生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(197) 未来探求の方法

2021年11月27日 07時56分33秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(197)
TITLE: 未来探求の方法

 東京大学未来ビジョン研究センターが「未来探求2050」日経BP[2021]を纏めた。



 副題は「東大30人の知性が読み解く世界」で、文字通り30人の東大教授たちが、それぞれの専門分野における、今後の50年間の進化の様子を探っている。SDGsの宣言以来、未来への関心がより高まったとしての企画なのだが、現代の専門家による科学の分断を象徴しているようにも感じた。つまり、専門分野に固執して、社会全体を哲学的な視点で見ることがない。現代の知性は、ハイデガーが第2次世界大戦直後に、あらゆる機会を捉えて主張したように、専門頭脳と技術がとめどもなく進んでゆく世界なのだ。従って、そのような分野に係わる者は、先ずは哲学的な考察をしなければならない。それなしでは、人類がとんでもない方向に進む危険性を排除することはできない。このことは、この書の冒頭にも述べられているのだが、各論には反映されていない。

 冒頭には「知識経済」という表題が付いている。知識集約型社会が加速して、高度な技術が、急激に安価になり、新たなビジネスとして発展してゆくというわけである。ムーアの法則を例にとって、直近では、ヒトの遺伝子情報に関わることとして、「ゲノム当たりのコスト」が表示されている(P13 図1)2001年に10億ドルだったコストが、2019年には100ドルを切った。つまり、ゲノム解析がビジネスになった。
 
 次の「未来の考え方」については、データに乏しく、不確定要素が多い中で、いかに正確に予測ができるかを述べようとしている。そして、『未来像についても、倫理的、社会的、政治的に注意深く見つめる必要があります。』(p.17)で結んでいる。しかし、30人の各論で、この3つの総てについて「注意深く見つめる」記述は、見当たらない。つまり、メタ視点ではない。
 
 次の「広い未来像を描くには」では、メタ視点の代わりに「未来錐(future core)」というプロセスを示している。6つの「P」がそれである。
Projected;現在からの延長
Probable;起こる可能性が高い
Plausible;起こりうる
Possible;起こりうる可能性が否定できない
Preposterous;不可能
Preferable;望ましい
である。そこから、重要なもの二つづつを選び、「シナリオ分析」を進めてゆく方法を推奨している。シナリオ分析は第2次世界大戦で、米軍が用いた研究手法が発展したものだが、30人がそれを使った解析結果は、示されていない。30項目についての内容は省略するが、それぞれでの最先端の知識が集約されているのだが、我田引水の感を否めなかった。「Preferable;望ましい」の評価基準は示されていないが、この視点は、他の5つとは全く異なる視点で、最重要と思う。自身が示す方向が、次の世代の社会にとって「Preferable;望ましい」かどうかが、明確には示されていない。

 このような、一見纏まっているように見えるが、実はバラバラな現象は、東京大学の特徴を表しているように思う。それは、かつての私の経験が、そのように考えさせるのだ。
 
 私は、若いころに6年間機械系3学科の非常勤講師を務め、3年生の授業を行った。「熱エネルギー機械」という授業で、私の担当は4日間、他に原子力、鉄道などを同じ研究室のOBが担当した。その後、その縁もあって、COE(Center of Excellence)という20人程度のプロジェクトに数年間参加した。異分野の教授と社会人OBが、一つのテーマを掘り下げるもので、このグループは、工学教育の大学院制度の改革案の作成だった。当時は日本経済の興隆期で、多くの企業が若くて優秀な博士をもとめていたが、学部4年、修士2年、博士課程3年では歳をとりすぎる。せめて、大学院3年間で博士がとれないか、という試みであった。数年後に試案が纏まったが、半年後のリーダーの教授(実は、私の高校、学部、研究室の後輩)の言葉は、「東大というところは、優れた改革案なら3分の1の教授は賛成してくれる。しかし、3分の1は反対で、残りの3分の1は無関心なので、結局、何も決められずに曖昧のまま終わってしまう」だった。この案も、「運用次第で、今のままで努力すれば可能だ」との結論だったと聞いた。
 
 つまり、講座としての独立性が強すぎて、他からの干渉を極度に嫌う文化が受け継がれているということのように思われる。この書からも、このことを感じた。そのWhyを考えると、世界はともかく、少なくとも自己の分野では国内一を保たなければならないという観念からなのだろうか。

その場考学との徘徊(69)高校時代の修学旅行

2021年11月26日 08時13分47秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(69)   
題名;高校時代の修学旅行  場所;小豆島 月日;2021.11.14-16
テーマ;猛烈時代の高校生  作成日;2021.11.25   
                                             
TITLE:修学旅行を思い出す旅

 前回(第68回)示したように、年一回のJAL有料の旅は、JALパックでも構わない。他の旅行会社のパックでJALを使ったのでは、年度ごとの初回搭乗のボーナスはもらえない。コロナで、東京発の旅は制限が多かったが、昨年は何とかGO TOの期間中に伊丹往復のパックがあった。大阪、京都、奈良のいずれかからホテルを選ぶもので、秋の京都を満喫できた。コロナのお蔭で、通常は大混雑の紅葉の名所も楽に廻ることができた。



羽田から高松のルートは、京都市の北を通り、それから南下するので、姫路城(ここも修学旅行コース)上空を通過

 今年は、年末が差し迫った11月に、紅葉の小豆島を選んだ。高校の修学旅行以来なので50年ぶりを超えている。ちなみに、ある同級生が日記に残していた記録を見ると、当時の猛烈ぶりが分かる。

3月19日(火)「ひので」で8:20発(座席6人掛け)⇒京都泊 ⇒就寝1時
3月20日(水)起床4:20 ⇒ 5:40バスで出発 ⇒船で淡路島へ ⇒琴平泊 ⇒就寝1時
3月21日(木)6:00琴平宮参拝 ⇒屋島 ⇒栗林公園 ⇒ 小豆島 ⇒就寝2時半
3月22日(金)4:30起床 ⇒寒霞渓 ⇒姫路城 ⇒京都 ⇒修学旅行専用列車に乗車
3月23日(土)5:00品川着
 早朝から深夜までの、こんな旅程では、今だったらとても許可されないだろう。しかし、当時の高校生は、こういった中で育ったために、猛烈社員になっても、それを全く感じなかった。やはり、今の日本の停滞は、高卒までの育て方に問題があるようだ。
 
