生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(95)「縄文文化が日本人の未来を拓く」

2018年10月30日 07時04分38秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(95)
TITLE: 縄文革命と日本人の未来

書名; 「縄文文化が日本人の未来を拓く」 [2018]
著者;小林達雄 発行所;徳間書店
発行日;2018.4.30

初回作成日;H30.10.29 最終改定日;H30.
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 縄文文化が、西欧的な文明の次の文明に寄与することになるであろうとの著作は、近年多発している。その中でも、本書の著者は抜きんでているのかもしれない。著者紹介には、「國學院大學名誉教授」、「縄文文化研究者の第1人者」とあり、多くの著作がある。また、「縄文土器大観 全4巻(小学館)」、「縄文文化の研究 全10巻(雄山閣出版)」の編者になっている。

 「はじめに」では、日本文化がその特殊性ゆえに、世界的に注目されていることを述べた後で、
 『新石器革命で農耕とともに定住するようになった大陸側の人々は、自然と共生しないで 自然を征服しようとしてきました。人工的なムラの外側には人工的な機能を持つ耕作地(ノラ)があり、ムラの周りの自然は、開墾すべき対象だったのです。一方の縄文は、「狩猟、漁労、採集」によって定住を果たしていたため、ムラの周りに自然(ハラ)を温存してきました。自然の秩序を保ちながら、自然の恵みをそのまま利用するという作戦を実践しつづけてきたわけです。それが1000年、2000年ではなくて1万年以上続くのです。そういう歴史を欧米や大陸は持っていません。歴史の流れの先っぽにそれがないのです・』(pp.3)

 さらに続けて、「文化は遺伝する、文化的遺伝子をミームという」とし、それは言葉だと思いついたとし、「やまとことば」を介して現代に繋がっている、としている。

 目次は、異常にながい。その中で、第2章、第1節の目次は次のようにある。ここに、縄文土器とそれを維持し続けた文化のすべてがある。

 『第2章 縄文火焔士器は器を超え物語を伝えている
(1)縄文土器は日本オリジナル
   縄文土器が世界で一番古い
   最初から完成形をイメージしていた
   縄文文化を象徴する縄文土器
   容器の機能を捨ててまで自らの世界観を表現した
   縄文デザインの面白さ
   沖縄、対馬に行った縄文人も朝鮮半島には行っていない
   縄文土器の価値は弥生土器とは桁違い
   縄文土器の文様は 、世界観を表している
   縄文土器はメッセージをつたえている』(目次より)

 新石器時代の世界の状況を述べた後で、
 『そして約1万5000年前、最初にして 最大級の歴史的画期が日本列島に訪れました。
それまで絶えて見ることのなかった土器の製作、使用が始まったのです。
土器の製作は、まずは ①適当な粘土を見つけ出し、②精選して素地を整え、③加える水を調節しながらこねて、④ねかす。 次いで、⑤ひとかたまりの素地で底部を作って器壁を立ち上げて、全体を成形する。そして⑥器面にデザイン(文様)を施し、⑦十分に乾燥。⑧燃料の薪を集めて着火し、⑨焼き上げる。
これらの作業に要する時日と労力は並大抵のものではありません。』(pp.17)
 つまり、土器の大量生産は、近代工業にも似て、石器の製作とは革命的な差があるというわけである。この技術を、縄文人は世界のどの民族よりも、数千年前に確立した。しかも、完成品に対する、独特の高度なデザイン感覚をも盛り込んでいる。

 さらに、土偶についても新たな見解を示している。
 『縄文世界に初めて登場した最古の土偶が、ヒトには不可欠な頭や顔のない形態から出発
して頑なに中期まで維持し続けた不思議な理由もここに潜んでいます。 もし縄文人が、己が姿形を本気で表現したいのであれば、あの縄文土器の優れた作品を創造した造形力をもってすれば、全く造作ないはずです。しかし実際には、圧倒的多数の土偶にそれだけの潜在カの片鱗すら見せないのは特別な理由があったからにほかなりません。』(pp.121)

 数千年にわたってつくられた土器も土偶も、本来の目的は初期のものに存在するはずである。
 『縄文人が表現したかった精霊
ところで各種の動物像には頭から尻尾の先までの全体の形態によって初めて種類を特定できるという性格があります。それと人像は明らかに違います。
岡本太郎が喝破するように、ヒトを表現する場合には、頭のてっぺんから足のつま先までの全体形を必要とせず、目鼻口で顔を描きさえすれば、たちまち誰しもヒトと判断できるという妙味があります。その肝心要の顔を最初の土偶につけなかったことは、極めて重要です。そこにこそ、土偶はヒトなのではないことの積極的な主張を見るのです。』(pp.122)

 最後には、「はじめに」で述べられた言語、すなわち古代から伝わる日本語について、かなり詳しく述べられている。
 『日本語はいろいろな点で興味深い特徴を持っていますが、その中で注目すべきものが、オノマトぺ 。擬音語・擬声語・擬態語のことです。
じいつと見つめると、川が 「さらさら」流れる。風が「そよそよ」吹く。これらはみんな擬音語です。擬声語というのは「テッペンカケタカ」(ホトトギス)とか「ツクツクホウシ」(ツクツクボウシ)とか「ブッポウソウ」(コノハズク)とか、鳥や昆虫の声とを重ねて表現しているものです。擬態語というのは「じいつと」見るとか、そういうものです。』(pp.132)

 『本当にもう「日本語はものすごくバラエティに富んでいます。またそれを、いくらでも変化させることができるのです。「もの悲しい」「うら寂しい」と言って、みんなちゃんと、その情感が分かるのです。それは自然との共感共鳴の中から生み出されてきたものです。』(pp.135)
  この書のように、縄文文化に関して、土偶の目的を明示し、そこから「やまとことば」に言及した著作はないと思う。そのことが、第1人者によって書かれたことは、喜ばしいことに思える。

自然の恵みをそのまま利用するという作戦を1万年以上も実践しつづけてきた歴史の事実は、これからの地球が最優先で取り組まなければならないことを示唆している。

メタエンジニアの眼シリーズ(94) 神話と考古学

2018年10月24日 07時23分11秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(94)
TITLE: 神話と考古学

書籍名;「先史学者プラトン」 [2018] 
著者;メアリー・セットガスト 発行所;朝日出版社
発行日;2018.4.10
初回作成日;H30.9.28 最終改定日;H30.10.23
引用先;文化の文明化のプロセス Converging

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 この本に興味を持ったのは、神話と考古学の関係が主題になっていたからだった。しかし、読み進むと、紀元前1万年からの5000年間の人類史の文明が、巨大な洪水などの天変地異により、大きく生まれ変わることが、何回か繰り返されているという、サイクル論的な地球史になっている。

 元の話しは、プラトンの著書の「チィマイオス」、「クリチィアス」などに書かれている内容が、実は実際に石器時代から金属器時代にかけて、ギリシア周辺で起こった史実を語っているということ。このことは、日本で「日本書紀と古事記」の内容の一部が史実ではなく、神話として扱われていることと一致する。最近は、日本の神話も史実を抽象的に表現しているという説が流行している。同じことが、地中海周辺での超古代史でも起こっているということなのだろう。

 この著書は、表題の通りに、プラトンが著した「対話篇」の中でも後期に纏めらてた『ティマイオス』が元になっており、随所で引用されている。はなはだ読みにくい内容なので、先ずは『ティマイオス』についてのWikipediaの記述から引用する。

 『古代ギリシアの哲学者プラトンの後期対話篇の1つであり、また、そこに登場する人物の名称。副題は「自然について」。アトランティス伝説、世界の創造、リゾーマタ(古典的元素)、医学などについて記されている。自然を論じた書としてはプラトン唯一のもので、神話的な説話を多く含む。後世へ大きな影響を与えた書である。(中略)
ピタゴラス学派の音楽観、宇宙観、数学観に沿って世界の仕組みをプラトンなりに解説した作品だが、世界霊や宇宙の調和など形而上の事物を抽象的な数学によって解明しようと試みたために、非常に難解な内容となっている。例えば、本書をラテン語に翻訳したキケロは「あの奇怪な対話篇はまったく理解できなかった」と述べている。(中略)
アテナイを訪れ、クリティアスの家に滞在しているティマイオス、ヘルモクラテスらの元に、ソクラテスが訪れるところから話は始まる。』

 古代地中海世界の大洪水と、それを証明するための考古学的な物件の話が、大部分を占めているのだが、ここでは、科学と技術に関する後半の部分のみに集中することにする。その部分は、「広義の錬金術」として語られている。日本では、錬金術は中世の西欧におけるバカゲタ話とみなされることが多いのだが、それは全く違っている。

 そこで、再びWikipediaから引用する。
 『錬金術とは、最も狭義には、化学的手段を用いて卑金属から貴金属(特に金)を精錬しようとする試みのこと。広義では、金属に限らず様々な物質や、人間の肉体や魂をも対象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指す。

古代ギリシアのアリストテレスらは、万物は火、気、水、土の四大元素から構成されていると考えた。ここから卑金属を黄金に変成させようとする「錬金術」が生まれる。錬金術はヘレニズム文化の中心であった紀元前のエジプトのアレクサンドリアからイスラム世界に伝わり発展。12世紀にはイスラム錬金術がラテン語訳されてヨーロッパでさかんに研究されるようになった。(中略)
17世紀後半になると錬金術師でもあった化学者のロバート・ボイルが四大元素説を否定、アントワーヌ・ラヴォアジェが著書で33の元素や「質量保存の法則」を発表するに至り、錬金術は近代化学へと変貌した。(中略)
錬金術の試行の過程で、硫酸・硝酸・塩酸など、現在の化学薬品の発見が多くなされており、実験道具が発明された。これらの成果も現在の化学に引き継がれている。歴史学者フランシス・イェイツは16世紀の錬金術が17世紀の自然科学を生み出した、と指摘した。

卑金属から貴金属を生成することは、原子物理学の進展により、理論的には不可能ではないとまで言及できるようになった。(中略)
 錬金術の目的の一つである「金の生成」は、放射性同位体の生成という意味であれば、現在では可能とされている。金よりも原子番号が一つ大きい水銀(原子番号80)に中性子線を照射すれば、原子核崩壊によって水銀が金の同位体に変わる。ただし、十分な量の金を求めるのなら、長い年月と膨大なエネルギーが必要であり、得られる金の時価と比べると金銭的には意味が無いと言える。』
 つまり錬金術は、人類を石器時代から金属器時代への変化をもたらしたことに始まり、現代の素粒子物理学まで、連続して人類の文明の主流を行ってきたことになる。土から土器をつくり、陶器、磁器と進化したプロセスもそうである。火薬や蒸留酒の精製もそうであり、古代ギリシアに始まって、中国、インド、イスラムのあらゆる時代と場所で行われ続けている。

 この書の副題は、「紀元前1万年―五千年の神話と考古学」となっている。英語の書名を直訳している。先ずは、哲学と考古学の関係について、何故かハイデガーが登場する。現代哲学の代表というわけなのだろう。

