松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

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仏道修行には   明恵上人

2013-06-06 | インポート

254pxsemuiji_myoue1仏道修行には/具足はいらぬ/松風に睡りをさまし/朗月を友として/究め来たり究めさるべし 明恵上人

この数か月、短歌や詩からの引用が続いたので、今月は仏典から探しました。明恵上人(1173~1232)の遺訓(ゆいくん)からの引用です。明恵は鎌倉時代初期の華厳宗の高僧です。
遺訓といっても、みずからが書き残したものではなく、弟子の高進が上人の滅後三年ほどしてから、ひとの聞いていたものを集めて編集したものです。
冒頭は「人は阿留辺幾夜宇和(アルベキヨウハ)と云う七文字を持つべきなり」という有名な書き出しではじまります。
明恵の逸話は面白いものがたくさんあります。たとえば、毎晩見る夢を丹念に書き残していたとか(『夢記』)。
あるいは、釈尊の生まれ育ったインドへの渡航を計画するが、それがかなわぬと知ると、住職していた栂尾・高山寺の山中の各所に、インドの仏跡の名をつけ、そこを巡るのを晩年の日課としたとか。
そんな上人だから、遺されている肖像画も面白い。樹の上で坐禅している姿は有名で、国宝指定です。
樹の上での坐禅は、明恵上人だけの得意技かというと、そうでもない。次のような問答が禅の語録にはあります(『大慧普覺禪師語?』その他)。

詩人の白楽天(722~846)が当時禅僧として徳行のほまれ高かかった道林禅師をたずねていったことがあります。道林禅師は高い木のうえへのぼって坐禅をくんでおられた。白楽天は、ああ、あぶないといった。すると道林禅師がすぐにこたえました。三界の火宅のなかに住みながら、そのあやういのに気がつかない人々のほうがもっとあぶないのだと。白楽天は、一本やられたなと思ったから、やりこめてやれと思って端的に聞いた。「いかなるかこれ仏教の大意」と。そこで禅師が「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教(もろもろの悪をなすことなかれ、もろもろの善を奉じ行い、みずからそのこころをきよむ、これ諸仏の教えなり)」ととなえられたのです。白楽天は、こんなことなら七歳の子供だって知っている、というと、すかさず禅師は、七歳の子供といえども知っているであろう。しかし七十歳の老翁といえどもこれをおこなうことかたし。ついに、白楽天はかぶとをぬいで禅師のお弟子になったという伝説があります。-中村元アーカイブ「釈尊のことばから」(『在家仏教』誌2013.6月号)-

これまた面白い問答です。この逸話はいくつかの禅の書物に紹介されています。上記の現代語訳は中村元博士が昭和四十年に『在家仏教』誌に掲載したものからの引用です。
ところで、「七歳の子供だって知っている振るまい」を漢文では「七?孩兒雖道得」になります。あるいは、「七十歳の老翁といえどもこれをおこなうことかたし」は「七十老人行不得」なのですが、『大正新修大藏経』全巻のテキストデータベースで検索しても出てこない。でも、三歳と八十歳ならばヒットしてくれる。ということはどういうことかと言うと、鬼の首を取ったような言いようで、恐れ多いのですが、中村元先生のミスか誤植か。あるいは、万巻の仏典を読破されている博士の資料には七歳と七十歳になっているものがあるのかもしれない。
中村先生が黄泉の国で、「そんな些末な枝のまた梢のような詮索をしている暇があれば、もっと他にやることがあるだろう」と叱声されていることでしょう。
まったくもって、万巻の仏典の検索が瞬時にできるようになって、便利というか不便というかヤバイ今です。
ヤバイ今といえば、このブログ。読んでくれる人数は少ないのですが、その少ない読者の中で、先月の文章を面白がってくれて、私に貴重な体験をもたらしてくれた方がいました。どんな体験かって!それはいろいろと差し障りがあるようなので、時期をみて。

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