Sydney Yajima


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エルサレム

2009-12-10 15:50:54 | フリーメーソン
エルサレムには、かつて神殿があった。このことは、旧約聖書に書いてあるとおりで、その神殿は完全につぶされ、わずか 嘆きの壁が残るのみである。
ユダヤ人たちは、そこを訪れ祈りをささげる。
その映像を見た人は多いだろう。
エルサレムはイスラム教にとってもキリスト教にとっても、聖地である。つまり世界の三大宗教がそれぞれ、自らの聖地としてのエルサレムを欲している。

頭では理解できるけれど、感情では理解できないことが世の中には ままある。
ここで言う、頭で理解することとは、三大宗教が仲良くこのエルサレムを割譲、お互いが、仲良く使うこと。感情では、自分たちの力で独占したいということだ。

そもそも、旧約聖書に書かれているように、 神は、ひとつで、しかもその神の正体は 嫉妬の神 である。
日本の宗教観は、漠然としていて八百萬もの神々がいても平気だが、旧約聖書を発端にした宗教観では、決してあってはならない感覚だ。これは、絶対に、あってはならないと、何度も繰り返し 聖書でありとあらゆる言葉で述べられている。述べられている言葉は、そのまま 何世代にも受け継がれ、信じられ、それは、絶対にそうなのだという確信となって人々に植え込まれている。

山ノ神、海の神、風の神、それに商売の神様に、芸能の神様、ついでに宝くじの神様までいる日本や日本人にとって、彼らの宗教観の重さが伝わることはないだろう。おそらく 理解しがたいほど、頑固に映るだろうと思う。

風土の違いが宗教観に及ぼす影響と言うものを考えると、砂漠の民から生まれた宗教観は、もっと 熱くそして、絶対にひとつだという感覚が そこにはある。

フリーメーソンは、もともと、旧約聖書を始まりとしており、絶対神を中心に世界観を説く。つまり、よりユダヤ教に近いかもしれないし、そこから派生した、イスラム教や、キリスト教には受け入れられやすい素地を持っているが、日本人のような、八百万の神々がいるところでは、混乱が生じるだけでなく、まずもって、フリーメーソンが根付く土台となるものがない。
それでも、わずかにフリーメーソンとなる日本人がいる。

日本人がフリーメーソンになろうと決意するに至るには、一体どんな流れになるのだろう?

ふと考えてみた。

神道は ひとつの天照大神から始まっている。実は、とてもユダヤ教に近い。
私は日本人のルーツには、ユダヤ人や、その文化がかかわっていると思う。日本の正倉院の宝物には琵琶があり、多くの飾り細工や螺鈿は、みな、中東から来ている。当時のペルシャからの交易には、間違いなく、ユダヤ人たちがシルクロードを通じてかかわっていた。それは、あちこちの歴史にも垣間見られるし、実際に中国の開封には、シナゴーグまである。その彼らが、日本まで来なかったと考えるほうが、来たと考えるよりも 不自然であるだけでなく、また、正倉院の宝物がそういう彼らからの交易で伝えられたのならば、より多くの証拠になるはずだ。

祇園という言葉が、シオンであると言われる説がある。トンでも話だと言う人がいるけれど、シオンを求める人、日本語読みで、シオニズム 英語ではZionism (ヘブライ語では: ציונות‎, Tsiyonut) となり、ジオンと読める。ジオンはローマ字表記でGIONともなり・・・それは 祇園 つまり ギオンはかなり英語読みかヘブライ読みに近い。平家物語の琵琶法師の抱えていた琵琶は、宝物殿の琵琶を模して作られたもので、その歌は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」から始まるが、祇園精舎は、もしかすると、一般に言われるように、祇樹給孤独園 精舎(ぎじゅぎっこどくおん しょうじゃ、サンスクリット:Jetavana Anathapindadasya-arama)は、中インドのシュラーヴァスティー(舎衛城)にあった寺院で、釈迦が説法を行ったとされる場所・・・ではなく、シオン エルサレムにあったソロモン王の建てたテンプル・・・今の嘆きの壁が残る・・・ことを指しているのではないだろうか?とは、もちろん大胆な仮説である。

しかし、京都の祇園祭がユダヤ教のシオン祭と同じ時期に重なることや、その形や、描かれている絵、日本の神道とユダヤ教徒の不思議な類似点、などなど、偶然と片付けるには、あまりにも一致が多い。

私の祖先は、YAJIMAというが、実に、古臭いことを言えば、諏訪神社とのかかわりがあり近くに矢嶋村という村があり、モリヤ山というイスラエルと同じ名前の山まである。矢というのは、実に重要な意味を含んでおり、フリーメーソンである程度の階級に行くと別のオーダーがあり、そこでは、三本の矢とダビデの星がシンボルとなっている。また 家族にのみ伝えられる不思議な話もある。また矢嶋、八島、矢島、谷島、谷嶋など多くのヤジマ ファミリーがあり日本中に散らばっているが、それらはすべて、この地 諏訪から出てきているそうだ。
なぜ、私たちの祖先は、諏訪の地に来たのだろうか?誰に導かれ、諏訪に定着し、そして今、散り散りになっているのだろう?
ヤジマという名前は、そういう運命にあると 聞いたことがある。
あるとき、一箇所に集まり、そしてパッと散る。それを何度も繰り返す運命の名前なのだそうだ。では、一体何のために、そんな運命を背負っているのだろう?

今からおよそ2000年前の日本に、私たちのファミリーが、おそらく大陸から渡ってきて、血を残し 連綿と続いていることを考えると、ロマンを感じる。

12氏族の系譜などを、ロイヤル アーチの ある階級によって説かれるのを見たとき、思わず、胸がときめいたのは なんだったんだろう?
それは、不思議な自分の中に眠っていた何かが、弾けたような感覚ではなかったか?

しかし、私は日本人であることを誇りに思うのだ。それは、例えある日、自分の祖先が 本当に遠くから来たとしても、だ。一説によると人類は、20万年前に、アフリカで生まれ、6万年前にアフリカの気象変化とともに、世界へ散ったそうだ。

宇宙に真理があるとしたなら、それは、同じものだろう。
その真理は、洋の東西を問わず、時間の過去未来を問わず、男女の別も、また貧富も関係なく、宇宙から降り注いでいるもので、それが ユダヤ教になり、神道になり するのであったならば、十分にそれだけでも説明はつくだろう。

日本が源平合戦ののち、危機になったとき、琵琶法師たちはどこからともなく現れて、琵琶を持って日本中を回った。それは、何百年も続いた。なぜだったのか?
彼らは、日本人の深い心に、ひとりひとり、種を植え付けていった。それは、小さな種だったかもしれないけれど、確実に私たち一人ひとりの心の中に、芽生えている。それが無常観というものであったにせよ、だ。

イスラエルで多くの人が殺し合いをすることに、無常観を感じるのは、私たちがその植え付けられた種を大事に育てているからだ。また、第二次世界大戦で、負けて、そして、多くの日本人が 戦争が心から放棄したいと願っているのも、この小さな種が、無常の響きを奏でているからに違いない。
もし、あなたが、私とおなじ無常観を戦争に持っているならば、それは 私と同じあなたの血の中に眠っている言葉だとは 思えないだろうか。




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