武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

098. 父の想い出

2019-01-13 | 独言(ひとりごと)

 父、武本憲太郎は今年(2012年)5月28日100歳5ヶ月と10日の生涯を閉じました。

 最後は自宅で兄の介護の元、眠るように息を引き取ったそうです。

「新居浜のでべら」武本憲太郎・油彩・サムホール

 明治44年12月18日、武本幸三郎と君代の5男として愛媛県新居浜市に生れました。兄は4人、姉は2人。7人兄弟の末っ子です。すぐ上の姉は未だ103歳を越えても元気で居ます。

 何でも岡山県の山あいには今も武本姓ばかりが住む小さな村があると聞いたことがありますが、武本家の先祖で判っているのは1700年代に尾道に住む福山藩士、竹ノ内小十郎の子、嘉平太が尾道、向島で塩田を営み、その際、竹ノ内から武本に改名したという記述が残っています。

 僕の祖父、幸三郎は先祖が作った財産で金貸業を営んで居た様で、そのかたに美術品を集めるのも仕事で目利きもあったようです。趣味も兼ねていた様にも思います。

 父の4兄のうち2人が医者でしたが、祖母の家系には医者が多く、先祖は今治城のお抱え医者をしていた様で、祖母自身も薬剤師の免許を持っていました。新居浜の屋敷の玄関土間には大きく立派な薬箪笥があったのが印象的でした。

 お屋敷は広く蔵もありましたが、蔵とは別に神社の近くにあったことからか、庭の一角には地車(だんじり)が収まっている黒く塗られた大きな地車(だんじり)車庫もありました。

 祖父が亡くなった後の祖母の晩年は大きな屋敷に1人住まいでお琴の先生をしていました。生徒さんの出入りも多く、座敷にはお琴が幾つも立てかけてあったのを覚えています。

 父は子供の頃は剣道少年でありましたが、祖父が集めた美術品に囲まれても育ち、美術好きの少年でもありました。父と祖父はそんな家系にあって、異端児だったのかも知れません。父は小学校の頃から絵を描くのが好きで上手で、先生から教室の黒板にチョークで虎を描かされた、と言う話も聞いたことがあります。

 画家になりたくて、親戚中の反対を押し切って東京美術学校(現東京芸大)を受験しましたが、失敗に終わりました。滑り止めの為受験した日大芸術学部には合格しましたが、反対を押し切ったため仕送りもなく授業料が払えずすぐに中退となりました。当時は未だ武蔵野美大も多摩美大もない時代でした。

 就職試験ではいろいろと受けたそうですが、公務員の大阪府庁なら絵を描く時間が取れそうだということで、そこに入りました。最初は守口保健所勤務だったそうで、その頃に知り合った人たちとはその後も長く付き合っていたようです。

 大阪府庁の美術部に入り、中ノ島洋画研究所に通い本格的に絵を描き始めます。講師には鍋井克之、国枝金蔵、古家新などが居ました。古家新が会員だった戦前の二科展に父は何度か入選しています。

 軍の召集では未だ戦禍がそれほど激しくなる以前でしたので、大連あたりに赴きましたが、何冊かのスケッチブックも残しています。父はあまり戦争での話はしませんでしたが、死ぬ思いもしたそうで、戦友たちのお陰で生きて帰ってこられた、と言っていました。

 未だ戦時中でしたが退役してやがて母、千登瀬と結婚をしました。母は父より13歳も年下です。地方公務員なので大阪以外への転勤はなく、それからはずっと大阪生活です。僕の兄は昭和19年生れです。僕は戦後の昭和21年生まれ。妹は昭和24年で兄妹共が大阪生れです。

 僕が物心ついた頃には父は大阪府庁で通商課の観光係というところで係長をしていました。既に部下が何人かいましたが、僕が知る主な仕事は外国人むけの観光パンフレットなどを製作していました。

 父は戦後は古家新などが創設した行動展に出し始めました。まもなく会友にはなりましたが、府庁の仕事の方が忙しくなりなかなか制作の時間が取れないのも悩みでした。それでも画家仲間とスケッチ旅行にはしょっちゅう行っていた様です。

 行動美術の仲間にはパリで住み絵だけで生活が成り立っている画家も居て、とても羨ましがっていました。絵を描く時間がなかなかとれないと言っても、僕の子供の頃の僕の家は油絵の具のポピーオイルの匂いで満ちていました。友人の家が大根の煮る匂いがするのに対して、僕はポピーオイルの匂いのする我が家が気に入っていました。

 その頃の公務員は薄給で、父も絵の具代を賄うため半ドンの土曜日には自宅で近所の子供たちを集めて児童画絵画教室をしていました。僕もその生徒の一人でした。

 行動展の関西支部やその他の会などが集まって創造美術と言うのも立ち上げたのもその頃ではなかったかなと思います。そんな行動美術や創造美術が会員たちに児童画教室を推進していた様で、天王寺美術館で催される展覧会には必ず児童画展が併催されていました。

 府庁では通商課観光係に移ってからは父の場合全く移動がなかった様です。外郭団体には大阪工芸協会などもありました。

 そんな関係からか父は日本民芸協団の理事にもなりました。日本全国、時々は九州や沖縄などの民芸陶器の故郷を訪ねる旅にも参加しています。そして国内に留まらず、海外の民芸陶器や織物などを訪ねたりもしています。アジアや中東、南米などにも及びました。そしてその先々でスケッチを描いています。

