方法論」とのとらえ方が多い。メタエンジニアリングは、その両方の意味を含めた「メタ」を目指している。

3 工学の上位概念としての「場」

 工学(Engineering)は、従来「社会にとって必要とされるものをつくるためのもの」と考えられてきた。Wikipediaには次のようにある。
 『日本の国立8大学の工学部を中心とした「工学における教育プログラムに関する検討委員会」の文書(1998年)では、次のように定義されている。工学とは数学と自然科学を基礎とし、ときには人文社会科学の知見を用いて、公共の安全、健康、福祉のために有用な事物や快適な環境を構築することを目的とする学問である。工学は大半の分野で、理学の分野である数学・物理学・化学等々を基礎としているが、工学と理学の相違点は、ある現象を目の前にしたとき、理学は「自然界(の現象)は(現状)どうなっているのか」や「なぜそのようになるのか」という、既に存在している状態の理解を追求するのに対して、工学は「どうしたら、(望ましくて)未だ存在しない状態やモノを実現できるか」を追及する点である。あるいは「どうしたら目指す成果に結び付けられるか」という、人間・社会で利用されること、という合目的性を追求する点である、とも言える。』

 Engineeringのもう一つの意味である技術は、工学の成果を用いて様々な社会の要求に答えて現代社会を作り上げた。即ち、近代工業文明である。一方で、約2世紀間にわたるこの文明の発展により、地球環境問題をはじめとする多くの大問題が生じてしまった。
 現代では、世の中の全ての人間の活動は工学の成果なしには成り立たない。政治、経済、文化、宗教、生活等、すべてエンジニアリングの成果を用いて成り立ち、かつ持続的発展の可能性を保っていると云うことができる。そして、遂には地球の未来にまで影響を及ぼすことが明らかとなった。このことは、第2次世界大戦の前後にドイツの哲学者のハイデッガーが「技術への問い」という論文の中で述べている。近い将来に技術が世界の全ての人間活動のもとになるであろうとの説である。つまり、エンジニアリングというものが、社会の一部であったものから、世界全体を占めることになってしまったわけである。 
 そのような状態下で、エンジニアリングは従来の考え方だけで良いのであろうか。つまり、そのときどきの社会が求めるものを実現させるものを、単に作り続けることの危険性の増大をどのように排除してゆくかである。極端な言い方をすれば、社会がエンジニアリングの内にある、と考えた場合のエンジニアリングの定義の問題が生じる。

 もう一つの大きな問題は、グローバル化によるスピードの問題だ。現在のイノベーションは、スマートフォンなどに見られる如くに即日中に全世界に広がってしまう。もし、従来の数々の事例にあるごとくに、公害や副作用があった場合には、その影響は限られた地域に留まることはない。したがって、この様な状態は、エンジニアの責任の重大さが以前にまして数十倍、数百倍になったことを示している。

 このことを、古代ギリシャにあてはめてみた。ソクラテスやプラトンが社会現象を色々な見方で分析をした結果が、アリストテレスに引き継がれた。彼はその先を突き詰め、倫理的な考えを経て、全ての根源を考える学問としての形而上学を始めた。当時の自然学(Phisica)の元を解明するためのものとして、それはMeta-Phisicaと命名された。この形而上学は中世に至るまで学問と哲学の分野で進展をしたが、現実世界とのかい離が大きく近代社会では重要視されなくなってしまった。そして、現代社会は再び根本に戻らなければならない時を迎えているのではないだろうか。
 この様な経緯から私は、これからのエンジニアリングは、従来のEngineeringと並行して、Meta-Engineeringという考え方が新たに必要であると考える。メタエンジニアリングという言葉は、日本工学アカデミーから2009年に発信された。

 社団法人日本工学アカデミーの政策委員会から、2009年11月26日に出された「我が国が重視すべき科学技術のあり方に関する提言~ メタエンジニアリングの提唱 ~」という「提言」では、「社会課題と科学技術の上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す広義のエンジニアリング」を『メタエンジニアリング(英語では、上位概念であることを強調して Meta Engineering と表現)』と名付ける、としている。

