題名;北肥後4泊5日の路線バスの旅(その1)
場所;熊本・玉名・山鹿・菊池 年月日;H29.10.30~11.3
テーマ;装飾古墳 作成日;H29.11.12
宗像神社と福岡・熊本に点在する古代遺跡巡りを計画して4年が過ぎてしまった。台風や地震などで毎年あきらめていたのだった。今年こそはと思っていたら、奥さんが体調を崩してしまった。もう延ばせない、しかし一人でのレンタカーの僻地めぐりは気がすすまなかった。そこで思いついたのが、最近はやりの路線バスの旅だった。
早速に、有楽町のアンテナショップに向かった。ここも3年連続である。地方都市の最新情報は、情報誌よりも頼りになる。ここの1階は「くまモングッズ」を買い求める女性でいつも混雑をしているが、2階の観光案内に上ってくる人はいない。案の定、ゆっくりと話を聞いて、バス路線と時刻表を手に入れることができた。どの路線も一日に数本だけだ。
早速に計画にとりかかたが、レンタカーならば一日で回れるところが、お互いに離れているために、街ごとにまる一日がかかりそうだ。主な博物館も古墳の近くにあるので、街からは遠いのだ。結局、余裕を見て熊本・玉名・山鹿・菊池に各一泊することにした。範囲も、装飾古墳が集中する北肥後だけとなった。
装飾古墳にこだわった理由は二つある。一つは、九州王朝説だ。私はインダス文明の支流の東アジアの古代史に興味があり、それが21世紀以降の新たな文明の基本になると考えている。つまり、西欧文明の次の文明だ。九州王朝説は、歴史の専門家の間では人気がないのだが、私はかってに、遣隋使は九州王朝が送り。遣唐使は大和王朝が送ったと思っている。卑弥呼が送った遣魏使も九州王朝だ。彼らは、古代中国との交流に力を注いだ。しかし、朝鮮で高句麗・新羅・百済が力を蓄えて、お互いに戦争を繰り返すと、多くの豪族や王族が渡来人としてやってきた。彼らをうまく利用したのが大和朝廷で、そのために戦力も文化も一気に増大して、ついに「磐井の乱」で九州王朝を殲滅させた、などと思っている。
もう一つは、ある豪華本からの刺激だった。昭和52年に泰流社から発行された、A4サイズで260ページの「装飾古墳」という写真集だった。当時の定価で3万円。これを神田の古本市で千円で売っていた。全集物でもない大型本の処置に困っての安売りだったのだろう。なかの写真も大部分が鮮やかなカラーで、最近のどの写真よりもはっきりと文様の細部までを見ることができる。その中に、こんな文章があった。
『装飾古墳はどれを見てもそんなに大規模な墓ではない。小さな円墳だったり、山の斜面を利用したささやかな横穴式の石室、そこに アッと目をみはる絢欄たる彩りの宇宙がとじ込められている。 円や三角形、それに具象的な絵もいかにもプリミチーヴで、稚拙 に見える。そのため、一般にこれらの絵は下手だ、幼稚だときめつけられて、とかく評価されない。高松塚古墳が発見されたときの、あらゆるマスコミ・学者・愛好家、国をあげての大騒ぎはまだ記憶に新しい。日本にもこのような立派な、すぐれた絵画を秘めた墓があったとは、という讃美ばかりだった。だから国も早速、珍しい素早さで保護に乗り出し、彪大な 費用をかけて、模写もするし、密閉して保存につとめる等、万全の 措置を講じている。確かにそれは美女の風俗画で人目をひいたし、歴史専門家たちにとっては、貴重な資料だったかもしれない。だが 私に言わせれば、九州の装飾古墳の方がはるかに人間的に深く、芸術的に問題を含んでいると思うのだ。』(pp.10)
『高松塚など、明らかに大陸からわたってきた職人芸ではないか。 この土地の生活・思想と必然的に結びついているわけではない。大陸の巨大な権力体制の下で出来あがったパターンをそっくりここらに移してきてなぞった、手先だけの職人芸だ。 九州の装飾古墳は、その土地で、その共同体の中から、自然に、 そして切実に生まれてきた表情だ。それは今日の芸術的ポイントから言っても、より根源的な意味と、強烈なひろがりをもっているのである。 決して「うまそうーには描かれていない。どうしてか。 それは職人芸ではないからだ。職能を土台とした、手先だけの訓練、そういう、専門技術を問題にしない、無条件なしるしなのである。あれらは人間を超えた、見えない世界との直接的なコミュニケーション、呪力をもったサインである。幅ひろく、豊かな、つまり 真の存在の精神の記号であればよいのだ。』(pp.11)
装飾古墳の全体像は、大塚初重「装飾古墳の世界を探る」祥伝社(2014)から学んだ。古墳が河川流域にあること、地下式の横穴であること、近畿の古墳と比べて、発掘物の質が良いことなどである。とにかく、全国20万余の古墳のうち、660基なのだからマイナーであることは間違えがない。そこに、おおいに興味が注がれたのである。
路線バスには、合計で11回乗車した。そのうちの大半は全道中の乗客が私一人だけ。東京では「運転中は、運転士に話しかけないでください」とあるが、最前列に座ると、向こうから話しかけてくることもあった。
以後、1日ごとの「徘徊」を書き記してゆこうと思う。路線バスの旅が、レンタカーの旅に比べて格段に面白かった記憶をとどめておくために。
