生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

ブログ;その場考学との徘徊(32)大晦日の大國魂神社へ

2017年12月31日 16時08分32秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(32) 題名;大晦日の下河原緑道

場所;東京  年月日;H29.12.31
テーマ;時間を持て余す日      作成日;H29.12.31 アップロード日;H29.12.31
                                                       
TITLE: 大晦日の大國魂神社へ
 
毎年、大みそかの日には時間を持て余す。正月用の買い物や掃除はすでに終わっている。奥さんは、お節ち料理に終日かかりっきりになる。そこで、やることがなく、ウオーキングに出かけることが多い。
 今年は、久しぶりに府中の大國魂神社にお参りをすることにした。その目的は、「干支の土鈴」を手に入れることにあった。このことは、毎年の初もうでの習慣なのだが、今年の大宮八幡では品切れで手に入らなかった。そこで、空いている大晦日を狙ったわけである。
 大國魂神社は、京王線の府中駅から歩いて5分もかからない。それでは時間つぶしにならないので、今日は二つ先の中川原駅で下車した。実は、この駅は昭和51年に廃線になった国分寺発のJR下河原線の終点駅でもあった。その線路は、今は見事な緑道になっているのだ。

 中川原駅前の道路は、そのために四方八方に伸びていて方向が分からない。しかし、拡張された「鎌倉街道」の先には、多摩川にかかる関戸橋が見えるので、それで方向が定まる。



先ずは、多摩川の河原を歩くことにした。さすがに大晦日なので、ウオーキングもジョギングも数が少ない。特にジョギングは若い女性ばかりだった。


 

河原の野球場はもちろん無人、わずかに模型飛行機を楽しむグループだけであった。しばらくして、府中の「郷土の森公園」に出会う。そこから川を離れて大國魂神社を目指すことになる。



右は公園の塀が続くのだが、左に面白い建物があった。
「防災科学研究所」とある。



看板には、次のようにあった。(便利なもので、写真の文字の部分だけをトリミングして、フリーソフトにかけると、ワードに変換をしてくれる)

『高感度地震観測網 (Hi-net)とは
阪神淡路大震災を契機に、地震に関する調査研空存推進するための体制整備を目的として、「地震防災対策特別措置法」が平成7年7月18日に施行されました。
この法律に基づき 「地震調査研究推進本部」が総理府に新設されました。(現在は文部科学省)。この推進本部により以下に示す「基盤的調査観測研究の推進」が実施されています。
(1)地震観測
1)陸域における高感度地震計による地震観測(微小地震観測)
2)陸域における広帯域地震計による地震観測
(2)地震動(強震)観測
(3)地殻変動観測(GPS連続観測)
(4) 陸域及び沿岸域における活断層調査
独立行政法人防災科学技術研究所は本施策のうち、(1)を実施しています。
このうち高感度地震計による微小地震観測については、防災科学技術研所が1970年代から関東・東海地方を中心に展開してきた微小地震等の観測と同様の施設を日本全国に展開し,整備・運用を行っております. この新しい観測網を高感度地震観測網Hi-netと呼んでいます。』




 さすがに「地震予知」の言葉はなく、「観測」に徹底しているので、変な安心感を覚えた。

 
下河原緑道とは、公園の角で合流する。そこからは緑道の一本道である。普段の日ならば、人通りが多いのだが、さすがにウオーキングの人はいなかった。やがて中央道の下をくぐると分岐点がある。かつての東京競馬場前行きの線路の跡だ。(この駅名は、ひらがなで最長の駅名として有名だったと思う)

 
やがて、くだんの鎌倉街道と出くわす。そこから緑道を離れて、神社の境内を目指す。途中に武蔵野線を横切る陸橋がある。府中本町駅だ。


 

境内では、露店の準備で皆さん大忙し。露店の数は昔から変わらないようだ。社務所も空いていて、お目当ての土鈴はすぐに買うことができた。来年は、私の6回目の年男の年なので、買い漏らすわけにはゆかない。





