ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

淡路五斗長垣内遺跡でひとり言

2017年01月17日 | Weblog
トランプ大統領誕生前、世界中が不安に思っている2017年の幕開け。
卑弥呼が倭国を収める直前の大乱時に、この淡路五斗長垣内遺跡では鉄器の製造が行われていた。
弥生時代後期に、朝鮮半島から運んだ鉄をこの大きな工房で加工して鉄器を造っていたようだ。
強い風が吹き抜ける中、他に客も無く遺跡ガイドの女性が丁寧にマンツーマンで説明してくれた。
周囲は森林に囲まれ燃料確保には十分な地形だが、海からは3km以上ある。
当時は戦乱の為か高地集落に移っていたので、これぐらいの高地は当たり前だったのか。
神話では最初にできた淡路島。まだまだ本格的な発掘調査は少ない様だが、石器や縄文土器も出ている。
海洋航路としても重要なこの島からは、まだまだこれからも古代のメッセージが発見されるのでしょう。

古代とは言えないが、3年前から育ったフグを食べながら、重い鉄塊を担いで鞭うたれ、ふらふらになって丘まで運んでいる自分の不遇の古代妄想にふけってみた。

近江八幡でひとり言

2016年12月25日 | Weblog

秋晴れの様な穏やかなクリスマス。買ったばかりのカメラを乗せて、被写体の多そうな近江八幡へドライブ。
名神もスムーズで、ナビの予想時間通りに到着。市営の観光駐車場に停め、いざカメラの初撮影へと歩き始めた。
観光案内の写真で見る八幡堀にはほんの5分程で着いた。ここ!ここと早速シャッターを切った。今度は望遠レンズでとレンズを交換、
標準レンズをカメラケースに入れ、望遠で2、3枚撮り、もう少し低いアングルで…  カチャ!と船着き場の階段に標準レンズが転がり落ち、まるでスローモーションの様にバウンドして堀の中へ、ポチャン!!プクプクと泡が浮かぶ。

おとといは、買い物に行く途中で車が釘を踏みパンクさせた。気づかずに走った為タイヤの横にダメージの溝ができ、強度が弱くなったので、1本のパンク修理のつもりが結局4本共新品に替える事になって大出費。

今日は、新品のレンズを4、5枚撮っただけで堀の底に…「なんて事だ!」
「私のは金のレンズではありません。」と八幡堀の女神に言えば、返って来ないかな?




始皇帝と大兵馬俑展でひとり言

2016年08月02日 | Weblog
秦の始皇帝は元前221年に史上初の中国統一を成し遂げ最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで12年間君臨した、2200年以上前の始皇帝である。中国を統一しただけでなく、領地を一族世襲していた封建制を中央集権への政治改革し貨幣や度量衡の統一等を行った。その重さの基準である重りが展示されている。始皇帝は万里の長城の建設や修理、兵馬俑や始皇帝陵建設などで、多くの人民に犠牲を払わせ、焚書坑儒と言う「書を燃やし、儒者を生き埋めにする」を実行した。そんな時方士(薬剤師など)の徐福が「東方の三神山に不老不死の霊薬がある」と具申し、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し「広い平野と湿地」を得て、王となり戻らなかった。そこが日本である。
 現在の日本には、徐福伝説が青森から九州まで残されており、徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から2200年前の中国の硬貨である半両銭が発見されている。波田須駅1.5kmのところに徐福ノ宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢がご神体として祭られている。その地は日本書紀では日本の初代天皇である神武天皇の上陸地である。
 大きい、大きい兵馬俑。これを見たいが為に西安に行こうと思っていたのだが、日帰り1500円で見れました。太古の中国人は190cmぐらいあったのかな?どれも大きく、思っていた以上に服や顔の作りが精巧にできている。日本が弥生時代の始まり頃に、中国ではこんな先進文化国だったのだ。縄文時代の倭人に徐福の一族が日本に上陸し、先進文化を伝えたとしたら…、一変に弥生文化が出来上がるだろう。
 古代の真実はどうなんだろう、これ以上考えると私の頭は、始皇帝止?
 




