生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(77)淡路島での4日間(その2)

2024年05月12日 15時50分37秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(77)        
題名;淡路島での4日間(その2) 場所;淡路島 月日;2024.4.7~9
テーマ;古事記と現代社会の共存                                               

・旅の目的
桜の満開の時期に、淡路島で4日間を過ごした。目的は、3つあった。
① 古事記のおのころ島に滞在すること
② 鳴門の渦潮を船からみること
③ 今は、リゾートの島となっている現状を、少し体験すること

・往復については、
往路;無料航空券で、羽田から伊丹空港へ
 そこから、淡路島の中心の洲本バスセンター行きの高速バスで、ホテルまで直行
帰路;ホテルから新幹線の新神戸までの直通バス
 そこから、新幹線で東京へ戻る

・大日程
 第1日目;洲本の街歩き
 第2日目;レンタカーで駆け巡る
 第3日目;路線バスの旅
 第4日目;3日夜までに決める

・第2日目の詳細

 二日目は、終日レンタカーで、路線バスでは行けないところを廻ることにした。島のレンタカーは豊富で、ホテルからバスセンターへの道筋にも一件あり、そこまでホテルの送迎バスで送ってもらった。
私は齢78歳なので、知らない土地でのレンタカーには、少し戸惑いがあったが、先日免許更新をしたばかりで、島内の交通が複雑でないことを願っての借用だった。


 
 9時に借用して、海岸を北上し「淡路ワールドパークONOKORO」の駐車場に止めた。平日なのでガラガラ。古事記の「おのころ島」が、あちこちで借用されていることは、神社巡りに期待が持たれる。



 若い人向けには、様々な乗り物と体験があるのだが、当方は世界の名所のミニチュアと観覧車がお目当てだった。ミニチュアは、思いのほか精巧で、現地では見ることのできない、教会の尖塔の飾りや、寺院の壁面の彫刻の詳細をじっくりと眺めることができ、満足だった。







また、「童話の森」では、世界童話の8作品のジオラマがあり、物語の概要も示されていたので、改めて昔を思い出した。「ヘンゼルとグレーテル」や「ジャックと豆の木」など、忘れていた経緯や結末もあった。



「遺跡の世界」も一巡したのだが、間近でゆっくりと見られるのは、年寄り向きなのかも知れない。



 観覧車は、勿論貸切り。ゆっくりと、公園全体と周辺の町並みを見物した。歩き疲れを癒やすには、こ




 公園での軽い昼食の後に、「伊弉諾神宮」へ向かった。道路は比較的広く、走りやすい。
ここは、伊弉諾の尊が、すべての国産みを終えた後での隠居所とされている。
 お目当ては、「ひのわかみやと陽の道しるべ」という大きな石碑だ。いくつかの古代史の書籍に引用されている。
 この地点から、太陽に関する8つの方向には、それぞれいわれのある神社が存在する。例えば、真東が伊勢神宮、夏至の日の出は熊野大社といった具合だ。






 淡路島を横断して、西の海岸に「幸せのパンケーキ淡路島テラス」という、若者に人気の店がある。そこのパンケーキを楽しんだ。若者のお目当ては、スイーツよりも、海に突き出た二つのモニュメントで、そこでは、撮影のための行列ができていた。




 最後は、「おのころ島神社」で「自凝島神社」と書く。




 レンタカーは、無事夕刻に返却をすることができた。

その場考学との徘徊(76)淡路島での4日間(その1)

2024年05月12日 10時13分20秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(76)         

題名;淡路島での4日間(その1) 場所;淡路島 月日;2024.4.7~9
テーマ;古事記と現代社会の共存
                                               
・旅の目的
桜の満開の時期に、淡路島で4日間を過ごした。目的は、3つあった。
① 古事記のおのころ島に滞在すること
② 鳴門の渦潮を船からみること
③ 今は、リゾートの島となっている現状を、少し体験すること

・往復については、
往路;無料航空券で、羽田から伊丹空港へ
 そこから、淡路島の中心の洲本バスセンター行きの高速バスで、ホテルまで直行
帰路;ホテルから新幹線の新神戸までの直通バス
 そこから、新幹線で東京へ戻る

・大日程
 第1日目;洲本の街歩き
 第2日目;レンタカーで駆け巡る
 第3日目;路線バスの旅
 第4日目;3日夜までに決める

・第1日目の詳細

 羽田からの飛行は、AirbusA350-900という大型の最新機種。下は曇りで見えないのだが、3次元画像で、どこを飛んでいるかはよく分かる。しかし、雲の上の富士山と南アルプスは、実物がよく見えた。



 伊丹空港で驚いたのは、淡路島へのバスだった。通常のリムジンバス乗り場に、そのバスは来ない。案内所で聞くと、空港ビルの外れの別のビルに停留所があるという。かなり歩いて、そこまで行くと、看板があるだけ。バス会社に連絡をすると、予約がないと、乗れないかも知れない。つまり、満員でなくても、そこから乗る人の予約がないと、通過するそうだ。
 幸い、二組が乗車したので、なんとか乗ることができた。最悪は、淡路島までレンタカーを考えた。



