生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(32)古代のインド―ヤマト文化圏(その2)

2017年05月25日 07時55分07秒 | メタエンジニアの眼
TITLE: 「古代のインド―ヤマト文化圏(その2)」 KMM3333,34 
 
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

清川理一郎の古代インド説 ③of4
書籍名;「薬師如来 謎の古代史」[1997] 
著者;清川理一郎  発行所;彩社流  発行日;1997.3.5
初回作成年月日;H29.5.15 最終改定日; 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

 副題を「仏の素顔とインドの魔族」として、現代の仏教の複雑性と、特にインドの仏教以前の神々との関係を探索している。

仏教の経典は、他の宗教に比べて格段に多い。それは何故か。私は、特に仏教に詳しいわけではないのだけれども、彼の説には、なるほどそういった見方もありそうだ、との印象を持った。現地・現物でその場で思考範囲をできるだけ広げてその根源を考える態度は、その場考学流のメタエンジニアリングとまったく同じである。



 先ずは、総論から。
 『仏教の経典の数はきわめて多い。そして、釈尊の直接の教えといわれる金口・直説とされる経典が非常に多いのである。経典類は一括して大経蔵とか一切経とか呼ばれているが、そのなかには教えを記した経典のほかに教団の規律を定めたものと、教えを解釈した論書も含まれる。
いわゆる経・律・論の三蔵である。』(pp.22)

 経典の由来につぃては、
 『文字はシャカの時代よりも千年以上前にすでに存在していた。ただ崇高な教えは文字に写すことはできないということで、口から口へと伝えられたのである。バラモン教の経典についても、このことはいえる。シャカ滅後、経典編集会議(結集)が何回か開かれるようになるが、しばらくの間は、やはり暗記しているものを口で言い合い、確かめあって解散したので、文字に写すことはしなかった。』(pp.23)

 この経過から考えると、文字を使わない文化の方が賢い文化と云える場合もあることを思わせる。プラトンの、「正しいこととは、論じ合うことだ」の言葉を思い出す。
 文字文化が印刷技術の進化により一方的に発達すると、印刷されたものは正しいという文化が育つ可能性がある。

 その後、多くの国家や文字言語が発達したのちに、多くの文字で経典が書かれ始めたので、当然の結果として、多くの経典が生まれた。また、仏像についても無仏時代を経た後、特にアレキサンダーの東進の後で、仏像を作りだしたので、ギリシャ風などの色々な様式が同時代に現れた。

 日本各地には、神仏習合の影響の結果、古い神社と薬師如来信仰が集まっている地域がいくつかあるという。その中の一つに越後の弥彦山周辺がある。
 『仏教の霊地になる以前の弥彦の地に、仏教の・・・』(pp.44)ではじまり、今は無人になっている周辺の寺々の説明が続く。

それらには、『薬師寺の南側にある湯(くすり)神社は石薬師明神を祀るヤクシブツ信仰の神社であり、巨石信仰と蛇神信仰を持つ。野積の妻戸神社は弥彦神の妃神おヨネを祀る神社で、巨石信仰と蛇の信仰を持つ。』のように、不思議と古代の信仰対象が保たれていることが多い。

そして、「ヤクシブツ信仰圏」なるものを想定しており、そこに集まる諸仏についての系譜を纏めている。

『この系譜には、これまで弥彦の神仏習合の諸仏にみなかった仏が登場する。つまり、吉祥天、鬼子母神、夜叉(薬叉)などである。
系譜上の諸仏の本地はみな外道の時代からヤクシブツの本地とつながりがあり、ヤクシブツ信仰圏の系譜を構成している。また薬師十二神将の一つの金毘羅は夜叉大将の一つで、その前身はインダス河の「わに」といわれる。これを海神として祀ったのが四国の金毘羅宮(琴平神社)である。』(pp.51)
つまり、ヤクシブツ信仰圏にある神社は、ヤクシブツ信仰の原態、つまり外道につながる原形をそのまま残している、という。

そこから、古代インドの「魔族」の説明に移る。
『古代インドの魔族について述べる理由は、これまでみたように、今の私たちの周りに存在する仏の中にたくさんの魔族の出目を持つ仏が居るからである。』(pp.80)

『仏の原態が魔族につながる代表例は、前章で述べた外道時代に魔王だったヤクシャ出身のクベーラ(ビシャモン)である。一方、このクベーラはクビラ(金毘羅)に名称を変えて四国の金毘羅宮の祭神にもなっている。そしてクビラは「わに」の神格化ともいわれる。また、先にみた吉祥天は、ヤクシャ出身の夫(ビシャモン=クベーラ)と母(鬼子母神=ハーリーティ)の双方とも魔族とされる眷属を持った女神信仰出身の仏であった。つまり吉祥天の血筋は、魔族の系譜であった。』(pp.80)

『魔族を大きく分けると三つに分類できる。それはアスラとラクシャス、そしてブートに代表される悪霊群である。先ずアスラの中には、ヤクシャとヴリトラがいる。アスラは神々に敵対する魔族であった。(中略)ラクシャスは、アスラが神々に敵対する存在であったのに対して人間におそいかかる悪鬼とされる。(中略)ブードに代表される悪霊群は、事故、自殺、死刑、毒蛇などが原因の死によって出現するブートと呼ばれる死霊や、・・・様々な死霊や悪霊のことである。』(pp82)

 『この分類の最初のアスラを構成する主たる実態はヤクシャである。外道(ヤクシャ)から仏教(大乗仏教)に入り諸仏になったケースは極めて多い。また、分類の二つ目のラクシャスも仏となるが、ヤクシャとラクシャスは外道において性質が異なる魔族である。』(pp.82)

 最後に、「ヤクシブツ(薬師如来)の出目(原像)は古代バラモン教の魔族・ヴァルナ神だった」として、次のことを記している。
 
『中国でのヤクシブツ信仰は、道教的色彩が濃いものとなり南北朝の時代のとくに南朝に「続命法」の中心となって広められた。では、インドにおけるヤクシブツ信仰はどうであったのだろうか。じつは、インドにはヤクシブツが信仰されたことを示す積極的な資料や、ヤクシブツの彫像や画像などが存在しないのである。このことはヤクシブツをめぐる最大の謎である。多くの専門家は古代インドにおけるヤクシブツ信仰を否定的に考えている。私は、この謎を解く鍵はヤクシブツの外道における出目にあると考える。』(pp.114)
 
つまり、インドではヤクシブツが、その自目まで遡った信仰として残されているというわけなのであろう。古代の魔族としての扱いが続いているというわけなのだろう。

最後に、文化の波状理論にもどる。
 
『二つの文化(民族固有と民族間共通の文化)は、民族の移動、戦争などによって他に伝播する。伝播した文化が民族間共通の文化の場合は、相手の文化も同じなので、相手の文化を吸収したり吸収されたりする文化の融合はスムーズに行われる。
 しかし、固有の文化の場合は、注目すべき分化現象が生ずる。それは、固有文化の中で固有性が非常に強い部分、つまり固有の文化の本質を形成しその文化の“核”となる部分は、伝播した後も極めて長い間変わらないで残存することである。文化伝播の理論の一つ、波状理論とは、文化の固有性が非常に強い部分の文化伝播についての理論である。』(pp.119)

                                                         
 
清川理一郎の古代インド説 ④of4   KMB3333
書籍名;「猿田彦と秦氏の謎」[2003]  著者;清川理一郎 
発行所;彩社流 発行日;2003.2.10   
初回作成年月日;H29.5.15 最終改定日; 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

 副題を「伊勢大神・ホツマツタエ・ダビデの影」として、猿田彦が秦氏の元祖で、かつての出雲神族の最高神であり、伊勢大神でもあったが、日本書紀の編纂の頃には、その呪術性を天皇家に独占されて、道祖神にまで落とされた経緯、さらに秦氏の先祖を古代イスラエルに求めている。このストーリーはホツマツタエの話として、一時は偽書扱いを受けたが、今では評価が二分されていると思う。超古代の日本と古代ユダヤの繋がりは、多くの時とところで挙げられている。この一連のストーリーについても数冊の著書があるが、氏は改めて各国の古文書の内容から、これを肉付けしている。その集大成ともいえるのではないだろうか。



 『サルタヒコノオオカミは日本の神武天皇朝以前に存在した日本古代のウガヤ王朝の時代、海の向こうから日本に渡来した外来神である。サルタヒコは数代にわたる神系譜を持つ神であり、わが国先住民族の出雲王朝の神々(国つ神)の祖先神として崇められ、またその最高神として信仰を集めてきた。
 日本各地に分布するサルタヒコ大神を祀る神社は多い。その神格像は時空を超えて複雑であり、多様性に富んでいる。そして一方、サルタヒコはオープンでおおらかな神であるから、当時の一般の民衆に支えられた信仰のすそ野は極めて広く、いくつもの時代をとおして重層的なひろがりをみせてきた。』(pp.2)