 ちなみに、就学旅行の始まりは、明治14年(1881)に栃木県の第一中学校とあり、やはり高校生だった。
また、日本初の修学旅行専用車両は、昭和34年4月に登場とあるので、我々の昭和38年での使用は、まだ新車並みだったようだ。



 この旅行の各地は、その後も訪れる機会はあったのだが、栗林公園と小豆島は、全くその機会が無かった。それが、今回の大きな動機だった。
 小豆島で驚いたのは交通の便の良さだった。瀬戸内海の島々はどこも同じようだが、海中の島という感覚がない。あちこちの港との間では、フェリーが頻繁に往復しているし、大型のフェリーには、10台を超すトラックが、荷物満載で乗っている。高速道路で結ばれている地方都市と、何ら変わりはない。島内の移動は、勿論レンタカーだが、バスの便も、地方都市よりは優れており、レンタカー無しでも十分に島内を巡ることができる。

 高校時代の記憶を確かめることのほかに、二つの目的があった。一つ目は、オリーブ栽培に関するスペインとの違いだ。英国に滞在中には、よく自炊のアパートに滞在した。揚げ物は常にオリーブオイルを使用した。これだと、素人でもカラッと揚げることができる。日本のオリーブオイルやオリーブの化粧品は、なぜもこんなに高価なのだろうか。栽培面積の違いは明白なのだが、それほど多くの人手や、諸経費をかけているようには見えなかった。

 二つ目は、二十四の瞳の映画村だ。実は、小学校時代の親友が、子役の一人として出演している。彼とは自宅が近く、小学校時代には、ほぼ毎日下校後に遊んでいた。日記にはそのように書いてある。ちなみに、小学校の2年から4年生までの担任は詩人で、日記を書くことは強要されていた。今でも、クラス会で会うのだが、クラス一番の暴れ者が、きれいな字で、克明な文章を書いていたのには、驚かされた。


映画村での昼食(揚げパンが美味しかった)

 展示されている写真から、12人のうちの誰が彼なのか。何枚かの写真を見たが、候補者を2人以下には絞れなかった。次のクラス会が楽しみになってきた。




 ところが、この映画村で、足長バチに指を指されてしまった。頭に何か触れた感じで、払うと、「チクッ」と感じた。蜂かどうかは分からなかったが、辺りを見回すと、足長バチがうろうろしていた。
 八ヶ岳の我が家には、毎日数回、足長とスズメバチが偵察飛行に来る。スズメバチの巣は、小さいうちに数回つぶしたことがあるが、刺されそうになったことは、一度もなかった。映画村の人に聞くと「蜂が出てきているのは知っていますが、応急処置の備えはありませんので、腫れたら病院へ行ってください」だけだった。
 幸い、刺された指が赤く腫れるだけで、二日後に帰宅した。ところが、翌朝には、手がグローブになってしまい、大慌てで、かかりつけに行ったが、「うちには、薬を置いていないので、皮膚科に行ってください」といって二つの病院を紹介してくれた、そこは歩いても5分以内なのだが、なんと二つとも「本日休診」だった。



日本の医療体制については、コロナで色々な問題が持ち上がっているが、連係の悪さが最大の問題だと感じている。蜂は、二度目に刺されると、アナフラキシー・ショックが現れやすいそうなので、気を付けよう。

 最後は、栗林公園だったが、50年ぶりに見る松林は、どれも立派に育っていて、とても他の有名公園の追随を許すものではなかった。多くの植木職人さんが、盛んに手入れをしていた。



 私の孫娘の修学旅行は、コロナ直前のニュージーランドだった。コロナで、また元の国内巡りに戻るのかもしれない。それだと、50年後に比較を楽しむことができる。





その場考学との徘徊(68)航空会社のマイレージサービス

2021年11月25日 10時31分54秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(68)
題名;航空会社のマイレージサービス

場所;ワシントン 月日;198?
テーマ;グローバルクラブ 作成日;2021.11.24                                                

 AirbusA320やBoeing777用のジェットエンジンの国際共同開発で、英国と米国だけでも約100回の海外出張をさせられた。始まりは1978年で、当時は欧米への航空便は曜日によって異なるAirlineを選ばなければならなかった。つまりDailyという頻度のFlightは、JALでもUA(United)でもなかった。
 既に各社がマイレッジ・サービスをしていて、多くのAirline に登録をしたが、当時は日本の広告法のおかげで、JALは無料航空券サービスができなかった。そこで英国行きはBA(British Airline)、米国行きはUA(United Airline)が主になった。



JALでは、直ぐにGlobal Clubという会員になった。様々なサービスが受けられるのだが、一番はBusiness クラスから、Firstクラスへのアップグレードだった。当時の日英の経済状態は雲泥の差で、日本の高度成長期のJALのBusiness クラスは常に満席。Firstクラスに空席があると、Global Club会員を、チェックインの先着順でアップグレードしてくれた。だから、余裕のあるときは、早めに成田空港へ行ったものだった。一方のBAは、Firstクラスは常にガラガラで、こちらは空席が目立つというので、特にLondon発では、Business クラスが満席でなくても、頻繁にアップグレードしてくれた。

 Firstクラスでは、色々な面白い体験をした。ある月曜日のシカゴ行きで、有名なゴルファーが隣の席に来た。しかし、彼はTV中継には写っていなかったので、「Youは、何しに日本へ?」式の質問をした。すると、「初日のスコアーが悪かったので、わざと予選落ちをして、土日は日本企業の接待を受けた。その方が金になるし、楽しい。」といった。
 
 BAのFirst Classで日本酒を飲む人は稀であった。いつも金賞の大吟醸がメニューにあるのだが、飲むのは私だけ。するとLondonでの降機時に、「余っても仕方ないので、Hotelで飲んでくれ」といって、パーサーが開封済の4合瓶を渡してくれた。
 BAのFirst Classのパーサーは、JALとは正反対の執事風の老人が多い。彼らは、英国人にはワインの説明をするが、日本人には「赤か白か?」しか聞かない。当時の私は、Rolls Royceとの会食のホスト役が多かったので、ワインの知識は十二分にあった。そこで、「このXX年のボルドーは星一つだが、こちらのブルゴーニュは星3つだから、当然こちらだ」というと、以降の扱いが変わったのは面白かった。

