武田光弘画楽多製作日記

暇をもてあそび造形してます。作品として形としてまとめたものなどを見ていただきたい
と思っています。

五月の話・・・・・鬼と菖蒲

2008年05月31日 | Weblog
娘をねらった鬼は、畑に水をひくを条件に娘を奪い去った。畑に水がきたが、娘は逃げることをいつも考えた。鬼の住んでいるところは西山の奥だから、なかなか逃げ出すことはできなかった。
数年が過ぎ娘は男の子を産んだ。とても鬼の子どもとは見えないかわいい子であった。男の子が六歳になった時、鬼の留守の時、鬼がのぞいてはいけないといった扉の中に車を見つけた。息子と一緒にに逃げ出した。
気がついた鬼は怒って追いかけたが、家の近くに来た時家の軒下に菖蒲が指してあった。これを見た鬼は剣がやたらにあると思って「かなわねー」とあきらめて山に帰ったと。

夏祭り(わさびまつり)

2008年05月30日 | Weblog

納涼祭を思い出して組み立ててみた。
納涼祭・・・・公民館の役員になって5回目の納涼祭になる。それまでは「そんなの関係ねーーー」という感じでしたけど。

骨版の黒を少し強調してみようと彫ってみたが「飽き」が時々くる作品でした。

昔、役場・・・・・

2008年05月29日 | Weblog
昔、役場で現在は資料館だそうです。しかし、あまり来訪者が無いらしく施錠されていました。白っぽいペンキが剥げてなんとも言えない雰囲気になっていました。
車道より離れているので、静寂の中に建っていました。
子どもとおばあちゃんは勝手に付け加えたものです。
ほんとうは庭に増田甲子七さんの銅像が建っていましたけど・・・・・・・

トロイの木馬

2008年05月28日 | Weblog
集会所の花壇に木馬を置いて見た。「さすがだねー」と言ってくれるおばあちゃんもいた。
個展の場所の予約に行って、三人展をしている会場をのぞいたらサンドアートのIさんがおられ少しお話をした。中学時代美術で悪い点をもらい、それ以来美術が嫌いになったという。ニュージランドで自然などに触発されアートにめざめたとのお話。世の中の美術教師は、アートを好きにしてると思っているが、逆なことも多いことを知らないといけない。

会場予約は9月になった。ちょうどアルパの上松美香さんが来て隣のホールで演奏するから人いっぱいきますからと言われ日を決めた。

耳なし芳一・・・・夜話

2008年05月27日 | Weblog
これも「耳なし芳一」の一場面である。
平家の物の怪に対するために、芳一の体に経文を書くのである。しかし、耳に書くのを忘れてしまう・・・・・・

オーブン陶芸に挑戦しようと解説本と粘土を注文した。パソコンで。なんとまあ便利なことよ。

今日は暑くていい作品もできないので、近くの遊園地の木の枝おろしをした。今年は自治会長という肩書きがあるので、ドンドン切った。

雨飾山・限界集落

2008年05月26日 | Weblog
この山は「あまかざりやま」と読む。標高2千は軽く越す。名峰百選とかではよく出てくる。この手前がわたしの生まれた集落である。看板のすぐ左に屋根だけ見えるのが生家である。見ればのどかと思われる風景だが、空家が多くなり、居てもお年寄りだけの俗に言う「限界集落」になっている。わたしもここを飛び出したので気がひけるところもある。その限界に注目したのか信濃毎日新聞が毎週火曜日に一面に取り上げている。一年間の特集なのだと言う。
そういうことで冬の間、記者に家を貸した。
湿気の多い新潟との境であり山菜にとっての立地条件もいいので豊富であるが、看板のようにしないと「あっ」と言う間に根こそぎ持っていかれるところである。

雨蛙

2008年05月25日 | Weblog
田植えもすみ、やたらと蛙の鳴き声が聞こえる。
雨蛙が鳴くと雨が降る・・・・その確率は実際はそう高くないようだ。
雨蛙は顔に黒い線があり、環境によってカメレオンのように体の色を蛙。

芭蕉の句に有名な「古池や蛙飛び込む水の音」がある。最初の五句を悩む芭蕉に弟子の其角は、伝統的な「蛙と山吹」の結びつきから「山吹や」を提案した。が、芭蕉は平凡に「古池や」を選んだ。この選択が芭蕉の名を高めたようである。

「青蛙汝もペンキ塗りたてか」というのが芥川龍之介の句である。

民権鑑嘉助の面影

2008年05月24日 | Weblog
「みんけんかがみかすけのおもかげ」と読む。明治十一年自由民権運動が盛んな頃、穂高町の自由民権思想家「松沢求策」は隣村の三郷の農民一揆(貞亨騒動1686年)の指導者「多田嘉助」を描いた演劇のタイトルである。ペンネームは「鶴舟野史」という。
この演劇の中に「自由民権の思想」を取り入れ上演をしたという。遠くは大阪でも上演され信州のみならず全国の自由民権運動の力となったという。浅やかな知識であるので表面的なことしか知らないのですが・・・・・・

この当時、演劇などしている道楽者とか見られていたこともあったらしい。抜き出た先人の評価はおそくついてくる。

耳なし芳一外伝

2008年05月23日 | Weblog
小泉八雲が奥さんから聞いた話をまとめた怪談の中のひとつで、あまりにも有名なので書きようがありません。
小泉八雲は熊本の学校で教鞭をとっていたが、後任に夏目漱石赴任してきた。その後、東京帝国大学で教鞭をとっていて、後任がまた夏目漱石というめぐりあわせだったとか。

当時は夏目漱石は講義がうまくいかず神経衰弱病で悩んでいたそうです。

山頭火・・・・2

2008年05月22日 | Weblog
「種田山頭火」と言う人は昭和十一年に長野にきている。草津から須坂へはいり善光寺から一茶のふるさと柏原によって新潟へ向かっている。行乞俳人と言えばカッコいいが、知らない人にとってはただの乞食坊主だったのだろう。
この時代は日本が戦争に向かっていく時代であった。
善光寺に寄った時は雲上殿が建てられた年であり、寺院風の長野駅が作られた年で山頭火もめずらしそうに見ていたという。近代的になった長野駅は味気ないけど・・昔のことを知っている人はだんだん減っていく。

     山しずかなれば笠ぬいでいく   山頭火