ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

三輪山と甘樫の丘に登ってひとり言

2014年05月20日 | Weblog

「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなむ 隠さふべしや」(巻一・一八 額田王)

三輪山を隠してしまうのですか。せめて雲にだけでも心があってほしい。雲よ、どうかそ­の山を隠さないで。


謎の多い、美人?の額田王。大海人皇子(後の天武天皇)と結婚して十市皇女を生み、その後天智天皇にも寵愛され、天武、天智との三角関係が言われている。もちろん、この二人の天皇はその後壬申の乱で敵味方になる。天智天皇が崩御すると、その息子の大友皇子に対し、大海人皇子が反旗を翻して反乱側が勝利し、天武天皇となる。
 天智天皇は、白村江の戦いでの大敗により、唐からの防御のために飛鳥から近江宮へ遷都した。飛鳥を去る時に額田王が冒頭の歌を詠んだのである。
三輪山に祀られているのは大物主神(おおものぬしのかみ)で、出雲の大国主神と異体同神の神である。どうして出雲の神が倭の主神になっているのか不思議だが、三輪山は古代から神奈備山として崇められた。きれいな円錐形で、今でも御神体として大神神社が祀っている。

大神神社の境内から、摂社である狭井神社へ行き、入山料300円を支払い襷を借りていざ登拝。写真や飲食・煙草などの禁止事項を守って、標高467mで往復4km程の登山になる。
 登り始めると最初から階段が続いて、足が慣れるまでは少しきつい。参道はきれいに整備され、ほとんど階段がつけられており、もっと鬱蒼とした原生林の中を想像していたのだが、まるでハイキングコースの様だった。頂上付近に奥津磐座があるが、それほど大きな岩ではない…。また、景色も全く見えないので長居する人もいない。汗を拭ってからすぐに下山した。登る人に声をかけながら一気に下って、2時間弱で狭井神社に戻った。

 いつもの、そうめん所『森正』で今年初めての冷そうめんと、むかごご飯を食べた。一気に下りてきたので汗が止まらないが、『森正』の庭に吹く風がすずしい。
 帰りに、飛鳥の甘樫の丘に登ってみることにした。標高148mで、すぐに展望所まで登ることができる。高さは低いがその眺望はすばらしい。眼下には、入鹿の首塚が肉眼で見え、飛鳥寺から板蓋宮、遠くに石舞台と飛鳥の里が一望できる。また、大和三山と藤原京も見渡すことができる。
 蘇我蝦夷と入鹿親子がこの丘に邸宅を建て、「上の宮門(みかど)」と称した事や、天子だけが行なうことが出来る舞である「八(やつ)らの舞い」を蝦夷が行うなど、おごりたかぶりが暗殺を招いたとされる。甘樫の丘発掘調査では、堀や武器庫跡と思われる物が発掘されているが、館はまだ見つかっていない。果たして、蘇我家の専横だったのか、NHKの解説のように、むしろ飛鳥の宮を守るための要塞だったのか?登ってみたが分からない…(あたりまえ)
  黒岩重吾は、蘇我入鹿と当時の皇極天皇が通じていたとの説で「天の川の太陽」を書いており、また他に、天智と天武は兄弟ではなく、天武天皇は入鹿の息子だった…と言う話もある。ここ甘樫の丘展望台に吹く風も心地よく、古代妄想に耽ることができる。やっぱり、天皇が蘇我家をアマ(ヤ)カシたのかな?


