生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアリングのすすめ(12) 第12話 閑話休題(1)

2014年07月25日 14時45分57秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第12話 閑話休題(1)

メタエンジニアリング的な思考で新聞記事を読んでいると、共感を覚える記事にかなりの頻度で出あうことになる。7月19日の日経新聞の最終頁に「私の履歴書」が連載されているが、今月はインドの大富豪のラタン・タタ氏で、その半生の話は面白い。この日は第⑱で、バラバラだった一族の企業群をどうやって統一に導いたかの見事な戦略が語られている。同じことが日本では、独立した元子会社の株式を買って、再び完全支配下に置くやり方で行われ始めて、多くの場合に企業群の総合力を増すことに成功しているが、彼のやり方はもっとスマートだった。これらもメタエンジニアリングの考え方なのだが、今回の注目は、その隣の「文化」という記事だ。
 記事の筆者は、文化部記者の千場達矢氏とある。見出しは、「思考停止へ警鐘、現代に響く」「哲学者アレートンに脚光」「原発や企業不祥事 読み解くヒントに」とある。はじめの2段抜きの部分にはこの様にある。

全体主義や公共性をテーマに思索したドイツ出身の政治哲学者ハンナ・アレートン(1906~75)への関心が高まっている。意味を深く考えない行が 大きな破局を引き起こすという指摘は、企業不祥事や原子力発電など現代の問題を読み解く視点も与えてくれる。関連書籍の刊行も活発で、その思想にふれる好機だ。気になった個所のみを取り出してみる。

  ・自分のやっていることの意味を考えない普通の人が、途方もない災厄を引き起こす
  ・大衆社会の到来が全体主義を生み出す契機となったと分析
  ・「複数性」という概念を提唱した。
  ・それぞれが違った意見をぶつけ合っている状態の方が正常である
  ・アレートンは現代の巨大な科学技術との向き合い方についても思索を重ねた


 ここまで読むと、何冊か読んでみたいとの衝動にかられる。そこで、手っとり早く図書館で検索をすると、最近刊行の多くは予約で詰まっている。幸い3冊が在庫中で、その分だけを読むことにした。そして、メタエンジニアリングと共通する言葉をいくつか知ることができた。以下は、それらからの抜書きであるが、最大の共通語は次の文章にある言葉である。
「アレートンは、事物や現象の背後に潜む根源的なものを追求することに格別の情熱を抱いている思想家である。そしていったん捉えられたこの根源的なものから逆に事物や現象を眺め返してみると、その光景は、普段私たちが見馴れて居るものとまるで異なって見え、ある場合には逆立ちして見える。」
                                                                 
1.精神の生活(上),佐藤和夫訳、岩波書店1994)



・私は、「悪の動機になったのは、私がイエルサレムのアイヒマン裁判に傍聴に行ったことである。その報告の中で、私は「悪の陳腐さ」について述べた。その背後には、テーゼや評論が合ったわけではない。しかしながら、ぼんやりとはいえ、私はそれが悪という現象についてわれわれの思想伝統―文学・神学・哲学上のーとは違っているものだという事実に気付いていた。

・私は、この犯罪者の行いがあまりにも浅薄であることにショックを受けた。ここでは彼の行為の争う余地のない悪を、より深いレベルの根源ないしは動機に遡って辿ることができないのだ。やったことといえばとんでもないことだが、犯人(今、法廷にいる、少なくともかつては紀和寝て有能であった人物)は、まったくのありふれた俗物で、悪魔のようなところもなければ巨大な怪物のようでもなかった。彼には、しっかりしたイデオリギー的確信があるとか、特別の悪の動機があるといった兆候は無かった。過去の行動及び、警察による予備尋問と本審の過程での振る舞いを通じて唯一推察できた際立った特質と云えば、全く消極的な性格のものだった。愚鈍だと云うのではなく、何も考えていないということなのである。

・「人間の条件」というのは出版社がつけた巧みなタイトルであって、私はもっと控えめに「活動的生活」の研究とするつもりであった。

・ハイデガーは、哲学と詩とはきわめて密接に結びついているのだと切り返している。二つは同じというのではないが、同じものに起源を持っており、思考がその起源なのである。アリストテレスについて、彼がただ「たんに」詩だけを書いているといって非難する人はいないが、彼も同じ考えで、詩と哲学は同じものに属しているという意見だった。

解説;

・ナチズムに代表される全体主義的傾向がけっして20世紀の例外的突発的事件ではなく、むしろ、20世紀という時代全体にもっとも深く結びついた現象だということを捉えて分析した。

・現代ヨーロッパの深刻な現状、フランス、オーストリア、ドイツ、ベルギー、イタリアといった国々でいずれも急速な極右勢力の進出があり、選挙によって20%を上回る得票率を獲得しているような地域も珍しくない。ファッシズム、全体主義は過去の問題ではない。ことによったら、近代民主主義そのものと深くかかわった問題かも知れない。


2.人間の条件、志水速雄訳;ちくま学芸文庫(1994)



文末の解説より;

