店屋に行くと母の日が近いらしく用意をしてる。
「おかあさん」と言う言葉は案外新しく、明治後半にできたらしい。それ以前は士族階級では「オカカ様」と言い、町人階級では「おっかさん」と言っていた。
その中間から生まれた言葉であるそうだ。
自由律の俳人山頭火はこの5月の連休に伊那から木曽から旅している。
と言っても昭和十四年だから、ゴールデンウイークなどでもないし、木曽路もさびれた町並みで現在みたいに観光客などみられない。
さくらはすっかリ葉桜となりて月夜
山ふかくして白い花
穂高の神社近くの駄菓子屋さんをモデルに彫る。
今川焼の旗を出し、親父さんが焼いていた。
こういう風景は昭和の定番のように出てくる。
しかしながら店のない山奥で育った私には店という存在があると
言うことを知ったのは、かなり大きくなってからだ・・
ゆえに駄菓子屋などお世話になったことはない。
このアパートに未来の若きマンガ家が寝泊まりし、マンガ家としてスタートをきった話は有名である。
手塚治虫とか赤塚不二夫、石の森章太郎などだ。
しかし、石ノ森章太郎が入居した時には手塚治虫は出た後だったとか。出入りがあったのだ。
そこに住んで有名になったマンガ家が書いたのではなく、当時、そこの住みながらマンガ家にまだなれない方が見たことを書いた本がこれである。有名になった人と視点が違うのでおもしろい。
これを手に入れ読んでみる。このジョージさんは、知ってる人は知ってる・・・有名と言うとチョイだけど・・・・最近文字絵で海外で受けている。
このアパートでは石ノ森章太郎のアシスタントをしていた。石ノ森章太郎の書いた文章には、トキワ荘の住人としてカウントされてない。
これは台湾で発行された「鉄腕アトム」。手塚さんは私の代表作のように言われるのに困惑してたとか。
赤塚不二夫。最初はこのアパートのころげこみ石ノ森さんの手伝いをしていた。
後に有名になり、アシスタントをしていた北見さんは「釣りバカ日記」の原作者であるそうだ。
手塚治虫とか赤塚不二夫、石の森章太郎などだ。
しかし、石ノ森章太郎が入居した時には手塚治虫は出た後だったとか。出入りがあったのだ。
そこに住んで有名になったマンガ家が書いたのではなく、当時、そこの住みながらマンガ家にまだなれない方が見たことを書いた本がこれである。有名になった人と視点が違うのでおもしろい。
これを手に入れ読んでみる。このジョージさんは、知ってる人は知ってる・・・有名と言うとチョイだけど・・・・最近文字絵で海外で受けている。
このアパートでは石ノ森章太郎のアシスタントをしていた。石ノ森章太郎の書いた文章には、トキワ荘の住人としてカウントされてない。
これは台湾で発行された「鉄腕アトム」。手塚さんは私の代表作のように言われるのに困惑してたとか。
赤塚不二夫。最初はこのアパートのころげこみ石ノ森さんの手伝いをしていた。
後に有名になり、アシスタントをしていた北見さんは「釣りバカ日記」の原作者であるそうだ。