『考古学と哲学の共同作業は今のところ盛んに実践されている試みとは言えない。だが、この作業が行われることの必然性は明らかなように思われる。人類学・民族学が哲学に衝撃を与えたのは、それまで哲学によって当然視されていた文化・社会・人間のモデルが少しも普遍的でないことを、これらの学問がまざまざと見せつけたからであった。当時の哲学にとっての外部が哲学に視野の拡張を迫り、それに哲学も応えたのである。ならば、同じことが考古学にも期待できょう。我々が今もなお新石器時代を生きているのだとしたら、 我々は新石器時代的な偏見の中に囚われていることは十分に考えられる。

ならば、その外部について教える考古学は哲学にとって示唆的でありうる。 すでに邦訳によって紹介がなされているこの種の試みとして、ジュリアン・トーマスの 『解釈考古学―先史社会の時間・文化・アイデンティティ』(下垣仁志+佐藤啓介訳、同成社、二〇―二年〔原著一九九六年刊」)がある・トーマスは考古学者だが、この著作ではハイデッガーが盛んに言及されている。訳者である佐藤啓介の言葉を借りて、その問題意識を 次のように説明できるだろう。ハイデッガーは私たち「現存在」(「人間」を意味するハィデッガー独自の用語法)の日常的なあり方、そしてそれに由来する物質のあり方を詳細に分析したが、それを過去の人類に当てはめようとするならば、次のような疑間が出てこざるをえない。すなわち「過去人類は、いったいいつから現存在だったのだろうか?」(「訳者解 題2」、三九三頁)。ホモ・サピエンス・サピエンスという種の同一性が、ただちに現存在であることとイコールではない。ならぼ、いつから人類はハィデッガーの云う意味での「世 界」を有する「現存在」になったのか?旧石器時代にすでにそうだったのか?新石器革命によってなのか?それともそれ以降のことなのか? 考古学と哲学を結びつける試みは決して思い付きで行われるようなものではない。考古学との協同作業は新しい哲学を生み出すための必要な一歩かもしれないのだ。』(pp.5)
 
大分長くなってしまったが、この文が全体をとおして語ろうとしたことのように思える。つまり、西欧的な一神教が作り出す哲学の根本である、人間が自然を支配することが、「現存在」(「人間」を意味するハィデッガー独自の用語法)であり、その始まりは、新石器革命によって起こったということを言おうとしているように思う。

 そして、本書は「プラトンの著作を現代考古学の知見をもとに読み直そうという野心的な試みである」と、宣言をしている。

 本文は、複雑で詳細に過ぎるので、「まとめ」に書かれた部分からエッセンスのみを引用することにした。第1部と第2部については、このように書かれている。

『第一部で述べたように、上部旧石器時代ヨーロッパの考古学は、西ヨーロッパから一連の移住が生じたことを記録している。これはおそらく前一三千年紀にマドレーヌ文化で最初の拡大が起こった頃に始まったものだ。〔私たちの見立てにとって〕まずもってありがたいことに、アトランティスの早期の移民がそうであったように、こうした〔マドレーヌ文化の〕移住集団は最初は歓迎された。しかし西方文化の衰退が始まるに従い、徐々に侵略的な色合いを強めていったようだ。ウクライナの埋葬地を発掘した研究者は、それが土着の東ヨーロッパ人の立ち退きを強制した、ヨーロッパで知られるかぎり最初の暴力による死の痕跡であると記している。ここで、この一連の出来事は、前九千年紀のヨーロッパや近東の考古学に記録されている世界各地での衝突と絡んでくる。これは『ティマイオス』に描かれた紛争であると考えられるものだ。

第二部では神話について述べてきた。議論を終えるにあたって、マドレーヌ文化、原イラン、 プラトンが描いたアトランティスのあいだにつながりがある可能性について、手短にまとめておこう。 繰り返せば、これは非常に複雑な出来事のつながりであったはずのものごとを、明らかに単純化したもののだ。』(pp.178)

プラトンの著作の中身はほどほどにして、「錬金術と科学」についての記述に移ろう。
 錬金術というと、中世の暗黒時代のイカサマ師ように思うのだが、ここでは、金属器時代に始まる科学的な人工物をつくるエンジニアと捉えるべきなのだろう。

『銅の精錬が前六千年紀中頃には知られていた可能性につては先に述べておいたが、それは土器の高温焼成が実現したのと同じ時期のことであり、おそらくは関連がある。
それと同時に穀物種の改良とウシの飼育が、大小を問わず、イランとメソポタミア全土で急速に広まっていった。そこで私たちは、自然界の四つの界のうちの三界ー鉱物、植物、動物ーを変化させる努力が、前五五〇〇年前後に大きく加速したと考えてみた。この時期(暦時問に補正した時期)は、ギリシア人によってザラスシュトラが活動した時代であるとされていた。『ガーサー』に示されていたように、もし預言者の関心が人間界の変化〔変換〕にまでおよんでいたとすれば、彼こそは錬金術的な発想の基礎を据え、マギの宗教に地上世界の科学を授けたその人である可能性がある。』(pp.395) 

 「マギ」は、『マギという言葉は人知を超える知恵や力を持つ存在を指す言葉となり、英語の magic などの語源となった。これはマギが行った奇跡や魔術が、現代的な意味での奇術、手品に相当するものだったと推定されるからである。』(Wikipediaより)
イエスが生まれた時、東方で知らせとなる星を見た博士たちも「マギ」と呼ばれている。

 そして、古代から現代にいたる「つながり」については、
『経験科学の勝利によって、錬金術の夢と理想が無価値になったと信じるべきではない。逆に新時代のイデオロギーは、無限の進歩という神話のまわりで結晶化し、実験科学と産業化の進展に後押しされて、一九世紀全体を支配し、人びとに影響を与えたものだが、これは錬金術の千年単位で続く夢を―根本的な世俗化にもかかわらずー引き継ぎ、前進させるものである。一九世紀固有の信条は、人間の本当の使命は自然を変化させて改良し、その主人になることというものだ。ここには錬金術師の夢がまさに受け継がれていると見るべきである。 預言者が自然を完成させるという神話、あるいはより正確には、自然を救済するという神話は、産業社会のもの悲しい計画のなかにも一見それとは分からない形で生き延びているのである。その目的は自然を完全に変化〔変換」させることであり、自然を「エネルギー」へと変化させることである。』(pp.396)
 まさに、西欧的な一神教と哲学の塊のような文章に思える。

しかし、ここから様子が少し違ってくる。人間と自然の関係についての現在感が述べられている。
『実際、今日の西洋で生態学への関心が高まりつつある。これは人間と自然の結びつきのもっとも新しい破壊は一時的なものであり、これもまた周期的な現象であるということを暗示しているのかもしれない。自然環境の完全さを取り戻すための目下の努力を、財産管理人という考え方が復活するきざしとみるのは非現実的なことではない。熱帯雨林の破壊をやめ、過放牧や産業による土地の劣化から立ち直り、脅威にさらされている野生生物種や虐待されている動物を監禁状態から救い出し、地球の水を浄化するため、二〇世紀末の人類は徐々に自然の保護に積極的になりつつある。また、科学によって徐々に効果的にもなっている。人間の文化が、将来、自然界を侵害するのではなく向上させるようにと、次の一歩を踏み出し、探究している人たちもいる。(中略)
いま、東洋の宗教と西洋のイデオロギーの遭遇から、「たいへん驚くべき組み合わせ」がもう一度生じている。この言葉は、かつての収束〔ローマにおけるオリエント神学とギリシア哲学の出会いのこと〕に対してキュモンが使ったものだ』(pp.397)

 そして、最終結論の「文化の周期」の話になる。
『文化の周期において同じ位置にある社会は、時代を間わず比較できるものであるというシュペングラーの主張を見直してみよう。シュペングラーの言葉を借りれば、私たちはローマやチャタル・ヒュユ クの「同時代人」であるかもしれないのだ。!
これは必ずしも不幸な見通しではない。物質的な豊かさ、多様なものが集まった文化、宗教の衰退といったチャタルの環境から、新たな(あるいは再生した)参与が、つまりザラスシュトラの教えにおける地球の財産管理人への参与が、生じてきたのである。その当座の軌跡は海図に示されている 。

それに、ザラスシュトラから六千年の後、これと似た発想が生まれている。それは価値の転倒と、終わりゆく古代文化の混滑のただなかでのことだった。そのとき、錬金術師が、ふたたび自然と人間を完全化するという人間の目的に思いをいたした。もし現在が、そうしたかつて文化が解体した時代に比べられるとしたら、地球の回復と人間精神の回復へむかう流れが、この二つをある点で統合するような流れが、いずれかの時点でわき上がってくると期待できるだろう。おそらくこのたびは、私たちが何者であり、なにをなすべきかを思い起こさせるような預言者は不要である。多くの人たちが、すでにそれぞれに問うている―「この現実を回復するのは私たちではないか」、と。これは実際に人類が前進していることを意味しているのかもしれない。時の循環を乗り越えて。あるいはおそらく、時の循環を手段とすることで。』(pp.398)
 この言葉で本文は終わっている。

メタエンジニアの眼シリーズ(93)高坂正堯と塩野七生

2018年10月20日 08時47分38秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(93)                   
TITLE: 高坂正堯

書籍名;「世界地図の中で考える」 [1968,2016] 
著者;高坂正堯 発行所;新潮選書
発行日;2016.5.25
初回作成日;H30.9.27 最終改定日;H30.
引用先;文化の文明化のプロセス Converging

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 高坂正堯の名は、私の学生時代に大いに流行った。この本も当時読んだ記憶がある。学生社会が、一般社会に繋がっていることを知らせてくれたように思う。しかし、当時は「文明」の変化やそのプロセスに関して全く興味がなかったので、内容の記憶はない。50年ぶりに読み返そうと思ったのは、文芸春秋に毎回載っている塩野七生の短文だった。

 彼女は、ローマ人やギリシャ人の歴史に関する大著をおえたあとで、まず、海外体験のある文豪(漱石、鴎外、荷風)を読み、続けて国際政治学者の彼の作品を読み始めたとある。そして、この投稿文を書いた。
 彼の業績を一通り記した後で、『だがここでは、『世界地図中で考える』と題された一冊 にしぼることにする。「新潮選書」で、値段も千四百円と安いから一般向き。一般の読者 向きという理由には、文章の流れの良さもある。学者でも文人並みの文章が書けるのだ、と思わせてくれる一冊。ほんとうは抜粋などはしたくないが、・・・。。』(P92,日本人へ・184)
 そして、その中から「あとがき」に記された文章を引用している