場所;熊本・玉名・山鹿・菊池 年月日;H29.10.30~11.3
テーマ;装飾古墳 作成日;H29.11.12
宗像神社と福岡・熊本に点在する古代遺跡巡りを計画して4年が過ぎてしまった。台風や地震などで毎年あきらめていたのだった。今年こそはと思っていたら、奥さんが体調を崩してしまった。もう延ばせない、しかし一人でのレンタカーの僻地めぐりは気がすすまなかった。そこで思いついたのが、最近はやりの路線バスの旅だった。
早速に、有楽町のアンテナショップに向かった。ここも3年連続である。地方都市の最新情報は、情報誌よりも頼りになる。ここの1階は「くまモングッズ」を買い求める女性でいつも混雑をしているが、2階の観光案内に上ってくる人はいない。案の定、ゆっくりと話を聞いて、バス路線と時刻表を手に入れることができた。どの路線も一日に数本だけだ。
早速に計画にとりかかたが、レンタカーならば一日で回れるところが、お互いに離れているために、街ごとにまる一日がかかりそうだ。主な博物館も古墳の近くにあるので、街からは遠いのだ。結局、余裕を見て熊本・玉名・山鹿・菊池に各一泊することにした。範囲も、装飾古墳が集中する北肥後だけとなった。
装飾古墳にこだわった理由は二つある。一つは、九州王朝説だ。私はインダス文明の支流の東アジアの古代史に興味があり、それが21世紀以降の新たな文明の基本になると考えている。つまり、西欧文明の次の文明だ。九州王朝説は、歴史の専門家の間では人気がないのだが、私はかってに、遣隋使は九州王朝が送り。遣唐使は大和王朝が送ったと思っている。卑弥呼が送った遣魏使も九州王朝だ。彼らは、古代中国との交流に力を注いだ。しかし、朝鮮で高句麗・新羅・百済が力を蓄えて、お互いに戦争を繰り返すと、多くの豪族や王族が渡来人としてやってきた。彼らをうまく利用したのが大和朝廷で、そのために戦力も文化も一気に増大して、ついに「磐井の乱」で九州王朝を殲滅させた、などと思っている。
もう一つは、ある豪華本からの刺激だった。昭和52年に泰流社から発行された、A4サイズで260ページの「装飾古墳」という写真集だった。当時の定価で3万円。これを神田の古本市で千円で売っていた。全集物でもない大型本の処置に困っての安売りだったのだろう。なかの写真も大部分が鮮やかなカラーで、最近のどの写真よりもはっきりと文様の細部までを見ることができる。その中に、こんな文章があった。
『装飾古墳はどれを見てもそんなに大規模な墓ではない。小さな円墳だったり、山の斜面を利用したささやかな横穴式の石室、そこに アッと目をみはる絢欄たる彩りの宇宙がとじ込められている。 円や三角形、それに具象的な絵もいかにもプリミチーヴで、稚拙 に見える。そのため、一般にこれらの絵は下手だ、幼稚だときめつけられて、とかく評価されない。高松塚古墳が発見されたときの、あらゆるマスコミ・学者・愛好家、国をあげての大騒ぎはまだ記憶に新しい。日本にもこのような立派な、すぐれた絵画を秘めた墓があったとは、という讃美ばかりだった。だから国も早速、珍しい素早さで保護に乗り出し、彪大な 費用をかけて、模写もするし、密閉して保存につとめる等、万全の 措置を講じている。確かにそれは美女の風俗画で人目をひいたし、歴史専門家たちにとっては、貴重な資料だったかもしれない。だが 私に言わせれば、九州の装飾古墳の方がはるかに人間的に深く、芸術的に問題を含んでいると思うのだ。』(pp.10)
『高松塚など、明らかに大陸からわたってきた職人芸ではないか。 この土地の生活・思想と必然的に結びついているわけではない。大陸の巨大な権力体制の下で出来あがったパターンをそっくりここらに移してきてなぞった、手先だけの職人芸だ。 九州の装飾古墳は、その土地で、その共同体の中から、自然に、 そして切実に生まれてきた表情だ。それは今日の芸術的ポイントから言っても、より根源的な意味と、強烈なひろがりをもっているのである。 決して「うまそうーには描かれていない。どうしてか。 それは職人芸ではないからだ。職能を土台とした、手先だけの訓練、そういう、専門技術を問題にしない、無条件なしるしなのである。あれらは人間を超えた、見えない世界との直接的なコミュニケーション、呪力をもったサインである。幅ひろく、豊かな、つまり 真の存在の精神の記号であればよいのだ。』(pp.11)
装飾古墳の全体像は、大塚初重「装飾古墳の世界を探る」祥伝社(2014)から学んだ。古墳が河川流域にあること、地下式の横穴であること、近畿の古墳と比べて、発掘物の質が良いことなどである。とにかく、全国20万余の古墳のうち、660基なのだからマイナーであることは間違えがない。そこに、おおいに興味が注がれたのである。
路線バスには、合計で11回乗車した。そのうちの大半は全道中の乗客が私一人だけ。東京では「運転中は、運転士に話しかけないでください」とあるが、最前列に座ると、向こうから話しかけてくることもあった。
以後、1日ごとの「徘徊」を書き記してゆこうと思う。路線バスの旅が、レンタカーの旅に比べて格段に面白かった記憶をとどめておくために。