生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(10) 諏訪大社の神様

2016年06月25日 14時17分06秒 | その場考学との徘徊
諏訪大社の神様

6年ごとの諏訪大社の御柱祭が終わった。過去に2回見たのだが、今年も犠牲者が出てしまった。八ヶ岳の大木の切り出しに始まり、無事にすべての柱が立つまでに見どころは沢山あるので、次回にお預けの場面もいくつかある。
 ところで、以前から気になっていた前宮と本宮の中間にある、「神長官守矢資料館」を訪ねた。諏訪信仰については、色々な著書が出ているのだが、いまいちはっきりとしなかった。そこへ、すっきりとする本に出合った。「諏訪の神―封印された縄文の血祭り」戸矢 学著(川出書房新社)[2015]だ。


 
それによれば、前宮の地には昭和以前は「精進屋」と称する格子に囲まれた粗末な建物が一つあるだけで、一切の行事は屋外で行われていた。精進屋の目的はただ一つで、8歳の童子が30日間お籠りをして、諏訪大社の最高位の「大祝(おおほうり)」となるためのものだそうだ。
 しかし、昭和初期にすべてが取り壊されて、伊勢神宮の古木で新たな本殿が造られたのだが、それ以前は、『諏訪四社は本殿を持たずに自然物を拝礼する古式が守られてきた。少なくとも数千年以上―おそらくはもっとはるか遠い昔から、その信仰形態は連綿と続いてきた。』とある。
そこで、「神長官守矢資料館」を訪ねて、一気に過去を知ってみたいとの気分になってしまった。

前宮と本宮のお参りを済ませて、10時の開館と同時に門をくぐった。受付には誰もいなかったが、すぐに案内の人が親切な説明を始めてくれた。展示物は、古来からのお供え物(鹿の首75個、串刺しの兎、人柱など)と古文書だった。







 ここまでは、先ほどの著書などであらかたはわかっていたのだが、驚いたのはこの写真。



場所は、諏訪湖から出た直後の天竜川の両岸。「洩矢神社」は守矢家の先祖神、「藤島神社」は諏訪の神で、この場所は出雲から落ちのびて来たタケミナカタの尊が諏訪盆地に侵入した際に戦ったところだそうだ。この話は、古事記には語られているが、日本書紀にはない有名な話だ。

勝利した『建御名方命の子孫である諏訪氏が大祝という生神の位に就き、洩矢神の子孫の守矢氏が神長(のちの神長官ともいう)という筆頭神官の位に就いたのです。』(神長官守矢資料館のしおりより)
 場所は、長野道のほぼ真下だそうで、分かりにくいそうだが是非お参りをしてみたいところだ。



資料館の外は広々として、横穴式の古墳の石棺もある。目につくのは写真の「御頭御社宮司(おんとうミシャクジ)総社で、古式のお供えがしてあった。
 さらに進むと、古来からの大祝の墓所があり、各人の礎石の文字は判別が難しいのだが、立派な墓誌が造られていたので、歴史がよくわかる。今は、第78代のようだ。




さらに奥には、奇妙な建物や、小さな祠が続くようなのだが、今回はここまでとした。

自然物崇拝と生贄とが合体した縄文信仰が、これほどまでにはっきりと残っているのは珍しいのではないだろうか。そして、侵攻勢力と土着勢力の共存の歴史は貴重な教訓に思えた。

ところで、諏訪大社がわかりにくいのは、この縄文信仰と大和朝廷文化と明治政府の通達などが、すべて要所で残っているためのようなのだが、古代から続く神様は、旧約聖書、ギリシャ神話、古事記とすべて徘徊がお好きなようだ。いや、むしろ徘徊することが基本機能であるように思える。

メタエンジニアの眼(03);新石器時代から土器時代へ

2016年06月23日 07時35分06秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ 03 
          
このシリーズはメタエンジニアリングで文化の文明化のプロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

新石器時代から土器時代へ
                        
・ジャレット・ダイヤモンド「文明の崩壊」下巻,草思社[2012] KMB3089

メタエンジニアリング的に考え始めると、日本の縄文時代は単なる文化ではなく、人類史上唯一の1万年以上(註1)も続いた文明ということ浮かび上がってくる。近年の縄文土器をはじめとする縄文時代の遺物を先端科学で研究した欧米歴史学者の結論は、古代エジプトやメソポタミヤを越える独特の文明が存在したと主張している。例えば、「文明の崩壊」[2005]の中で、著者のジャレット・ダイヤモンド、カリフォルニア大学教授は、18世紀から19世紀の実例として江戸時代の日本の森林資源の管理を挙げている。