 ある時、Unitedのマイレージが溜まり過ぎて失効されそうになった。夫婦そろっての世界一周を計画していたのだが、何故かUnitedはインドの支店を閉鎖して、南回りのヨーロッパ便を止めてしまった。再開を待っていたが、問いあわせても「未定です」と言うので、米国経由で英国へ行くことにした。往きはワシントン、帰路はサンフランシスコにそれぞれ2泊することにした。当時のUnitedは、インターコンチネンタルホテルを買収しており、世界中のインターコンチが半額で泊まれた。Londonのそれは、ハイドパークの片隅で、隣にWorld???Caféがあり、散歩と軽食には、痛く便利で多用していた。Washingtonのそれは、White Houseの並びで、勝海舟の咸臨丸一行が泊まった宿で、廊下と階段には、当時の写真が何枚も貼ってあった。
 翌朝、窓から眺めていると、目の前の公園に十数人の列ができていた。ホテルマンに聞くと「White House見学の当日券の配布です。もうすぐ始まりますよ」とのことで、慌てて着替えて、列に並んだ。幸い、その日の午後一の切符が2枚とれた。White Houseのツアーは、大統領執務室まで入れて面白かった。ちなみに、かつて友人が日本の首相執務室を案内してくれたが、広さも調度品もあまり変わりがなかったように思う。

 最近は、Global Clubの会員数が増えたようで、このようなサービスはあまり聞かなくなった。退職後の私は、欧米への長旅はこりごりで、国内旅行だけにしている。しかし、Global Clubの会員は止めたくないので、年に最低1回は有料で乗ることにしている。そうすると、ボーナスで年2回は夫婦で無料航空券の国内旅行を楽しむことができる。そのことは、次回に。
 

メタエンジニアの眼シリーズ(196) 原爆製造競争ではなかった

2021年11月20日 15時18分20秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(196)
TITLE: 原爆製造競争ではなかった
初回作成日;2021.11.20 最終改定日; 

 第2次世界大戦中の原爆開発は、ナチスがかなりのところまで進めていたので、慌てた連合軍が、ナチスに追われて米国に集まったユダヤ人物理学者を中心に大急ぎで開発をした、とされている。しかし、そのことが事実でないことが、この「なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したか」トマス・パワーズ著、福武書店[1994]上下2冊の著書には克明に描かれている。



 副題は「連合国が最も恐れた男・天才ハイゼルベルクの闘い」とあるが、この「闘い」は決して、原爆開発競争ではなかった。ハイゼルベルクは、原爆を作らせまいとして、敢えてドイツに残り闘ったのだ。

 彼は、既に1932年にノーベル賞を受け、核分裂に関する理論的な天才と認められていた。話は、彼が1939年にアメリカを訪問して、ナチスに追われたドイツ人物理学者との面会の旅を続けたことで始まっている。それは、1933年にナチスによる追放令で米国に渡った科学者全員に、「ナチスドイツが終わった暁には、ドイツの科学を再建するために戻ってほしい。私は、その時までドイツに残り、若い学生たちを育てる義務を負っている。」とのメッセージを伝えるためだった。

 確かに、ナチスドイツに原爆開発プロジェクトは存在した。しかし、それはごく初期のものであり、むしろ原子炉で発生する熱エネルギーを利用すること(つまり原発など)に向けられるべきと、ハイゼルベルクは考えていた。
 彼の、「原爆に関する倫理的な議論をする必要はなかった」との発言が、数か所で引用されているが、それは、当時のドイツの実力では、原爆が完成するはずがないとの判断に基づくものだった。つまり、もし少しでも完成に近づけば、「原爆に関する倫理的な議論をする必要がある」の裏返しの発言だったと思われる。

 冒頭の11ページにわたる「序章」には、全体のストーリーの要点が語られている。最初は、当時ヨーロッパで唯一の重水製造プラントがドイツ軍の手に落ちたことと、唯一のウラン鉱もドイツの支配下に置かれた事実だ。このノルウエーの重水製造プラントに対する英国スパイ組織による破壊工作は、別の本で読んだことがあった。この破壊工作は困難な後に成功するのだが、ナチスは数か月で復旧してしまった。そのことも、連合国側の疑念を確信に導く一つの原因だった。
 「序章」の大部分は、戦後行われた「アルゾス調査団」の報告書の内容と、その内容の吟味になっている。彼らは、ドイツ南部の洞穴で初歩的な原子炉を見つけた。事実はそれだけであり、原爆研究の痕跡は全くなかった。調査団は、①ナチスが分かりもしない科学の問題に頭を突っ込み過ぎたこと。②ハイゼルベルクが物理学上の間違いを犯した、と結論した。つまり、あくまでもナチスの原爆開発が進められていたことの実証に拘った。
 しかし、事実は『ドイツが原子爆弾の製造方法を完全に理解していたこと、ヒットラーのために原爆をつることは本意ではなかったこと、そして戦時中のドイツには手に負えない大事業であり、軍部もその点を認めていたため、モラルにかかわる決定を下さずに済んだといった話をした(以下略)』(p.13)と、戦後の1947年にハイゼルベルクがアメリカ人の記者に語っている。

 戦後の米国にとっては、ハイゼルベルクが『ヒットラーのために原爆をつることを拒否したとなれば、連合国側の科学者がローズヴェルトのために原爆をつくったことがなぜ正当な行為となるのか、実際に説明を求められることになるだろう。』(pp.17-18)とある。
 上下2巻の主文には、「ハイゼルベルクとニール・ボーアの友情」、「ユダヤ物理学」、「ナチ党の考え」、「連合国の情報活動」(以上は上巻)。「アルゾス調査団」、「連合国側の思惑」、「ナチスドイツの敗北」、「原爆投下」、「ハイゼルベルクの沈黙」(以上は下巻)など37章が克明に描かれている。その書き方は、歴史書の形態をとっている。
 