 車内は、結構混んでいた。夕方の通勤時間帯ならばともかく、日曜日の昼下がりでは、通常の空港リムジンでは考えられない混雑だ。

 しばらくして、原因が分かった。いくつものトンネルを抜け、明石海峡大橋を渡ると、「ニジゲンノモリ」という停留所がある。そこで、大部分の乗客が降りてしまった。
 子供ずれ、外人客など色々だ。そこは最新のテーマパークで、ドラゴンクエストや、ゴジラの実物大のアトラクションがある。「ゴジラが淡路島に上陸」との宣伝文があった。
 後にTV番組の「Youは何しに日本へ」で、アメリカ人が「ゴジラに食べられるために来た」といっていた。最近のゴジラは海外での人気が高い。
 そこから淡路島縦断は、ガラガラ。終点の「淡路バスセンター」で降りたのは我々だけだった。バスは何と「ニジゲンノモリ」のラッピングカーだった。日曜日の昼前という、とんだ時間に混んでいたのを、納得した。



 洲本バスセンター内の観光案内所は、なんでも親切に教えてくださった。島内の南北へ向かう路線バスも、時刻表が数種類あるのだが、目的地を決めれば、計画は立てやすいし、本数もかなりある。
 近くのレストランで昼食を摂り、ホテルに向かうことにした。ホテルには、別途送迎バスの時刻表があるのだが、連絡をすれば、いつでも臨時に迎えを出して貰える。これは年寄には大変ありがたい。

 チェックイン時刻には間があるので、城山に登ることにした。登山道が二つあり、山道と普通の路だという。
せっかくなので、山道を選んだ。木々の間から、時々海が見える。
 頂上らしき処は二つあって、一つは城の天守閣がある。しかし、私が登ったところは、公園で、数組が幼児を遊ばせながら花見をしていた。桜の木は大きくないのだが、記念樹に見えた。どうも、北海道のどこかと姉妹都市のようだ。


 
 この疑問は、すぐに分かったのだが、先ずは、下におりてホテルにチェックインをした。部屋は、一人なのだが、ツインになっている。淡路島は、土地が広い。



後で知ったのだが、どうやら特別フロアーだったようで、エレベータ横にラウンジがあり、飲み物と新聞が置いてある。
 翌朝の朝刊は、5時からの朝風呂の後には、もう4紙置いてあった。東京の我が家よりは、早いのでびっくりだ。

ホテルを出て、街歩きを始めた。最初は、ホテルの前の松林。海風に晒されるので、独特の曲がった幹が面白い。



 すぐに、「国指定名勝 旧益習館庭園」という処に出た。観光案内所で、今日は特別公開をしているので、見に行かれたら、とおすすめのあったところだ。
 閉園5分前だったが、ゆっくりと回遊をさせていただいた。

大きな岩がほどよく配置されていた。




 江戸時代の後期に、淡路島は蜂須賀家の領地だったが、実質は城代家老の稲田氏が治めていた。
明治維新時に、蜂須賀家は将軍家と結び、稲田氏は朝廷と縁があった。そのために事変が起こり、結局両家は罰を受けたのだが、稲田氏は、明治政府から北海道の静内に移住して開拓をするとの命令が下された。先ほどの山頂の記念樹の意味が、ここでようやく分かった。
 この庭園の横には、小さな桜並木があり、奥には、山頂に向かう別の登山道の階段が見えた。



 住宅街の路地をジグザグに進むと、10分ほどで街に出る。「洲本レトロ小道」との名前が付けられた路地があり、のぞいてみた。残念ながら日曜日はどこも閉店。わずかに、「淡路島でのドラマの撮影スポット」なるパネルの展示列があり、それを楽しむくらいだった。  



その場考学との徘徊(75) 都心部の坂道と階段(その3)信濃町~四谷三丁目

2023年12月13日 10時41分21秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(75)     
題名;都心部の坂道と階段(その3)  場所;信濃町~四谷三丁目 月日;2023.12.8
テーマ;迷子になりそうな町
作成日;2023.12.12                                                

TITLE: 都心部の坂道と階段(その3)信濃町~四谷三丁目

 今日は、信濃町駅から北に向かって歩くのだが、終点は「その1」で歩き始めた四谷三丁目の荒木町の交差点になる。つまり、新宿通りを挟んで、その1では北側、今回は南側になる。
 中央線の信濃町駅は、神宮外苑や明治記念館に行くために、何度も降りたことがあるのだが、いきなり千日谷を下るのは初めてだ。ちなみに、谷の名前は、ここの領主の法要が千日間行われたことに拠るとか。下った先の窪地で、早速に方向が解らなくなって、いきなり引き返すことに。



 坂の途中には、公明党の建物がある、中央線から看板がよく見える処だ。道なりに進むと、旧東宮御所の門の前の通りに出てしまった。神宮外苑から迎賓館に通じる道で、大学への通学によく通った。現在は、上宮御殿になっているので、かつてよりも守衛さんの数が多い。



 方向転換をして坂を下ると、中央線を潜ることになる。そこから先は一本道だ。

 次の目当ては、若葉公園ですり鉢の底のような地形だと書いてある。
途中で道を聞いてなんとかたどり着いたのだが、何もない公園だった。
しかし、公園からは、次の暗闇坂が見通せる。昼でも暗闇だったそうだ。
丁度、保育園児の一団が降りてくる処だった。