 『この作品のあとがきで、彼は次のように言っている。 「われわれは二重の意味で、前例のない激流のなかに置かれている。ひとつには通信・運輸の発達のおかげで世界が ひとつになり、世界のどの隅でおこったことでも、われわ れに大きな影響を与えるよう になった。(略)そして歴史の歩みは異常なまでにはやめられた。次々に技術革新がおこり、少し前までは考えられもしなかったことが可能に なる。われわれの生活はそれ によって影響を受けるから、がれわれは新しい技術に適応するための苦しい努力をつづけなくてはならないのである。』(本書のP289)
 このことは、50年前と、今とは何も変わっていない。
 
また、彼の人物像については、昔を思い出す記述があった。
『この時期の高坂さんへの非難はすさまじく、学者らしくないとの同僚たちからの批判に始まって、政府寄りの保守反動だと、彼が教えていた京都大学には、打倒・高坂 と書かれた立て看板まであったという。 しかし、政府べったりの保守反動と非難された当時の高坂さんの頭を占めていたのは、日本が再び敗戦国にならないためには何をすべきか、であったのだ。』(P93,日本人へ・184)

 また、挟まっている栞には、こんな文章があった。
 『先生は岡際政治の話をプラトン、アリストテレスから始め、アテネの時代でも民主主義は衆愚政治に陥る恐れありとしでブラトンの考えに同情を示したり、大国のメ ルクマークとしで、軍事力、綴済力、人口、面積、政治体制など種々の要素を分析していった。軍事力では劣勢のアテネか、何故ペロボネソス戦争で勝利を収めたかを考え、経済力に関しではベネツィア、オランダそして日本の限界説を説き、人口、面積に関しては中国、イントの 総合力の弱を論じた。そして逆に何かいい基準はないかと学生に質した。』(栞の小町恭士の文より)
 当時の大学の授業はこのような内容だったのだが、今はどうなのだろうか。

 本文は、タスマニア人がイギリス人によって絶滅された事実の説明から始まっている。そのことは、猪木正道によるこの書籍の紹介文が分かりやすい。
 『タスマニアの悲劇の原因を追求してゆくと、人体の内部で微生物がデリケートな均衡を作 っている話に到達し、国際政治の勢力均衡論への視野が大きく開けてくる。特定の細菌や ビールスさえ、みな殺しにすれば病気をなくせると考えている人々は、戦争の原因を何か ーつの要素に求め、この要素を除去することによって永久平和を実現できるものと夢想する人々と比較される。 歴史の知恵からいかに学び、現代の狂気をどうして越えるかを教えてくれる本書を、私は―人でも多くの同胞に続んでほしいと思う。 猪木正道』(裏表紙より)

・滅亡のある条件
ここでは、ポーランド人の人類学者の文章を引用している。
 『ー八〇三年にイギリスは三人の役人、七人の兵士、六人の自由人、二十五人の囚人を、相当数の家畜と共に送り込み、その後間もなく十五人の軍人と四十二人の囚人が増強された。
八〇七年には、植民者の数は再び増大された。こうして、植民が始まると共に、タスマニアの土着民族とイギリス人の侵入者の間に激しい戦いが展開されることになった。』
『イギリス人はタスマニア土人を撃破し、追いつめて行った。一八三〇年には、植民当初五千人ほどいた土着民は二百三人に減って保護地に囲われることになった。そして、一八四二年には四十四 人、一八五四年には十六人という具合に減りつづけ、一八七六年に最後に生き残った一人が七十六歳で死に、それによって、タスマニア土人はこの世から完全に姿を消したのである。』(pp.16)

『タスマニア土人は白人に勇敢に抵抗した 。そして数千から数百になったとき彼らは降伏した。降伏した人びとは羊を与えられ、保護地に入れられた 。彼らはそれによって狩猟生活の不安定の代わりに豊富さを得、明日の生活を保証されたのである。しかし、彼らは亡びつづけた。そして彼らが絶滅 したことがいかに不可避であったかを理解するためには、生存条件の変化が彼らの内面的生活を破壊したことを考慮に入れなくてはならない。』(pp.18)
 そして、彼一流の文明論としては、
『私はこのの文章に強い印象を受けた。なぜなら、それは優れた強い文明に圧倒された、劣った弱い文明の悲劇を極限状況において示しているからである。近代に人類の文明はヨーロッパを中心として著しく発展した。人間は疑いもなくより豊かになり、先進諸国においては飢え死にすることはなくなった。そして、この過程において、西欧諸国が果した役割は否定するべくもない。しかし、この過程は同時に、苦しみに満ちたものでもあった。』(pp.19)
第二次世界大戦後の暫くは、文明論が盛んで、「優れた強い文明に圧倒された、劣った弱い文明の悲劇」という言葉は、あちこちで使われていたと思う。

・英米の違い―知恵と生命力

 当時のいわゆる列強の帝国主義について述べた後で、このテーマを追っている。
 『なんと言ってもイギリスとアメリカはちがう。そして、 ひとつの文明はその成功においても失敗においても、自己の方法による以外にしかたがないのである。イギリス人の「判断力、技術、洗練、節度」は、文明を伝えるものと伝えられるもの、統治者と被治者の間の距離の前提と、同化しえないという諦念の上に立っていた。すなわち、彼らは問題が本質的に解決しえないものであることを認めていたが故に、技術において秀れることができたのであった。
これに対してアメリカ人はすべてのものをその文明へと同化しうるという前提の上にたって行動している。 少なくともアメリカ合衆国という国家は、その原則の上に立ったが故に作られることができたのであった。
このイギリス入とアメリカ人の相違は、彼らが外国に出かけたときの態度に如実に現われている。イギリス入は外国に出かけても、イギリスの習慣を保ち、その土地の習慣になじまない。それどころか、その土地の社会に溶けこもうとせず、イギリス人だけの社会を作る。香港でも、シンガポールでもニユー・デリーでも、イギリス人たちは小さなイギリスを作り上げたが、それは今日でも土着の社会とはまったく独立した清潔さを保っている。』(pp.184)

 そして、
『この場合、どちらがよいのかという問いを発しても、余り意味がない。アメリカはイギリスのまねをするわけにはいかないからである。イギリスは文明を伝えることの困難さを認識し、同化を不可能と考えていた。そこに知恵が生れた。それに対し、アメリカ人は世界を作り変えることに関して、より楽観的である。彼らは知恵よりも、生命力によって特徴づけられているのである。 だから、彼らはより多くの成功をおさめると共に、より多くの失敗を犯すことになるであろう。 それはアメリカの宿命と言えるかも知れない。』(pp.185)
 このことは、明治維新から太平洋戦争の敗戦後の日本の経験にも当てはまる。

そのうえで、本題ともいえる、アジア主義と日本人の考え方、についての章が始まる。
『あるときは強力になって日本外交そのものを支配し、あるときは認識できないほど弱くなるという浮沈を記録しながら、しかし、急速に西洋文明を取り入れる日本のなかで根強く存在しつづけて来たアジァ主義的な心情は、どこに根を持ち、そして、いかなる意味をもつのであろうか。』(pp.217)
つまり、「アジアという価値観」が、根強く日本人の心に存在したと述べている。

先ずは、明治維新当時の精神の異常さについての例を挙げている。
『たとえば、卸治の初年には国字の改良が主張され、森有礼のように漢字を廃して、アルファベットを使うことさえ提案された。そして、日本人の体質改善も説かれた 「日本人は生れつき智巧みなれども根気甚だ乏し、これ肉食せざるによる」。 だから、日本人も小児のときから牛乳を飲ませ、牛肉を食べさせて育てて、根気強い国民にしなくてはならない。なぜなら、「牛 は獣中の魯鈍なるものなり、牛を食ふて育ったものは、牛の如くに久しきに堪へる」からである。 実際、外国婦人との結婚による人種改良という考えさえ唱えられた。』(pp.218)

そして、日本人の言動と内面については、このように記している。
 『好きな国としてあげられるのは、アメリカ、スイス、フランスなどの西洋諸国なのである。
朝鮮や中国やインドなど、近隣のアジア諸国を好きな国としてあげる人の数はずっと少ない。
しかし、そのような事実にもかかわらず、また、世論調査に現われる圧倒的な数字にもかかわ
らず、「アジア」は日本人の心のなかで大きな位置を占めている。より正確に言えば、それは世 論調査のように、人間の表面的判断を計量する調査によっては捕捉しえない人間の心の深みに位置している。そして、ときどき氷山の一角のように、その姿の一部を現わすのである。たとえば 日本が西洋の文明を急速に取り入れて近代国家となり、やがて同じアジアの国である清朝と戦うようになったとき、相当多くの人々がそれをアジアを救うための方策として、心理的に正当化しようとした。』(pp.218)

更に、和辻哲郎の文章を引用して、
『近代以後にあっては、ヨーロッパの文明のみが支配的に働き、あたかもそれが人類文化の代表者であるかのごとき観を呈した。従ってこの文明を担う白人は自らを神の選民であるがごとくに思い込み、あらゆる有色人を白人の産業のための手段に化し去ろうとした。もし十九世紀の末に日本人が登場して来なかったならば、古代における自由民と奴隷とのごとき関係が白人と有色人の間に設定せられたかも知れぬ。』(pp.219)
『永い間インドおよびシナの文化の中で育って来た黄色人であるにもかかわらず、わずかに半世紀の間に近代ヨーロッパの文明に追いつき、産業や軍事においてはヨーロッパの一流文明国に比して劣らざる能力を有することを示した。さらに精神文化においても、インド人やシナ人自身がすでにその本質的な把握を失い去っている高貴な古いインド文化・シナ文化を今なお生ける伝統として保存し、これに加えてギリシャ文化の潮流に対しても新鮮な吸収力を有することを示した。』(pp.220)

また、エドガー・スノウの文章も引用している。
『ヨーロッパ諸国に戦争をしかけたことに真実の後悔を感じている日本人はほとんどいない。
それどころか、彼らはヨーロパ人をアジアから追い払ったことに秘かな誇りを感じているのである。 だから、 日本人は中国の復興について思う。 毛沢東が青年時代にツアーのロシアに対する日本の勝利を喜んだように、多くの日本人は今日中国が復興して西欧諸国が撤退することを求め、ロシアとやり合っているのを、大東亜共栄圏という日本の失われた夢の継続と見なしている。アジアという彼らの世界における白人の優越への恨みの共通性は、日本人と中国人との間につねに存在した。』(pp221.)
 GPUが中国に抜かれて状況は一変したが、かつて、このような期間が存在したことは、忘れてはならないのだろう。そのことは、次の文章にもつながっている。