主なものを拾うと、1943年にロンドンで「原子力情報を扱うイギリ・スアメリカ合同委員会を組織する」(下巻p.69)会議が行われたが、直ぐにイギリス側は蚊帳の外に置かれたとある。また、戦時中もドイツの物理学者は、原子力に関する論文を、多くの科学雑誌に投稿したのは、原爆開発が極秘に行われるとする疑念に矛盾する(p. )。イギリス側は1943年にドイツには原爆計画が進行していないとの結論で固まっていた(下巻pp.70-71)。つまり、米国だけが原爆の完成に拘り続けたことが明らかにされていある。
 1943年にボーアがイギリスにわたり、多くの情報を連合軍側に話した。その中には、かつて(多分1941年)ハイゼルベルクがボーアと交わした会話も含まれていた。アメリカの情報将校の覚書として、『ボーアは軍事利用の可能性はないと信じている、とも言っている。彼は、ボーアがその考えをハイゼルベルクから吹き込まれたと考えている』(上巻p.489)と記されていた。
 イギリス情報部は、ドイツの機密無線について多くの情報を得ていた。その中には、ロケット計画に関する情報が含まれていたが、原子爆弾計画についての情報は全くなかった。その結果、『計画そのものが存在しないとことだと結論することは容易だった。』(下巻p.73)とある。これらの記事は、つまるところ、当時は米国だけが、多くの情報を無視して原爆の完成に拘り続けたことが明らかにされている。

 昨年、私は戦争前後の日本軍の飛行機のありさまを調べた。ある著書に拠れば、終戦時に残された機体の数は膨大なものだった。
 『この間に破壊された日本製の機体とエンジンについては、米軍による詳細な記録が残され、その多くはワシントンの国立公文書館に保管されている。それらは、多くの写真を交えた大型本としてスミソニアン協会の国立航空宇宙博物館の元主席学芸員の手によって纏められた。原題は「Broken Wings of the SAMURAI」
 そこには、当時の戦場を始め世界各地に保存されている機体とエンジンについての詳細な記録も含まれている。特に東南アジアでは、残された機体とエンジンをもとに、戦後直後の各国の軍用機に関する技術の伝承も行われたと記されている。
 
 「序文」には、『1945年6月末までに、8000機の体当たりがあり、4800機の陸軍機と、5900機の海軍機が特殊攻撃用に改造されていた』、と記されている。それらは、製造時は戦闘機、爆撃機、練習機および偵察機だった。このように、すべての航空機は特にエンジンの換装などにより、用途を比較的容易に代えることが可能で、このことは、現在でも広く行われている。
 戦争の終末期には、米軍は上陸を敢行しなければならない。この作戦に対して、上陸地点で、無数の特攻機が上陸用舟艇に乗り移る局面で、戦艦や輸送艦に対して用いられると考えられていた。そのような状態では、本土上陸作戦は大いに危険であると判断されたことは、容易に推測される。』
一部は、R.C.ミケシュ「破壊された日本軍機」石澤和彦訳、三樹書房(2014)より引用

 終戦末期に、米軍は日本軍のあらゆる情報を手にしていた。沖縄戦の経験から、本土上陸作戦は不可能であり、別の方法を選ばざるを得なくなっていた。それが原爆だったのだろう。ナチスドイツは、早々に原爆計画をあきらめていた。日本でも、陸軍は戦争末期にはジェット機の開発をあきらめたのと、同じことのように思う。かろうじて、日本海軍が幸運にもドイツからジェットエンジンの断面図を入手して、開発を再開したのだが、それがなければ海軍も動かなかったと思う。戦争の末期に、それほどの余裕が生まれるはずがない。

 多くのドイツ人が関与したアメリカ製の原爆は、ドイツに対して使われることはあり得ない。やはり、開発の目的は、当初から日本だったように思う。日本人相手ならば、ヨーロッパ各国からの非難も大きくはならないいと予測したのであろう。(事実、そのことは歴史が証明している)戦後の超大国を目指していたアメリカ政府は、ドイツの原発計画が中断していた事実を隠し通したのだ。 

メタエンジニアの眼シリーズ(195)カミユの「ペスト」

2021年11月13日 07時22分39秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(195)
TITLE: カミユの「ペスト」

書籍名;「まんがでわかるカミユ『ペスト』」[2020]
監修;小川仁志  発行所;宝島社 発行日;2020.8.11
初回作成日;2021.11.9 最終改定日; 

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 この本は、区立図書館のリユース本置き場で見つけた。通常は古くて借りる人が長期間いないものが出されるのだが、なんと昨年発行されたばかり。しかも、「カミユの『ペスト』」[1947]は、Covit-19の再さんの波のために、今やベストセラーの一つになっている。原因は、この本が「贈与」されたもので、書き込みがあったためのようだ。贈与者は、図書館に置いて多くの人に読んでもらおうと寄贈したと思われるのだが、図書館はそのことが理解できなかったのだろうか。
 
 カミユのペストは、読んでみようとも思ったが、「いまさら」と思い躊躇していたのだが、漫画ならば簡単に読めると思い、早速にページをめくった。オランの町でネズミが大量に死に、やがて熱病が流行り出したが、医者の警告にもかかわらず、市の責任者は対策を採ることを躊躇した。そこまで20ページで、突如漫画は中断で解説が13ページも続く。そして、その後のロックダウンや終息に向かう話なのだが、物語が終わるまでに、このことが5回繰り返される。解説者は、哲学者の小川仁志で、どうやらこちらの方がこの書の目的のようだ。つまり、哲学者から見た、今回の騒動に対する批判や教訓のように感じられる。

 解説の中には、随所に2020年6月時点での罹患者や死者数などの様々なデータを始め、過去の伝染病や、今回注目された言葉(例えば、オンライン飲み会)などが盛り込まれている。その中から、「作品ペストの読み解き」などと題した解説の表題を列挙してみる。