『記紀(日本書記と古事記)の描写は、サルタヒコを岐の神、クナトの神、街の神などと呼ばれる道祖神や塞の神にまで格下げし、かつては国つ神・出雲神族の最高神だった、サルタヒコ大神の威光ある原像は描かれていないのである。つまり、記紀は、サルタヒコの真の姿を抹殺したうえ、正史の光のあたらない闇の中に葬ってしまっているのだ。』(pp.2)

『日本各地に鎮座する2000余社もあるサルタヒコを祀る神社の、主祭神・サルタヒコの真お姿を理解していただきたいのである。』(pp.3)

 第1章では、サルタヒコの源郷をチベットの羌族に求め、更にその元を古代ユダヤ教徒の一民族としている。
 第2章では、サルタヒコ信仰の多様性の例として、伏見稲荷、水尾神社、椿大神社を挙げている。
 第3章では、伊勢神宮で真夜中に行われる祭祀から、おおもとの神が男であり、伊勢大神と称されているとしている。
 第5章では、4世紀に大挙渡来した秦氏について述べ、猿田彦がその王であったとしている。
 第6章では、日本各地に存在する秦氏の痕跡について、例証している。
 第7章では、古代オリエントの地で出土した古代文書から、サルタヒコとダビデとの関連性を推定している。
 第8章では、伊勢神宮に伝わる古代ユダヤの神跡について詳細に述べている。有名な、八咫鏡の裏面の画像も表示している。

 以下は、各章から興味ある部分のみを抜き書きした。

『ヌナカワヒメとオオナムチとの間に生まれた神をタケミナカタ命としている。タケミナカタノミコトは信州諏訪の出雲系の諏訪大社をはじめ、全国の諏訪神社の祭神である。いずれにせよヌナカワヒメは、出雲系の有名な神々の大母神だったのだ。』(pp.31)
 この有名は話と、まったく同じ話が中国最古の歴史書である「穆天子伝」(前430~225の魏の時代に成立)にある、西方の地の「西王母」の話を挙げている。彼女もまた、古代の玉を算出する地の女王だった。

 『羌の字は、「羊」の字の下に「人」の字を加えて「羌」とするように、羌族は根っからの遊牧民であった。羌族の歴史は古く、中国の殷代(紀元前十五~十一世紀)の遺物として出土した甲骨文の文字から判断すると、殷の王の祭祀に臨んで、犠牲者として祭壇に捧げられたのが、羌族の人間だったと考えられるのだ。』(pp.36)
 つまり、羌族は殷の民族とは敵対する民族であった。ところが、民族としての力は強く、春秋・戦国時代を生き抜いて、ついには秦国を建設する。

『中国の古代国家、周(西周)が東遷したのち(前770年)、西周の都があった陝西省の地に羌を基層民族とする国家が成立した。この国こそが、後の秦の始皇帝の国家統一(前221年)を経て滅亡(前110年)までつづいた秦国である。』(pp.38)

 羌族は、彼らの聖数を「六」とする「六祖観念」を秦国に持ち込んだのだが、この観念は古代ユダヤから持ち込まれたとしている。

 『鈴鹿市の椿ガ岳の麓に広がる、うっそうとした杉木立のなかに、主祭神・サルタヒコを祀る椿大神社が鎮座する。椿大神社は全国二千余社あるサルタヒコ神社の総本宮であり、古来、伊勢国一の宮として崇拝されてきた。』(pp.50)

伏見稲荷大社については、このように記している。かつての御神体である、おやま「稲荷山」の頂上には数基の古墳がある。

『山頂にある古、墳の年代は古くその古墳はおおよそ先住民の首長や有力者の墳墓と考えられるのである。また山麓の円墳の年代は、秦氏が移住した後の時期とも符合するので、秦氏一族の墳墓とみられている。
私は、山頂の古墳の主である先住民こそサルタヒコの神族の人たちと考える。サルタヒコは稲荷神社にとって古層の地主神なのだ。』(pp.76)

また、「イナリ」の名の根源は別のところにあるとして、
『キリストの頭上にかけられたINRIの意味を多くのユダヤ人が知っていたことだ』(pp176)としている。『処刑された十字架上のキリストの頭上に掲げられた“INRI”が転訛して「INARI」になったものと考える。』(pp.182)

『原始キリスト教徒はキリスト教のシンボルを“魚”とみていた。したがって伏見稲荷社の名が、「INARI」だったり、宮司の名の多くが“魚”に因むものだったりすることなどは、原始キリスト教徒が創始した伏見稲荷大社は、古代キリスト教色が極めて濃かったことの証なのである。』(pp.183)

先日、私はこの伏見稲荷を参拝したのだが、参詣者の大多数が西欧人で、恐らくはキリスト教徒と思われたのだが、これは偶然なのであろうか。いずれにせよ、伏見大社の参道には、「外国人参詣者連続日本一」の多くの旗がはためていた。

また、日本独特の真言密教については、次の記述がある。
『空海は唐に行く前から景教に強い関心を持っていたと思われる。それは、空海の出身地の香川県・讃岐は、原始キリスト教徒の秦氏が多く住んでおり、また空海の師であった仏教僧の勤操も、元の名を秦氏といった。(中略)空海が向かった長安には当時すでに、景教の教会が四つあった。空海がいた場所は景教の教会のすぐ近くだった。空海は景浄という景教僧と接触したと伝えられている。』(pp.284)

『私が残念に思うのは、真言宗の総本山には景教をめぐってこれまでみたような決定的な資料や証拠が残っているにもかかわらず、日本のアカデミズムが密教と景教の関係をなぜもっとはやくディスクローズしなかったかである。』(pp.286)

 以上の4冊を読んで感じたことは、仏教の正式な伝来以前の日本列島は、多くの民族による国家が乱立していたのだが、インドから南方を通じて伝わった文化圏に属する民族の力が強かったようだ。それを記紀の編集によって、ひとつのストーリーにまとめ上げた大和朝廷の政治手腕には驚かされる。しかし、あちこちに「文化の核」が残されており、その繋がりは徐々に明らかになってゆくのだろうということだった。

 4冊に示されたストーリーをすべて正しいと断定することはできないのだが、同時に、すべてを否定することもできない。最近は、日本書記と古事記の内容の真否について多くの著書が発行されている。また、そのような古代から伝わる歴史書は、すべて勝利を得た側が、自らの政権に都合の良いように書き残したものだ、との考え方が有力なっている。やはり、「文字の文化を文明とする」という文明論は、全体最適の眼から見るとおかしなところがあるようだ。SNSなどの発達により、新たな文明の定義が生まれることを期待している。


メタエンジニアの眼(31) 古代のインド―ヤマト文化圏(その1) 

2017年05月24日 08時27分21秒 | メタエンジニアの眼
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

TITLE: 「古代のインド―ヤマト文化圏(その1)」 KMM3341,30 
 
 始まりは、古代の諏訪大社の歴史への興味であった。特に、前宮は毎年訪れて、そこからの八ヶ岳の山並みを愛でる、そして、縄文文化の息吹を感じることが習慣になってしまった。そこで入手したのが、①の本だった。それから、彼(清川理一郎)の古代のインドからヤマトへ続く文化圏説に興味をもって、数冊を読んでみた。発行順に並べると次の4冊で、主張には一貫性があった。

 ① 「諏訪神社 謎の古代史」[1995]
 ② 「古代インドと日本」[1995]
 ③ 「薬師如来 謎の古代史」[1997]
 ④ 「猿田彦と秦氏の謎」[2003]


清川理一郎の古代インド説 ①of4   KMB3341
書籍名;「諏訪神社 謎の古代史」[1995]
 
著者;清川理一郎  発行所;彩流社 発行日;1995.3.5
初回作成年月日;H29.5.15 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

 副題を「隠された神々の源流」として、諏訪の神様の源流を、古代インドから、さらに旧約聖書に求めている。これは、私が読んだ4冊の最初の著書。
 著者は、早稲田大学理工学部の出身で三菱系メーカーに27年間在籍の後に、古代史と古代宗教の研究を開始した。そして、独自の見解を発表している。私は、諏訪大社に参詣の折に、この書を見つけて、以後彼の著作3冊を読むことになった。



