生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

「ジェットエンジンンの設計技師」はじめに

2014年04月26日 16時36分02秒 | ジェットエンジンの設計技師
はじめに

 私は大学院では伝熱工学を専攻し、その縁で民間航空機用エンジンの設計に憧れて就職し、以来40余年その思いを貫くことができた。その大部分は世界最先端の民間航空機用エンジンの国際共同開発プロジェクトであった。協働(Cooperation)の相手は、米国のGeneral Electric とPratt & Whitney 、英国のRolls-Royce などこの業界でのビック3といわれる会社だった。

 新型エンジンの開発はその競争の激しさと市場からの要求の厳しさの故に、設計手法(特に信頼性設計とコスト、調達面などで優れていると思われる)と開発方法の面で世界の最先端を行くものと思われる。その中にあってのChief Designer やchief Engineerとしての経験からは、国内にあっては望むべくもない多くのものを学ばせてもらった。数えてみると、設計や技術に関する大小の国際会議を千回以上経験したようだが、最初の数十回の間に、「この分なら10年後には追い付き、20年後には肩を並べることができるであろう」と、このビジネスに密かな野望を抱いた。

 理由は幾つかあった。第1に若い技術者の人材の優秀さであった。日本では優秀な学生が毎年必ず多数仲間として増えるのだが、米英の事情は全く違っていた。どの会社でも、有名な理工系大学の卒業生の新卒は皆無であった。米英ではこの産業が若い技術者にとってそれほどに魅力があるとは云えなかったからであろう。第2は会社組織の違いだった。日本の場合にはジェットエンジン3社と呼ばれる、IHI 、KHI 、MHI はいずれも重工業で幅広い研究と製造の経験を手の内に持っているのだが、英米ではエンジン専門の会社になっている。ジェットエンジンは熱機関の一つであるが、その設計、開発、製造に必要な知識と経験は多種多様であり、最終的には総合力の差が現れるものだ。過去の経験では及ぶべくもないが、将来性はむしろ有利であると考えてしまった。つまり、資本やリソースの面でも重工業を背後に持っているものが有利だと感じていた。そして、何よりも当時の日本は高度経済成長の真っただ中にあったからだ。
 今から考えると、これらすべては若気の至りの一言に尽きるようで、残念至極。

 私が航空機用エンジンの分野に入ったのは1970年、丁度、通商産業省(現:経済産業省)の「大型プロジェクト」と称するスキームで、長年浪人生活を余儀なくされていた「民間航空機用エンジンの研究開発」に予算が付いた初年度であった。勿論、それは偶然ではなく、大学院での研究生活中にそのことを知り、急遽(きゅうきょ)、就職希望先を変更してのことであった。




 プロジェクトは、10年間で段階的に3種類のエンジンを設計して試作し、性能を確かめるもので、最終的には成功の暁に国産の島嶼(とうしょ)専用の短距離離着陸機や哨戒機に搭載すると云う野心的なプロジェクトであった。

最初のFJR710/10型では、中型機を飛ばすことに必要な推力を持つエンジンをとにかく廻すこと。3年後のFJR710/20型は、熱サイクルの圧力と最高温度とを世界的な水準にまで高めて、性能面での能力を実証すること。ただし、重量は問わないという条件であった。 さらに3年後のFJR710/600型は、性能と重量の両面で世界水準を実証すること。




そして最後のFJR710/600S型は、当時の航空自衛隊の輸送機を改造した「飛鳥(あすか)」と呼ばれる試験機に4発を搭載して、短距離離着陸の飛行試験を行うことであった。

 このプロジェクトは、人数も予算も期間も今から思えば大胆な計画であったが、全ての設計条件をクリアーし、通商産業省「大型プロジェクト」の一番の成功例として、その後、長く伝えられることになった。私の職掌(しょくしょう)は、/10型では高圧タービン部分の研究と設計の担当であったが、/20型以降は全体設計の取りまとめの様な役割であった。