日本人とそのほかのアジア人の違いについては、
『アジアと日本の精神的・経済的なつながりを強調する立場は、漠然とした形で広汎に存在するのである。そして、それは理論的なものではなくて、心情的なものなのである。私自身そのことを何回も経験した。なぜなら、日本とアジアとの経済的なつながりが他のものに増して重要であるということは、理論的には到底言えないものだからである。ここ十数年先のことを考えるならば、中国と東南アジアを合わせてもその国民総生産は日本の二倍にはならない。したがって、アジアとの経済的なつながりは限られた重要性しか持たないのである。』
 続けて、『彼らは「近代に現れた最大の侵略者は西欧である」という点では一致してしている。それ以外に一致するところはないのである。人種、言語、文化、宗教などにおいて、アジアはひとつであるどころか、余りにも多様である。第二に、日本とアジアとを同一視することは正しくない。西欧諸国が訪れたとき、日本は西欧諸国と異なる文明を持っていたことは明らかであるが、しかしそのときすでに日本の文明は、その起源である中国の文明と相当異なるものだったのである。とくに、日本における封建制度の存在が重要であり、その点で日本が西欧諸国と共通するところを持っていたことは、多くの学者によって指摘されているところである。』(pp.223)

最後に、「技術の位置」と題して、様々な例が記されている。いずれも現代文明が技術によって翻弄されていることを語っている。
『なんと言っても、人間にあたらしい力を与える技術は、人問を未知の領域に踏み込ませるものなのである。 そこには予想もされないような危険があるかも知れないと考えるのが常識的であり、かつ謙虚な態度なのである。
実際、未来学のひとつの大きな目的は、こうした技術の副作用をできるだけ予知し、それを除去することなのである。それは、ますます早く技術が進歩する時代において疑いもなく必要である。』(pp.266)
このことは、私はメタエンジニアリングを考え始めて、真っ先に思ったことと一致している。

『新しい技術を習得することはちょっと考えるとなんでもないようだが、そうした必要に迫られた人の立場に立ってみると実に大変なことなのである。彼は人生の途中で始めからやり直しをしなくてはならない。今までの経験が無用になったということは、彼の心を曇らせるだろう。たとえ、彼の生活を経済的に保障することができたとしても、社会的地位や生き甲斐の喪失はなんともならないのである。こうして、ひとつの 新しい機械でも、実に多くの問題を与える。社会全体に及ぶ工業化がきわめて多種多様な調整のための努カを必要とすることは明白である。』(pp.267)

『そして、未来学がその関心の対象としている二つのこと、すなわち未来における危険の予知と予防、及び未来における状況の予測と適応の努力は人間にとって不可能なことではない。人間は電子計算機などの技術的手段の発達と、それに伴う方法的な発達のおかげで、上にあげた二つのようなことをする能力は、一世代前には考えられなかったほど増大したからである。その意味で、人間は技術を制御することができる。』(pp.268)
 この時代は、まだこのような認識だったのだ。電子計算機の加速度的な発展である、ムーアの法則は、まだ現実のものとしては存在しなかった。

・テクノクラシーの重圧

『現代人は捉え難い状況に不安を感じているだけでなく、自分たちは自分でその運命を切り開いているのではなく、なにものか目に見えないカに操られて動いているのではないか、という不満感を持っている。なぜなら、現代社会の決定機構は大衆民主主義と電子計算機という二つのものによって象徴されている。そしてこの二つはきわめて異なった雰囲気を持つものではあるが、しかし、普通の人間にはなじみ難いものであることでは共通しているのである。』(pp.284)
 このことは、ハイデガーの技術論に一致している。

更に、フランス人の哲学指向については、ドゴールの外交政策と「五月革命」での事実を通して、次のように結論付けている。
『それはフランスの指導者たちが、高度工業社会に関するさまざまな問題に、哲学的な関心を持って来たことのおかげであった。先にあげたフランスの未来研究『一九八五年』は、ますます相互依存が強まる今後の社会において、社会のいとなみに対して人々の「参加」をいかにして保証するかが重要な課題であることを、指摘していたのである。知識人や官僚や政治家が参加して自発的に作っているフランスのクラブでもそのようなことが討議されていた。未来の問題について論ずることは、それにふさわしい哲学的な洞察があれば、まことに有意義なのである。』(pp.286)
 ここでも、フランス人の基礎教養である哲学の重要性が示されている。

そして、「あとがき」では、塩野七生の引用部分の後で、次のように結んでいる。
『皮肉なことに、こうした状況はかつて多くの人々の夢であった。人々は世界のどこにでも手軽に行け、世界中のできごとを早く知りたいと思ったし、文明ができるだけ早く進歩することを願った。そうした願望は大体のところ実現したのである。そして、実現した願望が今やわれわれに問題を与えている。 そのような状況を捉えるためには、なによりも事実を見つめなくてはならない。とくに、文明 について早急な価値判断を避けて、その恩恵と共に害悪を見つめることが必要であると、私は考えた。明治以来、今日まで日本人は西欧文明に対して、極端な反応を示して来た。すなわち・・・・。』(pp.290)

『実際には、文明そのものが光の面と闇の面を持っている。そしてその二つは離れがたく結びついているのである。さらに言えば、どれが光の面で、どれが闇の面かを一概に言うことさえできないであろう。ひとつの場所とある状況で善いものが 、別の場所と異なった状況では悪となる。文明は人々の希望でもあり、同時に負担でもあるのである。 私はこの書物で、文明をそのようなものとして捉え、そのような文明の波が地球の上でどのような模様を作り出しているかを描こうとした。現代の世界を捉えるひとつの試みとして世に問いたいと思う。
―九六八年八月一六日  高坂正尭 』(pp290.)

冒頭に帰した、塩野七生の短文は次の文章で結ばれている。
『その全員が、高坂正尭の云う、安全保障とは軍事にとどまらず、文明にも視野を広げてこそ明確に見えてくるもの、という考えに共鳴していたのである。
五十年後の今の三十代は、この一書をどのように読むだろうか、と考えてしまう。』(文藝春秋,pp.93)


その場考学との徘徊(45)古代東国文化(その3)

2018年10月11日 07時54分45秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(45)
題名;古代東国文化(その3)

場所;群馬県 テーマ;古墳と埴輪    
作成日;H30.10.10 アップロード日;H30.10.11
徘徊日;H30.9.24
 
その場考学との徘徊(43)では、「群馬県立 歴史博物館」を、(44)では、そこから東北にあたる「岩宿遺跡」を訪ねた。今回は、最後の、そして第1目標であった「かみつけの里」
 ここは、古代の噴火で火山灰に埋もれた埴輪の列が、数年前にそのままの形で発掘され、有名になった所だ。
ここには、保渡田古墳群と称する3つの大型の前方後円墳が集まっている。、いずれも墳丘長が100mもあり二重の濠を巡らし、多量の埴輪が発掘されている。墓廻りに並べられた円筒埴輪だけでも6000個にのぼる。                                             
 中でも、八幡塚古墳は、築造当時のままに復元されおり、埴輪列はその前面にある。先ずは、案内板で全体の位置関係を確認した。墳丘の頂上越しに、榛名富士の頂上が見えるのは、意図的なのだろうか。




墓に埋葬されているのは、5世紀後半に榛名山南東地域一帯を治めた豪族の車持氏(くるまもち)の一族で、一帯は車郡(くるまさと)と呼ばれていたそうだ。それが現在の群馬県(当初は「群馬=くるま」)という県名になったそうだ。園内には、保渡田古墳群のほか、かみつけの里博物館、はにわ工房、はにわ窯、のほかに群馬県立土屋文明記念文学館、土屋文明歌碑、山村暮鳥詩碑などあるが、今回は、八幡塚古墳と博物館に絞った。 ちなみに、榛名富士については、このような看板があった。




榛名山は、姿は美しいが、多くの頂上を持つ、とても複雑な山だ。 その歴史は、『山頂にはカルデラ湖である榛名湖と中央火口丘の榛名富士溶岩ドーム(標高1,390.3 m)がある。495年頃(早川2009)と約30年後に大きな噴火をしたと見られている。中央のカルデラと榛名富士を最高峰の掃部ヶ岳(かもんがたけ 標高1,449 m)、天目山(1,303 m)、尖った峰の相馬山(1,411 m)、二ッ岳(1,344 m)、典型的な溶岩円頂丘の烏帽子岳(1,363 m)、鬢櫛山(1,350 m)などが囲み、更に外側にも水沢山(浅間山 1,194 m)、鷹ノ巣山(956 m)、三ッ峰山(1,315 m)、杏が岳(1,292 m)、古賀良山(982 m)、五万石(1,060 m)など数多くの側火山があり、非常に多くの峰をもつ複雑な山容を見せている。』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%9B%E5%90%8D%E5%B1%B1#/media/File:Mount_Haruna_Mountaintop_Relief_Map,_SRTM-1,_Japanese.jpgより。
まさにこの時の噴火で埴輪列が埋まってしまったのではないかと、想像される。
 
先ずは、埴輪列を眺め、それから古墳の頂上に上ることにした。列の構成は、大阪の継体天皇陵にあるものと、ひどく似ている印象だった。






 頂上の眺めは、360°素晴らしかった。周りを囲む4つの「中島」と称されるものも、よく見ることができた。また、頂上から真下にある石棺へ下る階段があった。
 
下って、駐車場を横切って「かみつけの里博物館」へ向かった。館内には、「よみがえる5世紀」、「王の館(三ツ寺遺跡)を探る」、「王の姿を探る」、「王の墓を探る」、「広がる小区画水田」、「火山灰に埋もれたムラ」、「海の向こうからきた人たち」、「埴輪に秘められた物語」、「埴輪の人・動物・もの」という9つのコーナーがあり、かなり見ごたえがあった。三ツ寺遺跡は、日本で初めて発掘された古代(5世紀後半〜6世紀始め)の豪族の館跡との説明があった。上越新幹線の工事中に発掘され、今では新幹線の高架下に眠っているそうだ。
 私が、最も興味を持ったのは、「古代のかまど」だった。どうも高句麗からの渡来人によって、馬の飼育とともにこの地方に直接に伝えられたらしい。土器を2重に重ねて、下の土器には水を張り、上の土器の底には、蒸気を通すための孔が開いている。
                       
 ここでは、埴輪も眼近に見ることができる。出来栄えは、なかなか良い。家形埴輪の時代ごとの変遷が示されていた。具体的な形から、抽象的な形への推移が明確に表れている。1万年以上続けられた、縄文土器の変遷にも、関連が考えられる。




 1時間余の滞在で、今夜の宿の伊香保温泉に向かった。途中は、果物畑が続いたが、突然に「相馬が原飛行場」の看板のある道に入ってしまった。自衛隊の基地なのだが、ナビは中を通過するように指示している。辺りに人影は全くなく、仕方なく中へ入ってゆくことした。



Google Mapで見ると、確かに立派な滑走路がある。
2001年に作られたたようで、まだ新しい施設のようだ。

途中に、「水澤観音堂」ああった。無料公開中とあったので、寄り道をして、坂東88か所のご本尊を拝ませていただいた。宿は、伊香保温泉で唯一洋室専門の宿、松本楼の別館だった。あの有名な日比谷公園の松本楼とは、資本関係は無いが、シェフがのれん分けをしてもらったそうだ。夕食のフランス料理に期待。
 



その場考学との徘徊(46)都立公園の事情

2018年10月10日 07時29分46秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(46)
題名;都立公園の事情