沖縄でひとり言2

2014年03月10日 | Weblog
2日目、風は弱まり穏やかな天気になった。
朝一番の万座毛は、駐車場のみやげ物屋も開店準備中で人が少なかったし、写真でよく見るゾウに似た岩も静かに迎えてくれた。一望できる海は青く、本土では見れないように透通っていた。しかし、そこへ中国の団体がやって来て、草原はいっぺんに騒原と化した。逃げるように古宇利大橋を目指して車を走らせた。エメラルドの海に浮かぶ一直線の道路が古宇利大橋だ。こんな景色は初めての経験で、あたかも天空を走っているようだ。天空から世界遺産に登録された今帰仁城跡に到着。13世紀頃からの城跡で、石積の城壁の曲線が美しい。すっかり葉桜になった緋寒桜が、城壁の入り口で寂しく迎えてくれた。一番上部に主郭と呼ばれる重要な建物があった場所だ。琉球の三山鼎立時代に、ここから盛んに中国と貿易をしていたんだそうだ。琉球時代は「みゃきせん」と呼ばれていたのが「なきじん」となったそうで、全く読めない地名だ。門を出てすぐの所に、サトウキビをその場で潰して飲ませてくれる茶店があった。「メシメシ!」と言う音に立ち止って見ていたら、声をかけられたので思わず飲んでみたら…旨い!水で薄めただけなのに、嫌みのない甘さで何杯もいける。疲れも吹っ飛んでいった。さて、近くの有名な「美ら海水族館」は半日かかるので、今回はパスしてドライブだけで済ました。道路脇のごみステーションの様な場所に、やたら足が赤くて大きい何かが、ペンギンの様な姿勢でじっとしている。車が近くに来ても動かず、赤いくちばしを上に向けてじっとしている。「やんばるくいな」だ!異様に大きな恐竜の様な足で、胸はよこしま模様、くちばしは赤かった。はっきりと頭の中で「やんばるくいな」と認識できなかったので、後からハンドルを握りながら、思い出しては興奮していた。昼は本部町にある「大家うふやー」でアグーの肉そばを食べた。100年前の古民家を再建した、店内からは庭園が見れるロケーションで、食事も、アグーは脂っこくなくそばもおいしい、団体バスが来る有名店としては満足できた。
 今話題の辺野古周辺を見たかったので、島の反対の方に車を走らせた。辺野古の海を目指して走っていたら。草原のど真ん中に入り込んでしまった。途中に子供たちが遊ぶ集落はあったが、突き抜けるとすぐに海岸沿いの草原になる。海までは少し距離があるが、左右見渡す限り建造物は何もない。少し南下すると、「キャンプシュワーブ」の広い敷地のフェンスに遮られる。総面積は約20.63km²で、およそ1/4は私有地であり、年間23億円を超える金額が賃借料として支払われているとの事。広い海岸を見ながら、今後の日本はどうなっていくのかと想像しても結論は出ないが、この美しい海岸から戦闘機が飛び立つ光景はミスマッチだ。ヤンバルクイナと日米安保を引きずりながら、北谷町にあるアメリカンビレッジに着いた。車から降りるなり、白人、黒人、老若男女の大勢のアメリカ?の人たちに驚いた。名前のとおり、正にアメリカンだ。一画に「イオン」がありミスマッチだった。昼に食べたアグーがまだ胃の中に残っていて、全然おなかが空かない。2度目の国際通りをうろつくが、狭い公設市場はまたまた中国人団体で埋め尽くされ、昨日行った店は日曜日で休み。ホテルから乗ったタクシーの運転手が、「最近は地元の人は国際通りなんかいかないよ、物価が高くて、取りすぎだ!」とぼやいていた。確かにそんな気がする…。みやげ物のシーサーを高いと思うのもそのため?やっとお腹がアグーと言ってきた。