赤穂でひとり言

2016年02月07日 | Weblog
申年は荒れると言われる、2016年の幕開けは、平和、天候、経済、政治…の全てが想像以上に荒れている。昨年訪問したイスタンブールやカイロでのテロに始まり、何十年ぶりの寒さと大雪、年頭からの株価下落、マイナス金利、甘利大臣贈収賄疑惑、桜島噴火、清原逮捕、北朝鮮ミサイル発射…。まだ2か月目なのにこれだけの事が起こり世の中を騒がせている。今年はオリンピックイヤー、その他にも参議院選挙、アメリカ大統領選、電力自由化、G8サミットが伊勢志摩で開催される。何だかまだまだ大荒れしそうな申年になりそうだ。
 そんなこんなで、今年初の遠出は赤穂に向かった。CMでは露天風呂が海と一体になって「誰もが息をのむパノラマ」との謳い文句に釣られて、旬の牡蠣の昼食とセットで、ゆったり贅沢な時間を過ごした。浴槽に沈むとまるで海の中にいるような解放感は素晴らしい。昼食の牡蠣もプリッと引き締まって美味しかった。

 秦河勝が聖徳太子死後の644年、蘇我入鹿の迫害を避けて海路をたどって坂越に移り、647年に80余歳の時この地で死去。その霊を祀ったのが大避神社の創建という。秦氏は聖徳太子のブレーンで、スポンサーでもあったが、太子死後になぜここまで逃げてきたのだろう?蘇我氏の迫害説や島流し説など諸説あるが決め手はない。
 「牡蠣食えばかねがなくなり法隆寺」今度は久々に、聖徳太子が建立した法隆寺にでも行ってみよう。




 



三方五湖でひとり言

2015年06月17日 | Weblog
もし、年数の長さを目で見ることができたら… 70mで約16万年
これは、三方五湖にある水月湖の底に堆積した湖底堆積物の事である。16万年前と言えば地球上にホモサピエンスが出現した頃で、日本列島にはまだ人類の祖先はいなかった頃である。
 どうしてそんな年数が分かるのか?これには水月湖の成り立ちや地形の特殊な条件が偶然生み出した「奇跡の堆積物の年縞」である。(以下Wikipedia抜粋)

 湖底には春から夏はプランクトンの死骸、また珪藻が繁殖して堆積することで白い色の層ができる、また秋から冬は粘土鉱物が堆積することにより黒い色の層が湖底に積みあがっていく。この白と黒のバーコード状の縞模様が1つの組み合わせで1年を表し、これは樹木の年輪と同様で1対の縞模様が1年の時間単位を表すことで、精度の高い環境変動のデータを得ることができる。
 水月湖は水深が深く、湖内に直接流れ込む大きな河川がなく堆積物がかき乱されることがないので、年縞が1枚ずつきれいに積み重なっている状態が保たれている。また、湖底に酸素がないため生物が生息しないことで、年縞がありのまま残っていたこと。さらに好条件となった背景には湖周辺の断層の影響で、湖の底面が堀下がる沈降現象が続いており、湖底に毎年堆積物が積もって侵食して湖が埋まらない。 
 二重底の湖としても知られている。湖水上部(水深0-6m)は淡水、下部(水深7-40m)は硫化水素を含む無酸素の汽水となっている。
水路工事の結果、三方湖からは淡水、久々子湖からは汽水が流れ込むようになり、淡水に比べ重い汽水は湖底に滞留するようになった。この状態で湖の表面に強風が吹いても表層の淡水が攪拌されるのみで、湖底の汽水は滞留したままである。 この結果、下部の汽水は空気に触れることが無く、表層の酸素を含んだ淡水と混じり合うことも無いために、有機物分解によって酸素が消費し尽くされてしまい、2006年時点では硫化水素を多量に含んだ無酸素状態となっている。



