サイモン&ガーファンクルは、2009年7月に16年ぶりの来日公演を行っている。来日記録によると、初日8日ナゴヤドームでスタートし、東京では10、11日の東京ドームと唯一のドーム公演以外の追加公演が日本武道館の15日、最終公演が18日の札幌ドーム公演となっている。いま手元には、S&G二人が前後に並んでいるアルバムジャケットと同じ写真を拡大した、そのときの来日公演告知広告が掲載された朝日新聞4月21日夕刊と東京ドーム公演のチラシがあって眺めている。この来日公演、さんざん迷った末に聴きにいくことを諦めてしまったのだが、当初から武道館公演は日程的に追加ありと予想していただけに、やはり聴きにいくべきだったと今でも後悔している。実際に足を運んだ知り合いの方によれば、郷愁を超えた実に素晴らしいパフォーマンスだったという。
新聞広告のコピーにはこうある。「あれから40年。あなたは、何処で何をしていましたか?」
サイモン&ガーファンクルは、私にとってすこし遅れて知ったアーティストだ。彼らが活躍した60年代後半から70年にかけてはまだ小学生から中学生、ましてや地方の片田舎だったので、ほとんど洋楽に触れる機会もなかった。TV芸能アイドル全盛時代で雑誌「平凡」や「明星」に代表されるメディアを通しての情報と知識がほぼすべてで、ラジオの深夜放送に耳を傾けることがあったくらい。洋楽体験はじまりのお気に入りは、カーペンターズ「シング」「イエスタディ・ワンス・モア」を筆頭に、ミッシェル・ポルナレフ「忘れじのグローリア」「ホリデー」、ビージーズ「マサチューセッツ」「メロディー・フェア」、そしてポール・モーリア「水色の恋」やレーモン・ルフェーブル「シバの女王」などイージーリスニング音楽。そして最初に生で聴いた外国人アーティストは、「ブラザース・フォア」(文京公会堂)で、休みに予備校夏期講習で上京した際の合間だったと記憶する。いまから考えるとこれは、1960年前後のカレッジフォークブームが70年代後半にリバイバル人気で復活していた時期で、ブラザースフォアもその流れに乗っての来日だったらしい。
さてS&G、新潟の田舎の少年は高校時代までに大ヒットした「明日に架ける橋」「ボクサー」くらいは耳にしていたと思う。本格的に意識したのは1980年ころの大学生となってからで、すでに古典となっていた映画「卒業」のサウンドトラックや1981年の「NYセントラルパークコンサート」で再結成が話題になってからだ。大学生協で気になった彼らの何枚かのレコードを取り寄せて購入し、“後追いで”聴いた。ポール・サイモンのソロアルバム「時の流れに」が唯一リアルタイムで親しんだアルバム、たしか「卒業」はどこかの名画座で見ることができた。「ミセス・ロビンソン」のリズムとメロディーはとてもイカしたなあ、けれどもそれ以上の深まりはなかった。
むしろ、アルバムのバックで洗練された演奏をしていた、リチャード・ティーやスティーブ・ガッドなどがメンバーだった「スタッフ」や「クルセイダーズ」などに80年前後に大流行したフュージョン音楽や、カラッと一見明るい装いのウエストコースト音楽などに興味があったし、同じフォーク系ではカナダからでてきた才女、ジョニ・ミッチェルがお気に入りとなった。すでにイーグルスは「ホテル・カルフォルニア」(1976年)において「ホテルのバーには1969年以降、そのような酒スピリッツ=精神はおいてはいない」と70年代以降の退廃していく社会と時代の流れを予言していたのだから。
ほかにも同時代の新しい音楽は次々と動き出していたようだし、当時の自分にとって少なくとも彼ら=S&Gは少し前の時代の音楽であり、ほかに聴くべき音楽は次々とリリースされていた。なにかと背伸びしてみたい年代だったこともあり、80年後半の毎年7月末には熱にうなされたように、よみうりランドの野外音楽堂オープンシアター・イーストで開催されたJAZZフェスティバル「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」に通い続け、マイルス・ディビスやデイビット・サンボーン、マーカス・ミラー、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、パット・メセニー、そしてロバータ・フラック、ミルトン・ナシメントなど名だたる豪華な出演者のステージを聴き、芝生席から缶ビールのプルリングを開け続けた。せっかくのS&G数枚のアルバムは棚の奥にしまい込まれたまま、30年余りが過ぎ去ってしまう。
そして2009年のS&Gの16年ぶりの来日公演、その前後、ひょんなことを契機に改めて彼らの音楽と向き合うこととなった。久方ぶりに向き合ってみて、彼らの音楽が次代に流されることなく“真に向き合うに値する音楽”であることにようやく気づいたのである。