沖縄でひとり言

2014年02月25日 | Weblog
東日本では40数年ぶりの大雪で、東京も積雪で麻痺している。関西でも過去に覚えがないぐらいの積雪があり、列島はすっかり真っ白になってしまった。そんな中、機体に描かれた真央ちゃんが滑っている、夢と希望を乗せた応援機で那覇に向かった。
 1日目 ガンガーラの谷 斎場御嶽 国際通り
 2日目 万座毛 古宇利大橋 今帰仁城跡 海中道路 辺野古 アメリカンビレッジ
 3日目 首里城 道の駅かでな 嘉数高台公園 壺屋やちむん通り 巨人軍キャンプ
レンタカーで沖縄本土を縦横無尽に走る計画だ。とにかく初めての沖縄なので、観光スポットを観ることと、米国基地の現状と辺野古を見ることが今回の目的。いつもの古代妄想は果たしてできるかな?
 想像していた青空の沖縄ではなく、薄曇りで風の強い沖縄がめんそーれ。土曜日とあって、レンタカー送迎場は多くの人でごった返していた。手際よく車も借り早口の説明を受けて、最初の目的地であるガンガーラの谷にナビ設定して12時過ぎに出発できた。
 ガンガーラの谷にはサキタリ洞遺跡があり、そこの2万3千から2万年前の地層から貝製の装飾品と道具、人骨が見つかった。人骨と道具が同じ地層から出土した国内最古の例になるそうだ。この谷から約1km離れた石灰岩採石場で、1970年に発見された人骨化石が1万7千年前の「港川人」で、保存状態が良かったので復元されて話題になった。この洞窟には1万4千年前の人骨も発掘されており、2万年前から人が住み着いていた谷である。数十万年で作り上げた鍾乳洞の途中が崩壊してできた谷で、そこには大きな森の賢者ガジュマルが住んでいた。東南アジアかオーストラリアからやって来た港川人が住み着き、北に向かい本土の縄文人となったのか、それとも…  「お客さん!後をついて来てくださいよ」
 ドライブの途中、いたる所で大きな墓を見かける。亀甲墓(キッコウバカ)と言う。風葬の慣習から石室が大きくなった名残で、形は亀甲と言うより子宮と産道を模したもので、6~8畳ぐらいの大きさがある。墓は個人ではなく男系の一族で共有する、お盆や清明祭には一門が集合してお参りし、墓前で宴会が始まる。沖縄では死後33年で神になると言う先祖崇拝の信仰がある。もう一つの信仰に「ニライカナイ」がある。ニライカナイは海の彼方、あるいは地底にあると概念され、そこは豊穣と命の根源となる異界である。
 斎場御嶽に向かう途中に、ニライカナイ橋が大きなカーブを描いて水平線に消えていく。橋から見える海の彼方に幸せをもたらす異界がありそうに思う。

 琉球の神話では、日の大神が開闢の神アマミキヨに命じて島作りをさせた。アマミキヨはこの命を受け、沖縄本島を作り、そこに9つの聖地、7つの森を作ったとされ、王国が一番重要視したのが斎場御嶽である。記紀の神話とは違う神で、現場がはっきりしている事が興味深い。2000円のガイド料が300円と、ガイドさんの呼び込みが極端な値引きで、思わず苦笑した。

 国際通りは、土曜の夜で賑わっていた。早速沖縄料理の「ゆうなんぎい」に入った。何が何だか分からない人向けのコースがあり、ラフテー、フーチャンプルー、ミミガー、ジーマミ豆腐、クーブイリチ、と郷土料理が揃い、オリオンビールと泡盛古酒が良くマッチした。

こうして初日は、2万年前から始まり、死後の世界と水平線彼方の異界、そして腹いっぱいの沖縄料理で終わろうとしていた。店から出た国際通りは、その名のとおり異国人だらけで、白人、黒人、アジア人と、どこの国に来たのか分からなくなってしまう。「沖縄民謡はどうですか?」「食事はお済ですか?」呼び込みが多い、「おオキナおせワだ!」

 

大津の神々でひとり言

2013年10月02日 | Weblog
天智天皇はなかなか即位せず皇子が長かったので、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の方が知られている。645年、中大兄皇子は藤原鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺する乙巳の変(いっしのへん)を起こす。その後大化の改新により改革を行った。660年には百済が新羅により滅ぼされ兵を送ろうとするが、母 斉明天皇が崩御。663年に白村江の戦いに敗戦した。そして667年4月17日に近江大津宮へ遷都した。
JR大津京駅を降り、ゆるい登り坂を北に歩いて行くと近江神宮に着く。その途中の住宅街に、内裏南門と宮殿回廊跡が発掘された錦織遺跡がひっそりとある。車で来ていたら見逃していただろうと、久々の電車旅に満足していた。
 北から、近江神宮→大津市歴史博物館→三井寺→京阪電車→唐橋前→建部大社→石山寺、この順番で一部京阪に乗車しながら歩いて回った。
近江神宮は大津の町を挙げて昭和15年に創建にされた。境内には漏刻や日時計があり、今年の異常に暑い気候でも正確な時刻を示していた。折り返して、皇子山公園を越えると園城寺(三井寺)がある。三井寺と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に 御産湯に用いられたという霊泉があり「御井の寺」と呼ばれていたからだそうだ。重文の仁王門が迎えてくれる。国宝の金堂や有名な鐘楼など100点を超える国宝や重文の寺宝がある。ここからは京阪電車に乗り、一気に唐橋前駅まで南下した。琵琶湖から流れる瀬田川は、先日の大雨の影響で水量が多く、唐橋を流してしまいそうな勢いで流れていた。ここは京都防衛上の重要地として古代から数多くの決戦場となり、壬申の乱でも最後の決戦場となった。
石山寺は大きな珪灰石の岩盤の上に建っている。紫式部が『源氏物語』の着想を得たのが石山寺で、近江百景の「石山秋月」でも有名だ。国宝の多宝塔をから瀬田川方向に行くと、月見亭が張り出している。今日は中秋の名月、満月と重なる貴重な日だ。月見亭にはお供え物にすすきや野花が添えられている。
 最後は「ちはやふる」の京阪電車に揺られ、じぇじぇじぇの膳所からJRで帰宅した。

