繰り返すと、左上・個の象限は仏教精神と近代を統合できるような、非常に統合的な理性を持ったリーダー・リーダー群がいる。
特に国王陛下はイギリスの大学に留学をして、西洋的近代のこともちゃんと勉強しているのですが、そのまま採り入れるのではなく「ゆるやかな近代化」という発想をしておられて、国王が、ちゃんと環境を守って、国民みんなが幸せになれるように、こういうことをやろうと言った時、やりましょうと国民がすぐに合意できるような基盤になる大乗仏教的な価値観の共有が行なわれている。つまり、左下の集団の象限の条件も調っている。
問題意識のある方のために一言だけ言っておくと、ブータンは何も問題がないのか、スウェーデンは何も問題がないのか、ということですが、もちろんあります。
それについて「ここはどうなんだ」という質問が出てきたら言いますが、「そこはうまくやっているとしても、ここはダメじゃないか」とケチをつけ、「日本は全体としてダメだとしても、こういういいところもある」といったいわば自己防衛的な言い方をしても何の生産性もないと思います。
ブータンもスウェーデンも、別に神業ではないので、抱えている問題はあるようです。
しかし、全体としては、エコロジカルに持続可能な国に向かって、日本よりははるかに先に行っている、全体が合意して計画的・意図的にしっかりと歩みを進めている、という評価はしていいと私は考えています。
そこで、右下象限の伝統的な農村共同体がしっかり残っているところに、右上象限の近代的な技術をゆっくりと入れていくという政策ですから、例えば流通のための国道を作るなどのことも少しずつやっています。
けれども、やること一つ一つについて「環境を破壊しないか。周りの生命を傷つけないか」と慎重に気配りしているようです。
典型的なエピソードとして、渡りの鶴が来る谷の話があります。
その谷のこちらから向こうの村に電線を張って電気を通そうという話があった時、村の人たちに聞くと、「電線を張ったら、鶴が来る時、引っかかって死んだりすると可哀想だから、電気はいらない」と村人全員が合意したというエピソードがあるんです。
それで、援助する国が「では、どうするか」と考え、「では、地下を這わせます」と計画を立て直したら、「それなら、鶴たちは大丈夫ですね。だったら、通してください」ということになって、かなり何年も経って今やっと電灯がつくようになっているそうです。
つまり、村人全員が「私たちの家に電気がつくよりも鶴の命のほうが大事だ」と思っているという国らしいです。すばらしい国ですよね。
でも、日本も江戸時代にはかなりそういうところがあったのではないかと思うんですけどね。
こういうリーダーがいて(左上)、こういう国民性がある(左下)ために、環境を破壊しない範囲で近代的な技術(右上)だけを入れましょう、社会システムの近代化もするけれどゆるやかにやりましょう(右下)、ということが成り立つ。これがブータンの全体像です。
小さいからではなく4象限の条件が揃っているから
全体像の話が先になりましたが、ブータンというのはこういうところにある小さな国です。
スウェーデンについてもブータンについても、こういう話をすると、非常にしばしば、「スウェーデンは小さな国だからできたんだろう」「ブータンは小さい国だからできるんだろう」と言う人がいます。
会として私たちがそういう方たちに答えるのは、「これは規模の問題ではありません。システムの問題です」ということです。
さらに私個人の考えを言えば、しかも、そういうシステムを作ることを可能にする「4つの象限の要素が揃っているからだ」ということです。
だから、4象限の条件が揃えば人口1億2千万の日本でもできるはずですが、今のところ残念ながら4分の1しか調っていないように見えます。
右上象限の、世界に誇っていい、といっても最近ちょっと遅れをとりつつある環境技術はあるのですが。
左下の文化という面では、一定数の市民のみなさんが環境にやさしい生活をしようとか真面目に思ってはいるのですが、「それどころじゃない」と当面の経済・生活に気持ちが集中しているリーダーや市民の数のほうが多くて、残念ながら質量とも足りないと思います。
ただ、「足りない」のはまったく「ない」ということではなく一定程度「ある」ということで、不足分を足していけばいいわけですから、絶望したりあきらめたりする必要はありません。
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