武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

096. アデェガ・ヴェーリャ -Adega velha-

2018-12-30 | 独言(ひとりごと)

 モウラオンに着いたのは、まだ昼には少し早い時間だった。町の中心の公園脇駐車スペースにクルマを停めツーリスモ(観光案内所)の標識の方向に歩き出した。途中、そのあたりにもシュラスケリア(炭火焼食堂)の看板が幾つか目に付いたがアデェガ・ヴェーリャではなかった。
 ツーリスモは見つかったものの埃だらけのドアは閉ざされていて、もうしばらく前から使われていない様子だった。
 小さい町だから、ツーリスモに行けばすぐに判るだろうと思って、住所も電話番号も何も確認はしてこなかった。アデェガ・ヴェーリャという名前だけが頼りだ。でもそれが正式名かどうかも判らない。

01.モウラオンの城と町。

 今までもたびたび訪れたことのある町だが、以前は先ずお城を目指してそれからスケッチの場所を探していた。今回はスケッチよりもそのアデェガ・ヴェーリャで昼食を取るのが目的だ。

 昼食にはまだ少し早い時間なので、アデェガ・ヴェーリャをゆっくり探しながら1~2枚スケッチでもと思ったが、あいにくスケッチブックをクルマのドアポケットに挟んだまま忘れてきてしまった。鉛筆だけはいつも服のポケットに入っているのだが。

 アデェガとは造り酒屋とかワイン貯蔵庫という意味だが、ワインを呑ませる食堂にもその名前は使われる。ヴェーリャは古いという意味。<古い一杯呑み屋>と訳すことができるだろうか。

 その廃家のツーリスモからは上り坂になっていて、上にはお城しかない様なのでユーターンして別の裏道を歩いてみることにした。

 この町まで来る途中、クルマの車窓からも見かけたのだがクリスマス前なので、あちこちで壁の塗り替えをしていた。その裏通りでも主婦らしき女性と子供が壁を真っ白に塗っていた。
 それを監督する様な格好で、ハンティングを被り杖をついた老人が道の向い側でその様子を眺めていた。いかにもワイン好きな顔つきで鼻が赤い。その老人にアデェガ・ヴェーリャを尋ねてみた。それが的確であった。

 その場所からは少し離れていたにも拘らず、考える様子もなく即座に、目印まで正確に教えてくれた。「この道の突き当りを左に曲がって、しばらく行くと農協銀行の前に出る。それを右に曲がると、すぐに二差路に分かれているから、その左側の道を進むと数軒先の右側にあるよ」と言うものだった。日本語に直すと簡単だけれども、老人のポルトガル語で聞くと結構複雑に聞こえた。僕が頭の中で反芻して整理していると、繰り返し、繰り返し被せて教えてくれる。教えるだけでは物足りなく、今にも「一緒に行こう」と言いかねない雰囲気もあった。

 アデェガ・ヴェーリャのことはインターネットのユーチューブでその動画画像を見て知った。
 コーラル・デ・モンサラス(モンサラスのアカペラ男性コーラスグループ)のことを調べている内にどんどん進めて行くとアデェガ・ヴェーリャに行き着き、その動画が幾つも現れてきたのだ。
http://www.youtube.com/watch?v=J3nV2z9TREc&feature=related

 今回の旅はクリスマスの始まりにモンサラス教会とキリスト生誕の人形飾りの前でコーラスを奉納すると言う、コーラル・デ・モンサラスを見るのが目的だが、このモウラオンのアデェガ・ヴェーリャにもついでに行ってみるしかない。と言うことになった訳だ。

 20年程の昔、僕たちがポルトガルに住み始めた初めの頃、偶然にモンサラスに泊った。翌朝、隣町のモウラオン行きのバスの時刻をツーリスモで調べてもらっていたところ、それを聞いていた、同宿でポルトガル人の若いカップルが「僕たちはクルマだからモウラオンまで送って行くよ」と言うことで乗せてもらった。実は彼らは北の町ポルトに住む新婚旅行中のカップルだったのだ。「途中、サン・ペドロで少し陶器を見て行きたいので寄り道をするけれど、良いかな」。
 焼き物好きの僕たちには願ってもないこと。サン・ペドロの地名もその時初めて知った。
 一軒の窯元で大皿(直径33cm)2枚を買って、結婚祝いに1枚を彼らにプレゼントした。もう1枚はリュックで担いで帰ったのだが、今も我が家で愛用している。

