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☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

聖書の読み方 Ⅱぺテロ 1:16-21

2009年08月09日 | Celebration
 先週、アメリカの神父さんたちが、広島と長崎へ謝罪と巡礼のために来日されたというニュースが、日本で報道されていました。その数日後、アメリカ人の6割以上が、原爆を落としたことは間違いではなかったと考えていると言うニュースがCNNで流されていました。アメリカは原爆を切手のデザインにしているくらいですから、一般的に原爆に対する、罪意識はほとんどないと言っても過言ではないでしょう。こういった意識は、現在のイラクやアフガニスタンに対する増兵にもつながっていると思います。

 よく、「キリスト教は戦争を肯定しているの?」、「ブッシュさんって、クリスチャンなんだよね?」などという質問を受けます。私も、以前、ある有名な牧師さんから、「聖書は戦争を否定していない」という話しを聞いたことがあります。牧師からそう言われたら、「あ、そうなんだ」と思ってしまいますよね? でも、イエス様は戦争や、世の中の様々な争い事について、何て言われているのでしょうか?「迫害する人のために祈りなさい」、「あなたにひどいことをする人がいても7の70倍ゆるしなさい」、「復讐をしてはいけません、復讐は私のすることです」、「剣を持つものは、剣によって滅びます」と、イエス様は言われました。さて、イエス様は、戦争を肯定しているのでしょうか? 否定しているのでしょうか?勿論、否定しているに決まっています。

 考えても見てください、イエス様が、核ミサイルのボタンを押されると思いますか? 絶対に押しません。福音は、戦争を明確に否定しているのです。ここのところをクリスチャンは、はっきりと知らなければなりません。この世の悲惨や不条理は、聖書を無視している、または曲解しているが故に起こっている悲劇なのです。これらの誤りに真っ向から否定できるのは、聖書を正しく理解している者だけの特権なのです。今のクリスチャンの多くは、このアイデンティティが欠けているように思います。

 21世紀は、本物が問われる時代です。数千年間にわたって、人々に読み継がれて来た聖書も、人々を騙している大嘘か、神の言葉なのか、そのどちらかです。中間はありません。ですから、聖書を読むことに関しても、本物志向で、正しく、的確に読みたいものです。今まで「何故、クリスチャンが戦争をしているの?」という質問にちゃんと答えられなかったのは、聖書の読み方を間違えていたからです。今日は、聖書の基本的な読み方を、4つのポイントに分けてお話します。


自分の先入観や道徳感を入れないでそのまま読む

 人が「神が」と言った場合、それはどんな神が前提となっているのでしょうか? それは、その神に関する情報を、どこかから仕入れて来て、それに自分の解釈を加えた神概念です。私達クリスチャンが「神が」と言う場合、それは『天地を創造された全人類の神様』のことを言います。ところが、そこに、自分の神、自分にとって都合のいい神、日本人の神、ユダヤ人の神と言うような、勝手な条件を付けてしまうから、おかしなことになるのです。私達の神様は、この世界に生きている全ての人間の神様です。神は、個人の先入観で語れるような存在ではなのです。


聖書の不変性と適応性を理解する

 世の中は二つの対極的なもので成り立っています。光と闇、男と女、陰と陽、プラスとマイナスがあるように、聖書にも、旧約と新約、律法と福音、へブルとギリシア、十字架と復活、死と命があります。そこで、私達が理解しなければならない大切なことは、聖書の適応性と普遍性です。聖書は2000年前のユダヤ人だけに適応されて書かれたものではなく、21世紀に住む私達にも適応されるものです。それは、時代、民族、人種に関係なく、聖書の御言葉は適応されるのです。それと同時に、聖書の言葉は、どんな時も決して変わることはありません。世の中の状況や、環境、読む人の立場によって、変化するものではないのです。

 この聖書の適応性と普遍性を理解することは、聖書を正しく読む上でとても重要です。つまり、聖書の御言葉は一つですが、それを受け取る人側の状況によって、同じ御言葉が、「然り」ともなり、「否」ともなるのです。私達が聖書の御言葉を読み時は、その聖句が自分の現状と、どのように適応するのかを考えなければなりません。ここのところを誤ってしまうと、聖書理解は、非常におかしな事になってしまいます。一つの例をお話しましょう。

