武田光弘画楽多製作日記

暇をもてあそび造形してます。作品として形としてまとめたものなどを見ていただきたい
と思っています。

無免許はいけません

2012年02月29日 | Weblog
富士重工が小型車の生産をやめたとか。
たしか私が中学生になった頃、トラックが材木運搬で村に来るようになった。自動車を見る機会も多くなった。農協に勤めていた親父は、だれも自家用車を持つなど考えていない頃通称カブトムシとか言われた自動車を買った。
こんな形をした車だった。スバルと言う名だった。色は白・・・クリームだった。私はこれを田んぼの水見にいく母を乗せて田んぼの見回りをした。ろくに道がなく畦道だったのでよく落とした。もちろん中学生だから無免許。母も免許がいると知らなかったのだろう。車体が軽いので落ちても、二人でもちあげるともちあがった。

農協には軽トラックがあり、村ではこの二台だけだった。理科のT先生は借りて来いといって、みんでお宮の庭でこのトラックの運転をした。親父の関係で借りにいくのは私の役割だった。先生に言われたというとすぐ貸してくれた。なんの授業だったのか不明。先生が免許あったか不明。

後で聞いたけど親父も当時無免許で、村で運転免許のあった人は農協の職員のひとりだったらしい。それでも後年免許取りに行って教習所の先生がオレよりうまいと言ったのが自慢だった。

村には駐在所もなく、対向車もなく安全地帯だったのだ。

複式学級

2012年02月28日 | Weblog
新聞に「山村留学」の文字が踊ってた。
なかなか希望者が集まらないようだ。受けての村も子どもが少なくなって山村留学の子を待ち望んでいる。・・・送る方は費用もかかるので世の中の不景気も影響あるようだ。私も勤務した村はそういう制度をとっていた。全国から来ていた。広島の子もいた。千葉の子もいた。千葉の子は実家に帰るとピーナツお土産だった。・・・・・・・
子どもが少ないと「複式学級」となる。ひとつの教室に2学年が入るのだ。当然先生が二つの学年の子どもを教えるのだ。・・・・これを解消しょうとしてるのだ。
私めも小学校から中学まで「複式学級」で育った。最後の中3になると、そこだけ奇数年なので単式になった。ちょい最初は寂しかった。

学校はこういうものだと思っていたから、どうこうなかった。先生は大変だったかも。
半分自習のようなものだから、自分でやる癖もついたかも。来年はこういうことやるんだと言うことも聞き耳をたてるとわかった。

中学の社会など半分の時間は教科書の写しだった。先生が「ここからここまでうつせ」と言って、違う学年の授業をする。
こんなに教科書を有効利用した時はなかった。
別にこうゆう学校の制度も悪いとは思われない。
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期待される教師像

2012年02月27日 | Weblog
大阪の方では橋本旋風が吹いて教育現場にきびしくせまっているようだ。

この版画は私が小中と過ごした分教場です。もう廃校になって久しい。ただ建物だけは残ってる。ここで教えていただいた先生は、分校なので、そんなに多くないが冬には鉄砲もって山の上でウサギを撃つ先生がいた。ウサギは自然に山に登るわけはなく、それを追い上げるのは私たち生徒だった。ウサギは給食の主要な肉となった。
私が小学校の卒業式の時、みぞれに濡れて・・・・・卒業式は本校であおこなわれ、雪の中かなり歩いた。濡れてしまい風邪を引いて寝てると先生が来た。酒くさかった。枕元で「おれが風邪ひかしたのだ・・・」と泣き出した。男が泣くのをはじめてみた。
大声で泣くのでフトンをかぶって耐えていた。少しすると泣き声がイビキに変わり寝てしまった。先生は泣き上戸だったのだ。

学校から遊んで帰ると、先生が先に来ていて親父と酒飲んでた。帰るまで緊張して、まだかーーと待っていた。酒のみは腰が重いのだ。ほんとかどうかわかんないが、父と母は「まあ、まあ」とか言って先生をとどめていた。

小の卒業の風邪がこじれ、中学入学は腎臓病になり遅れた。1ヶ月も休んでしまった。当然、はじめての英語があるので夜先生がきて教えてくれた。元気になって登校した日、英語のテストがあった。知っていればすぐ病気になったのに・・・・と思って受けた。そしたら96点だった。こんな高得点はいまだ、生涯の中でとってない。
鉄砲の先生は異動のちょい前、スキーで両足を骨折した。当時先生は大事にされ、見送りなど村中が出た。まだ雪があるので先生はソリに寝かされ、行列の中申し訳ないような顔をして去って行った。・・・・・・・・ここに登場したのは三人の先生です。
こういう先生方は、大阪ではすぐ首だろう。