・彼女の全著作に流れている暗流は、現代社会に対するかなり切迫した危機意識である。

・人々は自分を他人から区別するために活動するのではなく、他人にならって行動する。大衆社会とは公的領域も私的領域も完全に消滅した社会にほかならない。

・アレートンは、事物や現象の背後に潜む根源的なものを追求することに格別の情熱を抱いている思想家である。そしていったん捉えられたこの根源的なものから逆に事物や現象を眺め返してみると、その光景は、普段私たちが見馴れて居るものとまるで異なって見え、ある場合には逆立ちして見える。

・彼女の場合、根源的なものへの遡及は、しばしば古典古代への復帰を採っているからである。

・本書の中心的テーマは、「私たちが行っていること」を考えることである。いいかえると「人間の条件の最も基本的な要素を明確にすること」であり、・・・。


3.アーレトンーハイデガー往復書簡、大島かおり・木田元共訳、みす書房(2003)



 この本の内容は割愛する。教師と生徒間の恋愛感情がからまった1925~1975の手紙やメモの中味がそのまま記されている。アレートンの学生時代から死の直前までの長い付き合いのようが、愛情を一方的に告白しているのが、あのM.ハイデッガーであり、翻訳者がその研究の第1人者である木田元氏であることに、驚きを感じた。


 これら3冊を通じて思うことは、彼女の人間の基本的条件とは、深く思考することであり、つまり「人は考える葦である」と同じことと感じた。また、近代の民主主義は大衆社会が基であり、この特質が、一般的な不安から全体主義への発展をもたらす危険性に富んでいると、主張しているように捉えられる。
 一般的な不安も、「背後に潜む根源的なものを追求」しないと、とんでもない負の遺産を生じるという主張は、正にメタエンジニアリングの主張と完全に一致する。

メタエンジニアリングとLA設計(19) 第16話 東京大学工学系大学院の航空宇宙専攻での授業内容

2014年07月10日 16時22分21秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第16話 東京大学工学系大学院の航空宇宙専攻での授業内容                                                           
概要;
 
研究成果の現実社会への反映を重視する政策がすすめられているが、エンジニア生活40年を経験した筆者には、まだ不徹底の思いが強い。そんな中で、東大工学系大学院の航空宇宙専攻の研究室から授業の依頼を受けた。準備期間は短かったが、「実際の経験談を中心に」とのことだったので、敢えてお受けした。テーマは、「FMEA,FTA,ワイブル分布の設計開発における応用」であった。
航空機用エンジンの新規開発では、この3つは重要な役割を担っている。質疑応答と直後のアンケートから感じたことは、やはり大学教育と開発設計エンジニアの距離感であった。

授業の内容;




航空機用エンジンの設計は、他の工業製品よりはメタエンジニアリングに係わる知識が格段に多く必要である。耐環境性は勿論、世界中のどんな国で運用されても、安全性を確保しなければならない整備性など。
また、原発と並んで、ニュートン物理学に逆らった科学の成果を信頼性を保って利用してゆかなければならない。その為に、Design on Liberal Arts Engineeringの出番が多い。



Airbus A320用エンジンの開発設計で、Rolls RoyceとPratt&Whitneyの設計思想を経験した後で。GEとの共同開発が並行して始まった。
 
新機種の開発は、3社3様の思想が現れて面白い。戦略的な考えでは、明らかに負けるのだが、問題が特定された後の解決策の完成には、負ける気がしない。日本の技術陣には、それだけの人材が揃っていた。



「全ての科学には、賞味期限がある」とは、米国のメタエンジニアリング研究者の言葉である。科学と技術がともに多様化し、かつ専門分野化が進む中では、科学とその結果を利用する産業におけるエンジニアリングの間には、メタエンジニアリングという思考過程が必要な世の中になりつつある。




最近は、顧客に喜ばれる設計が主流となりつつあるが、その傾向が本当に人類の将来の為になるのかどうか、将来 負の価値を残すことにならないかを綿密に考えなければならないほどに、エンジニアリングの影響は大きくなってしまった。



日本では、教養学科の教育と、専門領域の教育が並行して行われることはほとんど無い。しかし、そのことを見直す時期に来ている。





FMEAだけでは、形骸化する恐れがある。
Criticality Analysisを加えた、FMECAを行わなければ、価値が半減される。

最近、日本国内で頻発する事故や不具合は、当初の設計時に、FMECAを行っていたら、防ぐことができたと思わざる得ないことが、多い。







この図に示されるように、日本では、欧米に比べてFTA(Fault Tree Analysis)が重要視される傾向にある。事故が起こってからの対応に眼が向いているためではないだろうか。
一方、欧米ではFTAよりは、FMEA(FMECA)をより多く活用している。



ワイブル分布を実際の研究開発や開発設計に用いるケースは限られているが、もっと活用するべきだと思う。原因が複雑で特定することが危険なケースが増えつつある中では、従来多用されている統計法よりは、有効な側面がある。
 
また、世の中のデジタル化が進み、先ずはグラフ用紙にプロットをして、傾向を把握する態度が見られなくなってしまった。逐次グラフにプロットをしていると、自然に将来の傾向が見えてくる    ものなのだが、その価値が失われている。





結論は、このように纏めました。
「想定外」とか「規定外」といった言い訳は、設計技術者の口からは決して発してほしくない言葉です。