伊豆高原女ひとり旅
場所(地域) 静岡
場所(詳細) 伊豆高原
時期 2002年2月1日
伊豆高原女ひとり旅
伊豆高原には、大室山という山に、磐長比女という 木之花咲耶姫の姉君が祀られています。わたしは、久しぶりに女ひとり旅に出かけました。
浅間神社は、日本各地に二千社ほどありますが、珍しく大室山には磐長比売がここだけに祀られています。
最初は、わたしはのんびりと温泉に浸かることしか考えていませんでした。 伊豆踊り子号でひとり平日に列車に揺られてうとうとしていると、網代で青い海が眼前に広がっているのを見て、ああ旅に出たんだなあと実感しました。
沿線には、ちらほらと梅の花が咲き始めていました。列車は平日のせいか、がらがらでした。
伊東駅で列車から降りてバスを待っていると、年の頃60歳くらいの車掌さんがどこまで行くのか、そして切符は何を買うと得か思案してくれて、わざわざ観光所まで尋ねに行ってくれました。
ここの方々はたいへん親切で、土地の人と話しているだけで気持ちが暖かくなります。
天候はとても良く、春の初めの兆しがありました。
そこで、わたしは初日大室山に向かうことにしました。
浅間神社の朱色の鳥居をくぐり、リフトに乗りますと、上に徐々に上がるに連れて、非常に見晴らしが良いことに驚きました。一碧湖はもとより、遠くは初島まで見えて行きます。
三浦半島、房総半島、そして、伊豆諸島まで180度のパノラマで見えるのです。
リフトにのんびり揺られながら、開放感に浸りました。
伊東のゴルフ場、そしてシャボテン公園まで足下に見えます。
頂上で遠くを眺めると、白い雪を頂いた富士山が雲の中から頭を出して綺麗でしたが、あとでお土産屋さんで饅頭を買ったところ、磐長比女は妹を恨んでいたので、この大室山で富士山を褒めると祟りでたいへんなことが起こると菓子袋に記載されていて驚きました。ひとりでやって来たわたしは、双眼鏡を取り出して、誰に話すわけでもなく、まるで山本五十六のように仁王立ちで双眼鏡を握って、周囲を見渡して密かに喜んでいました。
声に出して、「綺麗ね」と言わないで良かったと思いました。
しかし、霊峰と言われるだけあって、空中に浮かん でいるかのように顔を白い雪をいただいた富士山が出しているので、不思議だなあと思って何度か眺めていました。
双眼鏡でシャボテン公園を眺めると、あひるが何羽も歩いたり、池で泳いだりしていました。何とものどかな光景です。人は見かけませんでした。ゴルフ場は、ちらほら数人が移動しているのがわかります。
まだ冬ですから、下は枯れ木でベージュの色合いの中、家々がその合間に見えます。桜並木が3月にでもなれば綺麗に見えるでしょうが、まだ淋しい風景で、遠くの半島や伊豆諸島を眺めて、その雄大な光景に日頃の憂さを忘れてしまいました。
海は青く雄大で、半島はうっすらと緑の薄墨を引いたような様子です。伊豆諸島は、利島、新島辺りまでは何となく見えるような、見えないようなという感じでした。
まさに海と山を目の前にして、日本は海と山に囲まれて、聖書に読む砂漠の広漠とした風景と全く違って、肥沃な感じがします。
霊峰富士山に祀られた木花咲耶姫のお子さん方は、海幸彦 と山幸彦で、記紀神話では弟の山幸彦の血筋が初代天皇神武天皇に繋がる
のです。
新聞の調査では、子どもが自国の歴史や伝統に関心もなく、他国と違って誇りもないことが掲載されて、少し気がかりでした。紀元節はともかくとして、何千年も歴史があるというのは、もの凄く偉大なことだということぐらいは理解したほうがいいと懸念しました。
大室山は、お鉢のようにぐるりと山の頂上がハイキングコースになっています。わたしはのんびりと散策して一周しました。
男性陣が、遠くのほうを指さしながら、「あそこでスキーができるなあ」とか、年輩のご夫婦が初島を眺めて「あそこにリゾートホテルがあるのよ」と語っているのは聞こえましたが、わたしが半周しても磐長比女の祀ってある浅間神社には誰も 足を運びません。
昔は噴火口でしたが、今は芝になって、アーチェリー広場になっています。誰も遊ぶ人は寒いせいかいませんでした。