 この書の「はじめに」には、各章の中身が概説されている。
 序章は、波状理論とKJ法を用いた経緯の説明
 第1章は、諏訪大社の御柱祭とネパールの柱立て祭りの関係
 第2章は、古代インド・ゲルマンの神々の話
 第3章は、インドラ神の源流について
 第4章は、御柱祭とタケミナカタ命の関係
 第5章は、古代の諏訪での産鉄の話
 第6章は、諏訪大社の前宮の神と旧約聖書の人物の関係
 第7章は、古代カナンのける女神信仰との関係
 第8章は、古代出雲と古代イスラエルの関係
といった具合である。表題だけだと俄かには信じがたいのだが、順を追って読み進めると興味深い説に思えてくる。

 序章では、「文化の核の伝播と融合」と称して、文化の核としてのその地の神々が、他の文化圏に伝播して融合してゆく過程を説明している。

『「文化」とは、人間が生存するために確立した生活様式や行動形態である、と言われる。次に、文化と関係が深い文明はどうか。「文明」とは、文字の使用、都市の存在、広範な政治組織と職業分化の発達を含む文化の形態であり、といわれる。』(pp.14)

この文化と文明の定義は一般的なのだが、メタエンジニアリング的には「文明」の定義は異なってくる。しかし、ここではその違いは必要ない。

『「波状理論」によると、中心部に発生した文化は、丁度水面に石を投じた際の波のように周辺に広がってゆき、周辺部には古い文化が残存する。中心部に近いほどさまざまの中心部から出た改新波にいくども洗われることになる。(大阪外語大学・井本英一教授著「古代の日本とイラン」、学生社、一九八四年刊)』(pp.15)

つまり、周辺国である日本や中国奥地とインドの少数民族には、中心部(ネソポタミアなど)で起こった古い文化の核が存在するであろうという説になる。

第1章の、諏訪大社の御柱祭とネパールの柱立て祭りの関係では、上社で行われる年間75回の神事の中から、核となるものを限定した。それは、御柱祭の伝統的な諸行事の進め方と、その柱の上に刺される「薙鎌」だった。これは、ネパールのネワール族の祭りなどに共通する。

 第2章の古代インド・ゲルマンの神々の話では、この民族の核となる文化を特定し、後の時代に出現したいくつかのインド・ゲルマン民族に引き継がれているとした。それらは、

『(イ)家長を中心とする父系的・貴族的社会。(ロ)騎馬と騎馬戦車。(ハ)戦斧。(二)樫、ぶななどの聖木(神木)信仰。(ホ)孤立家屋、牧畜。(へ)太陽神に犠牲をささげる。』(pp.45)
などである。

また、古代インド・ゲルマンはステップ地帯から南下をして、以下の3つの集団に分かれたとしている。
 ① ヒッタイト帝国の樹立
 ② インド・アーリア族としてインド・イラン・メソポタミアへ
 ③ 広範囲なヨーロッパ

 インドのアーリア人は、BC1200ころバラモン教の聖典「リグ・ヴェーダ」をまとめ上げた。
 イランのアーリア人は、BC1000ころゾロアスター教の聖典「アヴェスタ」をまとめ上げた。

 第6章の諏訪大社の前宮の神と旧約聖書の人物の関係には、次の記述がある。
 
『ミサクチ神は樹や笹や石に降りてくる霊魂や精霊で人にも憑く神である。そしてミサクチ神の祭祀権を持っていたのは神長官で、神長官は代々守矢家の世襲となっていた。』(pp.148)
 
さらに、キリストの磔刑の場面の絵画に頻繁にあらわされている文字から、『ミサクチ神を、より一層理解するためM(接頭語の子音)・ISAKU(イサク)・CHI(接尾語)、とわける。』(pp.160)とある。これはかなり厳しいこじつけだが、古代のキリスト教とも多くの核が共通していることを挙げている。

 第7章は、古代カナンのける女神信仰との関係
 第8章は、古代出雲と古代イスラエルの関係
については、詳細を省略するが、出雲王朝と伊勢神宮の関係を盛んに記している。


清川理一郎の古代インド説 ②of4   KMB3330
書籍名;「古代インドと日本」[1995] 

著者;清川理一郎  発行所;新泉社 発行日;1995.10.20
初回作成年月日;H29.5.15 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

 副題を「海のシルクロードを探る」として、インドを出発点とする、東南アジア経由で古代日本(ヤマト・倭)までの文化の伝播ルートを掘り下げている。そして、その証拠を初期の前方後円古墳に求めている。主な章の構成は以下である。そして、まえがきでは、著者は文献や神話をそのまま受け入れずに、現地で直に見聞きして確認することが、この書の特徴であると述べている。

第1章 インドの聖地バナーラスにシバ神を訪ねる
第3章 バラモン教からヒンズー教への系譜
第4章 前方後円墳の源流を訪ねる
第5章 インド文化の伝播ルート「海上の道」
第7章 素戔嗚尊と大国主命の原像とその謎

第1章 インドの聖地バナーラスにシバ神を訪ねる、副題は「シバ神の原像、その源郷」では、インド各地の遺跡や、寺院、博物館の参道などに置かれている「ヨーニ」に注目をしている。

「ヨーニ」は、Wikipediaでは、「リンガ(liṅga)」の項に下記の説明がある。

『特にインドでは男性器をかたどった彫像は、シヴァ神や、シヴァ神の持つエネルギーの象徴と考えられ人々に崇拝されている。
リンガ像の原型は、インダス文明の遺跡から出土されているが、当時から性器崇拝が存在したか否かは判然とはしないものの、リンガ像の原型になったという考え方は正しいと考えられている。「マハーバーラタ」には、豊穣多産のシンボルとしてのリンガの崇拝が記録されているが、後世にシヴァ信仰の広まりとともにより鮮明になり、大小さまざまなリンガ像が彫像され、多くのヒンドゥー教寺院に祀られるようになった。

通常、リンガの下にはヨーニ(女陰)が現され、人々はこの2つを祀り、白いミルクで2つの性器を清め、シヴァの精液とパールヴァティーの愛液として崇める習慣がある。シヴァの主要な性格は、サマディで、これは日本語の「三昧」に相当する。日本では、「博打三昧」「ゴルフ三昧」というような、悪習慣の意味で使われることが多いが、本来はシヴァ神の本質を意味するものであり、シヴァ神とは極度の偏執的な凝り性を表している。このために、性交であれ瞑想であれ、シヴァは何億年もの時をかけてひとつのことに没頭するのである。

さらにそのような姿がリンガに例えられ、尽きることなく生命を生み、さらに破壊するという原理や現世の本質をあらわしている。すなわちシヴァは、この世の万物を生み出し続ける性器そのものという位置づけがなされる。シヴァは多数の別名を有するが、その一つが「マハーカーラ」で「時間を超越する者」、「時間を創出する者」という意味を持ち、すなわち「永遠」を意味する。人知を超えた存在に対する恐れの感情と、自然のメカニズムを具現化したものがシヴァである。』



第4章 前方後円墳の源流を訪ねる 副題は、「そのコンセプトの源流」では、前期の前方後円墳の代表でもある、奈良桜井の茶臼山古墳と崇神天皇陵の形に注目をして、前期では形状が全くの手鏡で、その形は「ヨーニ」(Wikipediaの写真を参考)そのものだとしている。また、あるじが後円部にまつれれていること、周囲が水で囲われていることも共通であるとしている。
更に、これがインド的な宗教の由来である証拠に、仏教の伝来とともに廃れたとして、以下の記述がある。

『前方後円墳が仏教伝来の時期とほぼ同じ時期に奈良や大阪で消滅した原因はこのことにあったのである。私は、以前は古墳の築造と仏教の伝来との因果関係はうすいと考えていたのだが、因果関係がうすいどころか両者は対立関係にあったのだ。つまり、古墳築造の一派は廃仏派であり、他の一派は仏教受け入れの崇仏派であった。(中略)

群馬、埼玉、茨城、栃木、千葉の各地で後7世紀後半まで前方後円墳が盛んに築かれた原因について、私は、7世紀後半にはまだ、崇仏派の勢力が関東各地におよばなかったこと、そして、その時期にはまだ、関東各地の廃仏派の勢力が強かったことの二つが原因であると考えている。』(pp.103)

勿論、日本における前方後円墳の形は、時代が下がるとともに、日本独特のかたちになり、その優美さと権力の象徴としての巨大さが注目されるようになっていったのだが、その原型の由来としては興味深い説だと思う。

 さらに、『前方後円墳と非常によく似ている前方後円的な古墳が、紀元前後の前漢の時代、中国・江南の地に既に存在したことに驚きをおぼえた。(中略)江南の地に存在した、前方後円墳の萌芽とみられる原形や古代インドの文化は、インドから南まわりの「海上の道」をとおってきたことは間違いないと思う。紀元前後には揚子江河口に、すでにインド僧が住んでいたとの記録がある。』(pp.111)

