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☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

選ばれし者の責任 ヨハネ10:22-30

2007年09月09日 | Celebration
 あなたの人生が最期を迎える時、周りに誰がいるだろう?愛する家族?友人たち?仕事仲間?そばにいて欲しい誰かが共にいるなら、幸いだ。しかしそれでも「死」の訪れは、愛する者との離別による圧倒的な孤独を人間に感じさせるだろう。そして、その先には二つの世界がある。神様との完全なる離反による暗闇の世界と、神様と共にいる光に満ちた希望の世界。ここでキリスト者は否が応でも気付くはずだ、真の神様と出会っていること、そして心を分かち合う霊の家族が共にいるという奇跡の意味を。

 人生において誰と出会うか、ということは思っている以上に大切だ。人間は触れるものに影響されるからだ。キリスト者は、信仰へ導いた仲間と出会い、神様に出会った。神様の声を聞いたのだ。しかし、その声が聞こえない人がいる。耳を閉ざしている人がいる。救いを得ていない人たちだ。どうして彼らには声が届かないのか。届いている。ただ、彼ら自身が持っている「神様」概念に合致しないという理由で、それを「神様の声」と認められないのだ。二千年前、イエス様を認めなかったユダヤ人たちもそうだった。

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』

 「神はいない」「神がいるかどうか、わからない」「神はいるが、イエス・キリストとは限らない。」救いを得られていない人はこのように語る。それは、単に自分の望み通りの「カミ」を求めているだけではないだろうか。自分にとって一番都合よく、自分を一番正当化してくれる「カミ」を。それは「神」ではなく、自我の投影でしかない。真の神様は、私たち人間の理解、都合、理屈を遥かに超える。全知全能、すべてのものの創り主なる神様だ。創られた人間が、創った神様を理解して超えていくということがあるだろうか。

天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。

 私たちはどうしてキリスト者となったのか。答えはひとつ。神様の声を聞いたからだ。羊飼いの呼ぶ声を聞いた羊のように。羊という動物は、角も牙もなく、雄叫びや吠え声もなく、逃げるにしても鈍足で、方向音痴に加えて帰巣本能も持っていない。羊飼いが共にいてくれなければ、餌を探すことも、生きていくこともできない、ほんとうに弱い動物なのだ。そんな羊の秀でた一芸は、自分の羊飼いの声を聞き分けることができる、ということ。そして羊飼いは、自分の羊を見分けることができるそうだ。羊飼いにとっては、“十把一絡げ”ではない。大切な一頭一頭として慈しみ、命を懸けて守ってくれる。それが羊を愛するよき羊飼い。そしてこれが、私たちと神様の関係。キリスト者は、愛する父なる神様の声を聞き分けることができたのだ。

 人間の罪は、神様との関係の断絶をもたらした。神様との関係喪失は、人間同士の関係破綻にも及んだ。定められた秩序を壊し、カインとアベル、イサクとイシマエルの兄弟関係は神様に背き続けた結果だ。しかし神様は回復のために、敢えて黙され、人間を信頼してくださった。人間の力に任せてくださったのだ。そして数々の苦難を経てヤコブとエサウが和解したことによって、人間は神様との和解に向かい始めた。確かに回復への一歩を踏み出したのだ。

 その後も羊飼いの声を聞かずに弱り果て、滅んでいく羊のために、命を捨てたなだめの祈りの実践者、イエス様は、「わたしがあなたがたを選んだ」、「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」と羊を安心させてくださった。そして、十字架上でその責任を完遂された。ならば、選ばれた私たちの責任は?選ばれた主の羊がすることは?羊のできることは、ただ一つ。無い牙を研ぐことをせず、逃げ足の速い鹿やウサギを真似ることもせず、神様が与えてくださった素晴らしい素質を働かすこと。そして、羊飼いの声を聞き分け、どこまでも付いていくのだ。さあ、主に従っていこう、緑の牧場、憩いの汀まで。

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