聖徳太子は実在したのかとひとり言

2013年07月17日 | Weblog
兵庫県揖保郡太子町に稗田神社があり、祭神は阿礼比売命(アレヒメ)・素戔嗚尊の2神。場所は聖徳太子が開基した斑鳩寺のすぐ近くにある。598年(推古六年)に太子が天皇に法華経・勝鬘経を講和し、播磨国揖保郡の水田百町を賜った。その土地の管理を任されやって来たのが稗田氏である。この稗田氏から、天武天皇の命で帝紀や旧辞(神話・伝説)を誦習した「稗田阿礼」が出てきて、その阿礼の語りを太安万侶が書き記したのが「古事記」である。しかし、稗田阿礼の実存はあやしく古事記の編者が作った架空の名前かも知れない。実際は太子の時代から近かった稗田氏の複数の歌女(うたいめ)が口承してきた事を表しているのかもしれない。そうすると、蘇我馬子と聖徳太子が作り「乙巳の変 」で焼かれたと言われる「国記」の内容も口承していたかも知れない。

蘇我馬子と言えば、物部守屋を宗教戦争と言う名のもとに滅ぼした。物部氏の始祖は饒速日命(ニギハヤヒ)であり、蘇我氏の始祖は武内宿禰で、物部氏のほうが格上の血統だった。これを逆転させるためには、ニギハヤヒの抹殺とニギハヤヒよりも武内宿禰をヒーローにする事で、その結果彼は300歳以上を生きたことになり、特に伝説の多い神功皇后との功績がクローズアップされることになる。
 記紀神話は聖徳太子や蘇我馬子らによって、ある程度自分たちの都合の良い様に創られていた。それを口承した一族が阿礼で、その内容を藤原不比等や天武天皇がさらに参考にしながら書き換えた…と言うことか?
 書写山はロープウェイで登る。「しょしゃさん。しょしゃ…」「言い難いな!」「それなら言うな!」
コの字型に配置された大講堂・食堂・常行堂の「三つの堂」は独特の世界を創りだしており、小学生の時に見て感じた同じ衝撃があった。その大きな甍は実に圧巻であり、今まで登って来た山道の参道を思い返すと、山頂ではなくまるで異次元の世界に到着したようだ。ラストサムライで有名になったが、966年に性空上人によって開かれ、比叡山と同じ天台宗の修行道場の寺である。ここ圓教寺も、元はスサノオが祀られていた。そして次に訪れた廣峯神社は牛頭大王(スサノオ)の総本宮で、この姫路城を見下ろす廣峯山の頂に素戔嗚尊、そして息子の五十猛命が鎮座している。京都の八坂神社も牛頭大王の総本社と言われているが、廣峯から分祠されたらしい。祇園祭は八坂神社の祭礼だが、869年に疫病払いから始まったと言われる。

 「消された覇王」著者の小椋一葉氏の説では、出雲から出てきたスサノオが倭国を建国し、藤原氏によって神話にすり替えられ歴史の闇の中に消されたと言うが、こうしてスサノオの足跡を辿ってみると、スサノオやその息子ニギハヤヒらの実在が肌で感じられる。
コンチキチン♪コンチキチン♪…何度も見た祇園祭だが、このお囃子を聞くと暑い夏がやって来た。今年はすでに暑い夏が居座っており、何とかして欲しい。コンチクショウ!