途中、古い石像があり、ここが昔から特殊な祈りの場だったことは推察されます。
間近に新しい石碑で、「伊豆は日のしたたるところ花蜜柑」という鷹羽狩行の俳句が刻まれてありました。俳誌「狩」の俳人です。
伊豆高原は別荘地でもあり、わたしの昔の知り合いが遊びに行っていたという話を思い出しました。今はからっとしていますが、昔は様々な神話や伝説の場であり、わたしは異様な感じを歩いているうちに感じました。
海の反対側は、山の谷間になっており、下は畑があります。山々の深い緑の中に薄日が差し込んで、陰影を山々につけていました。
山の様子はいささか隠微な雰囲気があり、海側が 人間の表の顔なら山側は人間の裏の顔のような印象を受けました。
日本という国は、緑豊かで穏やかな国民性がある反面、昔は因習に捕らわれ、湿った陰に籠もった国でもあったと、歴史を振り返って思いを寄せました。
そうこうしているうちに大変急な斜面を降りることになり、ボストンバックを持ったわたしは滑るのではないかと焦りました。
また歩いていくと、お釈迦様とその弟子たちの石像があり、この土地の人が毛糸の帽子やスカーフなどを巻いていました。石像の手元は印を結んでいて、仏教の篤い信仰が窺われます。
これは、江戸より前の昔のこと、湯河原の町のある男性の9歳になる娘さんが妊娠し、無事出産できるようにと石像を作り、力自慢の兄弟がわざわざ富士の見えるこの山まで運んでくれたそうで、無事娘さんは出産したのです。今なら強姦されたのではないか、幼児虐待ではないかと胸が痛みました。
お釈迦様方の像が非常によくできていて、後ろから 見てみたら、まるで大人の人間の男性が四人背中を見せて座っているようで、まるで生きているような様子だったため、非常に驚きました。肩の線と背中の大きさが正面から見た時よりも非常にリアルなのです。目の前には白い富士山が綺麗に浮かび上がって見えています。壮大な感じでした。
マルコ・ポーロが日本を「偶像崇拝の国で、民は穏やかで金(きん)をふんだんに用いて宮殿を飾っていて、大きな真珠がたくさん取れ、誰も盗むことのない国」と『東方見聞録』に記載した通り、確かに偶像崇拝であるが、庶民が願いを込めて造った仏像を冷笑はできず、その心持ちに素朴な信仰の純化した姿を目にした思いでした。
木花咲耶姫の宿る富士山を嫌ったなら、どうしてここに祈りの碑を置いたのか不思議でしたが、磐長比売はこの山で子どもを産んだそうで、安産の神の山として知られているのです。詳しいことは調べないとまだわかりません。
浅間神社は、鳥居の朱が薄れて非常に寂れた感じの趣で、祀られてあるお宮まではまた急な坂を下りていかねばなりませんでした。
怖い思いをしても磐長比売を同性として、その鎮魂のためにも祈らずにはいられず、降りて行きました。
磐長比売は、ニニギノミコト(天神アマテラス大御神の孫)が美しい草木の神である木花咲耶姫だけを召されて、自分は実家に返されてしまったので非常に呪ったそうですが、いったいどんな方が祀られているか、誰も行かないのに少し怖い気もしましたが、神社のほうへも行きました。
磐には草木がその磐を破って育っていて、まさに植物の生命力逞しい姿を目のあたりにして見て、恐ろしいほどの力を感じました。そして、その窪んだところに祠がありました。
扉が閉まっていましたので、がらりと開けて、鈴を鳴らして昭和46年の奉納されたお賽銭箱を見て、前を見たところ、更に幣の下がっている木の格子箱に中に何か見えます。神道では正式に何というか知りませんが、よく除いて見ると、青銅でできたような仏様が見えたのです。
ご神体は鏡ではないかと思っていたので、あれ?と思いましたが、目元を「の」の字のように大きく弓なりにカーブさせて、思い切り無邪気に笑って静かに立っておいででした。そう言えば、外の祠の近くに、もう字も薄れて見えないほど昔に建てられたのであろう碑の横に、「大菩薩」という文字だけがくっきりと見えたので、ああ、姫は菩薩になられたのか、と驚きました。神社だが、仏教の香りがするのでした。由来は今時点ではわかりません。それにしても、姫は誰にも知られず、こうして微笑んでいるなんて、と胸が熱くなりました。
