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オリンピックと戦争

2022-03-03 | 日記

ロシアのウクライナ侵攻によって、ロシアとベラルーシの選手がパラリンピックに出られなくなった。国際パラリンピック委員会(IPC)はIOCとは別団体で「オリンピック運動」の主役じゃないが、東京五輪や北京冬季五輪ではIOCとの結びつきが強化され、オリンピック運動と同様に「障害者スポーツ」を通して「機会均等と完全参加」に加えて「平和」の実現をも目指して来たのだと思う。

 今回のように戦争が起きれば、当事国の選手に「敵国の選手とは対戦したくない」という気持ちが生まれるのは当然。さらに、今回の様に大国からの一方的戦争を仕掛けられた場合は、その思いは尚更強くなるだろう。しかし、オリンピック運動が掲げて来た「スポーツを通して平和を実現する」という目標に従えば、戦争の時こそ「敵国同士の選手が純粋にスポーツにおける互いの努力と能力を競い合い、親交と相互理解を深めることによる平和実現を目指す」べき、となるはずだとも言える。

 今回IPCはその考えに基づいて、一旦はロシアとベラルーシの選手の参加を個人として認めようとしたのだと思う。しかし多くの国の選手が「ロシア、ベラルーシとは対戦しない」という姿勢を示したことで、結局は「選手の感情」を優先する判断をせざるを得なくなってしまった。但し、これがIPCから戦争を起こした国への「制裁」と受け取られないよう、IPCは慎重な言葉遣いをしたように思う。

 オリンピックやパラリンピックが「戦争を起こした国」への「制裁」の道具になってしまっては、「オリンピック運動は一体何だったのだろうか?」ということになる。もちろん過去にも第二次世界大戦後には「日本やドイツの参加を認めなかった時期」があり、それは日本・ドイツへの「制裁」だったと考えられている。「オリンピックは平和の象徴だから、戦争を起こした国は参加を認めない」という考え方は、オリンピック運動創設の理念とは少し異なっていると思うが、どうだろうか。

 だが実際には、戦争で殺し合っている国の選手が「敵」への感情を抜きにして、相手国の選手と同じ土俵で純粋に技や力を競うのは難しいだろう。だからこそ、それはオリンピックの「理想」であり、オリンピック運動の創始者はその「理想」を実現したいと、オリンピック運動によって「戦争」という最悪の政治的解決を回避したいと考えたのじゃないか、と思っている。但し、「理想」はしばしば「現実」によって断念を余儀なくされて来たし、これからもきっとそうだろう。

 マスコミ報道では、不参加となった国の選手を「可哀そうだけど」「仕方ない」と言っているのだが、これまでの五輪やパラリンピックで対立する国々の選手を迎えて来たのは、「出れないと可哀想」だからではないことを、しっかりと意義付けておいて欲しい。つまり、「オリンピック・パラリンピックの理念上」は参加を受入れるべきだということ。しかし、その上で今回は「政治的・感情的問題がそれに優った」ことを明確にしておくべきだと思う。

 「平和だからオリンピックが出来る」というのが現実だったとしても、オリンピック運動は「平和だから集まってスポーツをやろう」という催しでは無かったはず、少なくとも「理念」においては。これから先、そのオリンピック運動も変質してしまうのかも知れない。すでに「選手同士が競い高め合うことで親交を深める」という意義は、2番目・3番目に落ちてしまったように見える。そして「メダルの数が国家の威信を表す」催すになってしまったからこそ、「国」を示す国旗を使わせなかったり「国歌」を使わせないという「制裁」で何とか形を整えようということになる。

 いっその事、全ての国旗と国歌の使用は一切認めず、選手名と「好きな曲の演奏」でメダルセレモニーをやってはどうか。もちろん選手の国籍は分かるので、メダル数を国別に数えることは可能だが。いずれにしても、オリンピック運動は国家や戦争という政治権力や争いを超えようとする「平和創出」の運動であって欲しい。そして、一人一人の選手は「オリンピック運動の道具」でも「政治的維新を示す道具」でもないだろう。従って、選手が「敵国の選手と対戦したくない、同席したくない」と思うならば、それをも尊重する道を探しに行くしかない。

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