 この提言に基づいて発足したアカデミー内の部会では、メタエンジニアリングの実装を目的とした議論が続けられているが、私はその内容がやや狭い範囲に留まっているという印象を持っている。すなわち、メタエンジニアリングの主機能を新たなイノベーションの発見と持続にのみ求め過ぎているように思われる。それ自身は必要かつ、特に現在の我が国にとって大切なことなのだが、メタエンジニアリングという言葉はもっと広義の新たなエンジニアリングでなければならない。私は、提言にある「上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す広義のエンジニアリング」という部分を強調してゆきたいと考えている。

 19世紀から盛んになった現代の工業化社会の文明は、20世紀終盤から一気に情報化社会、更には知識社会へと変貌をしている。知識社会文明という言葉はまだ一般的ではないが、早晩21世紀の文明の座を得るであろう。その中にあって、現代の工業化社会文明の最も基礎的な部分を担ってきたEngineering(工学と技術)は、従来のままで良いはずはない。知識社会文明に対応した新たなEngineeringが必要となるであろう。それをMeta- Engineeringと定義してみようと思う。

 この発想は、数年前に聞いたある先進的な学会での高名なパネリストの発言に端を発している。すなわち「私は自然科学者なので、社会科学者のおっしゃっている言葉が良く理解できません」というものだ。工学の多くは自然科学に依存している。そして、現代の全ての人間活動はエンジニアリングの生産物の上に成り立っているといっても過言ではないであろう。しかし、近年のグローバル化の急激な進展においては、エンジニアリングの特に広義の設計(デザインというべきか)の結果は、社会科学的、人文科学的かつ哲学的にも正しいものでなければならない。そうでなければ、人間社会の持続性が危ぶまれる事態になりつつある。過去における様々なEngineering Schemeが引き起こした、副作用や公害や更には地球の持続性を脅かすような経験は、もはやこれからのEngineeringには許されない場面がより多く存在することになるであろう。
 そして、知識社会文明における新たなエンジニアリングとしてのMeta- Engineeringは、先ずは、現在の社会に存在する様々なイノベーションの結果をMeta- Engineeringの眼で見なおしてみることから始めてはどうであろうか。
 例えば、便利さを求めてひたすらデジタル化を進めることにより連続的にものごとを捉えて深く考える習慣の欠落、日本の品質という名のもとに、ひたすら品質の完全性を求める姿勢、競争に勝つための技術的な進化の過程におけるWhat優先の弊害としてのWhyの伝承不足などは、「上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す広義のエンジニアリング」という見地から考察の余地が身の回りのそこここにあるように考える。
この例はごく卑近なものなのだが、技術の上位概念を人文科学、社会科学、心理学、生態学、さらには哲学にまで広げると、Meta- Engineeringに付託すべき新たな課題は現代社会に無数に存在しているのであろう。

現代の流れ

 科学 ⇒ 工学 ⇒ もの・ことつくり


メタエンジニアリング導入後の流れ

 科学 ⇒ メタエンジニアリング ⇒ 工学 ⇒ もの・ことつくり


(続きは、その4にて)

メタエンジニアリングのすすめ 第15話の2

2016年03月13日 08時52分34秒 | メタエンジニアリングのすすめ
 科学・メタエンジニアリング・工学(2)目次

 はじめに全体像を把握していただくために「目次」を紹介します。しかし、これは現時点のもので、まだ確定ではありませんので、ご参考程度にご覧ください。

第1章 科学と工学と技術を繋ぐ 
この章では、2世紀にわたって細分化が進んだ科学と工学が、現代の地球環境の悪化などの問題を引き起こした主原因と考え、その解決方法を探ります。           

  1 科学と現代工学の最大問題            
  2 細分化された科学と工学のおおもと        
  3 工学の上位概念としての「場」          
  4 メタエンジニアリングの主機能          
  5 比較文明学とメタエンジニアリング        
  6 地球環境問題とメタエンジニアリング       
  7 持続的なイノベーションとメタエンジニアリング  
  8 トランス・エンジニアリングとメタエンジニアリング

第2章 現代科学が生まれたとき
 この章では、暗黒の中世から抜け出して、イスラムを凌駕して西欧科学文明が始まった、初期からの推移を追ってみます。
            
  1 哲学からの分離                 
  2 自然科学と非自然科学の関係の変化        
  3 百学連環からの逸脱               
 
第3章 エンジニアリングとメタエンジニアリングの本質
 現代のエンジニアリングが変わらなければならない状態にあることを示した、欧米の権威筋の発言を紹介し、東洋的な考え方との対比を示します。
 