1.『人生の不条理を味わいながらカミユは「ペスト」を執筆』(p.26)カミユの略歴
2.『「最悪の事態」を想定した選択は偉い人ほど難しくなる』(p.30)
   政府の緊急事態宣言は、米国、イタリアが1月31日、日本は4月7日
3.『文明と引き換えに感染症との付き合いが始まった』(p.34)
   感染経路別の感染症名のリスト(42種類、コロナは「飛沫・空気感染」)
4.『緊急事態宣言を軽んじる人々、町の片隅のプロたちが輝き始める』(p.56)神父の発言など
5.『深刻さが高まるにつれて浮き彫りになった「自分が一番」』(p.62)
  昨年発生した、各国の自国優先項目のリスト
6.『清潔な近代都市を脅かす飛沫・空気感染による感染症』(p.66)過去20年間のインフルエンザの死亡数
7.『自粛のストレスは反抗に。戦う者たちは機械のように』(p.82)様々な分断例と、優先事項
8.『頼れるリーダーが現れず不平不満で世の中がいっぱいに』(p.86)
  今回の宣言中に変化した生活のリスト、注目さ種類の症状と予防方法リスト
9.『私たちはペストの感染拡大を無意識に肯定していないか』(p.114)
10.『正義は手段を正当化するか、社会の殺人に密かに加担していないか』(p.118)
   コロナ禍におけるネット炎上の事例、4月に5件、5月に4件など
11.『根絶や衰退に向かう感染症と、再び勢いを増す感染症』(p.122)
   過去に人類が根絶したのは、天然痘だけ、結核とポリオはあと一歩
   ワクチンと血清の違い
12.『終にペストが終息、そして人々に生まれた心の溝』(p.140)
   期待感と感情で人々が動き、社会が変化する
13.『ペストとコロナ禍から何を学ぶべきか』(p.144)
14.『「ペスト」の現代的意義』(p.153)
  ① 追放;ロックダウンや緊急事態宣言をカミユは、見放されたとして、「追放」「自宅への流刑」と表現した。    
  ② 抽象;ウイルス禍は具体的な人間とは異なる抽象的な存在。人間もある程度抽象化しないと、戦いに勝てない。
  ③ 誠実さ;抽象的な存在として我慢の中で何かできないかを模索する。それは、ヒロイズムではない
  ④ 連帯;共感や友情と同義
  ⑤ 記録;「ペスト」の文脈は、まさに当時の記録になっている
 
 後半は、やや哲学者の態度が強過ぎているようにも思えるのだが、カミユの小説を通して、今回のコロナ禍で起こった様々な社会現象を理解するには良い著書に思える。

メタエンジニアの眼(194)ロスト近代論、または近代行動論

2021年11月11日 07時58分53秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼(194)         

TITLE:ロスト近代論、または近代行動論

 近代は資本主義により大いに栄えた。しかし、それも多くの解決困難な問題が発生して、ポスト資本主義などが取りざたされるに至ってしまった。そこで、近代の大きな流れをメタ的に捉えることが有意義になる。
 橋本 努著「ロスト近代」弘文堂(2012)は、そのことを語っている。



 副題は「資本主義の新たな駆動因」で、多くの欲望に満ちた現代(ポスト近代)からの新たな駆動力は何かを探っている。つまり、人々の欲求充足を駆動源とした「近代」、贅沢な消費に彩どられた「ポスト近代」に続く、宴が終わり下り坂を迎えた「ロスト近代」では、何が駆動源になり得るかといった設問を解いている。

 「はじめに」は、『平均的な可処分所得はすでに、1997年を境にして下降傾向に転じている。』(p.ⅰ)から始まる。日本の経済レベルは、新興国に追いつかれるであろう、というわけである。
 事実、この書の発行から8年後の今日、日本の給与所得者の平均所得は、欧米諸国の半分以下で、アジアの新興国にも追い抜かれそうな状態にある。可処分所得の指標となっているマックのハンバーガーの価格では、既に抜かれてしまった。

 そこで、北欧の「潜在能力促進型の福祉国家」を実現した「北欧型の新自由主義」を検討して、ロスト近代のあり方を考えるとしている。著者は、「ローマ・クラブ型恐慌への不安と希望」から、「環境駆動型資本主義の思想的根拠」を求めようとして、「ロスト近代の原理」を追求する。

 「ロスト」とは、二つの喪失を意味する。「近代的な勤勉精神」と「ポスト近代的な欲望」の喪失である。そこで、新自由主義下の競争での「負け組」が「自分のしたいこと」を求めて動き出した。例えば、ネット上での「自己の快楽」である。『しだいに欲望消費に巻き込まれず、自然で本来的な経験を求めるようになってきた。』(p.25)というわけである。

 そこで、駆動因を大きく二つに分ける。「したいこと(欲望の原理)」と「できること(可能の原理)」である。ポスト近代では。前者が大きく膨らみ拡張した。その結果は、「できること」の領域を大きく包含し、さらに「できること」の反対方向の「できないと思われていたこと」(例えば宇宙旅行)へも向かった。しかし、ロスト近代では、「できること」の拡張を眼ざすことになる。それは、「したいこと」への拡張もあるのだが、「環境駆動型資本主義の思想的根拠」では、様々な環境改善活動や、SDGsへ向かうことになる。
 これは、かつてはSDGsを目的とした諸行動が、けっして「したいこと」ではなかったのが、風向きが変わって「したいこと」の領域に入ってきたことを意味する。

 『「可能の原理」は、それが創造的な活動へと向かうなら、資本主義社会において新たな富を生み出すための、文化資本を形成する。そしてその場合、創造性(クリエイティビティー)は、エコロジーの取り組みへと結合する。』(p.29)というわけである。
 人々には『教育の機会や、図書館、美術館、コンサート・ホール、公園、市民センターなどの文化的な環境を利用しながら、自身の潜在能力を高めてゆくことが期待される。』(p.31)としている。

 『自然の本来的価値は、それを理解し、解明し、また工学的に応用することによって、私たちの生活に豊暁な作用をもたらしてくれる。』(p.33)そこには、「商品開発能力を持った人々」の存在と「環境に敏感な消費者」の存在が必要になる。

・アリストテレス主義の拡張

 『アリストテレスの徳(美徳=卓越)論を拡張して、「自然の超越的価値」を中核に置くような生活を実践することである。』(p.362)として、『アリストテレスによれば、人間には、それぞれ、固有の「ピュシス(自然)」があるという。ピュシスとは、魂(ピュシケー)』の元となる素材である。そのピュシスに従って、私たちが「魂のもっともすぐれた機能(卓越性=アレテー)」を満たすならば、それがすなわち「幸福」であり、また「善」といわれる。』(p.362)とする。