 そして、FJR710/600S型の設計の最中に、突然Rolls Royce社からSir スタンレイなるこの世界の大御所が訪日されて、日英共同開発のプロジェクトを提案された。その提案は直ちに、通商産業省と日本のエンジン3社(IHI、KHI、MHI)に歓迎されて、調査チームを編成して共同事業の可否を調べることになった。私は技術チームのリーダーとして、一年余りの間Rolls Royce社の工場に隣接するMein Office内に一室を与えられ、新エンジンの設計と開発とに関する全てを学ぶことになった。そして以後約20年間にわたって、この世界に従事することになった、これが始まりである。

 それからの約20年間は、民間航空機用エンジンの国際共同開発にどっぷりと漬かった期間であった。その間に既に世界中の空で2000機以上が毎日飛びまわっているAirbus A320機やMD90機に搭載されているV2500エンジンや、現在でも世界最大の推力を誇るGE90エンジン(Boeing777機に搭載)などの日本側分担部の設計部隊のチーフを務めた。

 これらは、ともに単なる新技術を用いた改善ではなく、設計手法を含む大きな改革の成果であり、航空機用エンジンのイノベーションとも云えるものであった。そのことは、1980年代までは米国や欧州に行くためには、必ず途中(アンカレッジやモスクワなど)で燃料補給のために1回以上の離着陸を余儀なくされていたが、エンジンの飛躍的な燃料効率の向上で、同じ機体(例えばジャンボジェット)で世界中のどこへでもノンストップで行けることが可能になった。このためにビジネスマンの出張のパターンが大きく変わったことなどである。




 また、当時はエンジンが4機装備されたジャンボなどでなければ、太平洋横断はできなかったが、設計と製造の信頼性の向上で、現在では2発機で世界のどこにでも直行できる。エアラインの収益向上にかなりの貢献だと思う。
 しかし、技術力の進歩とは裏腹に、ビジネスとしての期待は全く外れてしまった。40年が経った今でも、日本のメーカーが世界に占める順位は全く変わりがなく、ビック3もそのままである。その事実は、世界を相手に活躍をしている自動車や電機産業に比べて(過去に遡れば、繊維、鉄鋼、造船、精密機械など枚挙にいとまがない)肩身の狭さを感じている。そのことは、始まって丁度20年後に開発プロジェクトのChief Engineerを卒業するときに強く予感したものだった。理由は色々あるが今はそれらのことは本稿の問題ではない。以降の私はそれ以前に学んだ事柄の専門度を高めることに興味を覚えた。すなわちビジネスを離れた設計論や技術論である。
 20世紀の最後の20年間は、他の世紀末と同様に世界が大きく動いた20年間であった。その中にあって航空機エンジンの世界には、冷戦の終結が大きな影響を与えた。ビック3の売上高は直後の数年間に亘って大幅に落ち込み、優秀な若い人材は他の産業分野へ転籍し、研究に対するリソースも大幅に減ってしまった。

 この間の世界の主要メーカーの売上高の推移を2つの時代に分けて図に示した。1990年をピークに急激に落ち込み、ほぼ5年後から急激に増加に転じた様子が明らかに示されている。




しかし、日本の場合には幸いにして、(別の観点からは、危機意識が共有されずにズルズルと時を過ごした不幸とも云える)この影響は皆無であった。民間エンジン関係は通常の景気の波による増減はあったが、官需は安定した長期計画に沿って比較的平静が保たれていた為である。このことも、夢の達成への一つの根拠であり、チャンスであったと当時は考えていた。

 一方でこの間にビック3の経営は、ビジネス面と技術面で大きな改革と進歩を遂げることを余儀なくされた。それは、組織形態にはじまり、シックス・シグマ などの代表される様々な改善手法の適用、調達方式の見直し、エアラインにとって魅力的な規制緩和への努力の集中など枚挙にいとまがない。

 我々は、世界最先端の競争の真っただ中にある開発機種に常に参加を続けたことで、その全てを実際の現場で経験することができた。この時期ならでの幸運であったと思わざるを得ないのである。

 例えば、一世を風靡(ふうび)したシックス・シグマについても、丁度、ジャック・ウエルチ の最盛期であったのだが、いち早くGE社のブラックベルト やその指導員(チャンピオンと呼ばれていた)との直接対話を重ねることができた。