  1 欧米のメタエンジニアリング           
  2 日本のメタエンジニアリング           

第4章 科学の信頼性喪失と疑似科学の関係
 福島原発以降に急激に高まった、科学への信頼感の喪失の原因をさぐります。
       
  1 現代の疑似科学とは何か             
  2 メタエンジニアリングと疑似科学について     

第5章 エンジニアはどうしなければならないのか
 1960年代後半に起こった、東大紛争以来の工学の在り方についての、関係者の葛藤を振り返ります。
     
  1 「失敗の本質」より
  2 「工学部は何を目指すか」の場でのメタエンジニアリング(1)
  3 「工学部は何を目指すか」の場でのメタエンジニアリング(2)
                          
第6章 現代の自然科学と人文社会科学の関係 
 最近盛んになった、人文科学系との連携について、メタエンジニアリング的な考え方を示します。
     
  1 現代の人文社会科学の価値            
  2 文学はなぜ必要か                 
  3 科学と経済学の関係               

第7章 地球上での文明の持続的進化のために
  地球文明の持続的進化について、どのように変えてゆくべきかを考えてゆきます。
     
  1 文明の衰退の時期が近づいている         
  2 文明が衰退するのは何故か           
  3 文化と文明に対するメタエンジニアリングの役割 

補章 アリストテレスとメタフィジック
  なぜ、メタエンジニアリングの出発点が、古代ギリシャ時代まで遡ったかの説明です。  

(以下は、その3に続く)

メタエンジニアリングのすすめ 第15話の1

2016年03月13日 08時43分26秒 | メタエンジニアリングのすすめ
科学・メタエンジニアリング・工学(その1)はじめに

 私がメタエンジニアリングの研究を始めてすでに5年間が経ち、考えがだいぶ纏まってきました。それは、次の二つのテーマに絞られます。
第一は、現代の西欧型科学文明のままでは、地球環境や生活の満足度がますます悪くなるであろう、という懸念です。そのために「優れた日本文化の文明化のプロセス」というテーマを掲げました。
第二は、西欧型資本主義と現代文明の基となった、科学と工学と社会の関係への疑問です。グローバル経済とイノベーション指向に埋没して、世界中が唯物文化に急速に席捲されています。この状態が、第一の問題をさらに悪化させているのではという考えです。そこで、科学と社会の間にメタエンジニアリングという概念を置いて、科学と工学の関係を見直すために、「科学・メタエンジニアリング・工学」というテーマを設定しました。
 二つとも、大それたテーマであることは重々承知していますが、その場考学半老人の妄言として、しばらくのおつきあいを願えれば、幸せです。さらに、所謂各方面のベテランの方々が、このようなテーマをともに考えてくだされば、望外の喜びと存じます。

 この二つのテーマにつきましては、既に小冊子に纏めておりますが、今回からは、まず第二のテーマにつきまして、その「まえがき」から順次紹介をしてゆきたいと存じます。

まえがき

 一般の人からの科学に対する信頼が急速に低下している。福島第1原発の事故とその対応のまずさがそのことに油を注いでしまった。「科学技術の敗北」などという記事が散見される。もはや、科学者の言動をそのまま信じる人は皆無であり、社会全体としてこの傾向は当分の間続いてしまうであろう。

 その理由は大きく二つに分けられる。第1は、科学と疑似科学が混在していること。第2は工学の分野での科学の具現化に誤りが存在すること。詳細は本文で述べることにするが、インターネットの普及による広い意味での情報の混乱と、技術の進歩の急速化が、従来さして問題にならなかったこの二つの問題を顕在化させてしまった。特に複雑な技術の進歩の急速化が現代人の脳の進化を大幅に超えていることは、生物学的には種の絶滅への方向を示しているとも云われ始めている。

 この問題を根本的かつ持続的に解決するために、科学と工学(即ち、エンジニアリング)の間に、メタエンジニアリングという新たな学問分野を置いてみることを試みてみようと考えている。科学の成果は自然界に存在するあらゆる現象なりものごとを論理的かつ合理的に説明することであり、それ自身に悪は存在しない。なぜならば、この宇宙は125億年の歴史があり、この地球には46億年の歴史がある。その間に全体が最適になるように変化してきた結果が現在なのであるから、生物の食物サイクルなどにみられるように、全体が調和をしている。従って、純粋に正しい科学を信頼しないことは、明らかに不合理なことに思える。つまり、科学への信頼性の欠如は、正しくない科学を科学と信じてしまうか、科学の使い方(即ち工学)に誤りがあるかのいずれかであろう。
 その二つの事柄を、より明確にして間違えを正す方法を考えてゆくことに、メタエンジニアリングを適用する試みが、本書の狙いである。つまり、メタエンジニアリングの基本命題は、「人類の将来にとって、本当に正しいということはどういうことなのか。そのことを念頭に新たな創造を進めるためには、どのようなプロセスを行うべきか」などである。 そこで、「科学・メタエンジニアリング・工学」というテーマでメタエンジニアリングの主機能を提案しようと思う。
 