『しかし日本は、ドイツとは関係なく同時期にトップダウン方式の森林管理を発展させていたことがわかっている。この事実にも、驚かされる。日本は、ドイツと同様、工業化された人口過密な都市社会だからだ。先進大国の中でもっとも人口密度が高く、・・・(中略)』(pp.40)

このストーリーは戦国時代を経て江戸時代が始まった歴史を詳細に述べたうえで、『平和と安定によって逆説的にもたらされた環境及び人口の危機に対応する目的で生まれた』としている。木造建築の大都市の発展と、度び重なる大火で日本の森林資源は危機を迎えた。そこで打たれた徳川幕府の政策は、世界史上まれにみる細かさと厳しさで、数十年の間に森林資源の循環系を確立してしまった。
しかし、この森林資源の循環系を確立したのは、三内丸山の縄文人であった。

 縄文人は文字と農耕文化を持たなかったので、文明人と思われていなかった。しかし、近年の三内丸山遺跡とその周辺の総合的研究から、長期間にわたって分散していたが、徐々に集合されて都市になり三内丸山を中心に、数千年間栄えたことが証明されている。世界の4大文明発祥地は、いずれも農耕文化に頼ったために、長期間の定住で人口が増えすぎて、土地が極端に痩せたために、多くは砂漠化して衰亡したといわれている。農耕文化は自然の森を破壊して畑をつくることから始まる。そのことは、古代文明の崩壊の一つの共通した原因とされている。縄文時代は、森と海に食糧を依存して、農耕文化に頼ることをしなかった、独特の文明と云えるのではないか。

三内丸山遺跡の巨大遺構から、樹齢250年を超える栗の巨木が多数使われていたことが判明した。栗の木は通常はまっすぐには育たないのだが、巨大な建造物の柱材としては最適であると判断した。そこで、縄文人は栗の実を重要な食料として確保すると同時に、何世代にわたって優れた林業の技術を継
承してきた。この技術は、現代の林業でも実現できていない。この時代は、世界史的には新石器時代に相当するのだが、この縄文文明は土器なしでは存続しない。世界で初めて土器を生産し、生活の最重要品として芸術とも言われている技術を造り上げたのであるから、石器時代と古代の間に、一万年に及ぶ「縄文時代」という時代設定をするべきと考える。

(註1)縄文時代は、紀元前131世紀頃から紀元前4世紀頃に日本列島で発展した。世界史では、新石器時代に含まれている。


・山田康弘「つくられた縄文時代」新潮社、新潮選書[2015] KMB3142

縄文人は外洋航海術を持っていた。栗林を計画的に植林し、管理した。栗林を食料と同時に建築用材として育てた。栗の木は、自然に生やすと曲がってしまうが、縄文人はまっすぐな大木を育てた、樹齢250年以上のまっすぐな大木が何本も使われていたのが、その証拠である。
この著書では、教科書における生業形態の記述変化に注目をしている。



『1984年版では「縄文時代は、狩猟・漁労・採集の段階にとどまり、生産力は低かった。動物や植物資源の獲得は、自然条件に左右されることが多く、人々は不安定できびしい生活をおくっていたと考えられる。」と記述されていたが、2013年版では「食料の獲得法が多様化したことによって、人びとの生活は安定し、定住的な生活が始まった。」となっている。』

 つまり、生活が不安定から安定に、たった20年間の間に評価が正反対になっている。


『歴史を叙述するにあたって「縄文時代」、「縄文文化」と言った場合、それは当初から「日本」における「一国史」としての枠組みが前提とされる。当然ながら「日本」以外には「縄文時代」という概念は存在せず、世界的には、本格的な農耕を行っていない新石器時代というユニークな位置付けが与えられることになる。』

 私は、新石器時代の後に、「土器時代」・「土器文明」という言葉があってよいのではないかと考える。つまり、土器により人類は初めて文明を手にした。そして、土器文明の発祥の地は「日本列島」であり、農耕に頼らない土器による調理と保存技術の発展で、自然共存の文明が誕生した、と言えるのではないだろうか。土器製造技術を調理と保存器として汎用化できなかった民族は、例えば中国における青銅器のように、土器時代を経ずに金属器を用いる古代に突入した。