メタエンジニアの眼シリーズ(56)「文明のこころを問う」

2017年12月28日 08時30分46秒 | メタエンジニアの眼
TITLE: 文明のこころを問う KMB3407

書籍名;「文明のこころを問う」[2003] 
著者;小林道憲、安田喜憲  発行所;麗澤大学出版部
発行日;2003.10.16
初引用先;文化の文明化のプロセス Converging 文明の攻防



安田喜憲氏は、この書の発刊当時は環境考古学の創始者として有名であったが、現在では日本の文明論の最高権威といっても過言でないと思う。多数の著書に加えて、紫綬褒章を受章。小林道憲氏は福井大学教授で、哲学者。

安田、『科学革命で誕生したサイエンスというのは、やはり一神教的だという感じがするんです。ですから、多神教の世界では、なかなか本当の科学者は育たないという感じがします。古代のギリシャ哲学、中世の神学、そして近代の科学というふうに、長い目で見れば、現代の科学万能の時代にも終わりがくるのではないでしょうか。科学革命の時代は終わり、時代は推移しているのではないでしょうか。』

『それは、神がいて、その神の下に人間がいて、人間が生きるために自然が存在する。その自然は、人間の幸せのためならどれだけ分析してもいいという世界観や自然観に立脚した、人類文明史における思想潮流であって、それが万能で、永遠につづくというようなことは、ないと私は思います。キリスト教は、そういう世界観・自然観を醸成する上で大きな役割を果たした。そこには、神―人間―自然という縦系列の世界観があるわけです。ですから、人間は自然を支配する権利も与えられているし、もちろん保護しなければならないけれども、同時に分析して、徹底して法則を研究するという権利を、神が人間に与えるわけです。科学をすることは、神の世界に 一歩ずつ近づくことでもあるのです。

一方、多神教の世界では逆で、入問の上に自然があるわけです。とくに巨本は入間以上の崇高な存在ですから、分析の鉈を振るうなどということは恐れ多いことで、注連縄を巻いてお祈りし なければならない。切って張って、木の中の構造がどうなっているかを見ようという発想は、な かなか多神教の世界では出てこないんじゃないでしょうか。
私が思うに、若者の理科離れが起こるのは、科学に感動する予どもが減少したことを物語っていると思います。皆、分析的でデータ主義になった。だから、子どもたちが科学に感動できないの です。科学というのは感動があってはじめて、「僕も科学昔になろう」と思うものです。』

小林、『すべては連関していて、それぞれに価値がある。それぞれが、多様な価値を持って、成り立っている。宇宙、物質世界、生命世界、そして、人問が営む社会や文明のすべてが、そういう構造で成り立っていると考えなくてはいけないと思います。多様な価値を認めつつ、共存するという パソダイムが必要になってくる。これはいかにも東洋的な考え方であるわけですが、たとえば空海も、その曼荼羅的世界観の中で、まさに、そういう「多様性の中の共在」という考え方をしていたと言えます。私は、本来は、21世紀の地球文明も、この「多様性の中の共存」という考え方に基づくべき だと考えています。』

 文明論の世界では、20世紀の前半までは、例えばアフリカは「暗黒大陸」と呼ばれて、文明の外と見られていた。しかし、二度の世界大戦を経て、多面的な文明論が起こり、もはやそれは常識になった。同じことが、20世紀終盤からの情報化社会では起こると思われる。
 それは、一神教における「神―人間―自然」という考え方が、情報革命によって多くの神が公然となり、「自然(神)-人間」という図式に移ることが自然の流れになると思われる。その変化は、現代の情報化社会の多様性の中では、意外に急速に起こるのではないだろうか。
 多神教文化が文明の主流になる時期は、意外に早く起こり、そこから西欧文明から東洋文明への大転換が起こるように思う。

メタエンジニアの眼シリーズ(55)「文化科学と自然科学[1939]」

2017年12月17日 13時21分53秒 | メタエンジニアの眼
TITLE: 本来、工学は人文科学だった (H29.12.16) 

このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。 

                                                       
 現代の西欧科学技術文明が多くの弊害をもたらして、衰退化に向かっているといわれるようになってしまったのは、第2次世界大戦の結果、「工学」が人文科学から理科系の一部になってしまったことが、大きく影響している。そのことは、ハインリッヒ・リッケルト著「文化科学と自然科学[1939]」岩波書店(岩波文庫)を読むと解る。 



題名もさることながら、「この本の中のいくつかの項目で、私は、現在のような意味での「科学(自然科学)は、十九世紀ヨーロッパに誕生した、という意味のことをのべています。」
以下、興味深い文章が続く。
1939年発行だが、岩波文庫の青帯本なので、何とかなるだろう。入手した第2刷の定価は、四十銭であった。
勿論、横書きは右から左で旧漢字と旧仮名使いだった。引用は現用漢字と、一部を除き新仮名使いに改めた。

第6,7版の序には次のようにある。この記述を通じて、彼の論理が当時の様々な学者によって異論が出され、そのたびに彼が内容を見直したことがわかる。
『本書のこの新版は、第3版(1915年)及び第4,5版(1921年)に対してと同様、ていねいに校閲せられ、若干の補遣が加えられている。(中略)それはこの、ロシア語、スペイン語及び日本語の翻訳さえ出ている小冊子に、どこまでも入門書としての特色を残さねばならなかった以上、是非もないことである。』(pp.8)

本文を引用する。科学に対する現代の価値観との違いが鮮明で、私は当時の文化科学と自然科学の価値観を支持する立場にある。正に、メタエンジニアリングだと感じたからである。

『勿論科学の「統一性」は決して科学の全部門の一様性であってはならぬ。何となれば、あたかも世界が多様であるように、科学も多様な目標を立て、それに到達すべき種々の方法を完成するときに初めて此の世界の各部分を全部抱合することができるからである。(中略)科学の最上の統一はむしろ、多くの多様な部門を結合してそれ自身に完全な「有機體」とする統一であろう。この方向に本著の趣旨もまた動いているのであって、この意図から本著は理解されなければならぬ。』(pp.10)が、そのことを明言していると感じている。

『私はむしろ、もし科学が文化生活の内実をあらゆる点で公平に取扱うと思うならば、文化生活は(その内容の特殊性のために)単に一般的にばかりではなく、個性化的にも(つまり歴史的にも)叙述されねばならぬといふ、その理由を示そうとするものである。そこからやがて個性化的手続きと価値関係的手続きとの必然的結合に対する洞察が生じてくる。』(pp.12)

この文章は、哲学者の文章で多少分かりにくいのだが、考え方がメタエンジニアリングに通じる。つまり、哲学が多くの学問に分化して、大きく分けて自然科学と非自然科学に分かれたのちに、その区別を明確にして、人間社会にとってそれぞれどのような結合により真に役立つものになるかといった問題を解こうとしている。彼は、非自然科学の代表を「歴史学」(つまり、人間の社会に現実に起こったこと)に置いている。しかし、各々の具体的な歴史は特殊であり、自然科学の目指す一般化とどのように結合するかを考えていると思われる。

彼は、「非自然科学」を「文化科学」と命名した。現在の人文・社会科学であろう。そして、『文化科学の基礎が価値であるといふことは、多くの人には多分、もう殆ど「自明」のことと思われている。』(pp.16)と断言をしている。つまり、当時の自然科学は、まだ社会に対して、直接に価値を生み出すものとは考えられていなかった。つまり、エンジニアリングとテクノロジーは、文化科学の代表選手であった。

彼は、「文化科学と自然科学の課題」として、次のように述べている。
『非自然科学的な経験的諸学科の共通関心・課題及び方法を規定して、自然研究者のそれらに対して境界区画をなし得る概念を展開するという目標である。私は文化科学という語が最もよくかかる概念の特色を示すと思う。そこで我々は、文化科学とはどういうものであり、自然研究とどういう関係に立つものであるかという問いを提出しようと思う。』(pp.23)