「あれから40年。あなたは、何処で何をしていましたか?」とコピーにはあるが、私にとってはちょうど十年おくれての1980年以降の出会いとなるから、来日公演から4年後のいま、次にように自問自答したい。
「あれから34年。あなたは、まほろの地で何を考え、何をしてきて誰と出会い、何処にいこうとしているのですか?」
新聞広告のコピーにはこうある。「あれから40年。あなたは、何処で何をしていましたか?」
サイモン&ガーファンクルは、私にとってすこし遅れて知ったアーティストだ。彼らが活躍した60年代後半から70年にかけてはまだ小学生から中学生、ましてや地方の片田舎だったので、ほとんど洋楽に触れる機会もなかった。TV芸能アイドル全盛時代で雑誌「平凡」や「明星」に代表されるメディアを通しての情報と知識がほぼすべてで、ラジオの深夜放送に耳を傾けることがあったくらい。洋楽体験はじまりのお気に入りは、カーペンターズ「シング」「イエスタディ・ワンス・モア」を筆頭に、ミッシェル・ポルナレフ「忘れじのグローリア」「ホリデー」、ビージーズ「マサチューセッツ」「メロディー・フェア」、そしてポール・モーリア「水色の恋」やレーモン・ルフェーブル「シバの女王」などイージーリスニング音楽。そして最初に生で聴いた外国人アーティストは、「ブラザース・フォア」(文京公会堂)で、休みに予備校夏期講習で上京した際の合間だったと記憶する。いまから考えるとこれは、1960年前後のカレッジフォークブームが70年代後半にリバイバル人気で復活していた時期で、ブラザースフォアもその流れに乗っての来日だったらしい。
さてS&G、新潟の田舎の少年は高校時代までに大ヒットした「明日に架ける橋」「ボクサー」くらいは耳にしていたと思う。本格的に意識したのは1980年ころの大学生となってからで、すでに古典となっていた映画「卒業」のサウンドトラックや1981年の「NYセントラルパークコンサート」で再結成が話題になってからだ。大学生協で気になった彼らの何枚かのレコードを取り寄せて購入し、“後追いで”聴いた。ポール・サイモンのソロアルバム「時の流れに」が唯一リアルタイムで親しんだアルバム、たしか「卒業」はどこかの名画座で見ることができた。「ミセス・ロビンソン」のリズムとメロディーはとてもイカしたなあ、けれどもそれ以上の深まりはなかった。
むしろ、アルバムのバックで洗練された演奏をしていた、リチャード・ティーやスティーブ・ガッドなどがメンバーだった「スタッフ」や「クルセイダーズ」などに80年前後に大流行したフュージョン音楽や、カラッと一見明るい装いのウエストコースト音楽などに興味があったし、同じフォーク系ではカナダからでてきた才女、ジョニ・ミッチェルがお気に入りとなった。すでにイーグルスは「ホテル・カルフォルニア」(1976年)において「ホテルのバーには1969年以降、そのような酒スピリッツ=精神はおいてはいない」と70年代以降の退廃していく社会と時代の流れを予言していたのだから。
ほかにも同時代の新しい音楽は次々と動き出していたようだし、当時の自分にとって少なくとも彼ら=S&Gは少し前の時代の音楽であり、ほかに聴くべき音楽は次々とリリースされていた。なにかと背伸びしてみたい年代だったこともあり、80年後半の毎年7月末には熱にうなされたように、よみうりランドの野外音楽堂オープンシアター・イーストで開催されたJAZZフェスティバル「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」に通い続け、マイルス・ディビスやデイビット・サンボーン、マーカス・ミラー、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、パット・メセニー、そしてロバータ・フラック、ミルトン・ナシメントなど名だたる豪華な出演者のステージを聴き、芝生席から缶ビールのプルリングを開け続けた。せっかくのS&G数枚のアルバムは棚の奥にしまい込まれたまま、30年余りが過ぎ去ってしまう。
そして2009年のS&Gの16年ぶりの来日公演、その前後、ひょんなことを契機に改めて彼らの音楽と向き合うこととなった。久方ぶりに向き合ってみて、彼らの音楽が次代に流されることなく“真に向き合うに値する音楽”であることにようやく気づいたのである。
「あれから40年。あなたは、何処で何をしていましたか?」とコピーにはあるが、私にとってはちょうど十年おくれての1980年以降の出会いとなるから、来日公演から4年後のいま、次にように自問自答したい。
「あれから34年。あなたは、まほろの地で何を考え、何をしてきて誰と出会い、何処にいこうとしているのですか?」