『16000年前から3000年ほど前の食料獲得経済を旨とする時期を一括的に叙述するタームとしては、「縄文時代」・「縄文文化」は非常に使い勝手がよい。』


・ジャレット・ダイヤモンド「第三のチンパンジー」草思社[2015]KMB3163
 
 著者のジャレット・ダイヤモンドは、カリフォルニア大学ロスアンゼルス校の社会学部教授で、「銃・病原菌・鉄」や「文明崩壊」などの著書で有名な生物・生理学者。チンパンジーとの1.6%の遺伝子の違いで、なぜ人間だけが『ありふれた大型哺乳動物』でなくなったのかを追求している。例えば、芸術は遺伝子によるのか、人間社会による後天的なものなのかなど。



メタエンジニアリング的に注目をしたのは、農業の正の価値と負の価値を追求した内容である。
一般的には、人類は、狩猟・採集文化から農業文化に移行することによって、文明を手に入れたといわれてきたが、現代の評価は異なる。このことは、日本の縄文文化を文明とする考え方に一致する。
そのことは、紀元前8000年の中東、紀元前6000年のギリシャ、紀元前2500年のイギリスにおける、その前後の遺骨から推定されている。つまり、それ以前の狩猟・採集文化と以後の農業文化の比較である。

農業文化の正の価値;多くの人口を養うことが可能、都市の発達、道具の発達
農業文化の負の価値;疫病、階級的不平等、支配者による専制、環境破壊、飢饉

 このように羅列すると、負の価値の大きさが目立つが、更に決定的な事実が存在する。

① 現代のブッシュマンの生活は、世界の一般の社会よりも余暇時間が多く、睡眠時間も長い。同じ環境の周辺の農民よりは楽な生活を続けている。
② 狩猟・採集文化のほうが、たんぱく質の摂取量と栄養バランスが良い。ギリシャ・トルコの遺骨からは、紀元前6000年以降、身長が急激に低くなり、現代でもまだ追いついていない。アメリカ先住民の虫歯の数は、トウモロコシの栽培開始以降7倍になった。
③ 日本の縄文時代には大量の死者が同時に出た痕跡はないが、西欧では飢饉や疫病による大量の餓死の例が多く記録されている。

つまり、農業文明は長期間にわたって一方的な発展を続けた結果、人類に栄養素の偏重、社会の不平等、環境破壊などの基本的な負の価値の増大を招いたといえる。このことを、現代の科学・技術文明に置き換えると、ほぼ同じことが言えるのではないだろうか。つまり、ヒトの動物としての能力、社会制度、地球環境の3つの基本要素に対して、正と負のバランスが逆転する時期を既に通り越しているという認識が成り立つのではないだろうか。

この正負の基本的な関係は、現代の科学と技術のさらなる力で再逆転が可能なのだろうか、それともさらに悪い方向に進んでしまうのだろうか。21世紀の文明論者は、後者を支持する傾向が強まってきているように見受けられる。


                                       

その場考学との徘徊(10) ブラックベリーの収穫

2016年06月06日 20時21分22秒 | その場考学との徘徊
ブラックベリーの収穫

我が家のブラックベリーの収穫が始まった。大方の果物の豊作は隔年だが今のところ連続の豊作のようだ。冬はすべての葉が枯れて落ちてしい、細いツルが残るだけので、日陰の問題はあまりないのだが、それでも、いつの間にか南側のフェンスが完全に覆われてしまったのは、少し問題だ。


今朝の収穫



ブラックベリーで思い出すのは、アメリカ大使館に勤務していた知人で、2000年の初めのころに愛用していた。話の途中で頻繁に引っ張り出して、なんでも調べられるようで、当時は不思議だった。
BlackBerryは、カナダ人が1999年に開発したスマートフォンで、欧米のビジネスマンを中心に初期段階では覇権を握っていたそうだが、今はすっかり衰退してしまった。当時は「会社のメールサーバーに届く電子メールに社外から手軽にアクセスできる」ことが他社よりも優れていたそうだが、技術はあっという間に追いつき、追い越されてしまった。そして、2013年2月には、「ブラックベリー日本市場撤退を正式発表 」の新聞記事が出てしまった。

 果物の豊作を続けることはさほど難しくないのだが、イノベーションの持続は難しい。イノベーションで急激に成長した企業は、衰退も急激になるのが理の当然のように思える。どちらかといえば、二番手、三番手が持続性に富んでいるようにも思えるのだが。

その場考学との徘徊(09A) 真田丸の鏝文字と塗り壁(その2)