第2章の「歴史的状況」では、次のように述べている。
『自然科学的時代(私は勿論17世紀のことを言っているのである)の哲学は自然科学とは到底切り離せない。この哲学―デカルトなりライプニッツなりを思い起こしていただきたいーは自然科学的方法の解明に従事して、これまた成功を収めている。そして結局18世紀の末にはもう近世最大の思想家(カントを指す)が、方法論にとって決定的な自然の概念を確立し、それを物事の「不変的諸法則にしたがって規定された限りに於ける」現存在とするとともに、自然科学という最も普遍的な概念を確立して、多分それを、見極める限りの将来に対して最後的なものにしたのである。』(pp.29)

 このあたりには、西欧的な一神教の根幹である「人類は、自然を征服するためにこそ存在する」という思想がうかがえる。

そのような思想は、第4章の「自然と文化」に、次の文章で説明されている。
『自由に大地から生じるのは自然産物であり、人間が耕作播種したときに田畑の産するのは文化産物である。これに従えば、自然はひとりでに発生したもの「生まれたもの」及びおのれ自らの「成長」に任せられたものの総体である。文化は、価値を認められたもろもろの目的に従って行動する人間によって直接生産されたもの、或いは(もしそれが既に存在しているならば)少なくともそれに付着せる価値のゆえにわざわざ擁護されたものとして、自然に対立する。』(pp.48)であって、当時の価値観からは、自然科学自体の価値は、非自然科学のなかでのみ生まれると考えられている。
そのことは、第六章の次の言葉で明白になってくる。

『自然科学の諸成果を現実の上に適用するということ、換言すれば、その諸成果の助けを借りて我々の環境に通じ、それを計算するどころか、技術によって支配することまでできるといふことは不思議がる必要はない。』(pp.86)
つまり、「技術」もその特殊性において、文化の一部なのである。こうなると、現代の工学はおおいに困ったことになるかもしれない。
また、第十一章の中間領域では、たとえば生物の進化の科学的な検証について、自然科学なのか、歴史学なのかといった問いに対して、中間領域の存在を認めている。

『自然科学における歴史的要素に関しては、近代では主として生物学、殊に謂わゆる系統発生的生物学が問題になる。それは周知のごとく、地球上に棲む諸生物の一回的な発生過程をその特殊性に於いて叙述せんと試みるので、そのために実際もう度々歴史的科学と称せられて来たのである。』(pp.173)そうすると、工学も、中間領域と云えなくもない。

欧州の学問体系は、キリスト教信仰のために長い中世を経験した。そして、ベーコン、デカルト、ニュートンなどにより変化が始まったが、自然科学の哲学からの分離は、彼ら以降さらに一世紀を要した。つまり、自然科学と人文科学の分離が起こったのは、一九世紀後半で、この書の発行された1901年でさえも、上記のような状態だった。それが僅か数十年の間に完全に分離をして、お互いが結合どころか、疎遠になってしまった

当時は、人文科学にのみ実生活への価値が認められていたわけで、その突然の価値観の逆転は、第一次、第二次世界大戦の結果であると考えられる。つまり、当時の自然科学を駆使して開発をした兵器なしでは、何れの国も勝利をおさめることが出来ず、航空機に始まり、遂には原子爆弾まで実用化をしてしまった。特に工学についていえば、第2次大戦末期の各国によるジェット機の開発競争が大きく影響していると考えられる。つまり、ジェットエンジンを自立運転させるためには、最先端の熱力学、流体力学、伝熱工学が不可欠であり、更に軽量化のための機械力学、機構学、材料力学、金属学などとの一体化が求められた。つまり、純自然科学と文化科学の一体化が必須となり、さらにそこに文系の識者の入り込む余地は全くなかった。
そこで、哲学までもが、かのハイデッガーの名言通りに、「技術が世界を支配することになってしまった」と主張し始めた。

