一生

人生観と死生観

回顧ーある日別の自分に

2008-03-11 13:19:56 | 哲学
3月11日 晴れ
 穏やかに晴れ上がって春到来を感じさせる日。三寒四温というが春先の天気は変化しやすい。昨日の雨も恵みと思えば不平も出ない。
 顧みると私の生涯は劇的な事件を通じ、本来なら私に不向きな、出来そうもない
方向に導かれた。二男の予防接種事故によって科学の未熟、社会の不合理、弱いものの苦しみなどが、押し寄せる幾つもの大波のように襲いかかってきた。火の粉を払いながら逃げるという状況ではなかった。その源に向かって戦うことを余儀なくされたのであった。こうして20年にも及ぶ訴訟が開始されたのであった。国の制度を変えなければ、罪なき子供たちの生涯の不幸をいくらかでもカバーすることはできない。こうして最終的な勝利の日に至るまで長い道のりを歩み続けることになったのである。その初めの頃、私は自分のやることがどんなに批難されても、この一事だけはなんとしてもやりぬく覚悟だった。私はその意味でいままでと違った自分になる決心をしたのだ。別の自分になったのだから、もう愚痴を言うことも根拠がないし、言う必要もない。これは驚くべき変化であった。
 私がキリスト者であることは別に隠す必要もない。日本の社会ではキリスト教は偏見をもって見られることの方が多く、利益より不利益の方が多いように思われるが、そうではなく、まことの神を信じ、その神に従うことの幸いは計り知れない大きさなのである。回心はおのれの力で出来るわけではない。子どもの事故というようなことにぶつかって、自分の生きる本質や意味を問う立場に気付き、その底に超越者との出会いを直観するー適切な表現は難しいが、このような経験をしたといっておこう。
 回心と言うことは、多分それぞれの人によって違う。他人に押し付けるようなものではない。私のような経験は他の人には味わってもらいたくないが、それは神の領域に属することなので、神はその人にふさわしいやり方でその人を導くだろうと思う。