鍋倉渓と矢田寺でひとり言

2013年06月25日 | Weblog
中韓首脳により、日本の歴史認識への対応を共同し日本外しを画策している。尖閣や竹島、そして慰安婦問題を捉えて歴史認識が間違っていると、反日の具にする。本当に困ったもんだ。しかし、最近の日本人もそんなお隣さんに同化してきている。我欲に走り、自らを正すことなどできない人たちや組織、企業…全柔連、プロ野球コミッショナー、東電、民主党、はたまた、モンスターペアレンツ、クレーマーなどそこらじゅうに同じ様な人がいる。
 縄文時代は集落内に上下関係がなく、皆が円座になる平等社会だった。しかし、稲作とともにやってきた弥生人が作り出したのは、階級と差別だ。その後、律令国家を作り上げることによって、自ずと階級と差別が完成する。近年の経済至上主義がもたらすのは、今までの経済発展や生活水準の向上など貢献は大きかったが、儲けるためには手段を択ばないと言う新たなモラルハザードを生んだように思う。中国の毒ピータンや下水から作る地溝油は極端だが、エンロンの粉飾も利益のためだった。経済至上的に考えれば、中国は大きな市場で絶対に怒らせてはならない。少々ガラの悪いお客さんだが、来店すれば大きな買い物をしてくれる大口顧客なので絶対怒らせてはならない。だから揉み手をして、客の様子を伺いながら、社長!とおもねる商人が成功者になるわけだ。それで良い訳がない。
 しかし、我々の我欲が強いと、そこから選ばれる政治家も国家もそのようになりかねない。武士の様に清貧と言うか、そこそこでも満足できる人生哲学が必要だと思う。大手企業の最高顧問に年間何十億もの報酬が必要?一杯800円の水が出るレストランで食事することが必要?貧乏でも充実して生きて行けないだろうか?
 世知辛い世の中を忘れて、古代人が地上に造った「天の川」を見に行った。物部氏の本拠地である枚方・交野には星がつく地名や天野川など、星座信仰にまつわる物が多いが、それらと同類のものかと想い好奇心を煽った。いやはや…実物のスケールはすごい。人造なんて考えられない景観。夏の三角に位置する星座の巨石も、本当に大きくてとても古代人が人力で動かせる大きさではない。地表に露出した角閃斑れい岩(非常に硬い岩石)が、風化浸食に耐えた渓谷の岩石群がそのまま残って600mもの天の川を造り出した。その神野山の頂上には王塚があり、古代からの信仰の山としては間違いないようだ。
 北斗七星は変わらない、この岩の様に変わらない…近年そんなゆるぎない「観念」が見えなくなってきている。時代の変化とともに美意識も倫理も変化している。心の中の北斗七星は、流れ星になって遥か経済の宇宙の中に消えて行ったのか。
 「はっ はっはくしょん!」見晴らしの良い展望台で妄想していると、さっきまで出ていた汗がひんやりとして寒くなった。昼飯は茶粥を食べて、もう一汗かいた。帰りはあじさいの有名な矢田寺に寄って花見をすることにした。

遅い春でひとり言

2013年05月05日 | Weblog
又兵衛にリベンジ、いざ出陣!
昨年は、早すぎて開花は見れなかった。今年こそはと、胸躍らせて出かけた。
又兵衛桜を見る前に、吉野も見ておこうと、欲張って早く出た。10時ごろに到着したが、平日にも関わらず車や人でいっぱい。交通規制で、金峰山寺の向かいにある如意輪寺側へ通された。如意輪寺付近の中千本は、満開を過ぎて散り始めていた。金峰山寺まで歩いて行った。前回、車で走った参道は、人がすれ違うのも大変なぐらいの混雑でだった。吉野に逃れた大海人皇子(天武天皇)が見たら「オオアマゴオット!」。中千本から見える上千本は満開だった。そこへ向かう巡回バスの停留所は、人で満開だった。吉野の桜はこれぐらいにして、又兵衛に会いに行こう。

宇多のはずれの田園地帯に忽然と現れる。あれ~?何か薄いな。近寄って見ると、盛りが過ぎて散ってしまっていた。「遅かったか又兵衛!」去年は早すぎ、今年は遅すぎ…。又兵衛さんにはよっぽど嫌われているらしい。

 今年の春は遅く、連休前には寒波が押し寄せ、北海道では積雪があった。盛岡の時に、4月29日に安比へゴルフに行ったが雪が積もりだし、ノーマルタイヤで逃げ帰ったのを思い出す。そんな遅い春なのに、桜だけは例年より早かった。
 最後は宇多市室生にある大野寺へ行く事にした。だいぶ寒い所なのだろう、満開だった。樹齢300年の枝垂れが美しい。宇陀川をはさんで、対岸にある大きな弥勒磨崖仏と境内の桜がマッチする。