 暗闇坂を登り切って、細い路地を進むと、須賀神社の裏手に出る。そこには何故か36歌仙の絵入りの額が並んでいた。このあたりでは、四谷十八ヵ町の鎮守様として、かつては江戸の五大祭りの一つとして有名でしたとある。社名の須賀は、須佐之男命が出雲の国で八俣の大蛇を討ち平らげ拾い「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」との故事に基づき名付けられた。





 社務所には、やはり朱印帳の列があったが、私は、鳥居のストラップを選んでだ。なぜ鳥居なのかは解らないが、外人向けなのかも知れない。赤い紐は、「叶むすび」と呼ぶそうで、丸(四角)と十字の結び目が、叶という字になっている。


 
 拝礼を済ませて、正面から出る。すぐに天王坂という長い階段がある。しかし、その先はまた上り坂になっている。 谷底を左に行けばゴールの四谷三丁目だが、反対方向へ曲がる。服部半蔵の墓がある、西念寺を目指した。



 
 西念寺への道は単純だったのだが、お寺の境内は崖の上。通りがかりの人に聞いてもどこが入り口か解らない。
崖に沿ってこのまま進むか、思い切って「観音坂」という名の急坂を登るかの選択だった。道を聞いた人が登るので、話しながら坂を登ったのが正解だった。登り切った角を更に曲がり、結局、迷った場所の対角線の位置に山門があった。
 墓所は広いのだが、境内は意外に狭く、半蔵の墓と信康の供養塔はすぐに見つかった。





 服部家は徳川以前の松平時代の譜代家臣で、2代目服部半蔵正成が徳川家康に仕えて武功立て、8千石の旗本になった。彼は、いわゆる忍者ではなく、「槍の半蔵」と呼ばれる豪傑だったらしい。なぜこの地に家康の長男で、信長から切腹を強要された信康の供養塔を建てたのかは、よく分からない。




 山門でUターンをして、四谷三丁目へ向かう。途中には「東福院」と「円通寺」が有り、それぞれが「東福院坂(別名は天王坂)」と「円通寺坂」の中程にある。坂を登ったり下ったりで、
ウオーキングにはうってつけだった。



 そして、ついに地下鉄丸ノ内線が通る新宿通りとの交差点に出た。道の向こう側には、その1を歩き始めた荒木町の人力車の頭飾りがある赤い街路灯が見えた。





 全行程は7900歩、2時間強のウオーキングでした。

その場考学との徘徊(74)神楽坂はジグザグが楽しい

2023年12月12日 08時07分38秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(74)    

題名;都心部の坂道と階段(その2)  場所;神楽坂 月日;2023.11.28
テーマ;神楽坂はジグザグが楽しい
作成日;2023.12.11   
                                             
TITLE: 都心部の坂道と階段(その2)飯田橋駅東口~飯田橋駅西口

 今回は神楽坂なのだが、有名な商店街は歩かずに、ジグザグに登って、頂上にある有名な神社でUターンして下るルート。再び「東京人」の地図が頼りだ。



 神楽坂の横道は、とにかくわかりにくい。かつて、自衛隊のOBさんに誘われて、何回か飲食をしたのだが、どの店も小さく看板がなく、二度とその場所へ行くことができない。
 スタートは飯田橋駅の東口。このJRの駅は東京駅側が大きくカーブしていて、改札口まで随分と歩かされるのが特徴。
駅を出るとすぐに大きな歩道橋がある。ここで既に方向が解らなくなる。神楽坂に行くには、歩道橋に上がってはいけない。唯一の横断歩道を渡る。




 神楽小路という、外堀通りと平行の細い裏道を神楽坂に向かって歩く。ここには、昔あったといわれる期待した店はなかった。神楽坂の商店街を少しだけ上り、すぐに右に曲がって、細い路地をジグザグに進む。案内書には「路地裏ラビリンス」とある。
本田横丁を抜けると、筑土八幡町の交差点に出る。正面に神社の長い階段が見える。



階段は、男坂と呼ばれて50段。ここは、かつて牛込台地と呼ばれており、北の端が今日の目的地の赤城神社になっている。          残念なことに、両神社とも宝物殿は見当たらなかった。最近は、どこも若い女性が朱印帳を持って社務所に行列をしている。ここも、数人が並んでいた。 



 階段を一旦降りて、西に向かう。この辺にも階段があるはずなのだが、見つからないうちに、「神楽坂上」の交差点に出てしまった。

 交差点から、神楽坂を少し下って、善国寺に出る。毘沙門天で有名なのだが、像を拝むことはできなかった。七福神の小さな根付けを購入。
 少し戻って、今度は神楽坂の西側を巡る。地蔵坂と呼ばれる細長い道で、途中に光照寺がある。北条氏の出城の一つで、牛込氏の居城跡とあるのだが、看板以外に見るものがなかった。
 そこから、更に下ると、大江戸線の牛込神楽坂駅に出る。道路の反対側には、袖摺坂の狭い階段を見ることができる。すれ違うたびに、袖が摺れるそうだ。横には、マンションの土台を利用した公衆便所がある。地下鉄が開通する前からのものなのだろう。



 確かに、すれ違いが難しい階段を上りきると、住宅街に突き当たる。右に曲がって、朝日坂を下ると神楽坂の遙か上に出た。東西線の神楽坂駅がある。信号の下に、赤城神社の入り口がある。