 似たような話は、韓国の歴史ドラマ「キム・スロ」に出てくる。「朝鮮半島南部で小部族をまとめ上げ、優秀な製鉄技術と海洋貿易で名を馳せる国家(伽耶)》の初代王になったのがキム・スロ」として紹介されている。当時既にインドから海を渡って倭の地域へ至るルートは、確かに使われていたのだと思う。

 さらに、前方後円墳の英語名が、「Keyhole Shaped Tomb」であることも紹介をしている。
また、ヒンズー教がバラモン教の核の部分を残していること、また、ヒンズー教のそれらと、日本の神道の真髄の共通性などを、多くの例を挙げて述べている。(pp.123, 133)

第5章 インド文化の伝播ルート「海上の道」、副題は「日本、韓国、中国・江南」では、「アジア文化の模式図」として、①揚子江とガンジス川に囲まれた「東南アジア・南太平洋諸島」の稲・魚介・船を主とする文化圏と、②インダス川から草原・大陸部を経由して黄河流域に至る麦・獣肉・馬を主とする文化圏を明確に分けている。日本の、特に太平洋側はこの①の文化圏にある。

このように考えてゆくと、キッシンジャーが言う「日本の文化は孤独である」のではなく、古代インドとその周辺の少数民族と、東南アジアから江南の地域の文化の核とは共通するものが多く存在することになる。古代からの核となる文化が共通であることは、今後の文明の変遷にも影響がでると思われる。
一方で、現代の米国の文化は、その唯一の核であるキリスト教が、内外の抗争を続けている。このように考えてゆくと、キッシンジャー説は正しくない。

第7章 素戔嗚尊と大国主命の原像とその謎 については、氏の著書の3冊目と4冊目に詳細を譲ることにする。

その場考学のすすめ(14) ジャック・ウエルチとの出会い

2017年05月17日 07時24分17秒 | その場考学のすすめ
その場考学のすすめ(14)    H29.5.17投稿     

TITLE: ジャック・ウエルチとの出会い

私の過去の名刺ファイルを繰ると、176枚のGEのロゴマークの入った名刺があった。1970年代半ばから2005年までの30年間のお付き合いの結果だ。最初の付き合いは、タービン翼の研究関係で、彼らの伝熱工学の知識と応用技術に関心を持ったが、別途述べたように、特許論争などから、大きな脅威は感じられなかった。最も驚いたのは、材料に関するデータベースで、膨大な資料が全て3種類に色分けしてあった。研究段階、試用段階、実用段階の3種類だ。
本格的な付き合いは、GE90エンジンの共同開発で、このときにはいくつかの疑問があった。そのときのことを思い出し、改めてこの2冊を読みかえす気になった。

2 001年に、ジャック・ウエルチ に関する2冊の本が発行された。一つは、有名な彼自身の自叙伝で、他の一つは彼の在任中にGEから発行された「アニュアルレポート」を年次順に纏めたものだ。この両書を照らし合わせると、今まで疑問に思っていたことの、裏の事実が見えてくる。

① 「ジャック・ウエルチわが経営」(上)、(下)
著者;ジャック・ウエルチ  発行所;日本経済新聞社 発行日;2001.10.21

② 「GEとともに」
著者;GEコーポレート・エクゼクティブ・オフィス 発行所;ダイヤモンド社 発行日;2001.10.18
 


プロジェクトが一段落した後での付き合いは、Value Engineering(価値工学)とQuality Control(品質管理)と防衛庁が導入した自衛隊機に搭載されたエンジンに関するものだった。考えてみると、これら3つの全ては、彼らにオリジナルがあり、我々はそれを導入して成長した。オリジナルに直接アクセスできる機会を常に持っていたことが、メタエンジニアリング指向の根っこになったのかも知れない。

相手方の対応態度は、初めの10年間はもっぱら教師役で、ほぼ何でも答えてくれたし、こちらが望む以上のものまで見せてくれた。GE90プロジェクト前後の10年間は、彼我の長所と欠点が明らかになった期間で、GEへの脅威は全くなくなり、むしろ老齢化が進んだ気の毒な企業に見えたこともあった。そして最後の10年間は、まったくのビジネス・ライクの付き合いで、むしろ数名の友人とのプライベートな会話を楽しんだ。ここでは、中間の
10年間に思っていた疑問を解決するために、その箇所に限って読むことにした。

第1の疑問は会社の組織体系に関するものだった。GE90スタート当初は、V2500プロジェクトも最初の型式承認が取れた後に続けて、第2、第3の型式承認(AirbusA320機用の大型化とMcDonaldのMD90機への搭載型)を得るための開発の真っ最中で、当方のエンジニアの数が圧倒的に不足をしていた。そこでGEに作業委託をすることになったが、紹介されたのが英国の中心部のレスター市にある「GEC」という会社だったが、こことGE本体の関係が不明だった。ある人はGEと一体と言うし、ある人はGEとは全く別の会社だと言っていた。作業委託は20~30人規模の設計業務だった。

第2の疑問は、GEという巨大企業の中で、ウエルチが次々に打ち出す経営改革の手法が、どのように各個人に浸透しているかといったことだった。当時のGEのエンジニアは、担当分野に限らずすべてが過去に作られたマニュアルによって作業を進めていた。つまり、伝統墨守と改革という相い反することが、同時に行われていたことになる。

第3の疑問は人事関係で、当時はベルリンの壁の崩壊から始まった東西冷戦の終焉のために、GEを離れてゆく人が、身の回りにも大勢いた。一方で、V2500で付き合ったRolls Royceのエンジニアが数名GE社に入社しており、お互いに、突然顔を見合わせてびっくりしたものだった。
これらの疑問は、それ以降は解決の当てもなく忘れていたが、この書に出会って、もう一度考えてみることにした。きっかけは、通常のエンジニアリング ⇒リエンジニアリング⇒メタエンジニアリングという一貫した流れに、どうもウエルチの施策が重なって見え始めたからである。
彼の根本思想が、正にメタエンジニアリングそのものに見えてきた。

①の著書は、まったくの自叙伝で冒頭の12ページにわたる彼の家族の写真(自身の少年時代、両親、奥さんと子供たち、孫たち)の後での第1ページにはこんな言葉が記されている。

『数十万のGE社員に捧げる その人たちの知恵と努力のおかげで、私はこの本を書くことができた。
*本書からの著者が得る収益は慈善事業のために寄贈されます』


第4部「流れを変えるイニシアチブ」には、次の言葉がある。

『1990年代われわれは、グローバル化、サービス、シックスシグマ、Eビジネスという四大イニシアチブを追求した。どのイニシアチブも、最初は小さなアイデアの種から始まった。それをオペレーティング・システムのなかに撒いてやれば、成長のチャンスが生まれる。われわれの四つの種は大きく育った。われわれがこの10年間に経験した加速度的な成長を支える重大な要素になった。

これらは「今月のおすすめ」といった類のものではない。GEでは、イニシアチブを全員の心をつかむものと定義する。会社全体に重大な影響を与えられるだけの大きな規模、広範囲、包括的なものだ。イニシアチブの活動に終わりはなく、組織そのものの性質を根底から変える。それがどこで生まれたものであろうとこだわることなく、私はチアリーダーの役目を果たしてきた。すべてのイニシアチブをときに狂信的ともいえるほどの情熱と熱狂によって支えてきた。』(pp.124)

これは、第2の疑問の答えの一部になる。当時も気になっていたが、マネージャー・クラスに対する全員一括教育の徹底が、この雰囲気を作ったのだろう。

ここでの注目は、「会社全体に重大な影響を与えられるだけの大きな規模、広範囲、包括的なもの」という言葉で、特に「大きな規模、広範囲、包括的」と「性質を根底から変える」と云うことに、彼のチャレンジ精神と、同時にリスクテイキングを感じる。多くの日本人の経営者が不得意とする領域だ。

これについて、②の著書の1988年の項には、次のようにある。

『GEの経営陣は、CEOと各事業の工場の間に存在する管理職を九人から四人に削減しました。計算ずくの賭けではありましたが、80年代中ごろには、第2、第3階層の経営陣―セクター,グループと呼んでいた階層―を取り除きました。
14の主要事業部門については、従来のように副社長に報告し、副社長が上級副社長に、しかもすべて補佐とともに報告するのではなく、いまでは我々3人に直接報告しています。この方法が成功するか否かは、業務レベルにおけるリーダーシップの質に依存しています。我々はそれだけの質を備えていると賭けて、これに勝ったのです。』(pp.88)

ここで彼は、「改革は賭けだった」と明言している。日本の大企業は、相も変わらずに、セクターとか、グループと呼ぶ組織を作り続けている。前に紹介したビジネス・プロセス・リエンジニアリングの採用も、中途半端では効果が出ないことは、明らかだ。