痛快野球小説「ボクが野球をきらいになったワケ」

2012年02月26日 | Weblog


「おい、いくぞ」
「オーライ」
かけ声も威勢よく思い切りふりかぶったフォームからボールはミットに小気味よく音をたて吸い込まれた。
「ナイス、ボール」の声がかえってきた。
・・・・・ここまでは頭に描いたストーリィの出来事だ。
実際には、荒れたグランドのキャッチャー前でワンバンドして後方にころげていった。
キャチャーはおっくうそうに腰をあげ「またかよ」という顔で、ピッチャーを見ていた。
このノーコンピッチャーはオレであり、キャッチャーは尾川だった。オレと尾川は同級生だ。最近、車がひんぱんい来るようになった山奥の分教場の中学三年生だ。
三年生は全部で八人だった。うち二人は女子で男子は六人だった。でもなんとか、ここに野球チームがあったのだ。
戦争が終わって村の青年団の活動がにぎやかになり、戦争帰りの若者が解放感あふれ休日は野球に熱中していた。
                           続きは次回に 乞う期待

来ていただいた方々

2012年02月25日 | Weblog

展覧会を始めて一週間がたった。来られそうな方はほとんど来られたので山を越したかも。
土曜日なので大勢の人が来られると思ったが、重雪で天気も悪かった。
最初に来て頂いた方から、聞いてきたという方もおられた。これは又うれしいことだ。
中学の同級生が来た。・・・・同級生といっても全員で8人だったけど。足が痛い。血圧が高い。痛風とか。話題は暗い。

田舎の家の始末の話に及んだ。建築業なので頼んでおいた。教員あがりは年金は高いと思ってるらしい。そんなにちがわねーーー

保育園の仕事をしていた頃、園であった子にあった。もう5年生になってた。時の流れははやい。あっちはおぼえていなかった。

犬つり

2012年02月24日 | Weblog
展覧会は平日だから、あんまり来ないと思っていたら・・・・午前はテレビがはいり・・・・午後はどおおおおおときていただいた。ありがたことです。
我が家のワン公もすっかり成長し、我が家の王様風に育っている。
前の犬などは残り飯に味噌汁かけるくらいの食事だった、現在は高いドックフウド。こいつは栄養満点だ。なんか筋肉も張ってきた。わんわんわんだ。

今日も木曽からきていただいた。セブンアハハの焼酎いただいたのでおいしくいただいた。明日から土日だから大勢来ていただけるでしょう。ありがたいことです。

叫び

2012年02月23日 | Weblog

ムンクという画家の有名な絵だ。競売で64億円がつきそうだと言う。
キャンバスに描かれたものと思っていたが、そうではないらしい。前に盗難にあったこともニュースになった。一枚かと思っていたが、このバージョンは数枚あるらしい。ゴッホの絵も数億円で日本で購入されている・・・・描いてる本人はさぞびっくりするだろう。他の人の絵はどうでもいいが・・・絵の値段で価値が決まるものでもないが・・・

さらば青春

2012年02月22日 | Weblog


大学の同じ研究室にいた仲間が来た。
お互いに年取ったという感じですね。さらば青春だ。

午後途中から小学校へ行った。放課後学習室のかれらはすっかりリラックスしのびのびとやっていた。変わり目がはやいのは、若さの特性だ。3年生の子が音読が宿題と言うので、廊下でつきあった。「モチノキ」を一生懸命やっていた。ちょぴり文句を言い、少しほめた。


思わぬ方にも来ていただいて感謝です。版画を習ってみたいと言う方もあって、教室にくるように進めた。
来る方がいるのに不在もいけないが・・・・・・これからも長い。

共食い

2012年02月21日 | Weblog


あれほど強大、強力なローマ帝国はなぜ滅びたのか?
ローマの市民は欲望を太らせ、労働を忘れ消費と娯楽に明け暮れ節度を失って・・・次第に堕落の道に入っていった。・・・・・では日本はどうなのか。国と言うものが成熟していくとそうなるかもしれない。・・・・と言うようなことは深く考えて展覧会三日目を迎えた。やはり平日なので入場者十五、六人だった。写真の作品は比較的評判のよい作品だ。ここれへんが自分の感覚と違うのだ。木曽から先輩が来られた。40年ぶりの再会であった・・・・・・・・・・。さすが互いにお年寄りだ。
ヒマだったので、話題の芥川賞「共食い」を読み始める・・・・・・・・・・

あれこれあったけど・・・・

2012年02月20日 | Weblog

「塩の道」を歩いた方のホームページにいきあった。
わたしの前にお貸した版画が展示されている「牛方の宿」をご覧になったようだ。
ニュース的には2,3年前のことだけだ・・・・・・

美術館は全国的に月曜休館。19日は日曜日でもあったので大勢の方が見に来ていただいた。遠くからもきていただいて感謝してます。なつかしい人との話題はあの人が亡くなったとか、病気だとか・・・・・さびしい話題だ。教え子の亡くなった話は暗いなーーーーー。