「近代世界のおける日本文明、比較文明学序説」という著書(梅棹忠夫[2000])がある。国立民族学博物館で1982年から1998年まで開催された谷口国際シンポジウム文明学部門での梅棹忠夫氏の基調講演の内容が纏められているもで、第10回のテーマは「技術の比較文明学」であり、その中の興味深い記述をメタエンジニアリングの研究の一部として考察を試みる。この著書では、従来の技術論の在りていに触れたあとで、『工学的な技術論では、原理や材料、性能の評価に重点が置かれております。現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点が抜けていたのではないでしょうか。』とある。
技術者はそんなことは無いと否定するであろうが、確かに20世紀の技術の生産物にはそのようなものが多かったように思われる。即ち、目先の便利・簡単・安価などに捉われて、真に人間生活とその持続的発展と進化に供するか否かの視点に欠けるものが多かった。
現代の工学における価値観のままの未来はいかにも危険すぎる。やはり、自然科学は、価値の如何に拘わらず、自然の中の普遍性をありのままに理解するためのものであり、社会への価値は文化科学が生みだすものと理解した方が、持続的文明にとっては良いように思われる。そのことは、自然科学が生みだしたものであっても、その社会への価値判断は文化科学にゆだねられるべきと思う。



メタエンジニアの眼シリーズ(54)人類の歴史と文明論 

2017年12月11日 14時49分13秒 | メタエンジニアの眼
その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(54)
                                                                    TITLE: 人類の人類の歴史と文明論  

『その生命に畏敬の念を持つテクノロジーに立脚したものづくりによって新たな「生命文明」を構築できれば、この地球環境と文明の危機は克服できるはずである』という最後の言葉は,まさにメタエンジニアリングの目指すべきことを表している。

① 書籍名;「人類5万年 文明の興亡」[2014]  KMB3402
著者;イアン・モリス  発行所;筑摩書房 発行日;2014.3.25
初回作成年月日;H29.12.8 最終改定日;H29.12.11 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 文明の攻防



② 書籍名;「人類一万年文明論」[2017]  KMB3406
著者;安田喜憲  発行所;東洋経済新報社 発行日;2017.10.5
初回作成年月日;H29.12.8 最終改定日;H29.12.11 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 文明の攻防



 ドイツの哲学者シュペングラーの代表作である「西洋の没落 Der Untergang des Abendlandes」の第1巻「形態と現実」は1918に発行された。ちょうど1世紀前である。「ローマクラブが成長の限界」を発表してからも、半世紀近くになる。この間に多くの文明に関する著書が発行されたが、最近の内容はこの二つを肯定することで一致している。勿論、理由は様々なのだが、大きく分けて二つになってしまうように思う。西欧発の一神教哲学に基づくものと、自然との融合を目指す多神教文化に基づくものだ。この①と②の著書は、その題名からもそれぞれを代表しているように思う。

①の著者は、スタンフォード大学の歴史学の教授で、博士号はケンブリッジ大学の考古学で取得している。アメリカで、ペンクラブ賞などを受賞。根っからの西欧人種だ。従って、この書は、②の安田喜憲著「人類一万年文明論」[2017]との比較が面白い。どちらも、それぞれの立場で現在までの人類の文明の歴史を踏まえて、新たな視点で議論を展開している。さらに、一方は西欧の思考法を、他方は東洋的・日本的な思考法で将来を見据えている。