 境内はかなり広いようで、拝殿が見えない。参拝者が出てくる方向へ進むと、いくつかの階段があり、やがて眺めの良い場所に拝殿があった。つまり、ここが台地の端のように見える。

 


 帰路は、神楽坂商店街を一気に下った。両側の商店は、さすがに飲食店が多いのだが、通常の八百屋や雑貨店もあり、上の方は普通の商店街だった。家への土産物を探したが、良い店がない。そろそろ飯田橋駅と思ったところに「陶柿園」という瀬戸物屋が有り、店先に特売品として江戸切子が並んでいた。中に、手頃なぐい飲みが有り、それを奥さんの誕生日プレゼントとして求めた。江戸切子にしては安価だったので、店の主人に聞くと「江戸切子の職人が、中国に滞在して、現地教育を行った場所で、生産されている」と。つまり、中国製なのだが、模様も、切り込みも確かなものに見えた。夕食時に早速試したのだが、握り心地が大変良かった。



 飯田橋駅の新宿よりには、江戸城の石垣の大きな名残がある。駅ビルのテラスから全体を見ることができる。



その場考学との徘徊(73)都心部の坂道と階段(その1)

2023年12月09日 07時40分26秒 | その場考学との徘徊
題名;都心部の坂道と階段(その1)  場所;荒木町 月日;2023.10.28
テーマ;四方八方階段だらけ 
作成日;2023.12.8                                                

TITLE: 都心部の坂道と階段(その1)四谷三丁目~曙橋

 図書館のリユース本の棚で、「階段で歩く東京の凸凹」という雑誌が目に入った。「東京人」という月刊誌の2021年3月号だった。その中からいくつかを試してみることを始めた。半日ウオーキングにうってつけだ。



 初回は、新宿区荒木町で昔は花街だったそうだ。「東西南北の四方が塞がれたすり鉢」と云われている狭い地域のようだ。確かに、地図を見ただけで、そのすごさが歴然としている。



 1から6番までの階段すべてを効率的に廻るルートの作成から始めた。
出発地の地下鉄丸ノ内線の四谷三丁目駅は飲食店が多く、友人と居酒屋やそば屋を楽しんだ記憶があるが、昔の花街の路地に入るのは初めてだ。入り口の赤い柱の街灯の上には、人力車の飾りがついている。これが目印になっている。やはり、細い道の両側には、小さな飲食店が並んでいる。



 最初の階段からやけに狭そう。あたりには車はなく、もっぱら自転車が放置されている。車が入ってこないせいだろうか。



路地は複雑で、方向が解らなくなり易い。うっかり登ると、上の道に出てしまう。

 しばらく行くと、小さな池がある。「笞の池」とある。
昔、徳川家康が鷹狩りの途中に寄って、ムチを洗ったと書いてある。
実際このあたりには湧き水があり、相当な広さだったとある。鯉が寄ってくるのは、餌やりの人がいるからなのだろう。




池の畔には弁財天がまつられている。



そこからUターンをして、別の階段に向かった。とにかく、狭い場所なので、あっという間に6つを制覇することができる。



 最後の、曙橋の通りに上る階段の先には、防衛庁の電波塔を真正面に見ることができる。これで、方向が確認できるので、安心だ。

 曙橋の陸橋からの眺めは、下の通りまでの高さを実感できる。
そこから、一旦坂を下りて、近くの新宿区歴史博物館へ向かった。

 この博物館には、一度来たことがあるのだが、今回は林芙美子展が行われている。マスコミに騒がれた作家程度の認識しかなく、作品も読んだ覚えがないのだが、その独特の人生には興味があった。周辺の、淀橋浄水場の絵が描かれた四角いマンホールの蓋が面白い。



 生誕120年記念展なのだが、中身は充実していた。シベリア鉄道経由でヨーロッパを回り、パリに在住。帰国後は、大戦中に従軍作家として中国大陸を巡り、奥地の占領時には、第一陣とともに行動したとある。


 入り口にあるジオラマが素晴らしい。現在の新宿駅周辺が克明に表されている。鉄道の線路、駅舎、周辺のビルの屋上の機器や配管類まで再現されているのは面白い。



 また、内藤新宿時代の町並みも見事だ。私の母校の都立新宿高校の位置も、甲州街道と玉川上水の関係からはっきりと解る。現代のジオラマでは、3代目の校舎の屋上プールの形まで再現されている。新たに開通した明治通りのバイパスを挟んで、新宿御苑の木々の一本一本や建物まで正確なのには驚かされる。




飛行中のモニター画面の楽しみ方(その2)

2023年09月01日 13時16分47秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(72)         
題名;JALの旅  場所;機内にて 月日;2023.8.24
テーマ;向かい風 作成日;2021.11.24                                                

TITLE: 飛行中のモニター画面の楽しみ方(その2)

 昨年の11月に続いて、奈良での3泊4日の一人旅を終えて、伊丹空港から羽田空港までの空旅を楽しみました。今回の機体はBoeing787-8ですが、機内は満席。午後5時台のフライトでしたが、奈良からの空港リムジンの都合で、3時前に伊丹に着いてしまいました。途中、猛烈な雷雨に遭ったのですが、空港も「雷警報のために全作業を中断します」でした。そのために、3時台は1時間以上のおくれ。4時台は15分遅れのペースでしたが、搭乗者の一人が行方不明で、結局5時台の15分前に、やっとゲートを離れました。