往路は京都市内から大原を横切って、直接三方五湖レークセンターを目指し北上した。去年昼飯に食べた大原の蕎麦屋の前を走り、1年って早いなと思った。
目的の三方五湖遊覧船は10時出航なので、時間つぶしに水晶浜海水浴場まで車を走らせた。きめの細かい白い砂で、水晶の名前負けしないきれいな海岸だった。しかし、その向こうには美浜原発の大きな原子炉が堂々と立っていた。
 当たり前だが、いざ乗船して水月湖に浮かんでみても他の湖と変わらず、大きなエンジン音で16万年前への古代妄想はできなかった。船から降りて、今度は三方五湖レインボーラインで上から見ることにした。
 残念ながら、晴れ男の念力も及ばず、霧が出て下界がよく見えなかった。私のミカタ五胡ではなかったようで、次回への期待を残してきた。
しかし、水月湖の年縞は雨にも負けず風にも負けず、過去に例をみない誤差が約5万年で170年程度という精度の高さから、2012年7月13日にフランスのユネスコ本部で開催された世界放射性炭素会議総会で地質学的年代決定での事実上の世界標準となった。(以上Wikipediaから抜粋)

トルコを巡ってひとり言2

2015年02月15日 | Weblog
 イスタンブールは素晴らしい街だけど、ラッシュ時の渋滞には驚かされる。散策するには歩くか、トラム、メトロを使うべきだ。3日間の滞在中は、ツアーバスを途中で降ろしてもらって、目的地まで歩いた。しかし、街中のストリートはなかなか難しい、ローマの様に石畳や坂道が多く歩きにくいし、細くてまっすぐな道は少なく、道路標識も起点にはあるが途中は何もない。そんな道を毎晩徘徊した。
 最初はブルーモスクのライトアップを見に行ったが、途中でキプロスから仕事で来たと言う青年に話しかけられ、写真を撮ってもらい案内もしてくれて、自分は出張なので今夜はパーティーナイトだから一緒に飲もうと誘われた。本当は飲みたかったけど、よくある手口だと気が付いて、お金を持ってきていないと断った。あっさりとバイバイしたので、やっぱりそうだったのかと胸を撫で下ろした。その帰りには近道をしようと思って道に迷った。

 グランドバザールは平日にもかかわらずものすごい賑わいだ。バザールの店員は「ニーハオ」と声をかけてくる。中国人の方がきっと金になるのだろう。我々もトルコ人もイラクも中東アジアの人種に区別はつかないが、かれらも東アジアの3か国は同じに見えているようだ。ジャーミーは同じ様でも、全然違う。

 2日目の夜はハマムに出かけた、ガイドブックに紹介されたジャールオールを探して入ったら、現金オンリーと言われ諦めた。そして、ブルーモスク近くにあったハマムを思い出し、そっちへ行った。きれいなハマムで途中からは貸切となった。愛想の良いケセジが唸るほどの力でマッサージをしてくれ、時々片言の英語で私は貧しいとチップをねだる。40分程で80ユーロと少し高いと思った。貸切だったのでまあいいか。
 ガラタ橋はエジプシャンバザールのすぐ前にあり、金角湾を渡り旧市街と新市街を結ぶ、2階はトラムや車が通り、1階はレストラン街になっており、その欄干からは釣り人が所狭しと糸を垂れている。ガラタ橋を渡り坂道を上がると、ガラタ塔に着く。寒い中、後ろの中国の女の子と話しながら20分ほど並びチケット販売所まで来たが、看板に外人は25リラとなっており、持ち合わせは15リラしかなく、中国人も高いからと2人ともリタイヤ。ガイドブックは13リラだったが、民間経営で値上がりしていた。それよりも、観光地で外人料金が違う事に驚いた。ガラタ塔からさらに坂道を上がっていくと新市街の目抜き通りであるイスティクラール通りに出る。人通りの多い通りの真ん中には赤色のノスタルジックな路面電車が走っている。通りのブランドショップと対照的だった。

