たとえ、施主が自分の検討不足、盲点があって設計立ち合い以降、着工してからの変更があったとしても、それを施主だけの責任に帰さないのが、プロのやさしさというか、施主に対する配慮だろう。それができたのが、3回くらいしか会ってない、インテリアのTさんだ。彼女はインテリア担当だから、間取りとかそこいら辺には全くかかわっていないのだけど、それでも「いい提案ができなくてすみません。」と言ってくれた。それがどんなにか私の慰めとなってくれたことだろうか。決して施主だけの責任ではない。プロである私たちがついていながらと、自分たちの落ち度であるようにいってくれているのだ。その言葉によって、施主の自分を責める気持ちが軽減される。
ゼロベースでやはり考えてほしかったのだ。他の誰の家とも違う私にとって住みよい家とは?ということを。たとえR+のように高い設計料を払っていないとはいえ、そういう気持ちで取り組んでほしかった。一つ一つの設備やスペースをあって当たり前ではなく、その人にとってそれは必要なスペースか必要な設備かってことを一つ一つ疑いつつ0ベースで考えてほしかった。施主の検討しきれなかったこと見落としてしまったことを、とりあえずお金を払っている人たちに期待するのはおかしいことなのだろうか?気づいてあげられなくってとは思わないのだろうか?
とりあえず、ソファと座卓以外のもちこみたい家具の寸法はすべて、知らせてあったはずだ。ということは、食器棚の置く場所を考えての間取りとなるべきだったはずだ。その場所をどこにするか十分検討しきれなかったのはもちろん施主である私であるが、その落ちの部分にやはり住宅営業、あるいは設計士なら気づいてほしかったものである。食器棚の位置という施主自身がおざなりに考えてしまったところを深く考えてもらえていたら、あの、安易にパントリースペースにしてしまった部分は家具置き場にしたほうが…ともしかしたら気づいてもらえたかもしれないと思うが、そもそも0ベースで考えられていなかったので、無理だったんだろう。まあ、今のところ間取りで失敗と気づいた部分はその部分だけであるが、S氏が全く自分には責任がないことのようにただ「何度も見に来てもらって気づいてもらったよかった。」しか言わないでいることが、また一つ彼に対する落胆の一つとして加わっている。彼は、真に施主のことを考えてあげるということが、できないのではないだろうか?多分、I氏一家に対してはそれはできている。建った家の一か所たりともここはこうだった方がと建った後に後悔した部分は一つもないというのだから、それだけ、気を付けて一つ一つの部分を本当に真剣に考えたのだろう。私の場合は単におざなりだったということなのだろう。箪笥を並べられる部屋の幅にしたいから壁の位置を動かしてほしいと言っても、動かせると言ったり動かせないと言ったり、I氏の言うことともちがったり。まあ、その理由は後で分かった
一家の複数人が住む家と、一人だけが住む家という差なのだろうか?危うく自分の意に染まない間取りの訂正は、4万円を無駄にするだけでどうにかなったが、これから家が建っていく過程において、また、S氏に対する落胆が一つ積み重なった。家電のプロらしいからと、グループラインでちょっと溶かしてしまった部分のあるコードについて質問しても返答がないから、次の日にわざわざ電話をかけて質問した。
多分、「男らしい少年」「少年らしい男」これが最もS氏に対する妥当な評価なのかもしれない。人に頼ってほしい頼られる自分でありたいと思うのは男性性のなせる業である。また、純粋に使命感に燃えるのは少年というか若者の特性だ。しかし、真に人を理解しようとする気持ちとその力量がなければ、それはかえってその気持ちを向けられた対象を傷つけかねない。
あまりにも、きれいで抽象的な言葉あるいはハイムの長所を並べて営業するS氏に対して、どこまでこの人のこと信じられるのか?と私は半信半疑だった。でも、なんども例の変更部分となった箇所以外の訂正を加えているうちに、ちょうどよいサイズの家の間取りが出来上がってきたし、ほかのHMがそれほど熱心でなかったのも幸いしてハイムで家を建てることとなってしまった。
I邸などを見学したことによって、もしかしたら、いい仕事をしてもらえる営業さんかもと期待は高まったが、見通しのない日程設定、何度もSOSだしているつもりなのに気が付いてもらえなかったこと…挙句の果ての「結果オーライ」発言。変わるって約束してくれたけど少しも変われなかったこと。こちらがS氏の立場に立って考えてそれを説明してようやく、やはり自分が施主に感謝できてなかったって気づいてくれたこと…ともう、がっかりな点はたくさんだったのに、また一つそれにがっかりが加わってしまったという残念な気持ちだ。