場所;東京都 年月日;H30.10.9
テーマ;現状は全体最適か   作成日;H30.10.9 アップロード日;H30.10.11                                                       

 我が家の500メートルほど南に都立芦花公園がある。徳富蘆花夫妻が晩年を過ごした茅葺屋根の建物と記念館、そしてお墓がある。しかし、それらはごく一部で、全体は公園になっている。
 ちなみに、今年は蘆花の生誕150年で、トルストイとの面談直後に、晴耕雨読に目覚めて、39歳で都心からこの地に移った。



 そこは、毎朝6時半からのラジオ体操にかなりの数のお年寄りが集まる。私も、現役のころから参加をしていたのだが、6時半という時刻は、夏は遅すぎるし、冬は早すぎる。今は、ちょうどよい季節で、ほぼ毎日通うことにしている。人数は、年とともにかなり少なくなってきている。




 公園全体の手入れは、普段は行き届いていて、ボランティアが運営するお花畑まである。しかし、現状はちょっとひどいことになっている。先ずは、台風による倒木の放置。二つ前の台風で倒された大木が、何本も転がったままになっている。中には、大枝が高いところで折れたまま、ぶら下がっているものもある。




これらは、「立ち入り禁止のテープ」で囲われているのだが、すべてが囲われたのは、ほんの数日前で、それまでは、倒れたままの状態の木が数本あった。歩測すると25メートルはあった。昼間は、保育園児の楽園になっているところなのだが、自然に触れる教育には、良かったのかもしれない。




また、お花畑は、数年前から立ち入り禁止になっている。土壌汚染が発見されたそうだが、この場所は、数十年にわたって、毎年数回、草花が植え替えられていたところで、中央に櫓を建てて盆踊りや、その他のお祭りが頻繁に行われていた場所だった。やっと、再開の計画が決まったようだが、まだ工事の気配はない。




体操が終わると、皆、三々五々と家路につく。保育園が始まるまでは、静寂が戻ることになる。




今朝の帰路は、公営住宅が建て替えを進めている地域を通ることにした。従来は、4階建てだったが、かなりの高層になっている。周辺には、数えきれないほどの古い団地があるのだが、どこも同じで、都心回帰が進んでいる。そのために、町中が乳幼児を抱えたヤングママさんでいっぱいだ。帰路途中の小学校も増築を余儀なくされている。




地元の白山社にお参りをして、帰宅した。


メタエンジニアの眼シリーズ(92)「本物の経営」

2018年10月09日 07時49分17秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(92)
TITLE:本物の経営

書籍名;「本物の経営」 [2004] 
著者;船井幸雄 発行所;ダイヤモンド社
発行日;2004.10.7
初回作成日;H30.8.26 最終改定日;H30.8.31
引用先;「企業の進化」

このシリーズは経営の進化を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 1985年に「船井総合研究所」を設立以来、日本最大級の経営コンサルタント組織を運営。著作数は数えきれない。
 この書では、「宇宙の理」を示すことに主眼が置かれている。
 
『もちろん「地球の理」も「宇宙の理」のもとでの特例ですから、いままでの地球上でも、 もっとも正しいのは「宇宙の理」に従うことでした。それが、生きるにも、経営するにも、 もつとも高効率だったのですが、その逆が多い「地球の理」に従っても生きられましたし 経営できました。そのほうが効率よく思えることも増えてきたのです。そのために人々は 「地球の理」のほうが正しいと錯覚さえしていたのです。そこで本章では、「宇宙の理」に従った経営とはどのようなものなのか、10の項日に分けて説明していきたいと思います。』(pp.52)
 というわけである。「地球の理」⇒「宇宙の理」については、次のような違いを挙げている。どの項目もメタエンジニアリングと同じ方向に思える。
 
・複雑 ⇒単純、
 ・不調和 ⇒調和しないといけない、
 ・競争 ⇒協調以外は成立たない
 ・束縛 ⇒自由、
 ・不公平 ⇒公平でないと成り立たない、
 ・分離 ⇒融合
 ・デジタル化 ⇒アナログが大事、
 ・ムダ・ムラ・ムリ ⇒効率的
 
敢えて、「宇宙の理」などという必要はないのだが、企業の進化の方向としては、正しいと思う。

【地球の理】            【宇宙の理】
①複雑がよい            単純である
② 不調和でもよい          調和しないといけない    
③ 競争・搾取がよい         共生・協調以外は成り立たない
④ 秘密が大事            開けっ放し
⑤    東縛も善             自由がベスト
⑥ 不公平は当たり前          公平でないと成り立たない
⑦ 分離が重要な手法         融合がベスト
⑧ デジタル化が大事なノウハウ     アナログが大事
⑨ ムダ、ムラ、ムリが多い      効率的である
⑩    短所是正もーつの手法       長所伸展以外は非効率

10項目の中から、特にメタエンジニアリング的な最初の3項目を選ぶ。

①  複雑から単純へ


「90年代は、何事も複雑化していきました」で始まるこの章は、アメリカでは、GEをはじめとして「BPR=Business Process Re-Engineering」と「COE=Center of Excellence」が盛んにおこなわれ、単純化の方向にまっしぐらだった時期なので、この表現は意外だった。この事実から、当時の日本では、投資の方向と実務の方向が正反対だったように思える。
『企業はコア・コンピタンス(企業の中核的能力)を明確にすることが 大切になっています。コア・コンピタンスというのは、ある意味で長所伸展でもあります。 企業も人材も、コアとなる部分を、うまく伸ばしていかないと絶対にうまくいきません。 企業というものは、成長してある程度大きくなってくると、コアを忘れてしまいがちで す。常にコアを再確認して、原点を大切にしなければなりません。 無理な多角化は、失敗の原因となります。人間の体も、どこかーカ所悪くなると、それ が別のところにも影響して体全体が悪くなるということがあります。企業も同じです。多角化の無理がたたってつぶれた会社もかなりの数に上ります。』(pp.56)

② 不調和から調和へ
 ここでは、社内の一体化が述べられているが、社会との一体化へ進むべきではないだろうか。
『調和に関しては、社内のことだけでなく、社会的な認知も大きなポイントです。 経営の神様といわれた松下電器の創業者の故・松下幸之助さんは、社員が新しい事業を 思いついて提案にくると、必ず「その仕事は儲かりますか?」と聞いたそうです。社員が 「儲かります」と答えると、次に「その仕事をやる人、あるいは周りの人たちが生き生き しますか?」と聞くのです。 そこで社員が「生き生きします」と答えると、今度は「その仕事は世の中のため、人の ためになりますか?」と聞いたといいます。この三つの質問の答えが全部イエスであったときは、はじめてその事業をやりなさいと言ったそうです。』(pp.57)

③ 競争・搾取から共生・協調へ


ここでは、短期的な判断の危うさを示して、長期的な視野が必要であると述べている。デジタル化については、次のように述べている。

『人間も、まったくアナロジーな存在です。コンピュータの普及とともに、処理能力のスピードが上がることからデジタルの優位性 に目がいくようになっていましたが、最近、アナログの必要さが見直されています。デジタルは一時の手段であって、テクニックでしかないということがわかってきたからです。 アメリカ的経営が日本に入ってきて、経営にしても人事にしても、デジタルに細分化されていきました。業績給という非常にデジタル化したシステムも採用されています。 しかし、先に紹介したように、その結果はモチベーションの低下というかたちで現れま した。アナロジーな存在である人間をデジタルな枠の中に押し込めようとしても無理があるのです。感情を無視して、あれをやれ、これをやれでは士気が下がるのも当然です。』(pp.70)

さらに続けて、
『アナログとデジタルをうまくまく使い分けることが、いまの時代は必要なのかもしれません。 「仕事は結果を見ろ」と言う人もいるし、「プロセスを評価してほしい」と言う人もいます。これは、どちらが正しいということではなくて、両方とも必要なのです。 経営者にとって結果は大事ですが、結果だけを偏重していては企業は成り立ちません。企業は、働く人がいるからこそ動くのです。プロセスを尊重しないと、社員のやる気を削 いでしまいます。』(pp.71)

さらに、電算機の推移については、
『本来、宇宙というのはアナロジーで連続しているものです。分かれては存在していませ ん。デジタルというのは分けるということです。分けたり、パターン化したりというのが デジタルの特性なのです。あるところまではいいのかもしれませんが、行きすぎたらこれ はいけないでしょう。 コンピュータは、真空管を使った第一世代、トランジスタ式の第二世代、IC(集積回 路)式の第三世代、LSI (大規模集積回路)による第三・五世代、超LSIを駆使した 第四世代を経て、現在は人工知能型の第五世代が中心となっています。 第五世代まではデジタル・コンピュータですが、第六世代以降はアナログ・コンピユー タになります。そして、コンピュータの最先端はいま、第八世代まできています。』(pp.73)

まさに、「宇宙の理」にかなった生き方に近づくことが、進化の方向だと思えてくる。


メタエンジニアの眼シリーズ(91)岩宿遺跡の発見ものがたり

2018年10月08日 11時37分53秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(91)
TITLE: 岩宿遺跡の発見ものがたり


書籍名;「岩宿遺跡はどのような遺跡だったのか」 [2009] 
著者;岩宿博物館編集 発行所;岩宿博物館
発行日;2009.10.3
初回作成日;H30.10.7 最終改定日;H30.