これによってGEは、アイデア、イニシアチブ及び判断は、多くの場合音速で(すなわちペーパーではなく会話で)進んでゆくと明言をしている。さらに同時に、セクショナリズムが一体感に変わったとも明言している。まさに、「大きな規模、広範囲、包括的」のためであろう。

第1の疑問の「GECという名の会社」については、同じ②の1988年の項に記されている。

『最後に、89年初め、歴史に残るともいえる、イギリスのゼネラル・エレクトリック・カンパニー(GEC)との一連の契約を締結しました。これによって14の主要事業のうち4事業(メディカルシステム、大型家電、産業用電力システム、送電機器)がヨーロッパ市場に参入する道を大きく広げたことになると思われます。』(②pp.86)

 つまり、それまでのGECは全く米国のGEとは無関係だったのだ。しかも、英国のGECが、ヨーロッパにおける4事業の主力会社だったことが記されている。名刺ファイルを繰ると、「GEC」の名刺は、僅か6枚だった。1990.7.5のDirector of EngineeringのD.B.氏のものが最初で、彼は、「GEC ALSTHOM」の人であった。そして、我々が設計業務を発注した相手は、RUSTON GAS TURBINS LIMITEDのエンジニアであった。このような判断も、GE内では音速のスピードで行われていたのであろう。

 ついでながら①の著書には、こんなくだりがある。

『グローバル化が飛躍的に進んだ年があるとすれば、1989年だろう。それはイギリスにあるGEC(ゼネラル・エレクトリック・カンパニー)会長のアーノルド・ワインストックからの電話で始まった。(GECの名称はGEとまったく同じだが、両者の間には何のつながりもない。やっと2000年にGECがマルコーニに名称変更して、GEの名称に対するすべての権利を買い取ることができた)。』(①pp.135)

①と②の著書の中で、航空機エンジン関係の話は異常に少ない。少なくとも売上高の割合とは全く釣りあっていない。彼のさまざまな施策からのこの分野への影響が、小さかったからかもしれない。
唯一の話は、1995年の話で、①の第20章「サービスの拡大」に記されている。

『1995年11月に、サービス要員に焦点を合わせた特別セッションCミーティングを開いた。96年1月には航空機エンジン事業で他に先駆けて大規模な組織改革を実施した。エンジンサービス担当バイス・プレジデントのポストを新設し、この事業を独立採算制にした。』(pp.154)
 
そして、直ちに規模拡大に向けた戦略を展開した。既に、世界各地にオーバーホウルの拠点工場を持っていた(プロジェクト担当当時、私はGEの手配でロスアンゼルスから成田経由でシンガポールの工場の見学をアレンジされた)が、BA(British Airway)からウエールズの工場を、ヴァリク航空からブラジルの工場を買収した。それらはすべて、サービスコストの大幅な削減に寄与したと述べている。

 ①の第21章「シックスシグマ」では、1995年の心臓発作の話が語られている。既に20回の発作を経験していたそうだが、夜中の1時に「苦しい、死ぬ」と叫んで緊急入院し、手術を受けたとある。そして、「シックスシグマ」の導入は、自宅での療養中に決断をして、実行に移した。「シックスシグマ」の実行は、膨大な作業を伴うので、導入の可否の決断は、このような日常を離れた環境だからこそ、できたのではないかと思う。

 ウエルチは品質改善運動についてはこのように述べている。
『品質改善運動に本気で取り組もうとは決して思わなかった。品質向上プログラムはスローガンばかりが大げさで、その成果はほとんど上がらないものだと考えていた。
1990年代のはじめころ、航空機エンジン事業がデミングの品質向上プログラムに試しに取り組んでいた。このプログラムがあまりにも理論を追いすぎていたために、私はこれを全社的なイニシアチブにしようとは思わなかった。』(pp.167)

『業界では、一般的に100回のうちおよそ97回旨くゆけば通用する、これは3から4シグマだ。この品質レベルは具体的には、不適切な外科手術を毎週5000例、郵便物の紛失が1時間あたり2万件、間違った薬の処方箋が1年に何十万枚も発行される、という数字だ。考えるだけでも愉快な話ではない。』(pp.167)
 ちなみに、このシグマ数値は間違っている。彼の数値は正規分布の両側をとっているが、シックスシグマでは、確率論に意図的なバイアスをかけており、けた違いに厳しい数字になる。

彼が、何故品質管理に対する考え方を180度転換したかは、単純だった。『さらに私が行った調査でも、品質こそGEの抱えている問題だ。これが一点に集約されたとき、私はシックスシグマの信奉者となってその導入に着手した。われわれは、シックスシグマ担当として中心人物を二人指名した。全社的に展開するイニシアチブのトップ、ゲリー・ライナーと、私の長年付き合っている財務アナリスト、ボブ・ネルソンで、費用便益分析を行った。』(pp.168)
 
その費用便益分析の結果は驚くべきもので、コスト削減効果はGE全体の売上高の10~15%になった。そして直ちに、シックスシグマの元祖であるモトローラからシックスシグマ・アカデミーの経営者を招いて全員教育を始めた。つまり、目的は、GE全体の売上高の10~15%のコスト削減だったわけである。
 
さらに、ブラックベルト(指導的立場のスタッフ)に、ストックオプションを設けたり、グリーンベルト(活動のリーダーの資格)のトレーニングを受けることを、マネージャー昇格の条件として、厳しく守らせた。
このストーリーは、私の第3の疑問の人事管理に関する答えになっている。彼は、①の最後でこう述べている。

『人材のトップ20%に報い、ボトム10%に転身を勧める』

 まさに、その時その場での的確な決断の速さを維持するために、多くの情報が智慧化して蓄えられている。

その場考学のすすめ(13) リエンジニアリングとの出会い

2017年05月16日 07時00分19秒 | その場考学のすすめ
その場考学のすすめ(13)    H29.5.16投稿     
TITLE: リエンジニアリングとの出会い

1989年から、私は10年前からChief Designerとして担当をしていたV2500プロジェクト(英・米・独・伊・日の5か国共同でAirbus A320機に搭載する全く新しいエンジンを開発する)に加えて、General Electricが開発中のGE90プロジェクト(当時Boeingで開発中のBoeing777機に独占的に搭載されることが決まっていた)にChief Engineerとして参画することになった。年間数回繰り返されていたアメリカへの出張は、Pratt & Whitney社のあるEast HartfordとGE社のあるCincinnatiと数社の材料・加工メーカーを渡り歩く羽目になった。
 
当時のGEは、あのジャック・ウエルチの全盛期だったが、彼とのニアミスはたった1回だった。彼が航空機用エンジンのビジネスに本腰を入れたのは1995年からのオーバーホウル・ビジネスからで、当時はフランスのスネクマ社との合弁事業であるCFM56エンジン(Boeing737機に搭載)が好調で、ただ一つ興味は「世界最大の、しかも跳びぬけて大きい革新的なエンジン」を開発することだったと思う。

蛇足だが、1回のニアミスは、私が開発プロジェクトのオフィスからGEの社有滑走路へ行くために乗ったGEの社有車の運転手が、「たった今、ジャックを空港からホテルに送ったところだ、彼がCincinnatiに来るのは、本当に珍しい」と云って、道々エピソードをいくつか話してくれた、たったそれだけだった。
 
しかし、当時ビジネスプロセス全体の改革に取り組んでいたウエルチの具体策を国際共同事業に最初に適用したのが、このGE90プロジェクトだったと思う。それは、この開発のオフィスのあり方や、後に始まった初号機からの製造工場のあり方に明確に表れていた。具体的なウエルチの思想は、彼自身の言葉で書かれた「ジャック・ウエルチ わが経営(上)、(下)」[2001](別途、KMB4084)に譲るとして、ここではその元になった有名な著作から引用する。

書籍名「リエンジニアリング」[1994] 
著者;ダニエル・モーリス、ジョエル・ブランドン  発行日;1994.1.10
発行所;日本能率協会マネジメントセンター



 この書は、1993年にMcGraw-Hill社から発行された「RE-ENGINEERING YOUR BUSINESS」の訳本なのだが、文中にあるように、その思想と方法論は、その10年前から米国内には広がっていた。
 
『原理原則の方法論は、最近のリエンジニアリングの実践にはリンクしなくなってきている。ここで述べられる、ダイナミック・リエンジニアリングの実践導入の方法は、10年前から我々によって開発されてきたRSD(Relational Systems Development)を基礎としてみられたものであり、事業の統合やコンピュータのよる業務の統合にこの方法を導入してきた。』(pp.15)
 