②の下巻の「訳者あとがき」には、次のようにある。

『なぜ西洋が世界を支配しているのかという間いに対しては、八世紀以降、様々な議論が繰り広げられている。しかし、著者はそのどれもが、前提となる歴史の全体像を正しく理解していないと指摘する。もっぱら先史時代と近代以降を対象とし、その間の数千年についてほとんど語っていないからだ。これを踏まえ、人類史全体をーつの物譜として見るために著者が出発点としたのは、束洋と西洋に何ら区別がなかった時代十五万年前だ12000年前に農耕が始まると、ユーラシア大陸の西端に位置する「河沿いの丘陵地帯」と東端に位置する長江、黄洞流域で文明が発展した。この二つのオリジナル、コアから派生した社会を、著者は「西洋」、「東洋」と呼ぶ。 束洋と西洋を比較するために用いられているのは、国連の人間開発指数にヒントを得た「社会発 展指数」である。「エネルギー獲得量、組織化、戦争遂行力、情報技術」という四つの特性を点数化し加算したもので、それぞれの時代における東洋と西洋の社会発展の度合いを定鍛的に測定できる(なお、2013年には「社会発展指数」を詳細に解説した、“The Measure of Civilization; How Social Development Decides the Fate of Nation”が出版されている.
最終氷期が終わる頃、気候と生態系の変化によって酉洋は東洋よりも早く発展した。その後両者の社会発展指数の差は広がったときもあれば縮んだときもある。五五〇年頃には差はまったく消えてしまい、その後の1200年間は東洋が優位に立っていた。一五世紀に東洋がアメリカ大陸を発見する可能性はあったが、地理ゆえに西洋が先んじた。』(下P388)

 先ずは、「社会発展指数」などという一方的な指数を定義して、それで文明の度合いを測っている。指数に含まれない項目は、一切かかわりないというわけだ。「まえがき」で、様々な専門家(植物学、動物学、化学、地質学、地理学など)を集めて云々と語っているのとは矛盾する。
 著者は、文明の興亡の分析に際して、3つの視点を強調している。「発展のパラドックス」、「後進性の有利」、「地理学の法則」の3つである。
 「発展のパラドックス」とは、社会が発展すると、それを妨げる力が生まれる。人々に困難な選択を迫る。そこで、ゲームチェンジができるかどうかである。(上P036)
「後進性の有利」とは、社会の発展に従って、必要なリソースが変化し、インフラも発達する。
そうなると、かつてそれほど重要視されなかった地域が、その後進性に優位が見いだされるというわけである。(上P042)アメリカ大陸などを念頭にしてのことだと思われる。
 
 つまり、最も先進的な地域は、時とともに移動する。
「地理学の法則」とは、その時代の主たる交通手段によって、発展に差異が生じるというものである。(上P046)
単純化すると、文明の興亡は、経済的な豊かさと武力の大きさで決まるというわけである。これは、東洋的な「文明」の定義とは異なるし、はたして将来もそうであろうかといった疑問が生じる。

 下巻の最終章の「・・・今のところは」では、一転して二酸化炭素濃度の増加により、海面上昇と異常気象は避けようもなく、世界全体が悲惨な状態になるとしている。近代西欧哲学的な考え方では、文明の行く先は悲惨なものとしか、言いようがないかのようであった。
一方で、②の著者は、日本の文明論の最高権威といっても過言でない。多数の著書に加えて、紫綬褒章を受けている。この著書はコラム風の文章を集めたようなものなのだが、それらの集大成のように思う。本書の副題は、「環境考古学からの警鐘」とあるのだが、メタエンジニアリングとしては、「警鐘」ではこまってしまう。警鐘は過去のもので、もはやImplementingのステージが求められている。

「はじめに」はエネルギー論から始まっている。
『ローマ文明の興亡にもエネルギーの在り方が深くかかわっていた。とりわけ森林がエネル ギーであった時代には、森林の荒廃と文明の盛衰(安田喜憲『森林の荒廃と文明の盛衰』思索
社、1988)は深くかかわっていた。イースター島のモアイの文明のように、絶海の孤島の森を破壊し尽くしてエネルギー資源を失った文明は衰亡していった(安田喜憲 『環境考古学のすすめ』丸善ライブラリー、2001)。』(pp.3)
 そして、「力と闘争の文明」はもう結構で、「一神教の文明が抱えた闇」は深い、と述べている。これは、西欧型の文明の本質の将来は無いとの断言と思う。