白い蝋燭がもうずいぶん灯されていない様子であり、お菓子が置いてあったからいいようなものの、姫は淋しくないのかなと、その夜は風呂場で思い出しては涙がこぼれて来ました。これは余談ですけれども。
わたしは話すと止めどもないので、テレパシーで姫に話を送信し、現皇太子殿は、今はオランダの皇太子殿下の挙式に列席なさるためにオランダにお出かけで、日本人男性に少しももてなかったわたしは今度アメリカ人の男性と「夜明けしたら珈琲をいかがですか?」(単にお茶だけということだが)と電子メールで誘われてしまう時代なんですよ、木花咲耶姫もあれから自分の子どもではないなどと疑われて亡くなってしまったし、誰かを恨んでもしかたないですよ、などと話をして来たのでした。
観音様のような姫を見て、心が晴れ晴れして下界へ リフトで降りました。
白洲正子さんが、家の中に「仏様」という額を飾っておいででした。死ねばみな仏、天台宗ではそうだったと思います。そう思って、女性は瀬戸内寂聴さんもそうだけれども、「ほとけ様」には「水」をかけたいというほど慕っている方が多いようです。
ただし、「フォー・エバー・ラブ」(Xジャパン)の曲が下から大きな音で響いて放送されていて、またこんな浮世離れしたところにまで小泉首相の顔が浮かんで来て、今は国民的なアイドルだからなあと思いつつ、田中真紀子外相が更迭され、支持率はどうなるのかなあとか、ゆらゆら相模灘の紺碧と半島の緑を目にしながら、海の向こうはやはりまだ国境のある時代だから、日本も内部争いしている間に、東洋の真珠のように綺麗な国なのに存亡の危機に見舞われるんだろうなあと、漠然と不安を感じました。
大室山から下山して、池田二十世紀美術館に行きました。
わたしは常設展の外国の著名な作品をほとんど誰もいない状態でゆっくり鑑賞しました。
ダリの絵の「ビーナスと水兵」を見て、ダリの私邸のプールは確か奇抜な形をしていたなあ、男性の性器を形作っていたなあとか、ムンクはナチスの前で沈黙を守ったなんて、GHQの占領時代の小林秀雄みたいだなあとか、あれこれ思いを馳せながら見て回りました。
ココシュカの「アルジェリアの女」は性衝動を抑えられない情念が見えると解説に書いてあって、そう言えば、受験生があの青春期に偏差値を気にしてがりがり勉強するなんて、スポーツで昇華でもしないと、ただの青虫みたいに淡泊な人間しか合格できないシステムだと誰かが過激な発言をしていたなあと思ったり、あれこれ頭にいろいろな思いが巡ります。
亀井勝一郎が青春論でプロテスタントの禁欲的な教えに対して、久米の仙人が女の足の脛を見て天から落ちた話などを盛り込み、いかに若い頃宗教的な倫理感と性との衝動との相克で悩みがつきないか語っていたので、人間の欲望は芸術では永遠のテーマなんだなと思って眺めていました。
シャガールの青を見て色彩が綺麗だけれども、結婚をここまで美化できるのも凄い、ファンタジーかなあなどと思いながらも、わたしの友人がこのシャガールが好きで、非常にご主人を愛しているので、彼がいなくなったら生きていけないと話していたのを思い出しました。
ブラマンクの作品は「教会と花咲く木々」の一点だけでしたが、わたしは高校時代にこの人の絵が好きだったので、結構暗い性格だったのかな?などと、今思うと思えなくもないと思いました。ただ、この筆の動きと黒が印象的でした。
ボナールの絵の淡い色彩とのどかな風景には心休まる思いで、しばらく眺めていました。
ジャン・コクトーの絵は、「女は従順なのがいい」という題名に興味を持って眺めると、確かに男性の横に女性が連れ添っている感じでした。NHKホールの休憩室に「わたしの耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ」(堀口大學訳)という大きな絵画が飾って、眺めています。貝というのも、計算であとどんな種類が発見されていないとかわかるそうで、文化人類学と相関性があると、川田順造さんたちが話していたな、と思いました。