 前回(2022.11.17)と同様に、帰路ではもっぱらモニター画面とにらめっこをすることにしました。ジェットエンジン屋としては、雷雲が散在する中での機速と高度の関係に興味が湧きます。
あるタイミング毎に目的地からの距離、機速、高度、それと風向きが表示されるので、それを記録してみました。昔、米国大陸を南北に飛んだ時に、飛行高度を遙かに超える雷雲の柱を、何本も避けながら飛んだ記憶が蘇ってのことです。

帰宅後に、グラフ用紙にプロットをしてみると、色々なことが分かりました。


 
 グラフから、結構色々なことが読み取れます。
① 飛行高度(当日は6400mですが、前回は8839m)は、1メートルの上下もなく、ほぼ200kmの間保たれている。
② そのためには、機速は結構大幅に上下している。
③ 上昇中は、スピードもどんどん上がるが、前回は、水平飛行の直前から、スピードを下げて高度がオーバーしないように調整していたが、今回は最高速度と、最高高度が一致。AirBus機とBoeing機の違いなのか、機長の好みなのかは不明。
④ 向かい風では、機速は大幅に落ちる。落ちる分の、約半分をエンジンの出力を上げて、大幅な遅れを避ける。
⑤ 当日のフライト中では、Max.38m/sの向かい風で、これは時速137km/hなので、その時の機速の17~21%に相当する。
などでした。実数のデジタル数字の表示なので、結構楽しむことができました。

 奈良では、今回は、学生時代(1960年代)に何度も泊めていただいた禅宗のお寺で、当時の娘さんに60年ぶりにお会いできました。女性3代で寺を継いでおられるそうです。当時は、ジャンボ機が初めて飛び始めた頃でした。

その場考学との徘徊(71)奈良からの帰途にて

2022年11月25日 14時56分39秒 | その場考学との徘徊
TITLE: 飛行中のモニター画面の楽しみ方

 先日、奈良での4泊5日の一人旅を終えて、伊丹空港から羽田空港までの空旅を楽しみました。機体はAirbusA350で比較的大型機なのですが、機内は満席。座席からは窓が望めない場所でした。
 
 A350機はAirbusの新型機で、色々な工夫が備えられていますが、その一つが、機体に取り付けた二か所のモニターカメラの画像を、リアルタイムで各座席で見ることができることでした。
 往路も同じ機体で、羽田から伊丹に行きましたが、その際には映画を見ていました。しかし、時間が短く、しかも頻繁に社内アナウンスで中断させるので、楽しめるほどのことではありませんでした。これがヨーロッパや米国への長時間飛行なら良いのでしょうが。

 そこで、帰路ではもっぱらモニター画面を楽しむことにしました。乗機時から、足元で地上作業員がしきりに前輪をチェックしている姿が写っています。ちなみに、カメラは2台あり、地上用と尾翼から機体の上部を映すものの2個のようです。こちらは、空の状態や、フラップの動きなどが分かりますが、興味はもっぱら地上を映す方です。これならば、窓側の必要はなく、曇りの時は、3次元の詳細な地形図画面で飛行位置が分かります。伊豆大島上空を通過するのが、通常のルートですが、大島の火口の詳細までがはっきりとわかりました。

 ところで、ジェットエンジン屋としては、機速と高度の関係に興味が湧きます。あるタイミング毎に目的地からの距離、機速、高度が表示されるので、それを記録してみました。帰宅後に、グラフ用紙にプロットをしてみると、意外なことが分かりました。まあ、パイロットに直接に聞いてみないと分からないのですが、国内の飛行ではコックピット入りは無理でしょう。
 ちなみに、日英を頻繁に往復していた1980年代では、British Airwayのジャンボ機では、コックピットの入り口はカーテンのみの時もあり、勝手に飛行中のコックピット内で、エンジンの様子などについて、パイロットとの会話を楽しんでいたものでした。



 グラフから、結構色々なことが読み取れます。
① 飛行高度(当日は8839m)は、1メートルの上下もなく、ほぼ100kmの間保たれている。
② そのためには、機速は結構大幅に上下している。
③ 上昇中は、スピードもどんどん上がるが、水平飛行の直前から、スピードを下げて、高度がオーバーしないように調整している。
④ 下降態勢は、随分と前から始まる。スピードと高度は、直線的に下降する。
などでした。実数のデジタル数字の表示なので、結構楽しむことができました。

 奈良、とくに明日香地方は、学生時代(1960年代)に何度も通った。脇道に入ると、人通りは全くなく、まだ昔の雰囲気が残っていて、ほっとしました。

その場考学との徘徊(70) 東京みなと丸での海上徘徊

2021年12月25日 12時52分44秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(70)  

題名;東京みなと丸での海上徘徊 

場所;東京港 
月日;2021.12.23
テーマ;コンテナ埠頭の有様 
作成日;2021.12.25                              
                 
TITLE: 東京みなと丸での海上徘徊

 新視察船「東京みなと丸」という船がある。全長35m、幅7.78m、満載喫水1.3m、巡航速度13ノット、
総トン数215トンだそうだ。竹芝小型船船着場の発着で、毎日、午前と午後の2回、ネットで登録をすれば、誰でも70分の東京港巡りができる。

