武田光弘画楽多製作日記

暇をもてあそび造形してます。作品として形としてまとめたものなどを見ていただきたい
と思っています。

育成会宿泊学習

2008年08月31日 | Weblog
雨の中、塩尻市の「チロルの森」に子どもたちと行ってきた。たまには止むかと思った天気は期待はずれであった。しかし、いろいろ建物が並び立っており中もいろいろあって、初めてだと飽きないかもしれない。オカリナを作ったり、アイスクリームの実習もし帰ってきた。

いつものことだが夜は夜で、寝不足きわまりない。

北アルプス開発史

2008年08月29日 | Weblog
白馬岳の崩落の事故があり、こんなこと書いているのは不謹慎な気がしますが・・・私がはじめて登ったのは学校登山で中二の時でした。昭和35年位かな。
味噌と米、野菜は個人で持っていったものです。
明治末までは蓮華岳とか大蓮華岳とか呼ばれ、冷害・旱魃・地震災害などあれば人間が岳を荒らした報復とされており・・・岳にはいることは恐れ多いことでした。
当然山小屋などの発想はありません。明治になって千国街道に旅籠ができ、それがだんだん山小屋の経営・登山観光につながっていったようです。

私の母はふもとの集落で育ち、若い頃の白馬の山小屋で働いていた写真が残っています。

光太郎の恋

2008年08月28日 | Weblog
北京オリンピックも終わり、新聞も静かになった。
週刊誌の見出しだけが目に付く。
週刊誌の中身はほんとかうそかわからないが、いかにも真実らしく書いている。

今頃の夏、高村光太郎が智恵子と上高地に滞在していた。当時の新聞が「美しい山上の恋」とゴシップ記事を書いている。当時、智恵子は「新しい女」として行動も注目されており、光太郎は新進彫刻家。材料はそろっているけど時は大正2年。

今とこういうことは変わりないのだ。

南蛮人の鼻赤く・・・

2008年08月27日 | Weblog
猫の額の庭のすみに「とうがらし」を植えた。結構実がついて最近赤くなりつつある。

南蛮とは、一般的に西欧の人たちの総称と思っていた。蛮人とはかなりの蔑視語と思うが、もともとは中国で南方の異民族をそう言っていた。ひろくはタイやフィリッピン。またそこからきたポルトガル人、スペイン人をさすようです。
ま、どちらでもいいが初めてあった異民族のあの高い大きな鼻が「とうがらし」に見えたのもわかる気がします。

八月の終わり・・・

2008年08月26日 | Weblog
今日は一日審査に立ち会った。
いつもは扇風機くらいなので、冷房の中にいると身体にきつい。帰ってきてから、だるさがとれない。

自分の展覧会のことで記者が取材にきた。いろいろ聞かれたが、載るのは随分カットされるのだろう。


もう八月の終わりである。八月は古名で「葉月」と書く。旧暦の八月といえば、青い葉っぱの時期でなく葉っぱが散り始める頃である。

雨が降ります・・・・

2008年08月24日 | Weblog
句会があった。
立春とか春分とか、季節の読み方などの話があった。
アメリカの暦には、独立記念日とか大統領の殺された日とかのっており、人間中心である。日本でも天皇誕生日などもあるが、小寒・大寒とか入梅とかある。季節感は薄れたというが、まだまだ日本語の季節を表す言葉は消えない。

季節雨のことを言うと、秋雨とか時雨とか雨の情景はいかにも日本的である。けど最近の雨は情緒がないな。

街角のハト

2008年08月23日 | Weblog
オリンピックの最中にロシアがグルジヤに侵攻した。

いまから40年前1968年。私が職についた頃。
メキシコオリンピックが始まろうとしていた8月、ソ連・ポーランド・ハンガリー・東独・ブルガリアの軍隊がチョコに侵攻した。自由化への圧力である。

片方で握手して、片方でいがみ合う歴史は繰り返されている。

影絵

2008年08月22日 | Weblog
カア・ボーイと言う言葉はなつかしい。「シェ-ン」とか「駅馬車」などなつかしい。ジョン・ウエイという西部劇のスターがいた。高校のころは全盛であった。広い平原を馬にのってかけめぐる。インデアンは完全な悪者にしあげられていた。
後にイタリア製のマカロニウエスタンというのが出てきて、ドバドバやっていた。
これはこれでおもしろかった。このポスターを描いて賞をもらったものだ。今は西部劇映画は作られない。時代だ。

影絵のカア・ボーイはワインのキャップなど使い、後は手でつくる。


私のまんがの歴史

2008年08月21日 | Weblog
この前、赤塚不二夫さんの事を書いた。ちょい息抜きにマンガの本を見る。
雪の越後を後にした赤塚さんは、マンガ家をめざし町工場に勤めながら投稿する。そして同じ投稿仲間の石ノ森章太郎さんのアパートに転げ込む。すでに連載をもっていた石の森さんの手伝いをしていた。ある日「冒険王」の連載漫画家が病気で倒れアナが空きそうになった。そこで石ノ森さんは、迷わず赤塚を推薦し・・・・これを機会に一気に赤塚はかけあがっていった。
写真はよく読んだ「イガグリくん」の記事だ。今はレスリング化した柔道の漫画である。この漫画は手塚治虫をライバルとしていた福井栄一さんの作である。(残念ながらこれからという時、亡くなってしまう。)
戦後、GHQが武道・軍国もの禁止令を解き、柔道や剣道の表現できるようになって、出てきたマンガである。1952年ころから?
手塚治虫と違ったーーーおもしろかったマンガだった。