 つまり、「拡張」とは、このことを「われわれ」から「対象としての自然」にまで拡張してゆくということのようだ。
 そこから、「手つかずの自然(第1の自然)」から「社会の中で自生的に発展してきた第2の自然」を、ともに人間の手で豊饒化しようとする活動は、それ自体が「善き善」に連なると云えないだろうか。(p.364)で結んでいる。
 この続編として、同著者により「ロスト欲望社会」勁草書房が発刊されている。読売新聞に載せられた書評(小川さやか;立命館大学教授)に拠れば、内容は大きくは変わっていない。

・ヒトの一生に例えると

 この「できること」と「したいこと」を、メタ的に拡張してヒトの一生に当て嵌めてみる。すると、意外なことが分かってきた。
 生まれたての赤子は、本能のままに生きようとしている。ここまでは、他の動物と同じだ。しかし、保育園世代になると、脳に経験が蓄積されて、「できること」を積極的にやるようになる。

 教育を通じて色々な知識が蓄えられると、「したいこと」が分かるようになり、次第に動作がその方へ移り、青年期から成年期では、その人の生活環境にもよるが、「できること」は後回しにして、「したいこと」が優位になる。しかし、その期間でも、例えば子育て中の主婦は「できること」だけで、精いっぱいな状態に置かれるケースが多い。
 老年期になると、「したいこと」がだんだん少なくなり、終に後期高齢者になると(これは筆者が実際に感じ始めていることなのだが)、「できること」がいつまで続けられるかが心配になってくる。例えば車の運転で、あと5年もすると「できなくなる」ことになる。すると、「できること」を今のうちにやっておきたいという、「できること」が「今のうちに、やっておきたいこと」になる。つまり、駆動因がふたたび「できること」に戻る。
 このように考えると、近代はもはや後期高齢者になっていることになる。SDGsなどが、真に定着をすれば、「できること」が「やりたいこと」に変換されて、近代から、新たな「新代」に移行するのであろうか。 

メタエンジニアの眼シリーズ(193)万能型ワクチン   

2021年11月09日 07時37分49秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(193)                                                         
TITLE: 万能型ワクチン

書籍名;「万能型ワクチンの開発でコロナ完封を目指す」[2021]
著者;アダム・ビョーレ  発行所;Newsweek 発行日;2021.6.8
初回作成日;2021.11.8 最終改定日; 

 日本におけるCovit-19に対するワクチンの開発が、いかに諸外国に対して遅れているかの原因は、会社の規模、使用後に想定されるクレームや副反応に対する裁判等の事例におびえている、など様々な理由が云われている。しかし、Newsweekのある記事を読んで、これらはまったく見当違いの理由付けであることが分かった。それは、戦略の有無の違いであった。

 その記事とは表記のもので、副題は「あらゆるコロナウイルスに有効なユニバーサルワクチンで次のパンデミックに備える」である。
 記事は、次の文から始まっている、『バーニー・グレアムとジェイソン・マクレランが率いる研究チームは2020年1月、週末の休みを1回だけ返上して、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)のワクチンを設計した。』(p.28)だ。勿論Cov-19ではないのだが、この文章が意味することは大きい。なにせ、「1回の週末で設計が完了する」のである。そして、それが可能な「常設の研究チーム」の存在もある、筆者は、これを基にファイザー他の各社で開発されたワクチンを「前代未聞のワープスピード」と評している。

 昨年1月に中国から新型コロナウイルスのゲノム情報が発表されると、彼らは、それに対応するワクチンを設計し、モデルナ社に送った。つまり、米国内で患者が発生する前に、ワクチンの製造が始まっていた。
 何故、そのようなことが起こったのか。それはSARS(重症急性呼吸器症候群)に遡る。

国立感染症研究所のHPには、次の記載がある.
『中国南部の広東省を起源とした重症な非定型性肺炎の世界的規模の集団発生が、2003年に重症急性呼吸器症候群(SARS: severe acute respiratory syndrome)の呼称で報告され、これが新型のコロナウイルスが原因であることが突き止められた。わが国においては、同年4月に新感染症に、ウイルス が特定された6月に指定感染症に指定され、2003年11月5日より感染症法の改正に伴い、第一類感染症としての報告が義務づけられるようになった。前回の集団発生は2002年11月16日の中国の症例に始まり、台湾の症例を最後に、2003年7月5日にWHOによって終息宣言が出されたが、32の地域と 国にわたり8,000人を超える症例が報告された。』
 続いて、MERSが発生した。『中東呼吸器症候群(MERS)は、平成24年9月以降、サウジアラビアやアラブ首長国連邦など中東地域で広く発生している重症呼吸器感染症です。また、その地域を旅行などで訪問した人が、帰国してから発症するケースも多数報告されています。元々基礎疾患のある人や高齢者で重症化しやすい傾向があります。』(厚生省のHPより)

 この二人は、この時にワクチンの設計を終えて臨床試験に臨んだが、その間にMERSは終息してしまった。つまり、このシステムではパンデミックには間に合わないことを知った。これらは全てコロナウイルスの仕業であり、今回は3度目になっている。

 『ヒトに感染することが分かっている病原性のウイルスは分類学上の「科」のレベルで26を数え、コロナウイルス科はその一つにすぎない。』(p.29)とある。これを霊長類の「ヒト科」と比べると、ヒト科の筆頭はオランウータンで、ホモサピエンスなどの所謂ヒトは、その下の分類の「ヒト属」になる。つまり、様々なコロナウイルスは、何々サピエンスと同等の生物の種類になる。これらに共通する薬は想像に難くない。
 そこで彼らは、「新たに出現したコロナウイルスにも使える万能ワクチン」を目指して研究を始めた。