 この船は、一時期週刊誌を賑わした。週刊ポスト2017年6月2日号の記事をネットで見ることができる。
あらましは、この様になっている。
 『小池百合子・都知事の頭を悩ませているのは、「20億円豪華クルーザー建造」に都民の批判が巻き起こっていることだ。東京都が発注した五輪のVIP接待用の豪華クルーザーについて、都庁港湾局幹部に立腹した。』という話だ。私は、生まれながらの都民だが、新聞紙上で陸上競技場の問題は読んだが、この船の記事の記憶はない。
 
 この船は、『名目は都が保有する視察船「新東京丸」の老朽化に伴う代替船ということになっているのだが、
中身は、「メガヨット」と呼ばれる全長35メートルの外洋タイプのクルーザーだ。イタリアの大手造船会社「アジムット-ベネッティ社」に約20億円で発注され、1階甲板に同時通訳設備付きの大会議室、2階の貴賓室には京都の織物の絨毯など日本の伝統工芸の調度品が備えられ、3階が展望デッキでエレベータまで備える豪華仕様になっている。』と書かれている。東京五輪の際、VIPを羽田空港から浜離宮の迎賓館まで船で送迎する構想だったそうだ。
 その後、内装の京都の織物などを木目調のシンプルなものに変更等、予算削減で、最終的には約15億円で造られた。それが、現在は一般向けの東京港の観光船になっている。

 さて、当日の朝から始めると、下車駅は山手線の浜松町。昔からの跨線橋を進むと、窓から「芝離宮恩賜庭園」を見ることができる。階段を降りて、まっすぐに海岸へ向かう。高速道路をくぐると、景色は一変し、ホテルと海のコントラストが眼に入る。右が日の出桟橋、左が竹芝桟橋になっているが、今日は左の「竹芝小型船船着き場」へ向かう。目の前には、聊か似合わないイタリア製のクルーザーらしきものが停泊している。


    芝離宮恩賜庭園         


   インターコンチ・ホテルと東京丸

 予約はネットで簡単にでき、正面の待合室で名前を告げると、それでおしまい。乗船券も何もない。



 コロナ期間中は、定員の半分の15名のみなので、ゆっくりと楽しめる。しかし、乗船前に記念写真を撮っている間に、他の客は乗船を終えて、右側の窓際はすっかり満席になっていた。「基本的には右側の建造物を解説してゆくので、右側の席に座ることをおすすめします。」という書きものは見逃していた。だが、基本的にはどちらも変わらない。今回は、1階部分のみの使用で、この船室には左右の窓しかない。正面は、飛行機と同じで、画面が映し出されている。今はコロナ中ということで、後部のドアーが空け放されているので、そこからだけが、ガラス越しでない写真を撮ることができる。窓からの写真は、走り出して間もなく、水しぶきで、撮影には向かない。
 
 出航は、えらく静かで、走り出したことがわからないくらいだ。さすがに、イタリア製のクルーザーを感じる。日の出埠頭沿いを南へ進むと、直ぐにレインボーブリッジをくぐる。
 直ぐに、品川のコンテナ埠頭が見えてくる。続けて、大井埠頭のガントリークレーンへとつながる。この辺りまでは、赤色のクレーンがレインボーブリッジからよく見る景色だ。


 

 直ぐに、羽田空港を遠景だが確認することができる。着陸時に目安となる滑走路の延長橋で、それとわかるのだが、望遠で見ると、余剰の機体が並んでいるのが確認できる。フル稼働はいつになるのだろう。




 コンテナ埠頭でいつも感じるのは、東京港の寂しさだ。シンガポールは例外としても、アジアやアメリカでは、どの港もずら~と見渡す限りの列になっているのだが、ここでは、小さな埠頭毎に数基のクレーンがあるのみで、隣接する倉庫群も小さくて頼りない。コンテナ船も小型のものばかりで、古びた船が多い。
 ここで、大西洋から日本に運ばれるエビやアジの過半数が荷揚げされるとの説明だった。「アジ」には驚いたが、説明員の方はこの分野のベテランで、「近海のアジと、大西洋のアジは一目見ればすぐにわかる。大西洋育ちは、目がパッチリで可愛い」とか、環境決定論的には人間と同じなのだろうか。




 やがて、左舷に富士山が見えてくるのだが、写真を撮るのは旋回中に後部から見える瞬間を待たねばならない。一瞬だったが、何とか望遠で捉えることができた。ここから富士山が見えるのは、冬の午前中に限るのだろう。「今日も、午後の便では見えませんよ」と案内の人に言われた。



 
 入港する日本丸とすれ違った。富山港で見た見事な帆船だが、湾内では総ての帆が禁止だそうだ。



 折り返し点は、東京ゲートブリッジの手前。この橋のお蔭で、豊洲のIHIの造船工場は横浜に移転をさせられた。同時に、私が入社時にガスタービンの基礎試験を行った研究所の総ての施設も移転をして、今はマンションと買い物銀座になっている。この橋は、歩けるのだが、まだ一度も行ったことがない。
  この船の推進力は、高価なジェット推進で、後ろの波立ちが凄まじい。水深が浅い羽田に着岸できるように、船の喫水も1.2メートルと浅く設計されているのだそうだ。




 やがて、お台場沖を通過して、築地市場とオリンピック村の建物を見ることができる。このビル群の住宅への改造も、当初からの設計とは云え、かなり大変なようで、人が住めるにはまだ2年近くかかるようだ。先ごろ、マンションを買った客と建設会社間で裁判沙汰になっているようだ。





