生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(30)北肥後4泊5日の路線バスの旅(その7)

2017年11月25日 20時34分48秒 | その場考学との徘徊
題名;北肥後4泊5日の路線バスの旅(その7)
場所;菊池(2)  年月日;H29.11.3

テーマ;装飾古墳      作成日;H29.11.18 アップロード日;H29.11.25

菊池から熊本空港へ
 
5:00 起床で、すぐに朝風呂。昨日は露天風呂三昧で初めての内風呂だが、こちらも広々して気持ちが良い。山鹿の人が「菊池も同じ強アルカリでぬるぬるしますよ」といっていたが、その通りだ。

6:00 フロントに行ってみたが、まだ誰も起きていない。昨夜の客は、私以外は皆宴会だけだったらしい。人の気配が全くしない。

7:45 やっと朝食の準備ができたと電話。これでも、予定よりも15分早い。田舎の温泉旅館の朝食は、8時からとは忘れていた。おかみさんが、初めの内だけ会話に付き合ってくれたが、やはり味気ない返答だった。食事用の部屋が陰気臭いといったところ、「うちは、こんな部屋ばかりなんですよ」と。障子を開けると、庭との間の廊下は片付け物でいっぱいだった。

10:17 のバスで街の中心に向かうつもりで、10時前にチェックアウトをした。このバスを逃すと、1時間半以上待たねばならない。フロントの人に、「肥後大津行きのバス乗り場がわからないので、車で送ってもらえないか?」と聞くと、しばらく後にOK。とにかく、昨日教わったバス停の名が、バス会社の停留所の路線図には出ていないのだから、困ったものだ。

9:55 宿の若い女性が車を運転してくれて、宿を出発。彼女が向かったのは、物産館前のバスターミナル。しかし、そこは電鉄バスばかりで、産交バスの停留場のサインはなかった。

宿のフロントが言っていた「菊池温泉」という停留所に向かった。そこからすぐなのだが、細い路地を大分入ったところだ。確かに停留所はあるのだが、ポツンと柱が立っているだけで、ベンチすらない。もちろん辺りに荷物を預けられるところもない。



次に「菊池プラザ」というバス停に向かった。1kmぐらい離れた、繁華街の反対側にある。しかし、ここも同様で、産交バスの事務所らしきものはあるが、締め切られていた。近くには、電鉄バスの大きなたまり場があった。どうも菊池市内は電鉄バスの天下で、産交バスは片隅に追いやられているようだ。



10:25 仕方なく、最初の物産館にいって、観光案内所で確認をすることにして、そこで車を下ろしてもらった。あちこち30分も走り回ってしまったのだ。
観光案内所の説明は明白だった。バスは、15:10菊池温泉バス停発で、荷物は事務所で預かってくれる。コインローッカーなどはどこにもない。バス停までは100メートルほどだ。
案内所で話をしていると、地元のご婦人が声をかけてきた。「菊池神社へ行かれますか?」
「よかったら、これから包丁式があるのですが、ご覧になりますか?」、「私は、今神社で打ち合わせをしてきたのですが、これからまた神社へ戻ります。長い階段でよければ、ご一緒します」とのこと。渡りに船だ。



庖丁式は、昔よく遊んだ南房総の千倉に日本で唯一の料理の神様といわれる「高家(たかべ)神社」で何度か見学をした。そこは、全国の有名料亭や魚関係者の石碑や記念碑、絵馬でいっぱいだった。ここはどうなのだろうか。

神社の境内は、七五三でいっぱい。ここでは3歳の女の子が中心で、5歳と7歳はほとんどお祝いをしないとのこと。彼女から、神主と包丁式の世話人も紹介された。ここは、昨日聞いたように明治神宮とのつながりが強い。菊池氏が、終始南朝方に見方をしたので、明治天皇が厚遇したとのこと。



11:00-30 包丁式は無事終了したが、せっかく準備された20余りの床几の席は、数人しか集まらなかった。3歳の女の子ずれでは、座れないのだろう。さばいたのは、近くの旅館の料理長だった。