この書の内容の多くは、具体例の説明に終始しているので、そのことは省略して、その本質のみを引用する。そのことは、「著者のまえがき」に凝縮されている。つまり、従来行われてきた各種の社内改革がバラバラで効果が小さかったが、一つの最終目的のためにそれらを統合して、大きな改革を行う、と云うものだった。

『マネジメント革新の考え方もさまざまなものがある。インダストリアルエンジニアリングは事業をいわば一つの機械としてとらえ、事業を新たな機構モデルを設計するような方法で革新にアプローチする。組織開発では業務の心理的側面を強調し、業務の第一線の士気を上げ、事業目標に向かい前進する方法により革新を展開する。品質管理論では、業務というものは処理された業務の結果を再検討し、それをプロセスにフィードバックし続け、常に革新するべきであると考える。一般的な経営アプローチでは、事業を小さな業務に分け、それらのプロセスをガントチャートに書き出し、“それを行え”といった具合に革新を展開する。

これら四つのアプローチはすべて過去に実績があり、その価値が証明されているものである。しかしながら。それらはこれまで効果的に組み合わされることはなかった。インダストリアルエンジニアリングと組織開発は、まったく相反するものと考えられてきた。一流の経営者は、いま、過去のムダにおこなわれてきたさまざまなプロジェクトを超えた、何かしらの新たなアプローチ方法が必要であると感じている。』(pp.1)

『ビジネスプロセスのリエンジニアリングはベテランの管理者にとっては、小規模なものはすでに経験済みのものである。それはこれまでの経営や経営科学の有効的な面や非有効的な面について検討し、全面的な管理を行うことにより、複雑な環境下においても導入可能なものになり得るのである。また、新しい情報技術により効果的かつ管理された方法で、新しいビジネスプロセスの設計が可能になりつつある。我々の目的は経営者に対し価値ある革新とは何かを知るための経営手法を明らかにし、強調することである。』(pp.2)

これではいかにも抽象的なのだが、「価値ある革新とは何か」が、単なる改革活動とは異なるように思う。本論の目次には以下のようなものがあるが、中身は割愛する。
第1章 ダイナミック・ビジネス・リエンジニアリング
第3章 パラダイムの転換
第6章 ポジショニングの実践
第7章 ビジネスプロセスのリエンジニアリング (9つのプロセスの具体的な手順の内容)
第9章 人的資源のリエンジニアリング
第10章 新たな事業環境の創出

 「訳者あとがき」には、次の言葉がある。
 『アメリカが半歩先行している「知的生産性と革新力」が向上することにより、新しい優位性が用意できる。工業化社会での競争優位は機械設備で決まったが、知識社会では、組織の知識・情報・行動で決まる。しかも、その速さが鍵であり、これが日本企業の次のターゲットである。』(pp.306)

 「その速さが鍵」は、まさにその場考学なのだが、日本はまだ「その速さ」が足りないように思うことがしばしばある。GEで経験した具体例は、その場考学のすすめ(14)「ジャック・ウエルチとの出会い」で示す。

メタエンジニアの眼(30)サピエンス全史

2017年05月12日 10時47分09秒 | メタエンジニアの眼
書籍名;「サピエンス全史>」[2016] 
著者;Y.N.ハラリ 発行所;川出書房  発行日;2016.9.20
初回作成年月日;H29.5.12 最終改定日; 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

 この著書は、上下2巻にわかれている大著で、昨年(2016)は世界中で反響を呼んだ。しかし、読んでみると、中身はデカルト・カント以降の西欧的な哲学がここまで来てしまったのかという印象で、歴史の事実に対する解釈は良しとしても、将来の方向性については、東洋的な考え方ではついてゆくことはできない。特に、最終章の第20章「超ホモ・サピエンスの時代へ」と「あとがき」にある、「物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たち・・・」の記述には、驚かされる。日本の文化からは、「自ら神にのし上がった私たち」という発想は出てこない。



副題を「文明の構造と人類の幸福」として、人類が発生以来築いた文化や文明が、本当に人類に幸福をもたらしたのかどうかを、多くの歴史の事実から解析し、現代までの文明の構造は人類の幸福とは直接に関連していないと結論している。
 
近代からの文明の爆発的な進歩は、「帝国、科学、資本」のフィードバックループがうまく回った結果だとしている。そして、下巻の冒頭の第12章「宗教という超人間的秩序」では、次のように述べている。
 
『今日、宗教は差別や意見の相違、不統一の根源とみなされることが多い。だがじつは、貨幣や帝国と並んで、宗教もこれまでずっと、人類を統一する三つの要素のひとつだったのだ。社会秩序とヒエルラリキーはすべて想像上のものだから、みな脆弱であり、こうした脆弱な構造に超人間的な正当性を与えることだ。(中略)したがって宗教は、超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義できる。』(pp.10)
 
そして、その後宗教に関する歴史的経緯を述べたあとで、アミニズム⇒多神教⇒一神教という進化の過程を示している。このことは、欧米の文明論者が、「象形文字から進化した漢字は、原始的な文字で、アルファベットが最も進化した文字である」と主張するのと同類の、西欧キリスト教的な考え方だと思う。それは、かつては民族の優劣を敢然と主張したことにも通じている、まったくの差別意識、すなわち部分適合にすぎないと思う。これらはすべて、進化ではなく、独立した文化の中で育った、ひとつの文明と考えるべきである。

第19章「文明は人間を幸福にしたのか」は、副題の「文明の構造と人類の幸福」について述べた章だが、最近の世界情勢は云うに及ばず、『認知革命以降の七万年ほどの激動の時代に、世界はより暮らしやすい場所になったのだろうか?』としている。
そして、『農耕や都市、書記、貨幣制度、帝国、科学、産業などの発達には、いったいどのような意味があったのだろう?』(pp.214) としているが、このことは第13章で述べられた、次の彼独特の文化論から発している。

『歴史の選択は人間の利益のためにされるわけではない、ということだ。歴史が歩きを進めるにつれて、人類の境遇が必然的に改善されるという証拠はまったくない。人間に有益な文化は何であっても成功して広まり、それほど有益でない文化は消えるという証拠もない。キリスト教の方がマニ教よりも優れた選択肢だったとか、アラブ帝国のほうがササン朝ペルシア帝国よりも有益だったという証拠もない。』(pp.49)

そして、「文化」については、『文化は一種の精神的感染症あるいは寄生体で、人間は図らずもその宿主になっていると見る学者がしだいに増えている。ウイルスのような有機的寄生体は、宿主の体内で生きる。それらは増殖し、一人の宿主から別の宿主へと広がり、宿主に頼って生き、宿主を弱らせ、ときには殺しさえする。宿主が寄生体を新たな宿主に受け継がせられるだけ長く生きさえすれば、宿主がどうなろうと寄生体の知ったことではない。』(pp.49)

このことは、次の主張に通じている。
『これまで歴史学者は、こうした問題に答えることは言うに及ばず、問題を提起することさえも避けてきたからだ。彼らは政治や社会、経済、社会的・文化的性別(ジェンダー)、疾病、性行動、食物、衣服など、ほぼあらゆる事柄の歴史について研究してきたが、そこで一呼吸置いて、それらが人類の幸福に及ぼす影響について問うことはめったになかった。』(pp.215)

 私は、以上のことは歴史学者に限らず、すべて近代化以降の分野ごとの専門化による部分適合の結果が招いたことで、だれも全体最適を考えられなかったためだと考えている。現代では、どの学会においても、全体最適を求めて追及することは、自身の専門分野内での地位を危うくするだけで、メリットは何もない。

著者は、進歩主義(人間は力を増すほど幸せになると考える)と反進歩主義(まずは農業へ、次いで工業へと移行したせいで、人間は本来の性向や本能を存分に発揮できず、そのために最も深い渇望を満たすことができない不自然な生活を送らざるをえなくなった。)の双方に加担せずに、しかも、その中道についても、「とはいえこれもまた、単純化しすぎる」としている。

そして、最終章の第20「超ホモ・サピエンスの時代へ」では、現代西欧科学文明の真骨頂とも云うべき、つぎの発言が出てくる。
『サピエンスは、どれだけ努力をしようと、どれだけ達成しようと、生物学的に定められた限界を突破できないというのが、これまでの暗黙の了解だった。だが21世紀の幕が開いた今、これはもはや真実ではない。ホモ・サピエンスはそうした限界を超えつつある。

ホモ・サピエンスは、自然選択の法則を打ち破り始めており、知的設計の法則をその後釜に据えようとしているのだ。過去40億年近くにわたって、地球上の生物は一つ残らず、自然選択の影響下で進化してきた。知的な創造者によって設計されたものは一つとしてなかった。』(pp.241)
 例えば、キリンの首が長いのは、キリン自身の意思(つまり知的設計)ではなくて、自然選択の影響下での進化だったというわけである。

