ウクライナの大統領が、しきりに「ウクライナ上空を飛行禁止区域に設定して欲しい」とNATO・米国に要望している。圧倒的に優勢なロシア軍に制空権をほぼ握られているウクライナの窮状は良く理解できるが、彼の大統領はその要望が「NATO空軍に参戦し欲しい」という要望に等しいことをどこまで理解できているのだろうか?と思ってしまう。
彼の大統領は、一時、「飛行禁止区域の設定」に同意しない米国・NATOを非難するようなことすら言ったようだ。それはNATOとロシアの直接的な交戦になってしまう。それを実施すれば、ロシア軍が近隣NATO諸国の空軍基地を攻撃することに繋がるという理由で、ウクライナの要望に従えないとするNATOや米国の立場を、2つの巨大勢力・巨大軍事力に挟まれた国の大統領であれば当然、先刻承知の事と思えるのだが。
もしかするとそれを十分知った上での、「ロシアへの制裁やウクライナへの支援」をさらに強化するための手段に過ぎないとしても、言葉の使い方がどうも腑に落ちない。ギリギリの微妙なパワーバランスの接点に位置しながら、ただ純粋に、「ウクライナが窮地に陥ればNATOや米国が軍事力をも送り込んで、ロシアを撃退してくれる」と思い込んでいたように感じられてしまうのは自分だけだろうか?。今になって米国やNATOも困惑しているように見えなくもない。
権力者が素朴で純粋であることは、ある意味「捨てがたい美徳」と思うし、ウクライナ国民はその美徳を求めて彼を大統領に押し上げたのだろう。まるで「お伽話のような」好ましい歴史的理想が、こうして2大勢力の間ですり減らされ潰されて行く姿が、今回のウクライナでの戦争が示す悲劇なのだと自分には映ってしまう。その素朴な感覚・感情を持って、ただひたすら「止めてくれ」「助けてくれ」と2大勢力に向かって言い続ける大統領は、戦況の行方や勝敗にかかわらず「ウクライナの人々が選び取った未来への素朴な希望なのかも知れない」と最近は思うようになって来た。