 また、BPR(Business Process Re-engineering) についても、彼らの反応は早く、しかも徹底している。それらについても同時進行の渦中にあって、良いものは取り入れ、日本人の感覚では疑問に思うもののその後の推移などを知る機会も得た。その様子は、遠い昔の飛鳥や奈良時代の日本文化の基礎ができつつあるころの時代の流れを思わせるほどのものであった(これは私の趣味)。



 現在の私は、その後の10年間の変化も含めた設計論を博士論文として纏めたことを最後にこの業界から去ることになり、日本工学アカデミーという組織の中で始められた「根本的エンジニアリング」(http://meta-eng.seesaa.net/)というエンジニアリングの研究を経て、メタエンジニアリングという新たな考え方の研究に楽しみを見出している。航空機エンジンの開発設計に通じるものがあるとの確信の故でもある。

40年来の旧友の勧めで、この様な文章を書き始めることになったのだが、どんな方向へ進んで行くかは未だ確定はしていない。しかし、開発途中の危機管理、初期品質の安定設計法、長期安定調達方式の色々、ライフサイクルから求められる設計パラメータの評価法、品質管理に対する考え方の推移、技術組織のサイクル的な変化など、他の産業分野や技術者の参考になるようなことを、一話ずつ区切って纏めてみようと思う。

 最後に本稿を始めるにあたって忘れてはならないことを述べておきたい。それは1970年前後に始まる当時の通商産業省の皆さんから我々が受けた長期間にわたる配慮に対する感謝である。勿論、私意ではなく、この産業を将来の日本の柱の一つにしたいとの思いからなのだが、私はこの期待の半分も果たせなかったと思っている。その償いの一つとの思いから当時の記録の自費出版などを続けている。
 また、本稿のはじめの数回分は、私の原文に対して旧友の前田勲男君(戦略経済研究所を主宰)が加筆・校正をしたものに、いくらかの訂正を加えたものであることをお断りしておく。







メタエンジニアリングとLA設計(18) 第14話 Encyclopediaの訳語

2014年04月21日 13時12分46秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第14話 Encyclopediaの訳語は、百学連環から百科事典になってしまった

 Design on Liberal Arts Engineeringは、あまりにも専門分野化してしまった昨今の「様々な分野の設計」の不完全さを指摘して、本来の正しい設計(広い意味で計画や企画も含む、工学の根本だと思います)のあるべき姿を追求するための試行です。

要約;

西周(にし あまね)が、Encyclopediaの訳語とした「百学連環」は、総ての学(Science)と術(Art)の連環が総体的・体系的に説かれた書と云われている。古代ギリシャの自然学も、古代ローマのLiberal Artsも科学と芸術と技術は一体であった。レオナルドダビンチまでは、全ては一つの個の中で連環をもって統合されており、そこから後世に残る優れたものが次々に生まれてきたと思う。
連環の輪が怪しくなってきたのは、宗教戦争と産業革命であろう。つまり、近代科学による工業化が問題だった。だとするならば、工業化から知的社会文明に移る際には、又元の連環に戻ることが必要であるようにも思われるのである。

詳細;

「科学と技術」日本近代思想体系(14)、岩波書店(1989)には、実に興味深い話が多く書かれている。メタエンジニアリングの研究には欠かせない著書のひとつであろう。
その中の第1は、西周(にし あまね)の「百学連環」である。西は日本初の哲学者と云われるが、啓蒙家、官僚などの側面もある。最も大事なことは1862から3年間オランダに留学して、当時の西洋科学と哲学を基礎から学び、多くの科学と技術に関する英語の日本語訳をつくったことであろう。その意味では、日本初のメタエンジニアリング者とも云える。Wikipediaには、次のような記述がある。

西 周 (にし あまね、文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日) は江戸時代後期から明治時代初期の幕臣、官僚、啓蒙思想家、教育者。貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。勲一等瑞宝章(1897年)。
西洋語の「philosophy」を音訳でなく翻訳語(和製漢語)として「希哲学」という言葉を創った[5]ほか、「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」など多くの哲学・科学関係の言葉は西の考案した訳語である。上記のように漢字の熟語を多数作った一方ではかな漢字廃止論を唱え、明治7年(1874年)、『明六雑誌』創刊号に、『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』を掲載した。著書に『百学連環』、『百一新論』、『致知啓蒙』など。森鷗外は系譜上、親族として扱われるが、鷗外の母方の祖父母及び父が養子であったため血のつながりはない。