ジャン・コクトーは同性愛者で、この間ノルウエーだったか、政財界の大物男性同士の結婚がニュースになったようだと思い出しました。話題の「世界が今百人の村だったら」で、随分同性愛者が世界に多い数字だったため、友人が驚いていました。そういうことも世の中ありなのねえと意外でしたが。日本も戦国時代は武将が若い小姓を連れていったが、そう考えると、「ベニスに死す」という美少年に恋する老紳士の映画の話もたいへんリアルです。
キスリングの「女道化師」をしばらく見て、赤い色の服と緑の弦楽器という色合いの珍しさを楽しんで、柔らかなうつろな視線の行方を想像してみました。世の「移ろい」に対するかすかなあきらめかなあ、などと思っていました。
北村西望の「喜ぶ少女」というブロンズ像は、顔の表情が先ほど見た、大室山の磐長比売の像のお顔にそっくりで、思わず葉書を買ってしまいました。何とも、無邪気で無垢な笑顔なのです。こういう子どもの表情を像にできた北村さんはどんな方かな、ほかの作品も見たいと思いました。あとで知ったのですが、実はあの有名な長崎の平和像の創造者でしたね。
そうこうして勝手に気ままに見学した後、ホテルに宿泊しました。ホテルは割と空いていて、洒落た清潔感のあるプールで、久々にクロールや平泳ぎで30分ほど、自分専用のプールのように、独占してのびのびと泳いでいました。まるで豪邸の主みたいな気分でした。ソニーの亡き盛田昭夫さんは、自宅のプールで時間があればよく泳いでいたそうですが、健康の秘訣は無理のない絶え間ない運動かと、あらためて最近運動不足だったことを痛感しました。でも、一般市民のわたしは自宅にプールもないし、面倒でプールまで行けないのでした。体力は、今蓄積したものが次の年代に響くので、無理なくしないといけないと思いました。そして、階下の温泉でしばらくひとり身体を温めて、のんびりと静かな時間を過ごしました。
夕飯はフランス料理でしたが、わたしは胃を壊していた ので非常に辛かったのですが、
周りの女性のお客さん方はとても楽しそうに団体で日頃の子育ての憂さを晴らしていたようです。わたしは山もものカクテルを喉ごし良く味わい、夜の暗闇に照明を浴びて浮かび上がる桜の幹を眺めていました。これから開花するので、きっと夜桜をここで見たら気分がいいだろうなあと思いました。桜の幹は開に向けて、木全体が真っ赤になっていると、染織家の志村ふくみさんだったか、随想に書いていらしたので、思い出しました。
昼間、一碧湖の畔を散策していたら、栗鼠が木の幹をするすると駆け登って行ったりする姿を見かけて、久しぶりに可愛らしい動物に出会ったなあと感激しましたが、自然に触れる機会が多いことが、心を豊かにする材料かも知れないと思いました。
今回わたしは行くことができなかったのですが、一碧湖には与謝野晶子と与謝野鉄幹の歌の碑があります。ふたりはここで知り合ったらしいのです。わたしの同僚が、与謝野晶子の初版本「みだれ髪」を持って来ていたので、その本の挿し絵を急に思い出しました。子だくさんで、しかもご主人の欧州旅行費まで執筆代で捻出してしまう女性というのは尊敬に値します。もし、一碧湖にお出かけにな
られる方がいたら、散策なさるといいかも知れません。
山川登美子さんも鉄幹と出会って、薄幸ながら、愛した鉄幹のもとにおりました。晶子の度量によるのでしょうか、死ぬまで、夫がこの女性の傍にいることを認めていました。「夫婦」っていったいどんなものでしょうか。それは、おそらく道徳の教科書には載せられないほど、複雑なものでしょう。
翌日一碧湖の香り美術館に行きましたが、行って見て、展示が興味深くて一時間ほどいたような気がします。思わぬことに野依良治さんの講演会で得た知識がこんなところで生かされるなんてと、感動さえしました。香りのキーワードはブランドと、知的所有権の問題です。ちょっと大げさかなあ。
わたしは伊豆高原一碧湖の畔にある、香りの美術館に 二日目に行きました。ホテルの隣にある瀟洒な建物です。