 やはり、桜は満開がきれい。人生の盛りを過ぎ振り返れば、どんな花を咲かせてきたのだろう?満開はいつだったんだろう…。

恭仁京でひとり言

2013年02月24日 | Weblog
聖武天皇は、藤原広嗣の乱など国の内情に疲れたのか、理由は分かっていないが、740年に藤原不比等が造った平城京を離れ、京都・恭仁京への遷都を行います。この土地が新都として選ばれたのは、時の左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)の領地があったこと、木津川沿いで交通の要所だったことなどが理由と考えられている。

「今造る 久邇の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし」大伴家持 万葉集
「今新たに造っている久邇(くに)の都は、めぐる山や川がすがすがしいのを見ると、なるほど、ここに都をお定めになるのももっともなことだ」と、造営中の恭仁京を見て、大伴家持が褒めたたえた歌です。しかし、この翌年に紫香楽宮へ遷都され、わずか四年で廃都になっています。
 この時代は、藤原不比等の四兄弟が天然痘に没し、三男 藤原宇合(うまかい)の子、藤原広嗣が大宰府に左遷された後、聖武天皇の側近であった、玄と吉備真備らを朝廷から排除するよう上告し、反乱を起こした。その騒乱の中、聖武天皇は東国へ逃避行を開始する。伊賀・伊勢・美濃・近江を回り、その後は山城恭仁京・近江紫香楽宮・摂津難波宮へ転々と遷都した。逃避行なのか、壬申の乱の天武天皇の真似をしたのか、不思議な行動だ。聖武天皇は崩御する前に東大寺大仏を建立し、彼の遺品は光明皇后の希望で東大寺に納められ、一部が正倉院に保存されている。1300年以上経った我々が、年に一度だけ「正倉院展」で見ることが出来る宝物である。
今日は、木津川にある海住山寺の国宝五重塔、岩船寺の重文三重塔、浄瑠璃寺の国宝三重塔、本殿など、聖武天皇と行基ゆかりの国宝づくしの古代妄想の旅だった。晴れ男初めての降雪でおどろいたが、お陰で素晴らしく幻想的な景色を見ることができた。京都と奈良の県境にあるこの地は、木津川が湾曲する平野部で、縄文遺跡もあり、古くから栄えていた地域。家持が万葉集で讃えた通りのすばらしい土地だった。暖かくなったら、岩船寺と浄瑠璃寺を結ぶ当麻の里の小道を、石仏探しでもしながら歩いてみたい。きっと心のキズが癒せるでしょう。



宇治でひとり言

2013年01月10日 | Weblog
寒い日々の中で2013年は始まった。師走の選挙で安倍政権が動き出し、市場は期待感で株高、円安の年明けとなった。お陰で手持ちの豪ドルが上がり、「アベノミクス」万歳と喜んでいる。古代妄想の旅の初めは、寒さに負けず京阪電車に乗って宇治へ出かけた。
 日本書紀には菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は父応神天皇の寵愛を受け皇太子に立ったが、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく、菟道宮(ウジノミヤ)に離れ住み、その後自殺したとある。
 宇治川のすぐ近くにその菟道宮跡と言われる宇治上神社、と宇治神社がある。祭神は菟道稚郎子命、応神天皇、仁徳天皇の三神の河内王族である。宇治上神社は現存最古とされる平安時代後期の造営の本堂と鎌倉時代の拝殿が国宝である。本殿は綺麗な蔀戸(シトミド)に覆われた中に三殿が独立している。境内全体はコンパクトで、地形的な条件か、元が小さな地神だったのか?世界遺産に登録されていなかったら素通りしそうなたたずまいだ。うさぎのお守りやおみくじがあり、今年の干支はうさぎだったかと思う。菟道稚郎子が難波からこの地に来た時にウサギが道案内をしたと伝えられ、「莵道」(とどうーうじ)の地名の由来となった。
 応神天皇在位の4世紀後半は中国が朝鮮半島を圧迫し、秦氏など半島人の大量移民があった。古墳も技術刷新で一挙に大型になる。倭の基礎を築いた時代。
 年明けから中国の尖閣に対する戦術がエスカレートしている。第二次大戦の敗戦国である日本が戦勝国に侵略すれば、国連決議なしに攻撃できるそうだ。前提がおかしいけれど、無理やり教育やロービー活動を利用して世論を有利に持っていく。全く自己中心的な傲慢である。東シナ海や沖縄を取れば太平洋への海路を確保し、世界を支配できると思っているのか?2000年経っても変わらない思想がそこにある。今年もなん中華、蛇な年になりそうだ。