 その頃に比べるとダム湖が完成し、ダム湖を跨ぐ新たな道路も出来、モウラオンへの道は随分便利になって、その当時なら30分は充分にかかっていたモンサラスからモウラオンへも今ならほんの15分で着いてしまう。

02.ブドウ畑の紅葉。

 家を朝9時に出た。モンテモールからエヴォラへの道すがらの葡萄畑はもう盛りは過ぎているとは言え、真っ赤に色づいた葡萄の葉が朝陽に映えて見事な紅葉を見せていた。もう半月早かったらもっと凄かっただろうなとも思った。なだらかな稜線まで続く赤葡萄の紅と白葡萄の黄色のコントラストはポルトガルでは他にあまり紅葉しない、紅葉の季節を楽しませてくれる。


 エヴォラからレゲンゴス・モンサラス、そして左手の山の頂にモンサラスの城と町を見ながら、新しい道を一気にモウラオンまで突っ走る。家から2時間半の道のりである。

 アデェガ・ヴェーリャには看板らしきものはなかったがすぐに判った。入り口近くのバーカウンターでは数人が立ち呑みをしていて、そのなかの1人に「ここはアデェガ・ヴェーリャですか」と尋ねたら「そうだ」と言いながら女将さんを呼んでくれた。

03.ワイン壺の置かれたアデガ・ヴェーリャの店内。

 女将さんに「昼ごはんを食べたいのだけれど」と言うと、すぐに席に案内してくれたが、随分奥まった、隠れるような場所に丁度2人分の小さなテーブル席があった。他は大テーブルばかり何十と席があったが全部予約済みらしく、既に前菜とパンとワインが並べられ用意されていた。
 バーで呑んでいる客と僕たちの他には未だ早いらしく1組の家族がテーブルについているだけであった。
 かなり広い店だが、古い大きなワイン甕がたくさん飾られていてその間を縫うように席が設けられているという具合だ。

04.チョリソなどの前菜。

 僕は運転があるのでノンアルコールビール。MUZは赤ワイン。「少し」と言ったのにバッソ(壷)に随分の量だ。前菜に2種類のチョリソ、この秋採れの浅漬けオリーヴ、生チーズ。これが旨かった。それに田舎のパン。これだけで既に満腹になりそうである。

05.フェイジョアーダ。

 メインは豆とチョリソの煮込み鍋。女将が「1人前でもまあまあの量ですよ」と言ったので1人前だけにしたが、これで充分の量で、旨かったが全部は食べ切れなかった程だ。

06.ソブレメーサ。

 ソブレメサ(デザート)は女将お勧め、この土地の甘すぎるお菓子。

07.僕の後ろの席の横顔は当時マデイラのジャルディン知事。

 食事をしている内に瞬く間に満席になった。前の円卓には猟師10人程のグループ。後ろの席には何とマデイラの知事、アルバロ・ジャルディン氏が座っている。そのグループ20人ばかりが2コーナーを占拠していた。今頃来ていたら絶対に席はなかった。早く着いて良かった。

 アルバロ・ジャルディン氏には次の日。帰りに寄ったエヴォラ美術館の裏道でもすれ違った。ドイツ人の知人に言わせると「もう何十年も治外法権の知事の座に居座り、独裁政権でまるでヒットラーだ。」と言っていたが、マデイラ島では大した人気で、舞台に立って歌も唄うし、お祭では大道芸人の様な衣装を着けて太鼓も叩く。怖い顔?に似合わずひょうきんなドクトルなのだ。
 マデイラ知事にとってもこのアデェガ・ヴェーリャは訪れたかった店なのか、或いはなじみの店なのかも知れない。

08.コーラスが始まる。

 食事をする前にも、している時も、そして終わって出ようとした時にも、あのユーチューブで観た動画と同じコーラスが沸き起こっていた。「コリアンダーとニンニクがたっぷりのパン粥で元気一杯さ~。イェイ」といった、この店のオリジナルソングなのか。

 その男性コーラスに、仕事に一段落をつけた、女将のコーラスも加わる。
 ゆっくりとコーヒーを飲んでから店を出たが、もう少しゆっくりしていれば、マデイラ知事もそのコーラスに加わっていたのかも知れない。
 元気を貰いに毎日でも通いたい楽しいアデェガ・ヴェーリャである。もう、ほんの少し近ければね。VIT

(この文は2012年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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