引用先;文化の文明化のプロセス Converging

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 H30.9.24 群馬県の古墳群巡りのドライブの途中で、岩宿遺跡によった。その時のことは、このブログの別のカテゴリー「その場考学との徘徊(44)」に記した。この書は、その際に隣接する博物館で購入した冊子なのだ。表紙には、「第48回 企画展」とあり67ページにわたって、豊富な写真と記事が載っている。
 ページをめくっていると、発見当時(終戦後間もない時期)の日本の歴史学会の様子が書かれており、全体のストーリーとしての興味を覚えた。冒頭には、次のような文章がある。
 
『相沢忠洋と遺跡の発見
岩宿遺跡は、その発見者である相沢忠洋(写真 1)の存在なくしては語れないであろう。1945 年第2次大戦後桐生市に復員すると、行商をしながら、以前から興味があった考古学の道を歩み始めていた。赤城山麓の村を回りながら、土器や石器を拾い集めることが日課となっていったのである。そのような中、1946年初秋、稲荷山と琴平山の間の切り通しの道で相沢によって岩宿遺跡が発見されたのであった。(中略)

縄文時代早期の土器や石器は、黒土のうちでもその最下部、赤土との境界付近から発見される事実を知っていたのであった。岩宿遺跡で発見されるのは、石器のみで土器がないこと、そ してその石器は赤土の中からが発見されるという事実を正しく認識していたのである。この関東ローム層と呼ばれる赤上は、火山灰が降り積もってできた地層であることがわかっていた。そして、 火山が盛んに噴火していたローム層堆積時期には、草や木も生えず、動物もいないので人は生活ができず、日本列島には人が住んでいないということが「常識」とされていた。したがって、関東ローム層(赤土)の中には、人工品である石器などの 遺物が含まれることはないと考えられていたのである。相沢は、自ら経験した岩宿の地層から石器が発見される事実とその常識の間に挟まれ、思い悩んでいたのであった。』(pp.2)

 最初の個人的な発見から、専門家の眼に触れるまでのいきさつが面白い。なんと3年近くの月日を要している。
 『1949年7月27日、相沢は、赤土の中から石器が出る事実を、江坂輝弥宅で会った芹沢長介にそっと打ち明けた。赤土の中から石器が出るという話に驚いた芹沢は、それまでの常識のうそが見破られるかも知れないという感動に浸ったという。 翌々日の7月29日、芹沢は相沢にその石器を見せてほしいという手紙を書き、8月11日、相沢からその返事となる手紙が芹沢に届くが、江坂宅で話したことは間違いであったと伝えられた。相沢は、自らの発見に対して理解のない対応をされ、さらには悪口を言われることを警戒したのであろう。それでも、芹沢は、見せてほしい旨の再度手紙を書いた。それによって心を開いた相沢は、8 月9日、芹沢宅に石器を見せるために持参した。』(pp.3)
 これらの行動からは、考古学上の定説を根底から覆すことの難しさが伝わってくる。

 次に、正式な調査チームによる発掘の様子が、生々しく記されている。
 
『明けて9月11日、杉原と芹沢、岡本、相沢に相沢の助手である堀越靖久、加藤正義の2人を加えた6人が、日本考古学上の大発見となる発掘を行った(写真4)。このときに発掘調査したのは、現在岩宿遺跡の碑があるA地点(報告書ではA区)である。発掘は、1956年に刊行された岩宿遺跡発掘調査報告書(以下では「報告書」)に記されているように、「意識的に始めて関東ローム層にシャベルを入れる」ことであり、日本の歴史に新たな、それも最初の1ページを書き込む作業であった。発掘によって徐々に、人が打ち欠いたときにできる打ち癌(打癌、バルブ)のある石片(剥片)が発見され(写真7)、確かに人工品であると考えられた。それでも、加工のある確かな、そして誰しも納得するような石器を求めて調査が進められていった。そして、ついに杉原によって 加工が施されて一定の形が作り出された石斧が発見されたのであった。』(pp.4)

 さらに、発掘の方法が面白い、通常の表土から少しずつ削り取ってゆくような方法とは、全く異なる。複雑な地層のどの部分から掘り出されるかが、もっとも重要かつ、発掘の目的だったからである。

 『この写真やそのほか発掘調査の様子を写した写真を観察すると、岩宿遺跡の発掘方法は、ローム層の崖を横から掘っていることに気がつくであろう。60年も前で発掘調査の方法が原始的だったのかといえば、当時から遺跡を上層から下層へ同じ地層を平面的に発掘調査する考え方や方法も当然あったという。現に第2次本調査では一部であるが、A地点を平面発掘している(写真29) ことからもそのことが理解できる。この発掘では、 確実に関東ローム層から石器が発見されることを証明するためであり、おそらく調査主任であった 杉原氏の主導の下に「各地層の識別を誤らぬ様に横から発掘を進める」(報苦書)方法が採用されたのであろう。』(pp.6)

 地層の詳細は、次のように記されている。
 
『耕作の及ぶ層あるいはその下の縄文時代の土器や石器が発見される表土層は、「笠懸腐食表土層」(笠懸層)、その下から関東ローム層となるが、その最上部のローム層ほ「阿左見黄褐色細粒砂層」(阿左見層、地名としては阿左美が正しい)で、 約1メートルの厚さがある。その下部には黒味の強い褐色の粘土質層で40センチメートルほどの 厚さかがある「岩宿暗褐色粘土層」(岩宿層)、その下は、赤みの強い褐色の粘質土で1メートルほどの厚さがある「金比羅山角礫質粘土層」(金比羅山層)、さらにその下には軽石が腐食してできたと考えられる粘土層で、「稲荷山灰色軽石層」(稲荷山層)となる。』(pp.7)
 この地層の実際の写真は、「その場考学との徘徊(44)」に示した。
 
 以下のページには、発掘当時の写真、メモ、発掘の経緯が延々と記されている。また、各段階で発掘された石器の写真が示されていて、写真の数は133枚に及んでいる。石器の形は、最初は、割っただけのような、偶然性のある形だったが、最終的には、細かい細工を施した跡が鮮明に表れている。私は、若いころにドイツの博物館で、かの地の石器を見た。整然とまったく同じ形に加工された矢じりのようなものが、数十個並んでおり、ドイツ人のち密さに感動した覚えが蘇った。

 博物館の展示の中にもあったのだが、岩宿Ⅱころの石器では、工房の場所も特定されており、そこから出土した石片を、いくつか組み立てると、元の石の形が現れる。それほど大量の石器が発見されたわけである。

 最後に全体的なことが「岩宿遺跡はどのような遺跡だったのか」の項として5ページで纏められている。そこから引用する。

 『ところで、岩宿時代の発掘調査を行うと、石器は生活していたであろう、当時の地表にそのまま面をなして埋もれていることはほとんどない。石器などの遺物は、霜柱や、 小動物、植物の根の作用によって地層の中で上下に動いてしまっているのが一般的である。この地点でも、最も上で発見されたものと下で発見されたものでは、60センチメートルほどの高低差があった。
その意味で、実際に出てきた石器の位置はみな動いているといえる。それでも、第3次調査地点の広がり全体をみると、長さ約3メートル、幅2.5メートルの一定のまとまりを持ったブロックとして発見されており、残された当時の状況がわからなくなるほどは攪拌されていないと考えられる。』(pp.60)

 広範囲にわたる、数次の綿密な発掘からは、当時の生活場所の分布も想像できるようであり、このような記述になっている。

『完成された石器では、チャート製の部分加工ナイフ形石器は、剥片と接合することがわかっており、この場所で作られたと考えられるが、道具としての石器は、この場所での石器作りに関連ないものが多い。また、この遺跡では、石器の素材あるいはそのまま刃物のとして利用された整った石刃も同じように接合するものが少ない状況である。 これらの石器が残された場所を考えてみよう。もしかするとその石器を実際に使った作業の場所に残されていたかもしれないからである。そうした石器のうち掻器は、皮なめしの道具と考えられているが、発掘区の南東側で、ブロックの広がりの縁から発見された。また、「有樋尖頭器」と呼ばれた特殊な石槍はそのさらに1メートルほど東側で発見されている。石槍については、根元の部分が壊れてなくなってしまった状況であるが、その割れ方を見ると何かに突き刺さって壊れた可能性が 高い。想像をたくましくすれば、狩り場で獲物に刺さって壊れ、その獲物といっしょに生活の場に 運ばれてきたことも考えられる。このように考えると、調査区の南側は、狩りでしとめた獲物と関連しあるいはその皮を加工した場所であったと考えられなくもないのである。』(pp.62)

 最後には、60年間におよぶ発掘史の総まとめとして、旧石器時代の数万年間に亘る、岩宿地域の石器文化Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ Ⅳ期の場所の移動や間隔について、述べられている。

『岩宿遺跡では、岩宿時代全体のうちで、岩宿Ⅰ期石器文化のⅠ期、 岩宿II石器文化のⅢ期、岩宿Ⅲ石器文化のⅣ期と 、少なくとも3時期に人々が生活していたと考えられる。このことは、少なくと も3つの時期に、この岩宿遺跡に人々が訪れ、ここで生活していたことがわかる。それは、移動生活の中で別の遺跡から岩宿遺跡へ来て、石器を作り、 狩りをし、皮などの加工をして、また別の遺跡へと移動していった岩宿時代人の営みのーコマが具体的に残されていたのである。 しかし、その各時期は数万年という時間の流れの中では必ずしも接する時間ではないと考えられる。「各石器文化の時間的な間隔はきわめて長時間であった」(報告書)のであろう。』(pp.64)
 
浅間山の東側という地形の影響が大きいと思われるが、このような想像をめぐらすことができるのは、楽しい。

その場考学との徘徊(44)

2018年10月07日 07時54分33秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(44)        
題名;古代東国文化(その2)


場所;群馬県 テーマ;古墳と埴輪    
作成日;H30.10.6 アップロード日;H30.10.7
徘徊日;H30.9.24

 その場考学との徘徊(43)では、「群馬県立 歴史博物館」をめぐった。今回は、そこから東北にあたる「岩宿遺跡」を訪ねた。

 「群馬県立 歴史博物館」から東北に向かうと、「大森古墳群」に遭遇する、ここも大規模な公園と埴輪館があるのだが、今回は園内の一部を見るだけにとどめた。

11:25 大室古墳 前橋市西大室町2545 大室公園内
  北側の駐車場に入ったが、古墳の山がいくつかあるだけで、説明がない。広場があるが、肝心の「埴輪館」は見えない。時間が遅れ気味になったので、写真を数枚撮り、15分ですぐに退散した。





12:01 -13:15 岩宿 
 先ずは、全体の印象から。岩宿遺跡は、勉強になった。日本に旧石器時代があった証明の起源。すぐ近くの発掘現場も、VIDEOが楽しめた。それにしても、本物の地層は迫力がある。浅間山の噴火の間に、姶良カルデラからの火山灰が、はっきりと残っている。
 駐車場は広く、人影はない。道路の向こうに変わった形の建物が見えたので、先ずはそこへ向かった。




最初にお目にかかるのは、「マンモスの全体骨格」だった。発掘に関する説明は気が付かなかったが、「MANMMOTH TOUCH証明書」なるものが置いてあり、日付が入っていた。マンモスを追って、人がこんな火山灰の土地までやってきたということなのだろう。館内は閑散としていて、埴輪館と比べると、少し寂しかった。




案内の女性に尋ねると、少し離れた実際の発掘現場にも小さな駐車場があり、「説明はそちらの方でやっています」と、丁寧に教えてくださった。その一言が無かったら、お宝を見逃すところだった。

100メートルも走っただろうか、駐車場はすぐに見つかった。木陰になっているので、聞いていなかったら、見逃す小ささだ。道を挟んで、看板やら石碑がある。




昭和21年に、ここで旧石器時代の石器を日本で最初に発見をした、「相沢忠洋」さんの胸像まである。




道を戻ると、目の前に石垣に囲まれた入り口が見えた。表示はないのだが、どうもここが「説明のある場所」らしい。薄暗いのだが、入ってみることにした。



中はさほど広くないのだが、スクリーンと座席がある。女性が出てきて、「ヴィデオをご覧になりますかとおっしゃる。早速にお願いをした。どうも、ここまで入ってきて、ゆっくりする人はあまりいないようだ。