2016年06月05日 21時14分58秒 | その場考学との徘徊
真田丸の鏝文字と塗り壁(その2)

高山の特別展の後で、改めてNHKのドラマを見た。すると、驚いたことに題字だけではなく、あの3枚の作品どころか六文銭までもがはっきりと画面に出てくるではないか。

しかし、残念ながら実物の塗り壁の質感は全くない。
4KのTVで見ればもっと良いのかもしれないが、やはり美術品は本物を見なくては感動は得られない。

冒頭の題字と作者名





真田の女性たち



真田信幸



真田信繁



六文銭






その場考学との徘徊(08) パンナム機の墜落事故

2016年06月04日 19時53分51秒 | その場考学との徘徊
パンナム機の墜落事故

 先日、『PAN AM/パンナム』というTVドラマを見た。古いドラマと思ったが、米国のABC系列で2011年9月25日から2012年2月19日まで放送された全14話のシリーズだそうだ。そこで、昔を思い出した。

それは、1988年12月21日に起きたスコットランド上空での爆発による墜落事故だ。当時はエンジンの共同開発で欧米への出張が頻繁だった時期で、大西洋の横断も年に数回あったので他人事ではなかったし、何よりもエンジンの安全性が気にかかった。出発日の曜日や乗り継ぎの関係で、東京発でもJALを選ぶことはむしろ稀であり、色々なエアラインを経験した。当時の外国のエアラインのマイレッジ・サービスは国内のエアラインにくらべてメリットが大きかったことも影響していたと思う。最大の恩恵はBAで、色々なゴルフ小物を集め終わった後のWedge WoodのStrawberryシリーズは、毎回一品ずつ集めるうちにディナーセット一式が揃ってしまった。中には日本では販売されていない大型のサラバボウルなどもある。


 
TVドラマの中のパンナムのパイロットとスチュワーデスは、いずれもエリート気分で外交の場にも顔を出すような設定で、諜報員にまでされており、結構楽しめた。Wikipediaには、人物についてこのような記述がある。

『ローラ・キャメロン(マーゴット・ロビー)
新人スチュワーデス。英語のほか、フランス語、イタリア語が話せる。結婚式当日、「まだ自分の人生を生きていない」という現実にいたたまれなくなり家出。姉ケイトと同じスチュワーデスになる決心をする。初フライト寸前、『ライフ』誌の表紙を飾る。当初はケイトと同居していたが、姉の過保護さに辟易し、マギーのアパートに転がり込む。保守的だと思われていたが、『ライフ』誌のフォローアップ取材に来たカメラマンにプライベートでヌード写真を撮ってもらったり、黒人男性とデートしたりという(当時としては)革新的な面も見せる。テッドにプレゼントされたカメラで自らも写真を撮るようになるが、そのためにソビエト連邦渡航時にはスパイ容疑で逮捕されてしまう。

ケイト・キャメロン(ケリ・ガーナー)
経験豊富なスチュワーデス。英語とイタリア語を含む3か国語が堪能。ブリジット(後述)の後継者としてCIAのスパイにスカウトされる。スパイ活動については妹ローラにも明かせないため、渡航先でしばしば行き違いが起こる。ニコ・ロンザ(後述)の一件の後、スパイを辞めたいと申し出る。最後の任務は、MI6とCIAのエージェント・リストの密売を阻止することだったが、その際にロジャー・アンダーソン(後述)を救ったのがきっかけで自分のスパイとしての才能に気付き、結局、スパイ活動を 継続することにする。』



そんなとき偶然に、図書館で「パン・アメリカン航空物語」(イカロス出版[2010])という本が目に入り、読み始めた。副題は、「栄光の航空王国を支えた日本人たちの記録」とあり、全盛期から衰退までの日本人従業員の話が主だったが、くだんの事故についても詳細が記されている。
『航空機メーカーが技術力を振り絞って作り出した新しい航空機を、パン・アメリカン航空はいつも率先して導入し、改良しながら育てていっていたし、逆に航空機メーカーを指導して新しい画期的な新型機を開発させた実績も少なくない。』(pp.11)



B747ジャンボも、パン・アメリカンがBoeingを説得して作らせたとあるが、同時にそのような巨人機がパン・アメリカンの首を絞めることになった、とも書かれている。

