福を求めたいという欲心さえ捨てれば、それなりの福を得ることで満足できる 夢窓国師『夢中問答』第一段
〈写真 千田完治〉
福男に福女、福引きに福袋と新年はいつもにまして、目にすることの多い「福」の字ですが、「福」を辞書でひくと、「さいわい、しあわせ、幸福」と説明してくれます。わかったようでわからない説明です。ならば、「幸福」はというと、広辞苑は次のように定義します。
「心が満ち足りていること。また、そのさま。しあわせ」
「心が満ち足りている」なんてことはことめったにないですね。ほとんど不可能です。
不可能だからどうすればよいか。夢窓国師の『夢中問答』冒頭にある一節を新年の言葉としました。
『夢中問答』は、足利尊氏の弟、足利直義が禅について夢窓国師に質問したものを九十三段にまとめた問答集です。
禅僧の問答集というと、不親切な漢文の語録を想像してしまいますが、これはかんでふくめるように親切で、仮名書きで筆録されています。その第一段で 直義がたずねます。現代語訳は西村恵信著『夢中問答をよむ』(NHK出版「宗教の時間」テキスト)から借用いたしました。
「仏の教えのなかには、人間が福を求めることはいけないことだといましめてあるのは、いったいどういうことでしょう」
夢窓国師が答えます。
「世間の人間を見ていると、毎日あくせくと働いて身心共に苦労をレているようだが、それでいて皆満足するほどの幸福を得ていないようだ。なかには結構うまくいって、いちおうは楽しんでいる者もあるが、それとて火水の難に遭ったり、泥棒に取られたり、税金に持っていかれてしまったりする。たとえそういう難に遭わなくても、福を持って死んで行けるものでもない。幸せが大きければ、それだけ罪も深いわけで、来世は必ず三悪道(悪行によって歩まなければならない地獄・餓鬼・畜生という三つの道)に入るであろう。(中略)ということであれば、福を求めたいという欲心さえ捨てれば、それなりの福を得ることで満足することができるのだ。だから仏教では、いたずらに福を求めることを誠めているのである。福の追求を止めて、貧乏であれと言っているのではない」
これって、知足(ちそく=足るを知る)というのではないの!そう言ってしまえば良いのに、丁寧に説明するとかえってわかりづらくなってしまう。知足といえば、少々嫌みな奥様がたの会話をみつけました。
女流文学賞を受賞した須賀敦子(1929~1998)のエッセイ集『ミラノ 霧の風景』(河出文庫)に「チェデルナのミラノ、私のミラノ」という短文があります。そのなかで語られているエピソードです。
昭和三十三年に二十九歳でイタリアへ留学した敦子は、二年後にイタリア人男性と結婚し、ミラノに住みます。ある日、「ミラノの古い家柄の女性たちと、内輪の晩餐の席をともにしたとき」です。彼女らが、ある新興ブルジョアの生活ぶりを批判します。
「あそこは始終(B)でお買物よ」
(B)というのは大聖堂ちかくのぎらぎらした貴金属店の名です。古い家柄の女性たちは、そんな店であたらしい貴金属など買わないのです。彼女らには先祖代々伝わったものがあるから、買う必要がないのです。あたらしいものを買うのは、ものがないからで、恥ずかしいこと。
すこし嫌みな奥さまがたの会話だけど、これも「知足」というのでしょうか。
お屠蘇の頭には、長い解説になってしまいましたが、本年も皆さまのご多幸を祈ります。いやいや、多くの幸なんて求めてはいけないのでした。そこそこに。
〈蛇足〉どこで読んだのか、それとも聞いたのか忘れてしまったのですが、次のような冗談が記憶にあります。
夢窓国師のお像がまつられている寺をお参りした男性が感心した様子でいいました。「大したもんやな、禅宗は。麻雀の仏さままでいらっしゃる」。
野暮なネタバラシは、やめておきます。