最初はそんなに期待していなかったのですが、入ってガラスの中の香水瓶と説明書きを読んでいたら、これはもしかしたら現代の発展の鍵になることかも知れないと思って少し興奮しましたし、十分堪能できるおもしろさでした。
香水瓶は、遠くは中東から日本にも伝わっていて、日本のお香も美しい瓶に入れられていました。
さて、香水瓶と言えば、パフューム、女性への贈り物として男性なら飛行機の機内販売でブランド物を求めた経験が一度はあるでしょう。割と迷わず、手軽なので買うようです。
阿刀田高さんが随筆で、香水を買うときはふたつ男は買うものだと言っていました。浮気がばれないように、ひとつを恋人にもうひとつを奥さんにと。無骨な男性が急に買って来たら、妻は要注意ですね。浮気のあとの「移り香」の心配からそうするのですって。
わたしも昔、知り合いの方からいただいた物がありますが、匂いは好き好きがあるので、どうも自分で買わないと駄目なのですが、西洋では女性の体臭に一番近いものがいいと聞いたことがあり、強烈な匂いで人にあげてしまったことがあります。
マリリン・モンローがシャネルの5番を夜寝しなに身にまとって寝たというのは有名な話ですが、誰かがそれはとても自暴自棄でいたましいと言っていました。ただ、わたしは気に入った香水は同じものをよく使っているので、パブロフの条件反射ではないけれど、ある男性とデートした時に同じ香水をいつもつけていたので、その男性は満員電車で匂いがすると、振り返ってしまうと言っていたのを思い出しました。自分の香りを持っているのは、わたしは幸福な気分になりますけれども、モンローもそういう満足感に浸っていたのではないかしら。香水は強烈に自身を主張するものなので、自分が豪華な女性なのよ、と思う、あるいは好きな男性との逢瀬を偲ぶものだったのかも知れないと思いました。モンローは、ケネディー大統領と関係したとかしないとか、暗殺説までありますが、睡眠薬による死亡でした。
最初に香水をいただいたのは、わたしはまだ高校生くらいだった気がするんです。マダム・ロシャスだったと思い出しました。あのカモミールのような枯れた黄色い花柄の細長い箱は見覚えがあります。香りはどんなだったか、忘れてしまいました。
わたしは、シャネルの5番も親からもらったけれども、結局デートをする機会もなかったから、しないまましまってあって、今も箪笥の肥やしになってしまっています。甘い濃厚な香りがして、好奇心から開けて嗅いでみてそのままにしたら、半分以上の液がもう蒸発してしまいました。
香水の香りはもちろん大事だけれども、それよりも香水瓶はその形のユニークさと美しさからブランドが生まれて、とても魅惑的な名前をつけて売り出されました。
ガラス瓶は、ルネ・ラリックや様々な職人が腕を振るって装飾しています。
名前は、「陶酔」「ある夜の想い出」「女性は一輪の花のごとく」「軽はずみ」「また会いましょう」「もっと遅く」「心の傍に」「わたしを想って」「わたしの罪」「渇望」などなど。
おおよそ、スマートに注文しないと気恥ずかしいものばかり。さらりと店員に言って買える男性というのは、どんな人だったんでしょう。女性自身が買っただけなのでしょうか。
アール・ヌーボーなどは凝った装飾で、神話などからヒントを得て絵柄にしたものも多くあります。割と上品です。
「タンタロス」は、英語の「tantalize」(じらす)の意味になったほどの、ギリシャ神話の登場人物の名前の香水です。タンタウロスは神々の王であるゼウスに反逆して黄泉の国へ送られて、水を喉が渇くので飲もうとしても掬えず、果物を手に取ろうとしてもどんどん遠ざかるという罰を与えられたのです。
英語の語源はギリシャ語に通じるんですね。
香水は、だいたいフランス製が多いのですが、それはイタリアのフィレンチェのお金持ちのカトリーヌ・ド・メデッチがフランス王家にお嫁に行った際に大の香水好きで香水職人を引き連れて醸造し、フランスの宮廷で大々的に流行したようです。