 しかし、その開発は容易ではない。そこで取り掛かった具体策は『病原性のウイルスを26の科からそれぞれ代表的なものを少なくとも1つ選び、ワクチンのプロトタイプ(原型)を作っておくとともに、ワクチン製造に必要な原料を備蓄する』(p.30)ことだった。
 このような具体策と並行して、この月刊誌が出た時点で、米国立衛生研究所はユニバーサルワクチンの研究を重点研究として、10億ドルの資金を用意して、さらに民間の財団も支援に乗り出したとある。
 果たして、日本の政府と感染症学会は、このような過去の動きを、どのよう人捉えているのであろうか。
 日本人は、一般的に戦術には長けているが、戦略にはめっぽう弱い。その代表事例ではないだろうか。

 

メタエンジニアの眼(191)メタ決定論 

2021年11月08日 07時23分59秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼(191) TITLE:メタ決定論        

 決定論は色々あるが、最も有名なのは、「古典力学は決定論的な理論であり、初期状態が決まれば、その後の物質の運動は物理法則に従って計算できる。もし世の中の全ての物質の位置や力を知ることができ、その全ての時間発展を計算することのできる知性があれば、未来の全ての状態を知ることができる(ラプラスの悪魔)。古典物理学が正しければ、未来ははるか昔からただ1通りに決まっている。」(wikipediaより)である。



 しかし、ここで宗教論から始まって、面白いほどに視野を広げた書籍にであった。書籍名;現代科学から仏法を見る、編者;スタンレー・オオニシ[2001] 第三文明社。である。表紙帯の広中平祐の推薦の言葉に引かれて、読んでしまった。つまり、決定論を、線形,非線形、カオスに分類して、その中での仏教の教義の位置づけを試みてい織る。

 副題は「なぜ祈りが叶うのか」で、主に仏教(法華経)の祈りに力があることを、現代科学で説明する。併せて、仏教思想と近代科学の整合性を、線形・非線形理論で解説する。著者は京大卒の物理学者だが、生物物理学を経て、米国の生物医学研究所所長。

 なぜ、「メタ決定論」と感じたかは、次の分類による。
線形系;初期値が決まると、将来が定まる
・ギリシャ哲学
 デモクリトス;万物の根源はアトム
 プラトン;個々の存在の背後には、それを超越した普遍的なイデアがある
 アリストテレス;個々のもの自身にイデアが内在する
・ヒンズー教;絶対の自我かあり、それにカルマを足したり,引いたりする(p.39)
・ニュートン、ライプニッツ、デカルトは、『線形方程式によって未来の物体が一義的に決定
    されるところに神の意志を見、そして決定論的な世界観を作りました。』(p.190)

非線形系;ちょっとしたことで大きな変化が起こせる(バタフライ効果)
 ・生命は非線形系 ⇒外部からの刺激、内部からの理性、意志の力で簡単に軌道が変わる(p.39)
 ・三つ以上の非線形系が同時に働くと「カオス」状態になる(p.177)
 ・『我々自身の一念の力で不幸なカオスを幸せなカオスへと変換することができるのです。』(p.190)⇒祈りのちから

カオス;決定論的法則に基づきながらも、未来の予知が不可能な、初期条件の変化に極めて敏感な運動をする系(p.177)
  しかし、毎回違うところをとおるのだが、全体としては、何か似たことを繰り返す(フラクタル理論)(p.179)
    ⇒ 自然が創った物は、どの部分を切り取っても、元の図形に似ているという自己相似性を持つ(川の形、雲の形、燃焼炎、植物の葉、太陽系と原子、)
    ⇒ 宇宙のフラクタル性は仏教の「我即宇宙、宇宙即我」と同義

人間社会は、何によって決定されてゆくか。
天台の九識論とヨーロッパ哲学・心理学の対比(p.73)
 ・五識 眼耳鼻舌触覚          通常の五感      
 ・六識 合理的思考、潜在意識      デカルト・カントの理性
 ・七識 自己保存の本能、自我、エゴ   フロイトの意識
 ・八識 個人的な宿業、集合的宿業    ユングの集合的無意識
 ・九識 宇宙意識、根本浄識       無し(一神教の絶対神?)

自然環境と生命体との間には密接不可分の関係がある「依方不二」(p.116)
 50億年前 メタン、アンモニアなどのガス体
 38億年前 核酸とアミノ酸が合成(硫黄、鉄、有機物の高熱状態から)
 25億年前 嫌気性生物 発酵(解糖反応)による合成
 20億年前 大気圏の完成
 15億年前 バクテリリア、好気性生物(太陽光により、炭酸額から炭水化物を合成)
  4億年前 オゾン層の発達(陸上生物に有害な紫外線の遮断)
  

結論;
 『科学は元来、宇宙の法則を解き明かす学問ですし、その宇宙が生命を持っていて、その宇宙生命の法則を解き明かしたものが仏法ですから、科学と仏教は似ていない方がおかしいのです。』(p.238)
 『宿命は生命のカオスとフラクタルとして理解されるでしょう。カオス(宿命)は初期条件とその系の持つエネルギーに敏感に反応します。言い換えれば、各瞬間瞬間の人間の一念と生命のエネルギーによってのみ、宿命を転換し、未来を創造することができるのです。』(p.196)
 ⇒「西洋思想は線型的で、仏法思想と宇宙は非線形的」
 『生命は無数の有機物が、それぞれの持つ個々の法則に従って相互作用をした時に、自然にボトムアップ的に出現した』(p.226)「非線形系における創発現象」
 『突然変異や進化は、生命の持つ「非線形性」と「内発性」(すなわち創発)から自然にもたらされる』(p.228) 進化論もひとつの決定論


メタエンジニアの眼シリーズ(192)「ニュートンの海」

2021年11月05日 09時49分04秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(192)
TITLE: 「ニュートンの海」KMB3417