くだんの事故の影響に関する記述は次のようになっている。
『1988年には長年誇りとしてきた世界航空機網のうち、ドル箱路線と言われたもっとも大事な太平洋路線の運航権をアメリカの大手国内航空会社ユナイテッド・エアラインズに売却することを余儀なくされた。これにより、一時的には何とか生き残りを図ったものの、1988年12月にはさらにこれに追い討ちをかけるようにスコットランドのロッカビー上空でテロリストによる爆発墜落事故が発生、ついに再起不能な大打撃を蒙ってしまった。』(pp.13)
この時のフライトの中身と事故の詳細については、pp.294以降に具体的に記されている。

パンナムの衰退の原因は、航空自由化政策とされており、パンナムの体質が自由競争の場では負けざるを得なかったとある。パンナムビルやインターコンチネンタル・ホテルチェーンの売却も焼け石に水だったようだ。(蛇足;インターコンチネンタル・ホテルチェーンもユナイテッド航空に身売りしたのであろうか。ユナイテッドの特典は、無料航空券と世界中のインターコンチの半額割引であり、London, Washington, Bangkokなどでお世話になった)

余談だが、懐かしい話も記されている。大相撲で、大きなパンナムのトロフィーを優勝者に渡したD.ジョーンズ氏の話だ。
『彼はまた、外国メディアに対しては英語で大相撲の面白さや伝統的しきたりの意義を説き、初の外国人力士だった高見山をことのほか可愛がって後援し、彼が初めて十両に昇進した時には、特別にデザインされたパンナムの化粧まわしを贈呈したことは、・・・。』(pp.256)
 このトロフィーは、現在も両国国技館に展示されている、とある。

パンナムの破たんは、リーマンブラザーズほどではなかったが、それに匹敵するエアラインは現れていない。昨今の新型航空機の開発には、数社のエアラインが参加する傾向にあるが、やはり時代をリードする確固たる文化とその自覚を持ったエアラインがリードしてもらいたいものだと思ってしまう。世界の隅々まで飛び回る大型の旅客機は、ハードとソフトの両面での現代文明の象徴なのであるから。

 


その場考学との徘徊(09) 真田丸の鏝文字と塗り壁

2016年06月04日 19時39分04秒 | その場考学との徘徊
真田丸の鏝文字と塗り壁

NHKの大河ドラマの真田丸の題字で有名になった左官の鋏土秀平氏は高山の出身で高山市内には彼が塗った土壁がいくつもある。壁というよりは絵画といったほうが適当かもしれない。
 真田丸を中心に高山市内で開催中の、彼の作品の特別展を拝見した。すべての作品には、詩や文章が添えられており、独特の雰囲気を醸し出している。

 真田丸の巨大な題字は作成時のヴィデオだったが、ドラマの主人公を表した3作品に感銘を受けた。3日前のことで、メモも取らなかったので正確ではないが、横2メートル、縦70cmくらいだったと思う。
六文銭の下に、左から「女性たち」、「真田信幸」、「真田信繁」だった。すべて顔料や塗料は使わず、色々な土を塗った作品なのだが、どう見ても日本画のように見えてしまう。女性たちは、幾重の流線が右に向かって彗星のように進んでいる。一団となって平和に向かって突き進んでいる印象だった。中央の信幸のイメージは、漆黒の空の中心に太い銀河が横切り、小さな星が無数に点在している。平和な徳川の治世になって、過去に戦死した多くの仲間を思っている。最後の信繁のイメージは、幾筋かの細い線がわずかに曲がりながらも突き進んでいる。線の彫は深い。いずれも画像で示すことができないのは、残念だ。
 
 唯一紹介できるのが、美術館のエントランスの天井と壁だ。その写真をいくつか示す。









 売店で1冊の本を買った。「ソリストの思考術―鋏土秀平の生きる力」六耀社[2012]で、シリーズ本の第5巻になっている。冒頭の次の言葉に惹かれて買ってしまった。
『ソリストのもともとの意味は「独奏者」だが、このシリーズでは「独“創”者」と位置付けている。流されず、おもねらず、自分のやり方を貫き、独自のスタイルを築いた者が、現代のソリスト、・・・。』とある。
 多くの逸話が語られているのだが、面白かったのは「土蔵論争」。市内の文化財として、江戸時代に農民一揆の首謀者を匿った土蔵を修理することになった。彼は、意図的に当時の素人の壁塗りの技術と、一部の剥がれ落ちを敢えて再現した。評価は真っ二つに分かれた。下手な職人だ、との評価が多かったようだ。



「和を以て貴しとなす」と、「独走、独創」はある意味矛盾する。グローバル化の世界にあって、これをどう両立させてゆくかが、これからの課題なのだろう。