香水は、フランスでは女性が最初小さな雑貨や洋服屋から商売を始めたりして、娘とともに母子の作品を作って、女性たちの人気を呼んで大ブレイクしたものもあります。ランバンは、その一例です。ジャンヌ・ランバンとその娘のマリー・ブランシュをモデルとした香水瓶の母子の絵柄は今も変わりありません。
わたしはあまりブランドに詳しくないので、浅薄な知識しかないのですが、女性がその感性を生かして大活躍したのが、フランスの香水やファション界でした。
あまりに母子で店を盛り上げた事例が多く、しかもフランスの宮廷を中心として、やがてブルジョアの世界で香水がもてはやされたので、香水瓶には王家を偲ぶ王冠のボトルや貴族主義的な雰囲気のものもありました。
ゲランの「ミツコ」などはヨーロッパで公爵夫人(伯爵?)になった有名な日本女性の名前でしたから。
異国情緒を好む瓶も多く、「シャンハイ」「ミン・トイ」「チュー・チン・チャオ」という中国風のものなどもあり、わたしは人形風のものは好きではないのですが、当時の人はミュージカルのヒットとともに「チュー・チン・チャオ」は喜んで見たようです。
パリの「あらまあ、どうしましょう」は、スカートが足元に落ちた女性の下半身のガラス人形で、アメリカの「トイレット・ウォーター」は、まるでマルセル・デュシャンの作品ようなトイレの便座そのもので、ちょっと下品でわたしはいやだなあと思ってしまいました。
でも、全体的に、貴族に関係した瓶が多かったから、わたしは日本でも今年は敬宮愛子様ご誕生で、美しいお母様の雅子様とある程度おしゃれに気を配るようなお年頃に愛子様がご成長なさったら、日本などで母子のファションブームが来るのではないか、と思いを
巡らしました。
私自身は、アール・デコのブルーのシンプルなガラス瓶の「パリの宵」のようなデザインが好きです。そう言えば、新しい総理大臣官邸もアール・デコ調らしいですね。
さて、次に香りのそのものについてです。
わたしは伊豆高原の一碧湖の畔にある香りの美術館 に行って、様々な香水瓶をデパートの陳列棚を眺めるように楽しみ、更に下の階で実際に香料を嗅いで見たのでした。
ガラスの箱の中に、いろいろな香りの元が入っていて、嗅げるようになっていました。
記憶がもう曖昧ですが、説明書きを見ながら嗅いで行きました。
昔は、植物からわざわざ少量の香りを抽出したのですが、最近は有機化学の発達により、人工的な香りを製造できます。
ハッカの香りには、メントールのことも書いてあり、野依良治さんの顔がちらつきました。今は歯磨きの香りも有機化学で合成できるし、合成香料の化粧品や食べ物などに使用されることを考えると、凄いものがあります。
昔は、血と策略で得た高価な香料ですが、現代の豊富な物質文化の国には、その貴重さがまだ実感できない人が多いだろうな、と歴史を振り返って思いました。
なにしろ、マッコウ鯨から抽出した龍涎香は、中国の皇帝の寵愛を一身に受けようと后たちが望むので、后に取り入ろうとした(あるいは皇帝に気に入られようとして)宦官たちが中国のマカオを何と貿易商に渡すために権益を手放すほど、入手にやっきになったそうですから、びっくり仰天しました。
また、ハッカについて書いてあった、メントールのことを読みながら、財産権の問題としては、今回の野依さんたちのメントールの抽出法は、日本の知的財産の問題と絡んでくることでしょうし、厚く保護していかないと、日本の将来は頭脳で勝負するしかないですからたいへんだなあと思いました。
国際競争力を高めるために、技術を他国にも教えて いくことは大事なんでしょうけれども、歴史を見ると奇麗事ではないなと言うのが真実です。
わたしは麝香(ムスク)を見て、最初この汚らしい茶色の塊は何かしらと思いましたが、嗅いで見ると、なかなか魅惑的な匂いでした。これは、麝香鹿の香嚢を取ったものです。得体の知れない不気味さはありましたが、この香りに魅了された古代人は多かったし、動物捕獲には限度があるから貴重です。
わたしが真剣に楽しんで確かめていたら、男性がひとり、ここの博物館の女性職員に
「男は香水には興味がないからなあ」