書籍名;「ニュートンの海」(2005) H17.8.25
著者;ジェイムズ・グリック  発行所;NHK出版

初回作成年月日;H30.1.3 最終改定日;R3.11.4

このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

 有名な「カオス」の著者ジェイムズ・グリックが、変人と言われたサー・アイザック・ニュートンの素顔を描いた著書。「序説」は、次の言葉で始まる。



 『ニュートンは言った。巨人の肩の上に立ったからこそ、私にはますます遠くが見えたのだと。 とは言ったものの、本当にそう信じていたわけではない。彼が生を受けたのは暗黒と魔術と混迷の支配する世界。親しい親も恋人も友だちもなく、その異様に純粋で何かに憑かれたような生涯を通じ、袖振り合った偉人とは辛練な論を闘わせ、自らの研究はひた隠し、少なくとも一度は狂気すれすれの境をさまよってさえいる。それでもなお基本的な人知の核となるものを、これほど多く発見してのけた者は、あとにも先にも彼をおいてほかにない。ニュートンこそは現代世界設計の主人公なのだ。光と運動という古くからの哲学的謎解き、事実上重力を発見したのも彼である。ニュートンはさらに天体の運行を予測する方法を示し、それによって私たち人間の大宇宙に占める位置をも定めた。彼のおかげで知識は、いまや測ることのできる正確な、実質をもつ存在になったのだ。なかんずく彼はさまざまな原理を確立した。それらはニュートンの法則と呼ばれている。
孤独は彼の天才の本質をなすものと言えよう。彼はまだ若いころ、すでに人類の知りうる数学の大部分を吸収し、あるいは再発見して微積分を発明してのけた。微積分は現代の世界が、変化と流れを理解する手段である。』(p.15)


 『だが彼はこの発明を自分だけの宝として、人知れず秘めていた。 そして働き盛りの時代を通じ、かたくなに孤独を守って没頭したのは、錬金術という極秘の科学である。人目にさらすことを嫌い、批判や論争を恐れるあまり、彼は研究の結果をほとんど世に 出そうとしなかった。暗号のように隠れている複雑な字宙の謎を解こうと励むうち、自らもそれ にならって、極秘を守りとおしたようなものだ。のちには「サー・アイザック」、造幣局長官、さらに王立協会長として名を馳せ、硬貨にはその顔までが刻まれて、彼の発見が詩に讃えられるほ どの国の重要人物となってからでさえ、彼はほかの学者と決して親交を結ぶことなく、孤独に徹した。』(pp.16)

 一般に、科学の世界でも技術の世界でも、突出した専門性から発するものが評価される。そのことは、当然のことで人類の進歩には欠かせないものなのだが、大きな問題が潜んでいる。つまり、行き着く先が決して全体最適にはならないということだ。冒頭の、『ニュートンは言った。巨人の肩の上に立ったからこそ、私にはますます遠くが見えたのだと。』は、多くの専門分野に通じたヒトが、「巨人の方の上に立つ」ことによって、「さまざまな原理を確立」が可能になったのではないだろうか。

 この書には、多くのことが逸話風に書かれている。そのいくつかを取り上げてみる。

 大学2年生の時に、アリストテレスに没頭した。そのことをノートに書き綴った。しかし、途中から「哲学的な若干の疑問」として、アリストテレスの「プラトンはわが友なれど、真実こそはそれより大いなるともなり」をもじって、「プラトンもわが友、アリストテレスもわが友なれど、真実こそはそれより大いなるともなり」と記した。(pp.46-47)

当時の英国の王立協会は「情報の流通」を目的としていた。ニュートンの論文は、当初は友人の手で登録されたが、終に会員になり、直ぐに協会長になった。しかし、『当時科学は個別の分野あるいは活動としての存在はしていなかった。』(p.106)
つまり、『すべての部分に目を配って、地上津々浦々から情報を受け取り、常時普遍的知識を有するべきである。発見はすべて彼らに伝えられ、既存の宝は、すべて彼らの前に開陳されるべきである。』(p.107)
現代の科学者や技術者に同じことを求めるのは、難しいのだが、しかし、そのような態度を続けることは出来るはずであり、そうすべきと思う。

 総ての天体の運動が、万有引力、つまり重力によって支配されているというニュートンの説は、長い間全く受け入れられなかった。ハーレイ、ケプラー、デカルトの所説と対立するからである。そこでニュートンがとった態度は、『つまるところ重力は機械論的なものでもなく、超自然的なものでもなく、仮説でもないのである。なぜなら彼がそれを数学的に証明したからだ。』(p.197)
その後、ライプニッツ他少数の科学者との書簡のやり取りが、その内容と共に紹介された後に、突然スイフトのガリヴァー旅行記の引用になる。

 突然だが、Yahooに関するWikipediaには、こんな記述がある。
『Yahoo!の名前の由来は英語の「Yet Another Hierarchical Officious Oracle」(さらにもうひとつの階層的でお節介な神託)の略だといわれている。また、ファイロとヤンは自分たちのことを「ならずもの」だと考えているので、「粗野な人」という意味がある「Yahoo」(『ガリヴァー旅行記』に登場する野獣の名前が由来)という言葉を選んだと主張している。さらに感嘆符がついていることに関しては「ヤッホー!」「やったー!」を意味する英語の感動詞「yahoo」とかけているとも考えられる。』

 その旅行記の途中の魔法使いの島では、アリストテレスの亡霊が、自分の間違えを認めて、デカルトの緒論も『はじけて消える』(pp.244-245)と発言する。さらに、引力についても『数学の原理で立証できるかのようにふるまう連中ですら、活躍するのはほんの束の間(省略)』(p.245)とまで発言する。
当時は、人間の宇宙観が、『人が寿命を全うしないうちに、もう新説が旧説を追い出すありさまだったのだ。』(p245)

 「訳者あとがき」には、次のことが書かれている。(訳者は大貫昌子)
『哲学と科学、(中略)ニュートンの時代にはほとんど同義語だった。(中略)ニュートンが、哲学と科学の分水嶺に立つ人、いやむしろ哲学から科学を育て切り離した人だということなのだ。』(p.269)

 さらに、『リンゴと月という、大きさといい遠さといい気が遠くなるほど異なる二つの球体を、幾何学的に重ね合わせることのできた知力が、どのように人間ニュートンの意識の中に育っていったのか、孤独な少年時代から「プリンピキア」にいたる彼の幾何学的直観の生長を追うこの本は、(以下略)』(p.270)とある。

 彼は一時期、古代の様々な複雑な幾何学的解析を、体系化しようと試みた時期があったとも記されていた(p.212)
ニュートンは、結果ら言えばメタ数学者だが、彼の一生を通じた著書から見えた姿は、錬金術などに拘るメタエンジニアだと私には思える。