 そして、最後のあとがきの題名は、「神になった動物」で、『物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。自分が何を望んでいるかもわからない。不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか。』(pp.265)

著者の主張の真意は、良く分からない。これまでの科学が、現代の人類を「不満で無責任な神々」としてしまったのは、ホモ・サピエンスがキリンと同じ「自然選択の影響下での進化だった」からであり、「自然選択の法則を打ち破った後の、後釜としての知的設計の法則」により作られるであろう「超ホモ・サピエンス」こそが、真の幸福をもたらす文明を築くことができる、と言っているのであろうか。

メタエンジニアの眼シリーズ(29)インターネットの次に来るもの

2017年05月10日 09時38分53秒 | メタエンジニアの眼
書籍名;「インターネットの次に来るもの」[2016] 
著者;ケヴィン・ケリー 発行所;NHK出版  発行日;2016.7.25

このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

副題は、「未来を決める12の法則」とある。つまり、インターネットという新たなテクノロジーが人類の文明の未来を変えるのだが、そこには12の法則があると宣言をしている。なぜ、「法則」という言葉が使われるのかは、「はじめに」に書かれている。それは、まさにあのハイデッガーが技術論で述べたことだ。

つまり、人類はテクノロジーの進む方向に逆らうことはできない、と云うことなのだ。



『テクノロジーの性質そのものに、ある方向に向かうけれども他の方向にはいかないという傾向(バイアス)がある。つまり均質な条件ならば、テクノロジーを規定する物理的・数学的な法則は、ある種の振る舞いを好む傾向にあるのだ。基本的にこうした傾向は、テクノロジー全体を規定する集合的な力として存在し、個々のテクノロジーやその状況には影響を与えない。』(pp.7)

ここでのテクノロジーとは、インターネットのことなのだが、インターネットというテクノロジーが普及すると、その形態によらず、人類の文化はある方向に押し流されてゆくであろうという説である。

 12の法則とは、以下である。
1.Becoming-なってゆく
2.Cognifying-認知化してゆく
3.Flowing―流れてゆく
4.Screening―画面で見てゆく
5.Accessing―接続してゆく
6.Sharing―共有してゆく
7.Filtering―選別してゆく
8.Remixing―リミックスしてゆく
9.Interacting―相互作用してゆく
10.Tracking―追跡してゆく
11.Questioning―質問してゆく
12.Beginning―始まっていく
である。
 
個々の説明は省くことにするが、文明への影響は、4の「Screening―画面で見てゆく」の項に凝縮して示されていると思う。
『古代の文化は話し言葉を中心に回っていた。話し言葉を記憶して暗唱することは、口伝社会において過去や、あいまいなものや、装飾的なもの、主観的なものへの崇敬を表した。われわれは話し言葉の民だった。』(pp.114)

 そこから、グーテンベルクの印刷技術の発明を契機に、書き文字が文化の中心になり、「本の民」へと変身した。それから、インターネットの普及により、「スクリーンの民」へと変身する途上にあるというわけである。

『もはや文字は黒いインクで紙に固定されたものではなく、瞬きする間にガラスの表面に虹のような色で流れるものになる。ポケットにも鞄にも車の計器盤にも、リビングの壁にも、建物の壁面にも、スクリーンが広がってゆく。われわれが仕事をするときには、それが何の仕事であれ、正面にはスクリーンがある。われわれはいまや、スクリーンの民なのだ。』(pp.115)

 20世紀までの本の文化を「複製文化」と呼び、文明がひろがり、「創造的な作品の大いなる黄金期をもたらした」と述べている。それに対してのスクリーン文化は『絶え間なく流れ、次々とコメントが繰り出され、敏速にカットされ、生煮えのアイデアに満ちた世界だ。それはツイート、見出し、インスタグラム、くだけた文章、うつろいゆく第1印象の流れだ。どんな考えも単体で成立することはなく、他のあらゆるものとの間に膨大なリンクが相互に張られる。真実は著者や権威によってもたらされるものではなく、オーディエンス自身が断片を組み合わせてリアルタイムに生成するものにある。』(pp.116)
 
このことがまさに、『テクノロジーの性質そのものに、ある方向に向かうけれども他の方向にはいかないという傾向(バイアス)がある。』なのだ。
 さらに、『こうした流動性に対しては、文書の論理の上に成り立つどんな文明も大いに懸念を抱くことになる。』(pp.117)という。

 最終章の、「Beginning―始まっていく」では、シンギュラリティーについて語られている。強いシンギュラリティーは、AIが人間の意志を越えて進化し、人類を置き去りにしてゆくものだが、それは起こらないだろうとして、弱いシンギュラリティーを想像している。
 
『AIは、われわれを奴隷化するほどにはスマートにならず、AIもロボットもフィルタリングもトラッキングも本書で述べたテクノロジーの数々もすべて合体し―つまり人間にマシンが加わって―複雑な相互依存へと向かっていく。その段階に達すると、あらゆる出来事はわれわれのいまの生活以上の大きな規模で起こり、われわれの理解を超えたものになるので、それがシンギュラリティーということになる。
それはわれわれの創造物がわれわれをより良い人間にする領域であり、一方でわれわれ自身がその創造物なしでは生きられなくなる領域だ。これまで氷の状態でいきてきたとするなら、これは液体だ―新しい位相なのだ。

 この相転移はすでに起こっている。われわれは、すべての人類とすべてのマシンがしっかりと結びついた地球規模のマトリックスに向かって容赦なく進んでいる。このマトリックスは、われわれが作ったものというよりプロセスそのものだ。』(pp.390)

 この結論は、かなり楽観的に見えるのだが、現代のように、すべてがそれぞれの分野の専門家やいわゆる知識人や学識経験者によって決められてゆく文化とは明らかに異なる文化、すなわち個別適合から全体最適を求める方向に向かうことに変わりはないと思われる。さらに、自然圏と人間圏と機械圏に分かれていた世界が、合体の方向に進むことが期待できる。それはつまり、西欧型の理論哲学の世界から、東洋型の自然観への回帰が始まるということの一部ではないだろうか。


八ヶ岳の24節季72候 遅い春(追伸)

2017年05月07日 06時24分00秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
蛙始鳴 蛙が鳴き始める (立夏の初候で、5月5日から5月9日まで)

追伸

 桜の開花があまりにも遅いので、蕾のついた枝を折って、暖かいベランダに生けておいた。すると、みるみる開花を始めて、夕方には満開になった。植物の生命力の不思議で、動物ではこうはならない。



 一方で、ブルーベリーのつぼみはそうはならない。相変わらずに固い蕾のままである。しかし、今年も若芽は沢山出てきた。2~3年目の若木は移植に適していると思って、玄関前にこんな立札を出してみた。反応は未だない。




岩陰に、こんな小さな花がひっそりと咲いていた。



毎年、思わぬところに新しい植物が突然生えてくるのは、楽しい。
八ヶ岳南麓の春は、そんな季節なのだ。

蛙始鳴 (立夏の初候で、5月5日から5月9日まで)遅い春

2017年05月05日 11時12分40秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
八ヶ岳の24節季72候 蛙始鳴 蛙が鳴き始める 
(立夏の初候で、5月5日から5月9日まで)

遅い春

 今年の春は、やけに遅い。晴れた日の昼間は紫外線が強くて暑いのだが、夜半には八ヶ岳からの冷気で一気に気温が下がる。そのせいで、草木の春が遅いようだ。
 例年なら、このようにウワミズ桜がとっくに咲いているのだが、今年のつぼみは未だ固い。



上ふたつは例年の花

下は今年の状態。


 桜の木は、ようやく蕾がふくらみ始めた。




 しかし、花見にはほど遠く、庭の花見はもっぱら、ジュンベリーが頼りだ。

 これだけは、元気な白い花を咲かせている。




北岳も甲斐駒も残雪が、山肌の下の方まで広がっている。
カエルの声は、何時になったら聞けるのだろう。

メタエンジニアの眼(28)、「アミニズム系文化と近代文明の融合」

2017年05月03日 10時31分55秒 | メタエンジニアの眼
書籍名;「21世紀 日本像の哲学」[2010]
著者;工藤 隆 発行所;勉誠出版
 発行年、月;2010.3.20

副題は、「アミニズム系文化と近代文明の融合

著者が、1995.5.6と2006.7.10の2回にわたって中国で講演した内容を中心に記している。彼は、東大経済学部の出身だが、日本の古代文学から古代文化、更にアジアの少数民族の研究を重ね、多くの著書を著した。



 この3部作のテーマは、古事記の内容を精査すると、古代国家建設以前と以後の世界が共存していることが明確になり、それが現代日本まで引き継がれていること。更にその二重構造の精神が、今後の世界文明にとって大切なことではないかといった主張が感じられた。そしてそれを「第4の文明開化」としている。