ヴィデオを見て、ようやく状況がわかった。この建物は、道の反対側の地層をはぎ取って、ガラス越しに観察できるようになっている。古代の浅間山からの噴火の後が何層もあり、中に「姶良火山灰」という地層がある。鹿児島湾の噴火がここまで影響したのだから、九州の縄文人が一時期滅んだことも納得できる。
立派な冊子があったので、購入してゆっくりと勉強をすることにした。




ヴィデオの内容はパネル展示もされていた。このドームの作り方がよくわかる。
1.先ずは、丘の一部を削って、地層を貼り付けられるだけの垂直の面を確保する。
2.それから、実際の地層(断層面)を薄くはぎ取ったものを、そこに張り付ける。
3.それをガラスで多い、その前面に見学用のドームをつくる。
4.ドームを土で覆い、石垣で固めて、入り口をつくる。
5.中に、ヴィデオ用のスクリーンと客席をつくる。
随分と、手の込んだ作業をしたものだと感心した。

 
            

パンフレットの類も充実しており、楽しめる場所だった。
                               


購入した冊子は、中身が充実しており、改めて「メタエンジニアの眼」で紹介してみたい。

その場考学との徘徊(43)古代東国文化(その1)

2018年10月06日 07時18分25秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(43)          
題名;古代東国文化(その1)

場所;群馬県 テーマ;古墳と埴輪    
作成日;H30.10.5 アップロード日;H30.10.6
徘徊日;H30.9.24

 古代日本には、世界最長文明であった縄文時代から、弥生時代を経て古墳時代になる流れがある。その間に、日本列島には、北・西・南から色々な民と文化が流入した。私は、その中で縄文の土偶から古墳の埴輪への流れに興味を持っている。1万年以上続いた文化が、数百年で滅びることはなく、何らかの連続性が存在するはずである。
 その場考学との徘徊(21)では、大阪府の今城塚古墳(継体天皇陵墓と考えられている)の有名な埴輪列を訪ねた。今回は、それに匹敵する前橋市近郊の保戸田古墳群を訪ねることにした。

 予定では、早朝に東京を出発して、その日は伊香保温泉に宿を予約したので、時間はたっぷりある。先ずは、「群馬の森 歴史博物館」を訪ねた。



 公園はかなり広く、全体は見通せない。早朝は、シニアのウオーキングコースになっているようで、何組かの速足のグループを見かけた。昼間は、子供たちの天下なのだろう。
 開館時刻よりも30分も早く着いてしまったので、博物館の廻りを散策した。草花の手入れも行き届いている。開館と同時に、一番乗りで入館した。




先ずは、VIDEOで事前学習。最近は、どの博物館でもヴィデオが充実して、理解を深めることができる。このあたりの古墳の石は南の牛伏山、天井石は北の天城方面から、埴輪は藤岡の埴輪窯から運んできたとあった。




陳列されている埴輪は、どれも見事な出来栄えで、比較的大型のものが多い。この地方の特徴のようで、規模の大きな埴輪窯に優秀な職人が集められていたとある。また、中小の古墳では未盗掘のものが多く、完全な形の埴輪が出土しているそうだ。勿論、副葬品も多く展示されている。





耳タブにはめる耳飾りも、見事な出来栄えであった。




今日は、特別展の「塚廻りの埴輪」を見ることも、一つの目的だった。その展示室は最後にあり、説明員が待機していた。




この比較的小さい古墳は、昭和52年の開発工事中に偶然見つかったもので、平坦な耕作地の地中20~30センチという浅いところから発見された。従って、すべてバラバラだったが、うまく復元されている。
座り方の違いによる特徴や、主従の関係もよくわかる。人型埴輪は、当時の生活をありのままに再現しているという説明も、納得できる。面白かったのは、皆が腰に「ポシェット」をつけていることだ、男性の従者も、巫女も同じようなものを身に着けているのだから、中身が何かを創造するのは難しい。私は、ふと武士が常に身に着けていた、印籠を思い出した。薬草でも入れていたのではないだろうか。





2時間ほどの滞在で、次の「大室古墳」へ向かった。
                                                    

メタエンジニアの眼シリーズ(90) 老子は、現代を探る道

2018年10月05日 14時29分19秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(90)  TITLE: 老子は、現代を探る道

書名; 「老子は生きている」 [1992] 
著者;葛 栄晋 主編 発行所;地湧社
発行日;1992.8.10
初回作成日;H30.9.28 最終改定日;H30.10.4
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 老子に関する本は、図書館にも豊富にある。しかし、どの本も同じような書き方をしているのが、老子本の特徴と言えなくもない。その中で、この書を選んだことには、2つの理由がある。第1に、執筆者がすごい。11人の中国の学会、政界、芸術界の第1人者と思しき人が,各章を担当している。第2に、全体にメタエンジニアリング指向がみられること。つまり、全体をMECI思考で纏められていることであった。そのことは「序言」に明確に表されていた。
 さらにもう一つ、読み進めてゆくうちに、この書はまさにメタエンジニアリング指向によって、「老子」という古代書に新たな価値をイノベートしたもののように、強く感じたことであった。このことは、次に示「序言」の第2項に明確に示されている。

・序言

 まず、「従来の研究の壁を破った3つの突破点」を示している。
第1は、『第一に、老序思想そのものを対象として研究する立場から、老子思想の現代社会心おける価値についての研究に着手したことである。これは重大な突破点だと思われる。長い間にわたって、老子および道家思想の研究においてはもっぱら老子思想そのもの、たとえば老子の哲学思想、文学・芸術思想、軍事思想、養生法、人生哲学などに注意が払われてきただけで、老子思想の現代社会における価値に目を向けた人は少なかった。 』(pp.3)

 第2は、『今までの老子思想の研究においては、それぞれの研究者の研究視座による単一分野の研究に限られていた。たとえば、老子の哲学思想の研究、文学研究、芸術思想の研究とか、漢方医学と養生法の研究、宗教思想の研究などなど。 これらの学間間の内在的関連を欠いていたため、老子思想に対する全体的統一像がなかった。本書では、単一学科の研究方式を突破し、各方面の学者の研究成果をまとめて、宇宙論、人生哲学、医学、気功、文学、芸術、科学、宗教などの異なった角度から老子思想の総合研究を試みたものであり、老子思想の全貌およびその内在的論理のつながりを再現し、さらにー歩進めて現代社会における老子思想の価値を明示し、老子思想の研究と現実の世界とを結び付けようとしたものである。』(pp.8)

 第3は、『「従来の学術書とよばれるものと大きく変えるように努力している。執筆に当たって、硬い政治的決まり文句や難しい学術概念、冗漫な古文的表現、つかみ所のない議論などをできるだけ避け、 面白い物語や典故、生活における実例を挙げて通俗的にわかりやすく面自く読めるような文章に努めた。』(pp.9)である。

 最も重要で、かつメタエンジニアリング指向が強いのが第1の視点で、そのことが各章に表れている。

第1章の要点は、次の通り。
『第一章「老子と人生哲学」では、人生に対する老子の深い洞察あるいは彼の言う「身は物より事なり」、「私欲を少なくす」、「柔弱は剛強に勝つ」などの人生哲学が現代社会に果たす有用性を説明している。現代生活においても、逆境におかれた場合、老子の人生哲学が有効に働けば人々を逆境から脱出させ、精神的バラソスを調節するはたらきを果たすことができる。老子を代表とする道家と、孔子を始祖とする儒家のそれぞれの人生哲学は人生の異なる両側面であり、互いに補いあい、いずれも不可欠であり両者ともなって完全な処世術を形成している。』(pp.4)(著者は、中国人民大学院教授)

第2章の要点は、『第二章「老子思想と漢方医学」では、漢方医学の基礎理論おょび臨床における老子(道家思想)の深い影響を明らかにしている。もし老子思想の理論的誘導がなけれぼ、漢方医学の発展は難しかったと言えよう。そして老子思想の影響を受けて発展してきた漢方医学、特に自然医学の志向するところは、世界保健機関が打ち出した、「西暦2000年までにすべての人類に健康を」という世界的な目標と一致しており、全人類の保険事業に大いに貢献すると目されている。』(pp.4)(著者は、北京中医学院教授)

第4章の要点は、『第四章「老子と中国文学の魂」では、中国現代文学と老子思想との関わりを歴史的淵源に重点を置きながら説明している。中国開放政策が実施されて以来、中国文学の世界に出現したイマジズムおよび朦朧詩派などは、意識表象の排列と組み合わせで言語表現できない人生の哲理を悟り、民族の未来を探し求めようとしている。こうした潮流にも二千年前の『老子』が深く関わっているのである。「道は自然に法る」という老子の思想は、陶淵明の『桃花源』を創作する素地を創り歴代の文人に山水詩を歌わせたりした。』(pp.5)
(著者は、中央民族学院語言文学研究所所長)

第5章の要点は、『第五章「老子思想と中国絵画」は、「正反の相成り」、「撲(ありのままであること)に返って真に帰す」などの思想や東洋絵画特有の空間観念、思惟様式、審美観、「云術的境地と個性を開拓し、中国絵画を世界絵画界の中で別に一派を成してきたことを述べている。
』(pp.5) (著者は、中央美術学院教授)

第6章の要点は、『「老子思想と企業管理」では老子思想と企業管理との関係を明示している。この章で紹介された山東省魯南化学工場、長江動力会社、アメリカのベル研究所、国際航空運輸企業家の揚小燕女史といった企業や企業人たちは、みな老子の思想を企業管理に活用して成功している。 老子の思想が治国と企業管理の成功秘訣の一要因だ、とそれらの経験は説明している。』(pp.6)(著者は、中国人民大学教授)

第7章の要点は、『第七章「老子と兵法」では現代戦争での戦術と老子思想との関係を説明している。老子は、「兵を以て天下に強たらず」と言って、戦争に反対し平和を主張する一方、「弱は強に勝つ」、「奇を以て兵を用う」、「勝ちて美とせず」という軍事思想と戦術を明示してくれたのである。現在も、これらの名言は依然として重要な戦略と戦術として有効である。 『老子』は人文科学の分野だけではなく、宇宙を探求する自然科学でも有意義である。現代科学は古代ギリシア科学と古典力学を基礎として発展してきたものだが、現在多くの科学者は西洋の伝統的な思惟様式ではなく東洋文化、とりわけ中国の老子思想から哲学の知恵と新しい思惟様式を探し求めている。現代科学が東洋文化に帰する過程において、老子思想が注目すべき役割を果たしている。』(pp.6)(著者は、中国社会科学院教授)

第8章の要点は、『第八章「老子と建築」では、老子の弁証法思想、特に「有無の相生ず」、「自然を尊ぶ」という思想が建築学に与えた影響を探求している。造園、寺院、陵墓、住宅などを含めた中国独特な伝統的建築物は、人工的建築と自然環境との調和を強調しており、「自然を尊ぶ」という老子の思想と一致している。現在、多くの建築家は、建築物自体を重んずるという西洋の伝統的建築概念に対する不満を持ち始め、 「有無の相生ず」、「自然に帰する」という老子の思想を現代建築の新しい理念とするようになっている。』(pp.7)(著者は、北京建築工程学院教授)