なを、出生地については次の記述があるので、津和野では是非拠ってみたいところだ。

石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鷗外の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだという蔵が保存されている。(Wikipediaより)

(附録;津和野にある西周の生家)

 
「百学連環」は、彼の京都の私塾で明治3年から教えられたことを、彼の死後纏められたものと云われているが、総論は30頁弱で比較的読みやすい文章で書かれており、随所に英語が出るが、いちいち逐語訳が付いている。つまり、この単語ごとの正確を期した翻訳が新語を生み出したと云うことなのだ。
 彼は、英国のEncyclopediaを熟読し、そこから色々な知識を得たようだが、その語源をギリシャ語に求めて、「童子を輪の中に入れて教育なすとの意なり」としている。Wikipediaには、次のような記述があるので、彼の解釈は正しい。

(この津和野町郷土館蔵の絵画は、「百学連環」より)

百科事典を意味する英語 encyclopediaは、ギリシャ語のコイネーの"ἐγκυκλοπαιδεία"から派生した言葉で、「輪になって」の意味であるἐγκύκλιος(enkyklios:en + kyklios、英語で言えば「in circle」)と、「教育」や「子供の育成」を意味するπαιδεία(paideia パイデイア)を組み合わせた言葉であり、ギリシャ人達が街で話し手の周りに集まり聴衆となって伝え聞いた教育知識などから一般的な知識の意味で使われていた





「百学連環」は、学(Science)と術(Art)の連環が総体的・体系的に説かれた書と云われているので、メタエンジニアリング的には、大いにそそわれる。つまり、百の学は連関していると云う訳なのだろう。
古代ギリシャの自然学も、古代ローマのLiberal Artsも科学と芸術と技術は一体であった。レオナルドダビンチまでは、全ては一つの個の中で連環をもって統合されており、そこから後世に残る優れたものが次々に生まれてきたのだと思う。
連環の輪が怪しくなってきたのは、宗教戦争と産業革命であろう。つまり、近代科学による工業化が問題だった。だとするならば、工業化から知的社会文明に移る際には、又元の連環に戻ることが必要であるようにも思われるのである。

いずれにせよ、英語ではきちんとした語源が保たれているが、日本語はさっさと「連環」の語を捨ててしまい、「辞典」にしてしまった。そこで、百学分立が盛んになってしまったと考えられる。(註1)

 総論の次の第2節は「学術技芸 Science and Art」であり、次の記述がある。

学の字の性質は元来動詞にして、道を学ぶ、あるいは・・・、名詞に用ゆること少なし。実名詞には多く道の字を用ゆるなり。
 

現在では、XX学ばやりで、もっぱら名詞に使われているが、改めて新鮮な学に対する態度が伺える。術については、次の記述がある。

術の字は其目的となす所ありて、其道を行くの行の字より生ずるものにして、即ち術の形なり。都合良くあてはめるというの義なり。芸の字我朝にては業となすべし。芸の字元と藝の字より生ずるものにして、植え生ぜしむるの意なるべし。学術の二字即ち英語にてはScience and Art、ラテン語には、・・・。

術に亦二つの区別あり。Mechanical Art(器械技) and Liberal Art(上品芸)原語に従ふときは則ち器械の術、又上品の術と云う意なれど、今此の如く訳するのも適当ならざるべし。故に技術、芸術と訳して可なるべし。技は支体を労するの字義なれば、総て身体を働かす大工の如きもの是なり。芸は心思を労する義にして、総て心思を働かし詩文を作る等のもの是なり。