と言って、足早に過ぎて行きました。わたしは、
「あら、もったいない。香りはおしゃれの第一歩だし、見れば楽しいのに」
と心の中で呟いたのですが。
彼には、背のすらりとした長い黒髪の竹久夢二の描くような美人妻がいて、彼女が別室で、自分で好きな香りを調合していたのですが、妻の気のすむまで、なんと30分以上も彼は手持ち無沙汰に立って待っていたのです。
(ちなみに、竹久夢二のもといた家は渋谷のど真ん中、東急ハンズの近くにあったのです。余談。)「ご苦労様」
でも、美しい妻にぞっこんなんですね、羨ましいと思いました。
わたしはひとりなので、気がすむまでマイペースで見ていました。
男性で香水に異常に関心があったのは、ナポレオンだったそうです。妻ジョゼフィーヌに淡い香りの香水を与えたり、ナポレロンがオーデコロンを最初に男性用で作らせたそうですよ。わたしはオーデコロンをつけた男性を好きになったことがありますが、こういう香りに敏感な人は、割と移り気ですから、ジョゼフィーヌもやがてかなり年上だったせいもあるのか寵愛をなくして、強い香りを焚き染めて自分を慰めたそうです。わたしは、彼女の気持ちはなんとなくわかります。
男性の顔に顔を近づけて、かすかに漂う香りはなんとも懐かしく思った記憶があります。ただ、わたしは自分を慰めるために強い香りを焚き染めることはないのですが。
男性が理髪店から帰って来て、すがすがしくなった髪型で整髪剤の香りがほのかにすると、それもなかなか素敵だなと思います。
香料は、壮大な世界史を紐解き、主要香料の原産地を 究明して、その伝播と需要を解明すると、東西の文化交渉の歴史を見ることになり、壮大な世界の大航海時代のドラマを眺めることになります。
香りは、これだけではありません。説明書きに乳香の写真がありました。これは、乳香の取れる樹の先は、女性の乳房の先の乳首にそっくりなのです。とても不思議でした。しかも、これは、キリストの生誕にあたり、乳香(神)、没薬(救世主)、黄金(現世の王)の三つが東方三博士から捧げられたと「マタイによる福音書」に伝えられています。
香料の歴史は、教会の世界でも非常な魔力を発揮したのです。
香辛料は肉を腐らせないために、味わい深くするための欠かせないものであり、キリスト教でも宗教儀礼で大事な媚薬として用いられました。
当時の人たちは、腐るのは匂いのせいであり、悪疫は匂いから発っすると信じていました。したがって、良い香りは天の神に捧げるものだったのです。
香りの美術館は、マリー・アントワネットのことも紹介していました。彼女はフランス最後の王妃で、ギロチン台に消えましたが、その美貌とともにもう少し思慮深い性格で、母親のオーストリアのマリア・テレジアのような聡明な人だったら、歴史は変わったかも知れないけれども、過去に仮定をしてもしょうがありません。歴史は、これからの未来の教訓のために学ぶしかないのです。
彼女は、逃避していたときも香水職人を連れて歩いたと説明書きにありました。職人の技術は、非常に大事なものでした。
つい先日、日本画を描いている知人の個展に行った際に、もう日本画を描くために必要な膠を製造する人がいなくなりそうで、先生方が買い溜めているらしいですよ。
日本の伝統を受け継ぐ職人が減って来ました。
世界三大美人は、楊貴妃、小野小町、クレオパトラと言いますが、こう言うのは日本人だけです。
ただし、楊貴妃はペルシャ系の美人で、身体から特有の良い香りがしたそうです。
開高健だったか、中国か台湾か韓国か忘れましたが、非常に体臭の素晴らしく良い美人がいたと、誰かと対談しておりました。
人間には体臭がありますが、個々違います。
クレオパトラは、うまく香水を使い分け、シーザーやカエサルを虜にしてエジプトを救い、自殺する際も見事に最期を遂げて、さすがのローマ人も彼女には文句のつけようがなかったと言うことですが、彼女はけして絶世の美人というわけでもなく、自分を演出して見せる術を心得ていたそうです。