 府庁から出張でヨーロッパへ行った事もありました。父の海外旅行は50カ国に及んでいます。

 僕が20歳代の頃には4年半をスウェーデンで過しましたが、その時にも出張の途中、父はストックホルムの我が家を訪ねてくれています。

 僕は40歳を越えてからポルトガルに住み始めました。その翌年にサロン・ドートンヌに入選をしましたが、それを観るためという名目で80歳になった父がパリとポルトガルに訪ねてくれました。そしてポルトガルで1ヶ月を過しました。パルメラで一緒にスケッチブックを広げたのは今では懐かしい思い出です。その頃は未だ下町の古い家に間借りをしていましたが、その後移り住んだ今のマンションのアトリエからはそのパルメラの城を望むことができます。

 僕はポルトガルに住み始める前は宮崎の妻の両親が経営をしていたドライブインをやり始めました。

 妻の両親とも学校の先生でしたが、多くの人を雇ってドライブインとビジネスホテルを経営していました。少し手を広げすぎたのか手が回らなくなり、僕たちが手伝うことになったのです。

 そこにも父はたびたび訪れてくれました。美しい澄んだ水を使っての鯉料理やそうめん流しを出す店でした。父はその鯉のあらいを美味しそうに食べてくれました。僕も鯉料理が得意になりました。

 僕は一日中忙しくて父とゆっくりする時間もありませんでしたが、父はそのあたりに出かけては油彩の風景画を仕上げて帰ってきました。僕などはとても絵になる様なところではないと思ってスケッチにもしませんでしたが、父の手に掛かると立派な油彩作品になっていました。そしてスケッチの帰りや庭からも野草を摘んできては生け花を生けて店に飾ってくれましたが、それは見事なものでした。
 父はこんなことも言っていました。「花屋で買うてきたバラでは絵にならん。茎が揃うてて面白うない。やっぱり、庭で自分で育てたバラでないと面白い絵にはならん。」

 そう言えばスウェーデンでも一緒にスケッチをしましたが、僕は「えっ、そんなとこ絵になるのん」と言ったのを覚えています。ポルトガルでも一緒にスケッチブックを広げましたが、不思議と同じ場所に立っても描く方向が違ったりします。

 僕は父から絵のことについて有言、無言でいろんなことを学んできましたが、やはり育ってきた時代、環境が違うのか、微妙に捉え方が違うのが面白いところです。

 父の風景画で一番新しいのはポルトガルの絵かも知れません。ポルトガルから帰って何年もかけてポルトガルのスケッチを元に油彩を描いていた様に思います。

 僕はポルトガルに移り住んでからは毎年何箇所かで個展をしています。父は日本国内での個展、その殆ど全てを観に来てくれました。個展の準備は宮崎の自宅でするか、実家(父の家)でするかです。準備の途中で備品が切れたりもします。「あっ、セロテープ切れてしもた~。」などと発すると、父はすぐさま自分の自転車を出して買ってきてくれたりもしました。90歳を過ぎた父がです。

 父が94歳の時だったか、僕たち夫婦がパリのサロン・ドートンヌの合間を縫ってミレーの生れ故郷を訪ねる旅をした時、その途上、小雨が降るシェルブールの町角をホテルに戻りかけたところ、日本に居る妹から携帯に電話が掛かりました。それは父が倒れたと言う知らせでした。パリからリスボンに戻る切符をキャンセルして急遽日本へ帰りました。

 手術は巧くいって一時は元気を取り戻したましが、歳も歳、徐々に弱っていった様に思います。
 99歳になった昨年の夏にも倒れました。兄からの電話で「覚悟しておいてくれ。」とのことでした。その後の電話では「少し回復をした。でも意識のあるうちに一度帰ってきてみてはどうか。」とのことでしたので、1ヶ月ばかり帰国することにしました。そして父との時間をゆっくり過すことができました。野田総理からの100歳を祝う表彰状も届き、僕の手で壁に飾りました。

 今年はポルトガルに移り住んでから1番長い4ヶ月ばかりを日本で過し、5月24日のフランクフルト経由の便でようやくポルトガルの我が家に戻ってきました。戻って2日目に兄から電話がありました。父が亡くなったという電話でした。

 その後、妹からメールが届きました。以下、一部を抜粋します。

 「亜基良兄から聞かれたことと思いますが、父は5月28日の午前0時過ぎに、眠るように亡くなっていたそうです。1時間ほど前には話もしていたとのことで、父は自分が亡くなったことに気づいていないかもしれません。兄は父があまりに静かなので様子を見ると息をしていなかったそうです。すぐに心臓マッサージをしながら田島先生に連絡をしたというのを聞いて、まだ生かそうとしていたのかとあきれましたが、兄には黙っていました。兄でなく私が当番だったら、きっと朝まで気付かなかったことだろうと思います。」
 兄と妹の介護には感謝をしたいと思います。
 そして兄の娘たち、看護婦さん、ヘルパーさんたちと多くの人たちに囲まれての最晩年でした。
 でもよく100歳までも長生きをしてくれました。

 僕と父との最後の会話は、ポルトガルに戻る前日でした。父はいつものようにベッドに座ってうたた寝をしていました。手も足も布団から出ていましたので、手足をさわると冷たかったので、さすってやりました。父は「おかあちゃんの手は温うて気持ちええわ~。」と嬉しそうに言いました。僕は「おかあちゃんと違うで~。比登志やで~。」と応えました。父は照れ笑いの様に「ほっ、ほっ、ほっ」と声を出して笑いました。父はその時、どうやら母の夢を見ていたのかも知れません。僕は父の母との夢の時間を打ち破ってしまったことに多少の後悔をしています。

 母は10年も前に亡くなっています。今頃は天国で母との再会に喜んでいるのかも知れません。  

2012年6月12日、ポルトガル、セトゥーバルにて
武本憲太郎の次男、武本比登志筆

 

(この文は2012年6月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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