「21世紀 日本像の哲学」の「はじめに」
では、著作の意図を次のように記している。
『現代の日本文化が、明治維新以来の西欧文明の流入により高度に近代化されている部分と、縄文・弥生期以来のアミニズム・シャーマニズム・神話世界性および島国文化・ムラ社会性が色濃く継承されてきている部分という、互いに相反する方向のものの同時存在によって成り立っているからである。

 西欧的近代化は合理性に向かう方向であり、アミニズム・シャーマニズム・神話世界性および島国文化・ムラ社会性の部分は反合理性に向かう部分である。このうちのアミニズム(自然界のあらゆるものに超越的・霊的なものの存在を感じとる観念・信仰)・シャーマニズム(アミニズムと神話的観念に基づく呪術体系)・神話世界(人間にかかわるすべての現象の本質を、アミニズム的な神が作り上げた秩序の枠組みの中の物語として抽象化して把握するもの)性の部分は特に、合理主義を基本とする西欧的な知性からは理解されにくい部分を持っている。したがって、西欧側の知識人がこの部分を理解できないのは当然なのだが、問題なのは、実は日本人の知識人の多くもこの部分を理解できていないことなのだ。』(pp.8)

『実は本書の内容の大筋は、私が実際に中国で行った、「天皇制と日本文化」(1995年)と「日本文化の二重構造」(2006年)という二つの講演から成っている。』(pp.11)

 著者は、日本には4回の文明開化の時期があったと主張している。「第1の文明開化は、600、700年代の古代国家成立時に起きた」、「第2の文明開化は、西欧列強によって植民地化される危機感が迫る中での所謂近代化」、「第3の文明開化は、1945年の敗戦によってアメリカが強制的に与えた」とした後で、第4の文明開化は、『前の三つの文明開化とは違い、日本歴史上初めて、優勢な外国からの武力による圧力なしに、日本社会がみずからの意思で「内発的に」実現させるはずのものである。』(pp.14)

 『この「第4の文明開化」では、縄文・弥生期的以来の文化伝統のうち、特にアニミズム・神話世界性の部分を、行き過ぎた西欧的近代化に抗するものとして積極的に活用するといったこともできねばならない。

 ただし、このアニミズム・神話世界性の文化伝統の部分は、外部から取り入れるというよりも、もともと日本文化の伝統の中に縄文・弥生期以来存在していた「文化資質」でもある。したがって、「第4の文明開化」では、リアリズム性優位の西欧近代文明と日本伝統のエコロジー思想的なアニミズム・神話世界性の文化を融合させた、より高度な〝人間生存文化″のようなものを日本から世界に向かって発信してゆくことになるはずである。』(pp.15)

・「古代の古代」と「古代の近代」


 氏は、第1の文明開化である600、700年代の古代国家成立が起きる以前の状態を、「ヤマト族」と呼ぶべき少数民族の集まりとしている。アミニズム・シャーマニズム・神話世界性および島国文化・ムラ社会である。そして、その状態は現代における中国の少数民族である、チワン(壮)族、イ(彝)族、ミャオ(苗)族などと同じ呼び方であるとしている。さらに、呼び方だけではなく、多くの伝統に同じものが残されていることを、長年にわたる現地調査から示している。そのことは、別の著書、「古事記以前」大修館書店[2011]で詳しく述べられている。

 第1の文明開化で重要なことは、当時の中国国家のシステムから、必要なところのみを導入して、不必要なところは導入しなかったことだった。そして、『縄文・弥生期的なムラ段階の文化の要素を国家段階においても継承し、それをより高度な文化へと昇華させたことである。』(pp.99)

 無文字文化では、重要な伝統は「うた」で伝えられていた。その文化は、古代国家が成立した後も国家・天皇家により支持され続けて、現代にいたっている。『日本人は、ある年齢に達すると俳句や短歌に関心が出てくる人がかなりいますね。これは他国には例のないことです。欧米では詩を発表するのはプロの詩人だけで、素人の詩が表に出ることはありません。ところが日本人は何かに感動するとそれを俳句や短歌にこめようとしたがる。』(pp.59)


・一神教の本格宗教

『これらアミニズム・シャーマニズム・神話世界はキリスト教やイスラム教のような本格宗教とは大きな違いがある。本格宗教は、教祖がいて、教義が体系的に整えられていて、それを文字で記した経典(「聖書」「コーラン」など)があり、信者たちの組織である教団があり、教会・モスクなど教団の建物があり、国の違いや民族の違いを越えて布教活動を行い、しかも唯一の最高神を頂点に戴く一神教であるという特徴を持っている。』(pp.33)

 一方で、アミニズム・シャーマニズム・神話世界では、たとえば神道では山・岩・木などの自然物が神体であり、外の世界に対する布教活動も行わず、多神教である。

 『神話世界には“生活実態と密着したリアリズム性”があり、本格宗教が入ってきても自分たちの日々の生活にとって何か役に立つところがあればその部分に特化するような方向で取り入れるという柔軟性があるのである。』(pp.136)

・「自然との共生と節度ある欲望」vs.「自由市場経済の自然破壊と節度なき欲望」


『現代日本には、少数民族社会の原型生存型文化的要素と西欧的な近代文化が同居している。原型生存型文化ではアミニズム・シャーマニズム・神話世界的文化が基本になっているので、西欧的な近代文化の合理主義からみれば、両者は正反対の方向のものだということになる。』(pp.44)

・短歌と天皇文化は連続している

『「歌会始」は、それが、「天皇制国家思想の浸透、天皇への忠誠心を助長させるために果たしていた役割は、時代によって若干の濃淡はあっても、決して見逃してはならない重要なものであった。(中略)
短歌の源泉は日本古代文化のムラ段階の歌文化にあったのだが、それを「短歌文化」として洗練させたのは天皇宮廷であった。』(pp.166)

『私は、天皇制の政治体制としての側面と、天皇制の文化的側面とを区別することが必要だと考えている。』(pp.176)

・「万世一系」の系譜は中国少数民族の「父子連名」と同じ構造

『たとえば、ハニ(吧尼)族やイ(彝)族には「父子連名」という系譜があって、各家の戸主は、その家の代々の戸主の名前をすべて覚えていて、古いほうから順番に、いま現在の自分までを口頭で語る。その最初の三代までは神様だったとのことだ。』(pp.180)

 日本人が、原型生存型文化を、その時々に応じて変化を加えて、現代まで伝承し続けたかについては、中国の少数民族の現代風俗から、多くの例証をしている。例えば、新嘗祭と大嘗祭につては、女性の巫女から、天皇が行う行事へと変更が行われた。『縄文末期から弥生初期のような(古代の古代)の社会では、稲にまつわる呪術は一種の高度な農業技術として受け止められたに違いない。

 したがって、出産能力を持つ女性が主役になる稲収穫儀式は、すでに弥生期のヤマト族の社会にも存在していたに違いない。それらの残像が、「ニイナメ」の主役を女性が務める「古事記」「日本書記」の神話伝承や「万葉集」の東歌として残ったのであろう。』(pp.188)


・リアリズム文化と反リアリズム文化の共生をめざして

『原型生存型文化の伝統を引く神道においてさえ生け贄文化は否定され、血のケガレとして忌避されるようになった。このようにして一般の日本人は、動物を殺し、それを食することで人間は活かされているというリアリズム感覚を失って、明治の文明開化までおよそ1300年を過ごしてきたのである。』pp.184)

『西欧的知性の側が、合理主義と一神教を絶対と考える思考に固執するならば、両者の融合は不可能だろう。しかし、日本社会は、少なくとも明治維新以来の、両者のバランスをとろうとする試行錯誤の140年余の経験を持っている。もっと言えば、(古代の近代化)の文明開化以来の1400年余の経験を持っている。日本の知識人は特に、そのような歴史的背景を可能にする新たな知性の模索において世界の最先端を行くことができるはずなのである。』(pp.217)

さらに、安田喜憲「一神教の闇―アニミズムの復権」(筑摩書房、2006)の8つの提言の言葉を引用している。
美と慈悲に満ち溢れた「生命文明の構築」
アニミズムによる「島国性の再評価」
アニミズムによる「女性原理の復権」
アニミズムによる「紛争の回避」
アニミズムによる「アニミズム的応戦」
「アニミズム連合」の構築
「全球アニミズム化運動」の展開
アニミズムの心を核にした「ハイテク・アニミズム国家」の構築

かなり急進的な項目ばかりと思うのだが、最終目的に向かって遅々として進むための留意事項と考えるべき項目がいくつか含まれていると思う。