小野小町にしては、彼女は深草少将に99日間通わ せて、多くの男性の心を弄んだと言われ、卒塔婆小町として寂しく野たれ死んだと言われていますが、誰かが小町は当時の帝の一女房で、自分の最初の夫を忘れることができずに、生涯再婚しなかっただけだという話もあります。
さて、こうしてパネルで楽しんだあとに、ガラス工芸館に行きました。
エミール・ガレなど、様々なガラス工芸が陳列していて、アール・デコやアール・ヌーボーなどの作品がありました。時間がないので、かいつまんで書きますが、日本の歌川広重など浮世絵の影響や、日本の家紋をアレンジして様々な作品をヨーロッパでは生み出しました。
若い女性がよく持っているヴィトンのバックのあのよく目にする模様は、実は日本の市松模様や、家紋から取ったもので、よく模造品が出て、何度も模様が替えられました。
そして、最期は、あの「V」「L」の交差した模様を鞄に入れて、ブランドとして燦然とその名前を後世に残しています。
日本航空のあのJALの鶴のマークも、実はフランス人だがにマークの考案を頼んだところ、「日本には家紋という素晴らしいものがあるでしょう」と外国人に言われてしまったそうで、作られたのです。
日本は今まで自国の文化に関心があまりないというか、疎かにしていましたね。
浮世絵は、当時外国へ郵送される陶器の包装紙に されて、どんどん流れていきました。外国人が包装紙の絵を見て、その美しさに目を見張ったそうです。
ガラスの工芸館にはこうした浮世絵などに影響を受けた様々な作品がたくさん陳列され、中には旧約聖書の貞女と言われた女性をモチーフにしたものまであり、神話にちなんだ作品が多く、とても楽しく拝見しました。
「裸の女が多いねえ」という通りすがりの男性の感想には素直すぎて、笑いましたが、ギリシャ時代から裸体美は注目されていたのです。
日本の万葉集の中に大伴家持が長寿の祝いに頭にかざして歌ったと言われる植物が実は旧約聖書にも有名なもので、その名前がどうも物忘れが激しくて出ません。調べてみても、ただページをめくるだけではわかりませんでした。ヒイラギかなあ?なんだったか。神話には各国共通なものが多くて、楽しいですよ。案外、古代の人のほうがおおらかだったし、似ていた文化を持っていたのかも知れないと思いました。
もうその後のことを書く気力もなく、ただ疲れて帰宅の列車の中でずっと海岸を眺めていて、とうとうごちゃごちゃした家並みを見ていたら、日本はほんとうに狭い国土に人がひしめいているんだなあと思いました。
東京の新橋あたりの高層ビルを見上げていたら、もう企業にサラリーマンがネクタイで鎖のようにつながれていて、自分がとても小さな存在で、日本と言う国が自分の知らないところでどんどん動いているんだなあなどと、夢から覚めた気分でした。
竹久夢二のあの有名な挿絵は、ヨーロッパのアール・デコ の雑誌から影響を受けて、大正時代に大ヒットしたんです。
実は、基盤はジャポニズムの影響から来ていたのに、逆輸入したんですね。
ヨーロッパのアール・デコは、女性が社会進出するのに、あのきついコルセットから解放して、少し短めで腰周り楽なすとーんとしたワンピースを考案したのです。
よく外国の古い映画、たとえば「80日間世界一周旅行」という題だったかな?あの映画でドレスを纏った女性が気絶するし、よく白黒映画の宮廷の女性がばたんと気絶するんですが、実はコルセットの締め付けで呼吸困難になって、倒れるらしいのです。カラー映画だと、「風と共に去りぬ」のビビアン・リー扮する女性が、女中に自分のコルセットを締め上げてもらうシーンがあります。よく見てみてください。
女性のおかっぱ頭もアール・デコの頃のスタイルです。
ただただ美しい海と山などの自然と、昔の天皇がお謳いになった「うまし国ぞ大和は」に関心は尽きると思いました。その安全と平和を願って非力ながら、国連憲章に謳ってあるように「ペンで平和を」という、そういう人間でありたいとエッセイを書き上げました。
新しい21世紀は女性が香水で活躍して新時代のブームを創造したように、女性がはばたき輝く時代でありたい、そう願っております。