トルコを巡ってひとり言

2015年02月14日 | Weblog
 イスタンブール空港に到着してから、エーゲ海沿岸のトロイ、アイワルク、ベルガマ、エフェス、パムッカレを観光。内陸部の中央アナトリアへ、コンヤ、カッパドキア、アンカラからイスタンブールへ一周して、最終はカイロからギザへ行きイスタンブール経由で帰国。15日間のたっぷりトルコを楽しめる旅行だった。
 セルチェク近くにあるエフェス遺跡は世界最大級の古代都市遺跡、紀元前2000年頃には集落があり、アレキサンダー大王に攻略され、その後ローマ帝国の支配下で発展する。クレオパトラ7世も滞在し、聖母マリアが晩年を過ごした街だった。勝利の女神ニケの像があり、「NIKE」の語源で服の形がマークになったらしい。日本では卑弥呼が活躍するころ、ここでは大きな神殿や図書館、5万人が入る大劇場、娼婦の館等が賑わっていたのだ。

 パムッカレは地中海沿岸から内陸に入っていくデニズリにある。「綿の城」と言う意味のパムッカレは、山肌に残った残雪の様に、そこだけ白く遠くからも見ることができる。崖地に石灰棚が真っ白な段々畑の様に広がり、青く見える温泉がその棚田を流れていく。そのすぐ上の台地には、ヒエラポリスと言う紀元前2世紀から栄える古代都市の遺跡が広がる。ギリシャ時代の円柱が底に沈んでいる温水プールが有名だ。当日は台風並みに風が強くてとても寒く、警備する厚着したポリスも寒そうで、本当の「冷えたポリス」だった。

 楽しみにしていたカッパドキアのバルーンツアーはこの2,3日の強風で中止となった。一人でカッパドキアで一番高いウチヒサルの要塞へ登った。360°の展望は、地球でない様な幻想的な奇岩の谷が広がっていた。エルジェス山やハサン、ギュルル山が噴火を繰り替えし、溶岩と火山灰が大地を作り、浸食と風化で削られ、硬い所は黒く残って、キノコの傘の様になっている。ウチヒサル城砦からホテルに帰る途中、丁度日が沈み始め、赤く染まる谷と、遠くに見える富士山の様なエルジェス山がとても神秘的で、見とれてしまい長い時間立ち止った。