 本書の明確な主張は、ほぼすべての日本発の文明論を踏まえたうえで、川勝平太氏の「文明の海洋史観」を拡張した「環太平洋文明圏」だと思う。日本の縄文文明と、長江文明・クメール文明・マオリ文明・アンデス文明・マヤ文明を組み合わせたものだ。共通するものの一つは、「蛇の文様」のようだ。つまり、再生を伴う自然界の輪廻を重要視している。
 エネルギー論から始まる持続的文明のキーワードは、「森を守る」で、イースター島の森林破壊と、タヒチや日本の森を守った歴史の結果による文明の継続性との差異を重要視している。(pp.122)

 第5章の「生命文明の時代」では、その構築のプロセスとして以下のように述べている。
 
 『いかなるテクノロジーに立脚した国家を発展させれば、豊かさを求めてやまないこの人間の 欲望をコントロールできるのか。 いかなるテクノロジーを発展させいかなる国家を構築すれば、人間は自然と共生することに生きる喜びを心底感じることができるのか。いかなる文明を構築すれば、環境と経済を両立させることに夢を抱き、人問は持続型文明社会に向かって満進できるのか。いかなる国家を目指せば、人間は自らの育った風土と伝統文化に愛着と誇りを持つことができ、豊かで安寧な地域社会を構築できるのか。

現代文明は「物質エネルギー文明」の段階から「情報文明」にようやく突人した段階である。 しかし、地球環境問題に端を発する人間生存と環境の危機は、「物質エネルギー文明」と「情報文明」のみでは、もはや近未来の文明を持続的に維持できない。ではどうすればこの自然と人間の危機を克服し、持続型の文明社会を構築できるのか。その一つの解決策として新たな「生命文明」の構築に向けた国家戦略が必要である。

これまでの文明とテクノロジーのなかで大きく欠落していたのは生命への視点・生命への畏 敬の念である。それは人間の生命だけではない、生きとし生けるものの生命の輝きに感動し、 いや生命を生み出す山や川にいたるまで、この地上の生命を輝かせ、その生命の輝きが美しい 生命世界を構築することに最大の価値を置く文明とテクノロジーを発達させることが必要なのである。 その生命に畏敬の念を持つテクノロジーに立脚したものづくりによって新たな「生命文明」を構築できれば、この地球環境と文明の危機は克服できるはずである。』(pp.248)

 これは「アミニズム世界観」という言葉で言い表されている。つまり、人間界は自然界の一部分であり、決して自然界を支配するために作られたものではない。そこに、西欧型一神教哲学との大きな差異がある。
『その生命に畏敬の念を持つテクノロジーに立脚したものづくりによって新たな「生命文明」を構築できれば、この地球環境と文明の危機は克服できるはずである』という最後の言葉は,まさにメタエンジニアリングの目指すべきことを表している。

メタエンジニアの眼シリーズ(53)「インダス文明の謎」[2013]

2017年12月08日 13時30分38秒 | メタエンジニアの眼
書籍名;「インダス文明の謎」[2013]  KMB3401

著者;長田俊樹  発行所;京都大学学術出版会 
発行日;2013.10.10
初回作成年月日;H29.12.8 最終改定日;H 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

「古代のインド―ヤマト文化圏(その11)」です。



 著者の長田俊樹氏は、インド・ラーンチー大学で博士号を取得した言語学者である。彼が「総合地球環境学研究所」教授であった期間に、インダス文明に関するプロジェクトが行われ、5年間に集中的な発掘調査が行なわれた。本書はその結果をまとめたものなのだが、考古学者の従来の説に囚われない視点からの多くの知見が語られている。

 第1の視点は、現代の南アジアのモンスーン地域との生活と文化の類似性にある。有名な世界4大古代文明の中では、際立った特徴がある。それは、①大河流域に発達した文明ではない、②広範囲に分布しすぎている、③食物と文化の多様性などである。
 これらを、従来の学説である、④王権や支配者層が存在しなかった、⑤戦争の痕跡がない、⑥短期間に成長して衰退した(実質700年間)などと合わせると、自然に現代まで続く南アジアモンスーン地域の文明が浮かび上がってくる。