 イスラエル民族は、神に選ばれた民族であるにもかかわらず、神に対して非常にかたくなで、神の言葉に従うことなく、勝手に偶像を造って、神に反逆し続けました。その結果、北イスラエル王国はアッシリア捕囚となり、南ユダ王国はバビロンに捕囚となりました。彼らの捕囚生活は70年間も続きました。その状況で、ユダヤ人たちは自らの民族アイデンティティを問わざる得ない状況に陥りました。そこで預言者が現れます。一人は真の神の預言者、もう一人は偽預言者です。

 一人は、「我々は神の選民である!こんなことが何時までも続くわけがない。もう直ぐ解放されるのだ!」と言い、もう一人は、「確かに我々は神から選ばれた民だが、神は必ず悪を滅ぼされる方である、私達は先ず悔い改めなければ、祝福されることはないう!」と言いました。ユダヤ人達はどちらを信用したでしょうか?人々に受け入れられたのは前者で、「悔い改めなければ、私達はここから逃れることができない!」と人々に悔い改めを迫った預言者は迫害されました。その預言者がエゼキエルです。

 確かに神は、ユダヤ民族と祝福の約束をされました。その約束は、決して変わることはありません。ですから、アブラハムの信仰を継承している者には、当然その約束は適応されます。しかし、その信仰(神との約束)を自ら放棄してしまった者に、その約束が適応されるわけがありません。つまり、同じユダヤ民族であっても、その御言葉の前にいる本人の状況によって、御言葉の適応は変わってくるのです。

 これは、私達も同じことです。礼拝メッセージを聞いて、自分の中で引っ掛かった御言葉を取り出すことが、普段私達が行なっているアプリケーションですが、実はこれを続けていても、霊的な成長はありません。言葉は、イエス・キリストです。主体はあくまで御言葉にあるのです。自分が気に入った御言葉をピックするのではなく、御言葉に、自分の現状を正直に照らし合わせ、御言葉と現在の自分が、どのように関っているのかを考えることが、真のアプリケーションです。この姿勢に立った時、はじめて聖霊が働くのです。


自分を弱い立場において読む

 『THE READER (愛を読む人:邦訳)』という映画での話です。10年前に別れた恋人同士が偶然、裁判所で再会しました。彼女はナチスの戦犯として被告席に立たされ、彼は弁護士の卵として、傍聴席にいました。彼女はナチスの収容所で働いていた時に、ある濡れ衣を着せられて、終身刑になってしまったのです。実は彼女は読み書きが出来ない人で、そのことが彼女自身の傷となり、深い恥となっていました。本当は、その訴訟の証根となっている殺人レポートを、「これはあんたが書いたんだ!」と言われた時に、「実は私は字が書けないのです」と言えば、無期懲役の罪は避けることが出来たのです。しかし、彼女は公の法廷の席で、自分が字が書けないことが恥ずかしくて、その恥故に、彼女は自ら罪をかぶってしまったのです。

 このナチス収容所という現実を見た時に、それを意図的に計画した人がいて、その計画に賛同した人がいて、事情を知らないまま従った人がいて、また、そのことを傍観していた人がいました。ナチスの収容所で働いていたドイツ人は約8000人といわれていますが、その中で戦犯として裁かれたのは6人だけです。このことを、神様の目にはどう映るでしょうか?確かに、彼女は大量殺人という犯罪に関っていたことは事実ですから、たとえ彼女がそのことを知らなかったとしても、彼女は裁かれなければなりません。しかし、それと同時に、私は彼女も赦されて欲しいと願うのです。

 収容所で殺された人達側からしてみれば、「死刑だ!」と主張しても当然だと思います。しかし、私達が、このような問題と接する時に、ドイツ側に立って考えるということは、まずありません。このことを思う時、私は、どうして神様は人間を赦すためにこの世に来られたのか? その理由が分かったような気がしました。人は悪を行った以上、悪は悪として裁かれなくてはなりません。と同時に、人は赦されなければならない存在でもあるのです。何故なら、人は人を正確に裁くことが出来ないから。どうしても人間は、人や物事に対して、偏った見方しか出来ず、正しい判断をすることは不可能だからです。