再びレインボーブリッジをくぐると、そろそろ終点になる。ジェット船なので、停船後に向きを180度変えている。その様子は、正面の画面で見ることができる。






 70分間、説明員の方は終始しゃべり通しだったのには驚かされた。分厚い原稿が目の前にあった。オリンピックの時には、実際にどのような活躍をしたのかは、まったく触れられなかったのは、少し残念に思う。

 

その場考学との徘徊(69)高校時代の修学旅行

2021年11月26日 08時13分47秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(69)   
題名;高校時代の修学旅行  場所;小豆島 月日;2021.11.14-16
テーマ;猛烈時代の高校生  作成日;2021.11.25   
                                             
TITLE:修学旅行を思い出す旅

 前回(第68回)示したように、年一回のJAL有料の旅は、JALパックでも構わない。他の旅行会社のパックでJALを使ったのでは、年度ごとの初回搭乗のボーナスはもらえない。コロナで、東京発の旅は制限が多かったが、昨年は何とかGO TOの期間中に伊丹往復のパックがあった。大阪、京都、奈良のいずれかからホテルを選ぶもので、秋の京都を満喫できた。コロナのお蔭で、通常は大混雑の紅葉の名所も楽に廻ることができた。



羽田から高松のルートは、京都市の北を通り、それから南下するので、姫路城(ここも修学旅行コース)上空を通過

 今年は、年末が差し迫った11月に、紅葉の小豆島を選んだ。高校の修学旅行以来なので50年ぶりを超えている。ちなみに、ある同級生が日記に残していた記録を見ると、当時の猛烈ぶりが分かる。

3月19日(火)「ひので」で8:20発(座席6人掛け)⇒京都泊 ⇒就寝1時
3月20日(水)起床4:20 ⇒ 5:40バスで出発 ⇒船で淡路島へ ⇒琴平泊 ⇒就寝1時
3月21日(木)6:00琴平宮参拝 ⇒屋島 ⇒栗林公園 ⇒ 小豆島 ⇒就寝2時半
3月22日(金)4:30起床 ⇒寒霞渓 ⇒姫路城 ⇒京都 ⇒修学旅行専用列車に乗車
3月23日(土)5:00品川着
 早朝から深夜までの、こんな旅程では、今だったらとても許可されないだろう。しかし、当時の高校生は、こういった中で育ったために、猛烈社員になっても、それを全く感じなかった。やはり、今の日本の停滞は、高卒までの育て方に問題があるようだ。
 
 ちなみに、就学旅行の始まりは、明治14年(1881)に栃木県の第一中学校とあり、やはり高校生だった。
また、日本初の修学旅行専用車両は、昭和34年4月に登場とあるので、我々の昭和38年での使用は、まだ新車並みだったようだ。



 この旅行の各地は、その後も訪れる機会はあったのだが、栗林公園と小豆島は、全くその機会が無かった。それが、今回の大きな動機だった。
 小豆島で驚いたのは交通の便の良さだった。瀬戸内海の島々はどこも同じようだが、海中の島という感覚がない。あちこちの港との間では、フェリーが頻繁に往復しているし、大型のフェリーには、10台を超すトラックが、荷物満載で乗っている。高速道路で結ばれている地方都市と、何ら変わりはない。島内の移動は、勿論レンタカーだが、バスの便も、地方都市よりは優れており、レンタカー無しでも十分に島内を巡ることができる。

 高校時代の記憶を確かめることのほかに、二つの目的があった。一つ目は、オリーブ栽培に関するスペインとの違いだ。英国に滞在中には、よく自炊のアパートに滞在した。揚げ物は常にオリーブオイルを使用した。これだと、素人でもカラッと揚げることができる。日本のオリーブオイルやオリーブの化粧品は、なぜもこんなに高価なのだろうか。栽培面積の違いは明白なのだが、それほど多くの人手や、諸経費をかけているようには見えなかった。

 二つ目は、二十四の瞳の映画村だ。実は、小学校時代の親友が、子役の一人として出演している。彼とは自宅が近く、小学校時代には、ほぼ毎日下校後に遊んでいた。日記にはそのように書いてある。ちなみに、小学校の2年から4年生までの担任は詩人で、日記を書くことは強要されていた。今でも、クラス会で会うのだが、クラス一番の暴れ者が、きれいな字で、克明な文章を書いていたのには、驚かされた。


映画村での昼食(揚げパンが美味しかった)

 展示されている写真から、12人のうちの誰が彼なのか。何枚かの写真を見たが、候補者を2人以下には絞れなかった。次のクラス会が楽しみになってきた。




 ところが、この映画村で、足長バチに指を指されてしまった。頭に何か触れた感じで、払うと、「チクッ」と感じた。蜂かどうかは分からなかったが、辺りを見回すと、足長バチがうろうろしていた。
 八ヶ岳の我が家には、毎日数回、足長とスズメバチが偵察飛行に来る。スズメバチの巣は、小さいうちに数回つぶしたことがあるが、刺されそうになったことは、一度もなかった。映画村の人に聞くと「蜂が出てきているのは知っていますが、応急処置の備えはありませんので、腫れたら病院へ行ってください」だけだった。
 幸い、刺された指が赤く腫れるだけで、二日後に帰宅した。ところが、翌朝には、手がグローブになってしまい、大慌てで、かかりつけに行ったが、「うちには、薬を置いていないので、皮膚科に行ってください」といって二つの病院を紹介してくれた、そこは歩いても5分以内なのだが、なんと二つとも「本日休診」だった。