第9章の要点は、『第九章「道(たお)の亡霊と無の利学」では、「道」を中心とする老子の思想と現代科学の発展との関係を示している。「零」は中国人ではなくインド人に発明されたにもかかわらず、自然数を生成して行く理論を考察することを通じて、そこに老子哲学の「道」の存在を見出することができるのであろう。数学の「零」は「無」であり、そのほかの数字は「有」である。 このように、「零」と「無」は哲学的に結び付いてくるのである。』(pp.7)
 ここでは、更にホーキングの「無から宇宙が生じた」との発言との同一性を強調している。
(著者は、中国科学院自然科学史研究所所長)

・第1章、第1節「物より身を重んじる」


 この章については、最後に紹介するように、湯川秀樹さんが最重要視されている。
 功名と利益にいかに対処すべきかは、人生において、もっとも基本的な問題であり、諸子百家でも必ず論じられている。老子は、その中で最も基本的なことを述べている。

『老子は「名声と生命とはいずれが切実であるか? 我が身と財貨とはいずれが大切か?我がものとするのと失うのとはいずれが苦痛であるか? だから物に執愛すれば、生命をすりへらし、
くさん持っていれば、たくさん持っていかれる」(第四十四章)という。つまり、 人間にとっては、功名・利益よりも生命が大切である。というのも、功名・利益はあくまでも我が身以外の物でしかなく、功名・利益を獲得するために命を失っては、根本を捨てて末節を追い求めることになってしまうからであるという。 「物より身を重んじる」という老子の思想は、揚朱や荘子に受け継がれさらに発展した。』(pp.21)
そして、このことは、現代社会において格差を低減し、全体最適な幸福を求める道筋と思える。

・老子思想と企業管理

 従来の老子書は、兵法書、政治書、天文書、医学書、哲学書のいずれかの傾向にあった。この章(第6章)では、企業管理の立場から読み解いている。

『これらの見方はそれぞれに一理ある。今、我々は企業管理の立場に立って見てみると、『老子』 はそのための書だと見なすことができよう。というのも『老子』が哲学的な著作だということは公認されており、そこに培われている弁証法思想がそっくりそのまま企業管理に適用できるからである。さらに企業管理には政治的要素が含まれていることから、『老子』は政治の書だというのに同意する。』(pp.189)
 中身については、いろいろな例が示されている。

『『老子』の第二十七章を見てみよう。「善く言いて暇適なし」(発言するにしても乗ずるスキを与えない)というが、これは指導者の具えるべき素養について言っているのである。 「善く数えて籌策(ちゆうさく)を用いず」(計算するにしてもソロパンを必要としない)というが、これは計画管理についていっている。 「常に善く人を救う、故に棄人なし。常に善く物を救う、故に棄物なし」というが、つまり人の長所を活かせぱひとりとして見捨てられる人はなく、物を適材適所に利用すれば気ままに捨てられる物はない、という意味である。これは組織管理について言っている。「善く行いて、轍透(でつせき)なし」というが、行動するにしてもその痕跡を残さないという意味である。これは指揮について言っている。』(pp.190)

実例としては、『多くの企業では猫の手も借りたいほど忙しいと、ついつい課長のやるべき仕事もやってしまう工場長がいる。魯南化学肥料工場の場合、新工場長は、監督は俳優に代わって演技するわけではないように、優れた企業経営者は出すぎてはならず全体の指導をすれば それでよいと考えた。また自分は少しだけ仕事を「為」し、部下に多く仕事を「為」させ、自分は思想上の問題を多く「為」し、部下に実務を多く「為」させ、「君道は無為なり、臣道は有為なり」にのっとってみんなの積極性を呼び起こしたのである。』(pp.191)

さらに、老子が比較的軽んじられている日本では報道されなかったが、『一九八八年五月八日の中国の新聞 『光明日報』紙の記事によると、アメリカのレーガン大統領は―九八七年の一般教書で 「大国を治むるは小鮮を煮るが若し」(第六十章)という老子の言葉を引用して、たちまちアメリカで評判の名言となり、また『老子』も瞬時にその評価を倍したという。』(pp.192)

・「道(たお)」について

 しかし、どの書でも共通する言葉がある。それは「道(たお)」である。

『遺に道とすぺきは常の道にあらずC(第一章)。 「道」字は、『老子』の中で七三回使われている。もちろんそれぞれの章や句では意味の全部が全部同じでなく、ある場合には「道」は万物成長の本であり、あるところでは「道」は事物発展の法則と同義語となる。また、ある時には「道」は生活の原則や方法を意味するものとなっている。「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず」(同)というこの語句から見ると、老子は「道」に二種類あると考えてたようである。形態のないものと実体があるものとしての「道」である。言語で言い表せる「道」は恒常不変の「道」ではない。言語で「名」づけることができるのは恒常不変の「名」ではない。この一旬は人々を啓発するものである。』(pp.193)
 
「道」に関しての企業管理については、
『企業管理の哲学にも実は老子の言った「道の道とすべきは、常の道にあらず」という問題が存在している。すなわち企業管理に「道とすべき」もの、言状できる実体的管理もあるし、「道とすべからざる」もの、「常の道にあらざる」もの、言葉で表し難い管理もある。しかもそういう「道とすべからざる」管理のはたらきは「道とすべき」「名とすべき」管理よりはるかに大切である。もしこのように新たな管理方法が認識され実践されたら、一次元高いレベルの企業管理を達成することができるのである。』(pp.194)
これは、従来の方法から、新たに独自の方法を生み出すことを言っているように思われる。

企業文化については、
『企業文化とは、企業及びその従業員が商品を生産経営する過程において、社会での交渉のうちに所有した理念や価値観念、行動規則、総じていえば価値観である。』(pp.196)

これも従来の方法から、新たに独自の方法を生み出すことを言っているように思われる。

理念などについては、
『ある人は、企業文化という「道」はあまりにも茫漠としてつかみどころがないではないか、という。 たしかにそのとおりだ。それは老子の言う「窈たり寞たり」「寂たり穆たり」とニュアンスが似ている。しかし、企業哲学,社訓,経営理念とか呼ばれる企業文化は確かに存在しているのである。
現代の企業管理学によると、企業管理の内容には、観念や思想などを主とするソフトの管理と、 形となって現れ、言葉で言い表すことのできるもの、たとえば管理施設や管理方法、管理体制、管理データなどを主とするハードの管理がある。理性の価値観を内容とする企業文化はソフト管理に属している。そのソフト企業文化は機械設備を動かし管理方法を指導する役割がある。すなわち、ソフト文化はハード文化を規制し、ソフト管理はハード管理を支配し、ソフト科学はハード科学を導く。したがって「常の道にあらず」という「道」には限りない力があるのである。』(pp.196)

・「無為」について

 「無為」も、老子の老子たる代表的な表現になっている。このことを、企業管理に適用すると、こうなるというわけである。
 『「無為」という言葉も『老子』の中に少なくとも十回以上使用されており、重要繊単語である。まず明確にしておきたいのは、「無為」を「不為(何もしない)と誤解してはならないことである。老子の言った「無為」は「為」のため、つまり「為」を実現するためのスタンスである。「為」が目的であり「無為」が手段である。「無為を為せば、則ち治まらざるなし」(第三章)と言っていることがこの証明である。
『老子』第五十七章に「我無為にして民自ら化し、我静を好みて民自ら僕なり」とあり、また第二章に「無為に事に処り、不言の教えを行う」とある。要するに、老子 は「為」を主張しているのであり、「無為」の形で「有為」を為そうとするのである。したがって「無為」という思想は実は積極的なものであり、決して消極的なものではないのである。』(pp.199)

 『老子の「無為」と「自然」とが結びついて 「自然無為」になるわけである。 この「自然」
は自然界のそれではなく、自然の道理という息味である。老子は、「人は地に法(のっと)り、地は天に法り 、天は道に法り、 道は自然に法る 」 という名言を残してくれたが、「自然」は人、地、天、道がよりどころとする根拠であり、裏返せば人、地、天、道はみな自然に従うべきだという。』(pp.199)

・現代の科学的精神との共通性


 『『タオ自然学』という本では、東洋の古典哲学の科学的精神と現代物理学の変革傾向が一致していることを説明している。彼は、「道」、と「気」と現代物理学の「場」の概念との相似性を研究し、 あらゆる形式を生ずることのできる「道」と「気」が量子場に似ていると見なしている。

さらに『ターニング・ポイント』では、前作の方向に沿いつつ、さらに広く深く研究している。彼は現代世界の全面危機を機械論的世界観の危機に帰し、新しい世界観は古い「道」の概念と一致するとしている。そして『非常の知』という本では彼の思相の形成の過程が述べられている。その中で彼はこう 書いている。
偉大な精神的伝統の中で、私から見れば道家は生態に関する知恵について最も深刻で最も完全な説明を与えてくれる。それは、あらゆる現象の基本が、自然の循環過程における個人と社会の関係と同じであうことを強調しているのである。』(pp.284)

・宇宙の始まりについて

 『老子の宇宙論は、宇宙に「発端」があると構想する。この発端が「道」である。現代宇宙論は精級な科学として、老子がかつて推測した境地に歩みよってきた。宇宙創生についての老子の思想は もともと、神様が宇宙を創ったという宗教的迷信を打破するために出されたので、前人が至上の権威と見なした上帝は、老子によって混沌とした「道」の下に置かれたのである。同じように、科学的な宇宙創生理論は、「宇宙の外は無である」と見なして「無」に物理的意味を与えたのである。 宇宙問題において、これも神学の影響を取り除くための新しい努力である。』(pp.288)

 『我々は、『老子』第一章をこよなく理解した湯川教授の科学的精神を学ぶべきである。『老子』の 第―章は「道の道とすべきは常道にあらず。名の名とすべきは常名にあらず」という文章から始まっている。湯川教授はこれを次のように解釈したのである。
「本当の道、つまり自然の理法は、ありきたりの道、常識的な理法ではない。本当の名、あるいは概念は、ありきたりの名、常識的な概念ではない」
こんなふうに解釈したくなるのは、私が物理学者であるためかもしれない。十七世紀に、ガ リレイやニュートンが新しい物理学の「道」を発見するまでは、アリストテレスの物理学が 「常道」であった。ニュートン力学が確立され、それが道とすべき道と分かると、やがてそれ は物理学の唯一絶対の道とされるようになった。質点という新しい「名」がやがて「常名」と なった。二十世紀の物理学は、この常の道を越えて新しい道を発見することから始まった。

今日では、この新しい道が、すでに特殊相対論や量子力学という形で、常道になってしまっているのである。「四次元世界」とか「確立振幅」とかいう奇妙な名も、今日では常名になりすぎるくらいである。もう一度、常道ではない道、常名でない名を見つけ出さねばならない。そう思うと二千数百年前の老子の言葉が、非常に新鮮に感じられるのである。』(pp.288)