「はじめに」から、キーワードのみを列挙する。
・インダス文字だけが、古代4大文明の文字のなかで解読されていない。記号か?
・遺跡の最終的な数と範囲は、まだ定まっていない。1980発行のNHK Bookでは200遺跡だったが、最新では2600遺跡。しかし、発掘と結果の報告者は皆無。
・遺跡の範囲は、東西1500km,南北1800kmで、多くはインド側に分布
・多言語多文化共生社会だった。
・農民、牧畜遊牧民、職人、商人が補完関係で社会を存続させ搾取従属関係はなかった。

 このような観点から、現代の東アジアモンスーン気候の文化と類似していると指摘している。
インダス文明の文化的特徴として、第1に標準化された度量衡を挙げている。レンガのサイズが、広範囲で一致していること、秤用の錘の重量が、二進法(大きくなると十進法)で統一されている。

 広範囲に広がっているので、作物は地域によって異なっている。夏作が中心と冬作が中心の地域があり、その間の交易が発達した。異なる言語間の商取引は、独特の共通するインダス文字の印章が使われた。

従来の学説と思しきものは、次のインターネット記事にある。
世界史の目-Vol.9-アーリア人http://www.kobemantoman.jp/sub/9.htm

『紀元前2300~紀元前1800年の間、南アジアに位置するインド亜大陸は青銅器文明が栄え(インダス文明)、ハラッパー遺跡(インダス川上流・パンジャーブ地方)、モヘンジョ=ダロ遺跡(インダス川下流のシンド地方)を残した。しかし陵墓や宮殿跡、あるいは武器、王の彫像などがみられず、どちらかといえば庶民生活関係の遺物が多く出土した。
 
この文明の真の滅亡原因は不明だが、河川氾濫・気候乾燥化・交易中断・統制者の死亡などの諸説があり、その中で、侵入民族の破壊説もあったが、年代のズレがありこの説は否定されている。その侵入民族がアーリア人であった。東方系のインド=ヨーロッパ語族であるアーリア人は、もともと中央アジアの草原地帯で遊牧生活を営んでいたが、紀元前2000年頃、馬と戦車でもって、大移動を開始する。"高貴(="アーリア"の意味)な民族"と自称したアーリア人は、紀元前1500年頃、ヒンドゥークシュ山脈にあるカイバー(カイバル)峠を越えて、パンジャーブ地方に侵入し、先住農民(ダーサ?)を征服、農耕・牧畜生活を営み、氏族ごとに村落を形成した。
 
アーリア人の財産は"牛"であり、牛を神聖視する風習であった。また雷・雨・雲・太陽など自然現象を神格化したため多神教信仰となり、供物と讃歌を神々に捧げ、崇拝した。この神々に捧げた讃歌や儀礼などを載せた聖典が「ヴェーダ」で、その中でのインド最古の聖典はB.C.1200~B.C.1000年頃に成立した「リグ=ヴェーダ」である。祭祀が形式化したことで司祭者も出現し、アーリア人はヴェーダを通じて先住民との間に人種・文化双方で融合・混血していった(以降は純粋なアーリア人ではなく、アーリア系民族と呼ぶのが正しいですが、複雑を避けるため、アーリア人の呼称を使わせていただきます)。紀元前1000年頃、アーリア人は肥沃な地を求めて東方への移動を開始、ガンジス川上流域に入り、定着した。前800年頃には青銅器に次いで鉄器を使用し始め、中流域へも定着していった。ここでは先住民から稲作を知り、拡大生産型の農耕生活となっていく。』

しかし、この書を読んで、インダス文明はアーリア人の侵入により徐々に東南アジア方面に展開していったように思える。アーリア人がインド亜大陸やパキスタン、イラン方面に展開をしたが、彼らはモンスーン地域に展開して、多様性文化を保った。同時に多神教や多言語社会もそのまま存属しのではないだろうか。