 工学は約2世紀に亘って様々な分野での専門化が急速に進んだ。そして、その細分化の弊害が顕著になり、学際的な新分野とか俯瞰的統合化や融合・連携など色々な工夫が実際に試み始められている。しかし、工学の基本が「人の役に立つものことを、広い意味で設計すること」とする限りにおいて、この傾向には聊か疑問を感じてしまう。それは、私が長年にわたって大型航空機用ジェットエンジンの国際共同の設計開発の現場で色々な変化を見てきたことから発している。
 世の中のもの作りの産業界は、随分前から技術指向(すなわちシーズ・オリエント)から顧客志向(ニーズ・オリエント)に急速に変化をした。もはや懸命な新技術の研究によるシーズ・オリエントで一時をリードしても、最終的にはニーズ・オリエントを徹底する企業に負けてしまうという事例には事欠かない状態にあると云えるであろう。
 この様な見方で工学の学問分野をみると、依然としてシーズ・オリエントに固執しているように見えてしまう。そこで、メタエンジニアリングの機能との関連が出てくる。最近の研究会や論文の傾向は、一見するとニーズ・オリエントに見えることが多い。しかし、ニーズの中身をメタエンジニアリング思考すると、聊かの疑問を感じる。それは、科学や工学という学問分野での「ニーズ」のとらえ方にある。産業界の「ニーズ」は、あくまでも顧客であるが、学問の「ニーズ」は、産業界のそれとは明らかに異なるべきであろう。それは、社会全体とか地球環境の保全とか、人類文明の持続的発展とかといった、社会全体を対象とした「ニーズ」であるべきではないだろうか。学問分野の細分化のせいで、「ニーズ」も専門領域の範囲にとどまっている傾向がみられる。

 メタエンジニアリングは、工学的な発想や創造を従来以上の範囲に広げてゆこうという活動である。ひと⇒人間⇒文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学⇒自然科学⇒工学⇒技術という流れの中で、現代のエンジニアリングは、末端の3つのステップに集中して進化を遂げてきた。しかし反面多くの公害や環境異変をもたらす結果となった。好むと好まざるとによらずに、この傾向はグローバル競争時代にはますます激しくなることが予測されている。そこで、それを正す一つ方法として考えられるのが、新たなもの・ことを創造するエンジニア自身の思考範囲を「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という上流まで遡らせるという考え方である。
 つまり、工学の価値の原点を自然科学分野に求めるのではなく、「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という場において、そこから生じる価値を上位に置いて括りなおしてみてはいかがなものであろうか。
 例えば、幸福度・安心度・地球環境の向上・文明の進化といった具合である。この価値は、便利とか安いとか簡単にとか、より合理的にといったものとは異なり「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という場から生じるものである。工学は現状の延長上での発展を続けるものとして、科学と工学の間に思考の場を持つ新しい工学の考え方として「メタエンジニアリング」の主機能を定義する試みを、第2の狙いとしてみようと思う。

 現代科学は、近未来に向かって更なる分化と専門化が進み、また政治がらみのトランス・サイエンス(詳細は第1章の8)も盛んになるであろう。従って、いったん出来上がってしまった科学への不信を、科学自身の手で解消することは、ますます困難になるであろう。そこで、科学と実社会の間にメタエンジニアリングという緩衝材がますます必要になると想像している。

 重ねて申し上げますが、私のメタエンジニアリングは現代の科学や工学の在り方を否定するものでも、止めようとするものでもありません。これらは若手の現役世代に任せて、それと並行して、種々の経験を積んだベテランが、従来とは別の視点で現代を見直してみようという試みなのです。
 その意味において、あえて科学と工学の間に、「新しい場」を設けたつもりでおります。
(以下はその2に続く)