つまり、技と芸の関係は、身体の動きか思考の働きかの関係と云っている。
文字の意味を突き詰めるとそのようになる。

 この書物は、1989年に発行されたのだが、巻末の解説を記した飯田賢一の文は「日本における近代科学技術思想の形成」と題して、次の記述がある。

明治15年に「理学協会雑誌」が発刊され、当時は「理学」はいまの科学・技術分野全体の総称でもあった。(中略)佐久間象山以来の技術=芸術という受け止め方は、「工業大辞書」完結の大正初期のころまでなおひきつがれていたことになる。(中略)総じて、明治時代を通じ、人間がものをつくる生産技術にあっては、芸術と同じく手工的な技(わざ)や巧(たくみ)が肝心なものと受けとめられていたのに対し大正デモクラシー期の国際交流の高まりの中で、科学(理論)と技術(実践)との結びつきが促進され、生産技術は自然科学の応用(applied science)という考えが、急速に普及・定着しはじめた、といって差支えあるまい。 

この文は、その後「日本科学技術思想史の特質」、「技術文化史の三段階」と続くのだが、ここでは省略する。


(註1)「百学連環」と云う言葉は、実は復活をしていた。2007年に日本書籍出版協会と日本雑誌協会が共同で纏めた、「百学連環 - 百科事典と博物図鑑の饗宴」凸版印刷 印刷博物館発行(2007)である。その年に行われた展覧会の記念本なのだが、日本工学アカデミーの「根本的エンジニアリング」や「メタエンジニアリング」とほぼ同じ時期に突然に復活したことは、必然的な関連を感じる。
 
冒頭の「ご挨拶」は、こんな言葉で始まっている。

「百学連環」という素晴らしい言葉がありました。百にもおよぶ学知は、ひとつの環をなして連なっている、そんな理想を表現しています。明治の文明開化をになった知識人、西周の造語であり、エンサイクロペディアの邦訳語ということです。


西周の人生三宝説(明六雑誌より)

 「明六雑誌」が発行されたのは、明治7年から8年までのたった20ヶ月間であった。明六社は森有礼により提唱され、投稿者は福沢諭吉、西周、津田真道などの当時のそうそうたるメンバーであった。
掲載された論文は114編で、文明開化論、言語政策、婦人問題、哲学、思想、政治、経済、法律、教育に及んでいたと、次の書籍の序文で述べられている。

「明六雑誌」とその周辺、西洋文化の受容・思想と言語、神奈川大学人文学研究所編、お茶の水書房(2004)





神奈川大学で、この書の研究会が持たれたのは、その原本が同大学の図書館に所蔵されている為であろう。巻頭に写真等が示されている。この雑誌に掲載された論文の価値は、副題にある、西洋文化の受容にあるのだが、もっとも有名なのは、文中に翻訳されている西洋の文献の和訳に用いられた「和製漢語」であろう。代表的なものは科学、哲学、法学などであるが、その数は有に1000語を超している。
P181に掲げられて表3に依れば、合計1566語で、多くは消滅したが、現有語として528語が存在する。
 中でも、西周の人生三宝説で用いられた語は多く現在の科学・政治・文化の中で使われている。彼が、その文章の中で、西洋文献や著者名などを逐語訳していたためであろう。
西周の人生三宝説は、掲載途中で雑誌が廃刊となったので,未完の説と云われている。また、彼の育った儒教の環境と、西洋哲学のいいとこどりの色彩が強く、「失敗した真理」などとも云われている。

 人生三宝説の三宝とは、健康・知識・富有である。彼は、その執筆の意図を「今茲に論する趣旨は
此一般福祉を人間最大の眼目と立て、此れに達する方略を論せむとす」記されている。ここで、福祉という言葉は、happinessであり、現在では幸福とすべきであろう。そして、彼は一般人の最上極処のhappinessを達成するための方略として、人生の三宝を挙げている。そして、中でも知識=教育が最も大切な基礎であるとしている、即ち、健康は人生の大前提ではあるが、知識の増進(=教育)が、健康の維持と富有の確保に決定的であるからである。また富有については、「金と富の差別は経済学に譲るべし」としか述べずに、別途の著書「百学連環」の制産学(現在の経済学)の中で論じている。



附録;津和野にある西周の生家

先日、津和野にある西周の生家を尋ねることができた。親戚筋にあたる森鴎外の生家と、小さな川を挟んでかやぶき屋根の小宅と土蔵があった。
森鴎外の方は、生家の隣に立派な記念館があり、多くの文物が所蔵されているが、こちらは尋ねる人も少ないようだ。