 

湖北にてひとり言

2012年11月25日 | Weblog
昨年は日帰りで湖東三山を訪れたので、今年はひと足伸ばしてゆったりと湖北へ出かけた。湖東三山には数えられないが、その一つである百済寺に近い永源寺を最初に訪れた。十四世紀の開山で、私の中では新しい時代なので由緒などには興味はないが、ただただ紅葉を楽しんだ。愛知川に沿った山裾の細長い土地だが、本道の葦(よし)葺きの大屋根は圧倒的な大きさで、2000人あまりの修行僧が集ったと言われるキャパシティがある。境内は平日ともあって老人施設のロビーの様だが、そこには残念ながら溶け込んでいる自分も居た。紅葉は見頃だったが、三山の方が雰囲気はよかった気がする。さて、今日は竹生島へも行くので長浜港発14:00のクルーズに乗船予定で、昼食は長浜で有名な「親子丼」の鳥喜多を目指して北へ向かった。この辺は今まで一般道ではあまり走ったことがなかったが、彦根、米原、長浜と結構近いことに驚いた。車は長浜港にある公園に停めて、トランクから自転車を取り出し、行列を覚悟で鳥喜多へ向かった。あれ!もう到着?鳥喜多支店と書いてある。誰も並んでいないし、本店で待たされるぐらいなら…と思い、中へ入った。老夫婦がまかなっていて、店内も空いていた。楽しみの親子丼は真ん中に生卵が乗っており少し小ぶりな丼で、あっという間に食べてしまった。評判通りに美味しい丼だった。まだ時間があるので、黒壁スクエアを探索するために自転車に乗った。今や全国の市街地は同じチェーン店やビルで埋まり、どこへ行っても同じ風景に思えるが、長浜は違った。古めかしい黒壁や、アーケード、看板などが独特の雰囲気を醸し出している。スクエアの端には大きな大通寺があり、街と一体化している。明治時代にタイムスリップしてしまう。和菓子屋「納安」でゴブラン焼きを3つ買った。まだ20分も前なのに、団体の最後に乗船して竹生島に向かった。TVの映像で見るより小さい島で、船着場からいっきに急な階段を上る。苔むした国宝の宝厳寺唐門、重文の船廊下、国宝の都久夫須麻神社(ツクブスマ)本殿と狭い斜面にそれらの寺社が配されている。小さな島とは感じない重厚さはあるが、どこからでも見える湖面の景色が、いやが応にも島であることを意識させる。往復の船中では元気な後期高齢者団体の遠慮ない大声で、まどろむことも古代妄想もできなかった。何歳になっても団体旅行で人は童心に帰るのだ。もうすっかり薄暗くなってきた港に着いて、すぐ近くのホテルにチェックインした。入浴後、夕食に長浜市内に出かけた。途中で雨が降ってきたので、目に付いた居酒屋に入った。女将さん相手に飲んでると、何やら大事そうに揺らさずに紙袋を持ってきた男の人が横に座った。出来立ての地酒「七本槍」にごり酒で、栓を開けようとすると吹き上がってくるので落ち着くまで、目の前のカウンターに置かれた。これではまるで「お預け」をくった犬のように、他人の酒だが、話を聞いていても気になって仕方ない。しかも驚いた事にその男の人は、昼食を食べたあの有名な店のオーナーだった。偶然の出会いで話ができて、しかもお預けのにごり酒を気前よくついでいただきご馳走になった。なんと口当たりの良い、ピチピチとろーり、しかしさっぱりしたお酒で、これではいくらでも飲んでしまう。ご当人はにごり酒を飲まれないので、すっかりご馳走になってしまった。最後に行きつけの飲み屋も教えてもらって、行ってみたが鍵が掛かっていて入れなかった?仕方なく近くのスナックに飛び込んだ。こうして長浜の長い夜は、賤ヶ岳七本槍の武将のように戦いが始まったのだ。「ママ、黒壁はいいね!城下町の雰囲気が残っていて趣があるよね」「乾杯~!」