日本の医療体制については、コロナで色々な問題が持ち上がっているが、連係の悪さが最大の問題だと感じている。蜂は、二度目に刺されると、アナフラキシー・ショックが現れやすいそうなので、気を付けよう。

 最後は、栗林公園だったが、50年ぶりに見る松林は、どれも立派に育っていて、とても他の有名公園の追随を許すものではなかった。多くの植木職人さんが、盛んに手入れをしていた。



 私の孫娘の修学旅行は、コロナ直前のニュージーランドだった。コロナで、また元の国内巡りに戻るのかもしれない。それだと、50年後に比較を楽しむことができる。





その場考学との徘徊(68)航空会社のマイレージサービス

2021年11月25日 10時31分54秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(68)
題名;航空会社のマイレージサービス

場所;ワシントン 月日;198?
テーマ;グローバルクラブ 作成日;2021.11.24                                                

 AirbusA320やBoeing777用のジェットエンジンの国際共同開発で、英国と米国だけでも約100回の海外出張をさせられた。始まりは1978年で、当時は欧米への航空便は曜日によって異なるAirlineを選ばなければならなかった。つまりDailyという頻度のFlightは、JALでもUA(United)でもなかった。
 既に各社がマイレッジ・サービスをしていて、多くのAirline に登録をしたが、当時は日本の広告法のおかげで、JALは無料航空券サービスができなかった。そこで英国行きはBA(British Airline)、米国行きはUA(United Airline)が主になった。



JALでは、直ぐにGlobal Clubという会員になった。様々なサービスが受けられるのだが、一番はBusiness クラスから、Firstクラスへのアップグレードだった。当時の日英の経済状態は雲泥の差で、日本の高度成長期のJALのBusiness クラスは常に満席。Firstクラスに空席があると、Global Club会員を、チェックインの先着順でアップグレードしてくれた。だから、余裕のあるときは、早めに成田空港へ行ったものだった。一方のBAは、Firstクラスは常にガラガラで、こちらは空席が目立つというので、特にLondon発では、Business クラスが満席でなくても、頻繁にアップグレードしてくれた。

 Firstクラスでは、色々な面白い体験をした。ある月曜日のシカゴ行きで、有名なゴルファーが隣の席に来た。しかし、彼はTV中継には写っていなかったので、「Youは、何しに日本へ?」式の質問をした。すると、「初日のスコアーが悪かったので、わざと予選落ちをして、土日は日本企業の接待を受けた。その方が金になるし、楽しい。」といった。
 
 BAのFirst Classで日本酒を飲む人は稀であった。いつも金賞の大吟醸がメニューにあるのだが、飲むのは私だけ。するとLondonでの降機時に、「余っても仕方ないので、Hotelで飲んでくれ」といって、パーサーが開封済の4合瓶を渡してくれた。
 BAのFirst Classのパーサーは、JALとは正反対の執事風の老人が多い。彼らは、英国人にはワインの説明をするが、日本人には「赤か白か?」しか聞かない。当時の私は、Rolls Royceとの会食のホスト役が多かったので、ワインの知識は十二分にあった。そこで、「このXX年のボルドーは星一つだが、こちらのブルゴーニュは星3つだから、当然こちらだ」というと、以降の扱いが変わったのは面白かった。

 ある時、Unitedのマイレージが溜まり過ぎて失効されそうになった。夫婦そろっての世界一周を計画していたのだが、何故かUnitedはインドの支店を閉鎖して、南回りのヨーロッパ便を止めてしまった。再開を待っていたが、問いあわせても「未定です」と言うので、米国経由で英国へ行くことにした。往きはワシントン、帰路はサンフランシスコにそれぞれ2泊することにした。当時のUnitedは、インターコンチネンタルホテルを買収しており、世界中のインターコンチが半額で泊まれた。Londonのそれは、ハイドパークの片隅で、隣にWorld???Caféがあり、散歩と軽食には、痛く便利で多用していた。Washingtonのそれは、White Houseの並びで、勝海舟の咸臨丸一行が泊まった宿で、廊下と階段には、当時の写真が何枚も貼ってあった。
 翌朝、窓から眺めていると、目の前の公園に十数人の列ができていた。ホテルマンに聞くと「White House見学の当日券の配布です。もうすぐ始まりますよ」とのことで、慌てて着替えて、列に並んだ。幸い、その日の午後一の切符が2枚とれた。White Houseのツアーは、大統領執務室まで入れて面白かった。ちなみに、かつて友人が日本の首相執務室を案内してくれたが、広さも調度品もあまり変わりがなかったように思う。

 最近は、Global Clubの会員数が増えたようで、このようなサービスはあまり聞かなくなった。退職後の私は、欧米への長旅はこりごりで、国内旅行だけにしている。しかし、Global Clubの会員は止めたくないので、年に最低1回は有料で乗ることにしている。そうすると、ボーナスで年2回は夫婦で無料航空券の国内旅行を楽しむことができる。そのことは、次回に。