大台ケ原で一足早い紅葉でひとり言

2014年10月30日 | Weblog
紅葉だよりを見ると、この辺りでは一番早いのが大台ケ原だった。三重県に住んでいた時に、宮川ダムから桃の木山の家まで1泊で歩いたことを思い出す。行ってみよう!
 10月末の申し分の無い秋晴れ、最近のドライブは雨や曇りで、すっかり晴れ男の自信が揺らいでいたが、今日で一気に取り戻した。
 シーズン中なので、駐車場がいっぱいにならないように早朝に出かけ、朝日のまぶしい中9時前に到着。それでも200台の駐車場は、平日と言うのにほとんどいっぱいになっていた。辺りを見渡すとほとんどの方が高齢者だった。この東大台コースは整備された歩きやすい9Kmのコースと言うことで、家族でも歩けるコースらしい。
 真っ青な秋空の下、8時45分にスタートした。日出ヶ岳→正木峠→牛石ヶ原→大蛇→シオカラ谷の約4時間のコースだ。
 駐車場から20分ほど山道を進むと、山頂の日出ヶ丘に出た。360℃の山頂展望台から尾鷲湾が眼下に見える。案内には富士山も見えることがあるらしいが、今日は遠方は霞んでいて残念ながら見えなかった。ずっと見ていたいところだが、先を急ごう。しばらくして下り斜面になるが、そこに立っているのは青々した樹木ではなく、白くなって恐竜の骨のように見える、立ち枯れしたトウヒ林だった。宮川ダムから登った時の、あの苔むした原生林の鬱蒼とした雰囲気とは全く別世界だ。どうして、こんな事に?気が付くと一面イトザサに覆われた正木ヶ原に出ていた。ルートにある掲示板を読むと、ドライブウェイが出来て登山者が増えたことや、伊勢湾台風で樹木が倒れ、イトザサが増え、それを食す鹿が増え、その鹿が樹皮を食べる事や。酸性雨、温暖化など複合した環境変化がこの立ち枯れをもたらした様だ。幻想的で美しく見える景色だが、森林の墓場の様な不気味さも感じる。
 そこうして歩いていると、急に視界が開けた。そこに立っていたのは…あの神武天皇だ!ひゃ~!どうしてこんな所に?ここは牛石ヶ原。妖怪を封じ込めた牛石があり、その前に大きな神武天皇像が立っている。古事記では熊野に上陸してから、八咫烏に導かれて宇陀まで進んだ事になるが、熊野から吉野までのルートは記載されていない。そこで大台ケ原越えが、考えられるルートの1つとして有力だ。大台ケ原山を開山した古川氏が昭和初期に建立し、尾鷲湾から人力でこの銅像を上げたと言うこと。気が遠くなるような大変な作業だ。
 さて、最近怖いと思った事はなかったが、この大蛇の先端まで降りた時に、突然めまいがしそうで、思わず尻餅をついて鎖にしがみ付いた。滑りそうな大きな岩の上で、左の渓谷を見た途端吸い込まれそうになって、恐いと思った。私の後をTVカメラを持ったクルーの人たちが、おしりから滑り降りていた。
 大蛇からシオカラ谷までは下り道で、コースも終盤で楽勝と…橋を渡るまでは思っていた。しかし、そこからの登りは、コースの最終としては非常にきつい登りだった。コースの順路を逆に廻ったほうが良いと後で思った。
 駐車場に到着したのは、11時30分。つまり、2時間45分で歩いてきたが、最後の登りで時間を費やした。
駐車場の芝生で、相変わらず雲一つない秋晴れの日差しを受け、神武東征のことを考えながら、おにぎりを頬張った。



但馬の古代と天空の城でひとり言

2014年08月12日 | Weblog


3年前に行きそびれた天空の城、竹田城址。今では年間50万人を超える超人気観光スポットになってしまった。平日のドライブでいきなりの誤算、中国自動車の渋滞で市街地から停滞してしまった。昼前に到着予定が、竹田城址の駐車場となる「山城の郷」に着いたのは午後1時を過ぎていた。幸い車は待つこともなく駐車でき、大急ぎで城跡を目指し歩いた。舗装された緩やかな道なので、案内より早くあっという間に大手門に到着した。さっきまで降っていた小雨はあがり、眼下には城下町の竹田市街地が円山川を扇の様にして開けている。丹波、播磨と但馬を結ぶ地理的に重要な戦略ポイントであることがひと目で分かる。和田山JTの方向から、北近畿豊岡自動車道を辿っていくと山の先端に大きな茶スリ山古墳が見える。5世紀前半代の近畿地方最大の円墳で、その大量の出土品からは、当時の大和政権の大王にも強い関係があった「但馬の王」の墓だと言われている。大和政権時代の日本海からのルートや戦国時代の戦略的な要所として朝来地域は但馬で最も重要な地域だったのでしょう。
 今までの旅は、晴れ男の実力で雨にも台風にも負けず晴ればかりだったが、前回大原で「赤いカッパ?」に会ってからすっかり雨に降られている。お陰で、比叡山もこの天空の城も少しモヤって幻想的なしっとりした景色を見せてくれた。
 帰りは、信長の竹田城攻撃のもう一つの目的であった、竹田城管轄の生野銀山に寄った。坑内は常に13°を保っているので、入口に近づいただけで白く冷気が漂いゾックとするぐらい冷たい。総延長は350km以上、深さは880mの深部まで1200年前から掘り続けられた歴史ある銀山だ。坑道を歩くと、ノミ跡も生々しい掘り跡などが見られ過酷な作業だと溜め息が出る。見学が終わり坑内から出てきた時は、すっかり体も冷やされて夏の暑ささえ暖かく感じた。


