人間は、意味のないことを続けることはできない。意味なく生きることはあまりに空しく、生きる意味、人生の価値を見失った時、人は死へと足を向ける。だから「生きる」ために、有史以来、多くの人々が人生の意味を探し続けて来た。『人生の意味とは何か?』を体系化した4人の見識を、参考のために例に挙げよう。
カール・マルクス 経済的平等
アルフレッド・アドラー 権力(力への意志)
ジークムント・フロイ 快楽(感情と感覚の充足)
ヴィクター・フランクル 価値の追求
彼らが打ち立てた人生に対する意味は、非常に高度で卓越している。この四人のユダヤ人は、生涯をかけて人生における思想体系を生み出した。それはメシア不在の地上における生きる意味の追求であった。しかし、神不在の自尊心や向上心は、『非現実的な完璧主義者』に陥らせてしまうのだ。確かに彼らの思想は優れている。しかし、そこには救いがないのだ。卓越した人間洞察力を持っていた夏目漱石。しかし、彼はただ信じ、ただより頼む「信仰」という単純な真理を受け取ることなく、「あぁ苦しい、あぁ苦しい、今死んじゃ困る、今死んじゃ困る・・・」と叫びながら死んでいった。これが神不在の人生の結末なのである。
人生も、そして生きる目的も段階的に進歩する。立ち止まったらそこまでだ。「生きててよかった!」「あぁ、いい人生だった!」「みんなありがとう!!」と思える人生、人間だけが叶えられる『自己実現』の人生に至るための、踏むべきステップがある。
外観的基準からの脱却
財産、異性、名誉、地位などを求めることは、人生の意味にも目的にもならない。理屈ではそれがわかっていても、長年こびりついた価値観が知らないところに残っている。この基準から完全に解放されること。
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 (Ⅱコリント4:18)
無用なプライドの放棄
出自や過去の功績、経済力や権力などに自己アイデンティティを置いていることがある。誇りを持つことは大切だ。しかし、自分を尊ぶだけの自尊心は、自己実現を妨げるものだ。
ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。 (Ⅰコリント8:1-2)
対人関係における他者受容
他人を受け入れる、人の話を聞く態度が、自己実現を先導する。「大人」の定義は、いつもニコニコと穏やかでいて、深く闊達に相手の話を聞き、尚且つ自分の信念を崩さないこと。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。(フィリピ2:3-4)
対神関係における自己受容
自分がしっかりしないまま相手の話を聞いても、双方に負の感情を生むだけだ。他人を受け入れるには、自分の確固たる信念が不可欠なのだ。だから真の神様を知り、見上げる。
・・・とは言え、正直なかなか自己受容できない私たちの現実がある。人間誰しも劣等感を内に抱き、自分の中の嫌な部分、足らない部分、欠けている部分、未発達な部分、苦手な部分を持っている。しかし、創造主たる神様は、長所も短所もそれぞれの目的と使命のために創られた。そこでタイトルになっているイソップ物語の鹿が登場する。
大きく立派な角を持つ鹿がいた。鹿は、泉の水面に映る自分の見事な角に惚れ惚れとしていた。「こんな立派な角は誰も持ってない。これはオレの誇りだ!」と、悦に入って眺めていた。が、視線を少し下に向けると、そこには大きな角には不似合いな細くて貧弱な足が見えた。「もっとガッシリ堂々としたトラのような足があれば、オレ様は完璧なのになぁ・・・。」その時、お腹をすかせたトラに出会ってしまったから、さぁたいへん!! 鹿は一目散に逃げ出した。彼の細い足は俊敏に跳躍し、一気にトラを引き離した。森の中に逃げてホッと一息ついたところ、自慢の角が森の茂みにひっかっかって身動きができなくなってしまった。ジタバタするものの、大きな角は枝に絡み付いて外れない。そうこうしている間に、トラに追いつかれてしまい、結局鹿は食べられてしまいました・・・というお話。
短所と思っていた足が彼の命を助け、長所と思って誇っていた角が鹿の命取りになった。これと同じことが私たちの人生にも言える。これが長所!これができる!と思っている自信が、人生の命取りとなることがあり、これは短所、これはダメだ、と思っている劣等感の原因が、成長を促し、人を育てることがある。だからこそ、神様はそれぞれに長所と短所を与えられているのだ。パウロはこう書いている。
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)
熱帯魚を飼うには、綺麗な水と酸素が必要なように、私たちがこれ等のステップを自分のものとするためには、そういった環境に自分の身を置くことが必要である。それが、聖霊主体の透明な人間関係、悔い改めた人々の集いである教会である。その環境下においてはじめて、私たちは周囲の人々に、福音真理を伝えて行くことができるようになる。これが、この地上に生きる私たちの人生の目的であり、使命なのだ。(睦美)
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