武田光弘画楽多製作日記

暇をもてあそび造形してます。作品として形としてまとめたものなどを見ていただきたい
と思っています。

おおかみなんて怖くない

2015年07月31日 | Weblog


「大事なものだ。隣り村の庄屋まで届けてくれ。」

隣り村は峠をふたつ越え、おおかみのたくさん棲む「おおかみ谷」を越えなければならなかった。そこは夜でもうす暗く村人は近寄るのもこわがっていた。・・・・・・・

ここまで20ページに到達した。あと5,6枚で終了である。
〆切は9月30日である。

強敵は夏負けである。

佐野洋子展を見る

2015年07月29日 | Weblog
横浜で佐野洋子展をみる。

絵本のできるまでの過程がわかる展示がしてあった。
一番はじめの発想の段階からの、ほんとうの手書き程度のダミー本も展示されていた。
このダミー本をみれば、全体構想をたて組み立てていく作業はわたくしと違い、結末まで決まってないのにスタートする姿勢と随分違うのだ。
多分この絵を見れば、あああああの人かってわかるだろう。http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=2dee852d0d3b5ad3539ad27ace37c934&p=1&disp=10#

土潤溽暑の候

2015年07月28日 | Weblog
むしむしと雨が降ると降ったで気分が悪い。
しかしながら我菜園は野草のびほうだい。
その草むらに

巨大な夕顔があることに気が付いた。ま、捨てればどうこうないが・・・・せっかくなので「干ぴょう」にという話になったのが、以前包丁でかわむきをしたが切れ切れになって評価0。
ホームセンター2軒まわり、専用のかわむきを求めたら「ない」と断られた。
ネットで探したら700円くらいであった。
使えるかどうか疑問なれど注文す。

「溽暑」というのは「じょくしょ」といい、蒸し暑いことです。こういう言葉のあることを知ったのも俳句をはじめた産物かもなーーーー

わが俳句道・・・その2

2015年07月27日 | Weblog
単三電池握りしめて単三電池を買いに行った日

これは今話題の又吉直樹さんの自由律俳句である。これを紹介してる穂村弘さんは「あるある」として共感している。確かに単三と単二はどっちが大きいのだっけ。・・・これは私もある。
この「共感」が、よい句だとか、おもしろい句だとかになるのだろう。「共感」は「ひとりよがり」と相反することだ。ただただ思い付きでつくったものは長くよまれない。共感を呼ばない。
砂時計のような「くびれ」を通らないと「共感」される句は生まれない。
「くびれ」とは他の人の眼であるし、自分のもがきだ。・・・・・・と勝手に解釈して納得している。憲法を勝手に解釈している人たちとは全然ちがうのだ。

わが俳句道の記

2015年07月26日 | Weblog
わたくしの生涯に俳句短歌を作るという設定はなかった。これを想定外という言葉でまとめる。
昨日、句会があった。またしても想定外で会長におしあげれて最初の回だ。
すこしましなのを出さなくてはと苦悶した四句。いつもは一句も入らないことが多いが今回三句とも高点になった。想定外である。

クレパスのとろける画帖夏の来る
夏草や刻字うすれて無縁仏

跡継ぎのなき青田にも風走る

これがこわいのは次に続かないことである。

わがノルマの記

2015年07月25日 | Weblog

中学生ころの記憶だと、夏の暑い頃になると薬草採りをした。昭和30年ころかな。たしかゲンノショウコとかイカリ草などがあった。お灸の関係でよもぎもあったかもしれない。
これを何キロというノルマがあった。結局最後は親の手をかりていたが採集しても乾燥させると全然重みがなくて目標などはほど遠かった。
山羊とかウサギなども飼っていたのでくずの葉を用意して出さなくてはいけなかった。
秋になればストーブの焚き付け用に杉の葉を用意しなくてはいけなかった。みな必要なものだけだ予算が少ない中での出来事であった。薬草は図書購入費用のたしだ。

今だと予算要求で物事を解決するのだ。

そこらが時代の感覚の違いというものだ。

ちょい危険だけどマムシをつかまえておけば薬屋が買いにきた。これは大人でも自信のある人しかやらなかった。これは薬草なんて問題外の高額だった・・・・・・のだ。

大暑・・・う・・・浴衣

2015年07月23日 | Weblog
暑さゆえボケーーーとテレビをみていたら、浴衣の着こなし方をやっていた。
ナルホド。そうやってしわは見せないようにするのだ。もともと平安時代、浴衣は入浴の時に着て、やがて湯上りにきて江戸時代に現在のようになったらしい。
あちこちで35度を越しまいりました。そういえば昔は20何度で猛暑とか言っていた。その反面、雨が猛威をふるい土砂崩れなど日本列島もたいへんだ。マッタク。
冬の寒さがなつかしいと言えば、フザケルナと言われそう。

この冬景色は私の生家の裏の家がモデルでしたが、もう解体され更地となっている。手前の柿木は渋柿だが、私の小さい頃からある。前の畑には猿、猪などひんぱんに出る。都会の密集地帯と比べれば天国みたいなところだけど人口は薄くなった。日本のどこにでも起きている現象だ。と言われてもなんとなく寂しい。

わが球歴の記

2015年07月20日 | Weblog

昭和の三十年あたり、すごく野球が盛んだった。戦争が終わって生活に活気と余裕が出て来たせいだろうか。スポーツを楽しむと言う。わが分校にもグローブなるもんが購入された。それまでは軍手に綿をつめたような、平べったいグローブだった。バレーボールは女子と決まっていた。バレーボールにさわると「おんな――」とか言われ、からかわれた。体育の授業など全部野球だった。冬はスキーか卓球だった。この頃、授業内容など今みたいに決まっていなかったかもしれない。・・・か、山奥まで徹底しなかったのだろうか。それはこっちにとって都合のいいことでもあった。
本日、地区の恒例のゲートボール大会。堂々の十六位だった。二十四人の方のうち。
なおかつ、ホールインが出て賞品「ダシのもと」もらう。めでたし。めでたし。