彼女に別れを告げて、先ほどの階段を下りて、繁華街(?)へ向かった。「将軍木」という名物以外には何もないそうだが、ともかくもそこへ向かった。

将軍木」の目の前に能舞台があり、数人が椅子に腰かけていた。様子を尋ねると「1時から子供たちが能を舞います」とのこと。しめた、時間がつぶせる、いそいで昼飯を済ませて戻ろう、と思った。
ちなみに、将軍木の将軍とは懐良親王のことで、後醍醐天皇の皇子。一品・征西将軍の宮と称されていた。
南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点とし、九州における南朝方の全盛期を築いたそうだ。




Wikipediaに面白い話が載っていた。

『建武の新政が崩壊した後、後醍醐天皇は各地に自分の皇子を派遣して、味方の勢力を築こうと考え、延元元年/建武3年(1336年)にまだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにした。(中略)

その後、暦応4年/興国2年(1341年)頃に薩摩に上陸。谷山城にあって北朝・足利幕府方の島津氏と対峙しつつ九州の諸豪族の勧誘に努める。ようやく肥後の菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、貞和4年/正平3年(1348年)に隈府城に入って征西府を開き、九州攻略を開始した。この頃、足利幕府は博多に鎮西総大将として一色範氏、仁木義長らを置いており、これらと攻防を繰り返した。(中略)
ここまでは、通常の歴史だが、ここからが面白い。

1369年、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を「日本国王」に命じる、明の太祖からの国書が使者楊載らにより懐良親王のもとにもたらされた。国書の内容は高圧的であり、海賊を放置するなら明軍を遣わして海賊を滅ぼし「国王」を捕えるという書面であった。これに対して懐良は、国書を届けた使節団17名のうち5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留する挙におよんだ。しかし翌年、明が再度同様の高圧的な国書を使者趙秩らの手で懐良に遣わしたところ、今度は「国王」が趙秩の威にひるみ、称臣して特産品を貢ぎ、倭寇による捕虜70余名を送還したと『太祖実録』にある。しかしその記述は趙秩の報告に基づくものと思われるため、趙秩とのやりとりや称臣した件の事実性は疑問視されている。ともあれ明は懐良を「良懐」の名で「日本国王」に冊封した。しかしその後に懐良の勢力は後退し、1372年に冊封のため博多に到着した明の使者は、博多を制圧していた今川了俊に捕えられてしまい、懐良に伝達することは出来なかった。

しかし、明側では「良懐」を冊封したことは既成事実となった。そのため、足利義満が日明貿易(勘合貿易)を開始する際に新たに建文帝から冊封をうけ「日本国王」の位を受けるまでは、北朝や薩摩の島津氏なども明に使節を送る場合は「良懐」の名義を詐称する偽使を送らねばならなかった。その足利義満も、当初は明国から「良懐と日本の国王位を争っている持明の臣下」と看做されて、外交関係を結ぶ相手と認識されず、苦労している。』
あの、足利義満が明国に対しては、ある期間懐良親王を日本国王と認めていたとは、かなり痛快な話ではないか。昨日のMr.菊池はご存じなのだろうか。

昼食は、観光案内所で聞いた2か所のうちの一つで、伝統的な地元食堂。結構にぎわっていた。食事を済ませて能舞台に戻った。しばらくして、子供たちが隣の建物からぞろぞろ出てきた。

13:00-14:00 子供たちの能の舞は見事だった。謡の最初の句を自分で発声し、あとは後ろの大人が続ける。それに合わせて、舞台を1周して元の位置に戻る。発声は皆しっかりとしていた。舞台の前後は、指導者が襟元や袴を治すことで大忙し。1時間をすっかり楽しんだ。





14:15 「菊池温泉」バス停をチェック。キャリーバックを引っ張るルートも決めた。これで落ち着いたので、隣で開催中の菊人形をじっくりと観察することができた。南北朝時代の菊池氏の興味深い歴史も書かれていて面白い。




案内所で、お土産と途中での腹ごしらえの地元産スコーン(?)を買って、足湯で休憩。

14:50 観光案内所で荷物を受け取り、ベンチで休憩の後にバス停へ。
15:10 菊池温泉発 これを逃すと、次は18:30発で、東京に帰れなくなる。路線バスの旅の厳しいところだ。
15:55 肥後大野駅着、駅構内は、改札で紙(特別通行証)を渡されて、反対側の改札でそれを渡す。
16:00 熊本空港行きのリムジンバスには、すでに先客2人が乗り込み済で,すぐに発車。街を見る機会がなくなった。

初めての路線バスの旅を十分に味わうことができた5日間の旅だった。