みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

2002年出雲と松江旅行記パート7

2009年01月24日 23時18分57秒 | 旅行記

 わたしは、玉造温泉に宿泊して、その夕方タクシーを飛ばしても宍道湖の夕焼け風景を拝見したかったものの、今回は夕食の時間もあって、無理でした。
 翌日松江に宿泊した時も、運悪く夕日を拝見できませんでした。残念です。

さらに翌日、わたしは地元に近い県に住む友人と久しぶりの再Optio430_02032830_096 会をしました。

 宍道湖の向こうに見えるのは、皆美館です。島崎藤村や与謝野晶子などがここに宿泊した老舗旅館だそうで、わたしはなんだか感慨深く思いました。

 ここで、昨晩、松江藩主七代の松平治郷(不昧公)が好まれた「鯛飯」をいただきました。出雲伝承館の帰り、駅では駅員さんから、何も皆美館に行かずとも、おいしいものはたくさんあるよなあと言われてしまいましたが、わたしは興味があって、どうしても行きたかったのです。

「李白」という名の日本酒を飲みながら、いただきました。懐は寒くなりましたが、味わって感動しました。ここでいただくから意味があるのです。

 ただ、友人が言うのには、このあたりはお魚がおいしくて、回転寿司に多くの小学生までもが通って食べているらしいのです。それでも十分美味らしく、子ども達は魚が好きな子が多いそうです。天然のおいしいものが手軽に味わえるのは、素晴らしいことです。

Optio430_02032830_103_3 松江城へ友人と向かう途中、多くの和菓子屋に寄りました。わたしの友人は茶道を嗜み、裕福なお嬢様育ちで、何事もよく知っていました。

彼女は、一軒の和菓子屋さんで、練りきりを特注できるか尋ねていました。わたしもほんとうは味わってみたく、弟が数年後、ここへ来た時、東京のわたしの元へ送ってくれましたが、その当時は味わえない自分に失望しました。

でも、友人とぶらぶら歩き回って、松江は、茶道が地元に根付き、和菓子屋さんが多く、わたしはとても嬉しい気分ではありました。松平治郷は、10歳の時に石州流茶道をもとに、自らの茶道を完成させたそうです。松江のお茶の消費量は全国平均の5倍。和菓子購買量は全国平均の1.5倍で日本一だそうです。子どもたちも幼稚園から茶道を習うことが多いようです。

弟はここで茶の湯のお誘いを受けて、黙って参加したのですが、割と寡黙な弟は姉のわたしにこう言いました。

「ほんとうの教養というのは、尋ねられたら、そっとこれはこうですね、と答える程度で、ふだんあまり自分から話したりしないことなんだ。お姉ちゃんは、自分から話しすぎだよ。」

 そう注意されて、弟の穏やかな性質が理解できて、こういう弟を仕事上の仲間や上司が理解を示してくれたらいいのにと心から思いました。こんな姉でも弟は何歳になっても可愛いものです。確かに、わたしは教養を見せつけるわけではImg_0024 ないけれど、自分から話したりすることが多いかも知れません。なるべく、人前では控えめにしようと思いつつ、何も言わないと、あいつは馬鹿か利口かわからないと言う人もいて、人間関係は難しいものです。ただ、弟の言うことはごもっともでした。

 松江城は、桜があちらこちらに咲き乱れていて、品種も豊富で、春爛漫という晴れやかな空でした。

 わたしは当初の目的地である、興雲閣に向かいました。途中小さな社があったり、井戸があったり、櫓を横目に過ぎて行き、ここに辿り着きました。

1903(明治36)年の建築。ロシア宮殿風と言われて、きゃしゃな感じの白亜の建築物です。一階の柱は大根島産の火山灰を使用した台石の上に立って、深い軒を支えています。

 1907(明治40)年、皇太子嘉仁親王(大正天皇)の山陰巡幸にあたって、5月ご宿泊所になり、迎賓館としての役割を果たしました。

 1973(昭和48)年からは、内部に郷土資料館が開設されました。大きな凧が飾られていて、圧倒されました。わたしが子どもの頃、ぱんぱんと叩いて遊んだ、カラフルな紙風船を拝見したり、羽子板を見たり、大正琴を懐かしく眺めました。大正琴は、よく、亡き祖母が弾いてくれて、わたしも文部省歌を弾いてみせました。

Optio430_02032830_100_2 上の階を行くと、大正天皇がお座りになったであろうお部屋で、わたしは不敬かも知れないけれど、どんなお気持ちだったか、勝手に想像してみました。原武史氏著の『大正天皇』という本を読んでいたので、感慨は深く、全国を巡幸なさってここまでお出でになった大正天皇は、偉大な評価を得た明治天皇とご性質が異なり、庶民にきさくに声をかけて、一本煙草をあげてしまうようなことをなさる気軽さが、側近の方の心配を誘ったようで、天皇の権威失墜を気にかけた方もいたようですが、わたしはこう解釈しました。

 お部屋を監視なさっていた係りの方を気にしながら、わたしはそっと傍にあった椅子に腰掛けて、バルコニーの満開の桜を眩しく拝見し、大正天皇を演じたら、こう述べたことでしょう。

「ああ、庶民はこんな優雅な暮らしをしてる自分とどうしてこう違うのだろう。自分はほんとうにこれでいいのだろうか」

 それはちょうど、北海道函館で、裕福な生活をしていたOptio430_02032830_099 亀井勝一郎が、子どもの頃、新聞配達をしていたあかぎれのできた手をした同級生から、「君はいいなあ。こんなにも温かく上等な服を着ていて」と無邪気に羨望のまなざしと感嘆の声をかけられて、はっと悩みが生じた(自分だけがこれでいいのか、自分だけはこうしていて・・・)ように、父上の明治天皇とは違って、間近に庶民に接してしまったため、ふと心に葛藤が起きたのではないかと、思ったのです。

 更に、こうして満開の桜を見ていて、吸い込まれるような青空を見上げたら、

「僕は父上とは違う。父上のようにはなれない。僕はこういう重苦しい任務から解き放たれて、白鳥になって空に羽ばたければいいなあ」

と想像したのです。まるで、ヤマトタケルノミコトのように。

 わたしは、大正浪漫という雰囲気が好きです。堅苦しいイメージがなく、日本にもほんとうに自由を謳歌したような文明開化があったような気がしたからです。しかし、この興雲閣は、入母屋の屋根になっていて、和風の意匠を凝らしていますように、全部日本の昔を否定したわけではなかったのです。

 国家の権威者であることは、重い責務があり、孤独でもあります。内面に去来する様々な思いを抱かない人間がどこにおりましょう。わたしは、日露戦争時から徐徐に忍び寄って来る日本の軍国化への足音を予見した繊細で穏和な天皇の叫びが、ここで木霊したかのように思えてなりませんでした。

これは、わたしの勝手な空想です。          Optio430_02032830_073_2            

脳病を煩った方という一言で、片づけられてしまう大正天皇。お気の毒で、その繊細な好みを感じた品物を、出雲文化伝承館からご紹介しましょう。

銀の香呂です。きゃしゃなイメージで、金ぴかとは違って、品があり、愛用なさった方の感性が伺われます。

さて、これから先、松江城へまた戻ります。続きはまた。