 最近のニュースで、飛鳥石舞台の近くにあった「都塚古墳」は、ピラミッド型の方墳で高句麗の古墳と類似性がある。また、地域は蘇我氏の本拠地であることから、蘇我稲目の墓と推測されている。元々渡来人との繋がりが強い蘇我氏なので、高句麗出身であってもおかしくはない。
蘇我稲目の父は蘇我高麗(こま)、そして祖父は蘇我韓子(からこ)と言う名前。朝鮮半島との関係が深いと言われても「稲目」ない。

大原・比叡山でひとり言

2014年07月23日 | Weblog
今も昔も祇園祭が暑さを運んでくる。今年から50年ぶりに「前祭」と「後祭」が復活し、2回の巡行が行われる。
祭りを過ぎたら暑くなることを見込んで比叡山行きを計画したが、7月19日は3連休の初日だった事を忘れていた。
名神高速は高槻を過ぎたあたりから、超低速道路になってしまった。当初の京都東ICまで行くルートを変更して、渋滞の中、やっとたどり着いた京都南ICで降り、京都市内を縦断することにした。市内は思ったほど混雑はなく、スムーズに367号線を上がって行った。
大原の手前に八瀬地区がある。「延元元年(1336年)、京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬郷13戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護した。この功績により地租課役の永代免除の綸旨を受け、特に選ばれた者が輿丁として朝廷に出仕し天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことを主な仕事とした。」(Wikipediaより)この郷に住む人々を「八瀬童子」と呼び、比叡山延暦寺の雑役や輿を担ぐ役を務めた村落共同体の人々を指す。昭和天皇の葬送時に紹介があって覚えているが、そのときは残念ながら八瀬童子の輿丁はできなかった。
 八瀬天満宮を超えるといよいよ大原だ、「京都大原三千院、恋に疲れた女がひとり…」思わず歌を口ずさむ。渋滞で少し遅くなったので、早速駐車場近くの蕎麦屋で、蕎麦と玄米のお粥を食べてほっこりした。いよいよ、三千院へと参道を歩く、川端にお土産屋さんと食事処などが立ち並ぶ坂道を登っていくと、石垣でどっしりとした「御殿門」が迎えてくれる。客殿から見える一つ目の庭園が、聚碧園。回廊を渡ると宸殿(しんでん)で、ここから苔むした二つ目の庭園、有清園が続く。庭園に降りると迎えてくれるのは、思わず微笑んでしまう仕草で苔の中で遊んでいる「わらべ地蔵」だ。高貴な人たちが世俗を離れ、仏道に入った寺院らしい清涼で癒される庭だ。
 時間を忘れ、すっかり癒されている間に、雲行きが怪しくなってきた。急いで、来た参道を下っていく。一人で来たのに、すこし赤いけど可愛いカッパが、名物の「きゅうり」をかじってついて来た。
 雷が鳴り稲妻が光る中、奥比叡ドライブウェイを走った。横川・西塔はパスして、東堂を目指した。根本中堂は最大の仏堂であり、延暦寺の総本堂、本尊は薬師如来でその前には、千二百年間灯り続けている「不滅の法灯」が安置されている。広いけど厳粛な空間だった。
 最後は、頂上にある「ガーデンミュージアム比叡」に入った。本降りになってきた雨が、せっかくの眺望を奪ってしまったが、その分、雨に煙る「睡蓮の池」がまるで19世紀に蘇った様な幻想を見せてくれた。池の向こうでさっきの赤いカッパが、嬉しそうに微笑んでいた。