 今月のリビングライフに、『戦時中、韓国の教会は、日本軍に靖国神社参拝を強要され、屈辱な思いをした。この教訓は、21世紀を生きる我々も、同じ危機感を持って臨まなければならない。』と書いてありました。もし、私が韓国人だったら、「日本はとんでもないサタンの国だ!」と思うに違いありません。けれども、韓国の教会が強いられたことと同じことを、日本の教会も強いられたのです。その迫害に対して、日本軍と妥協をした教会もありましたし、勇敢に迫害と戦って、投獄され殺された牧師も沢山いました。ここで真の問題となるのは、日本対韓国の問題ではなく、神側に立つ者と、サタン側に立つ者との戦い、つまり、神対サタンとの戦いなのです。しかし、私達は、なかなかこういう考え方が出来ません。そして聖書を、このような立場で読んでいても、正しく理解することは出来ないのです。

 例えば、ヨセフ物語を読む時に、私達はどうしても自分をヨセフの立場に置いて読んでいます。兄達はとんでもない連中だと思ってしまうのです。このヨセフ物語は、ヨセフの兄弟の立場で読まなければなりません。何故、彼らはそんなことまでしなくてはならなかったのか…と。そういった視点で読まないと、この物語の真理は見えて来ません。良きサマリア人の話も同じです。私達は、良きサマリア人ではなく、律法学者(目の前で倒れている人を見ぬふりをして避けて通った人)の立場に立って読んだ時に、はじめてこの箇所の意味が分かるのです。ですから、聖書は、先ず自分を弱い立場に置いて読むことがポイントです。


神様側の立場を考えて読む

 創世記に『イサクの犠牲』の話があります。アブラハムにとってイサクは目に入れても痛くない一人息子でした。しかし、神は、“私のために捧げなさい”と言われ、アブラハムは神の言いつけに従って、自分の子供を生贄にしようとした話。この話は、一般の人々にとって、非常に理解することが難しい話です。「自分の子供を神様が殺せと言うから殺すの?」これはほとんどカルトの世界ですよね。イサクが何故、与えられたのか?その原点に戻って、この話は考えなければなりません。イサクは、人には出来ないが、神には出来るという、神の偉大なる力の顕現であり、神と人間との約束の成就であり、神が人間に与えた祝福の器として与えられた子供でした。にも関わらず、アブラハムは、年老いて授かった子供を溺愛し、私物化したのです。

 神は、アブラハムに約束の民としての祝福を山ほど与えたいと願っておられるのですが、当のアブラハムは、その祝福を与えたくても、与えられない状況にいました。それで、神はアブラハムに祝福を与えるために、彼の信仰を、もう一度試さなければならなかったのです。ヨセフとベニヤミンを溺愛したヤコブの場合も同じです。神は、ヨセフとベニヤミンを溺愛して離そうとしないヤコブから、一度子供を、無理矢理に離されました。ここで、「神様は何故、こんな酷いことを!」などと言っていてる間は、神様側の気持ちは分かりません。神様の試練は、私達との祝福の約束を守り、私達に祝福を与えたいがための、忍耐の愛なのです。
 
 裁判官のお父さんに二人の息子がいました。ある日、弟が兄の奥さんを殺してしまったという事件が起こります。お父さんは裁判官ですから、いくら被告が自分の息子であっても、罪は罪として、誰が見ても公平な形で裁かなければなりません。それと同時に、息子に悔い改めて欲しい、罪を赦してあげたいとも願っています。また、弟に対して怒りの炎を燃やしている兄に対しても、弟を赦す気持ちを持って欲しいと願います。これが、父親としての神様の苦悩であり、気持ちなのです。どうしても、私達は、世間の立場か、弟の立場か、兄の立場かという、一方的な方向でしか、物事を見たり考えたりすることが出来ません。しかし、神様側に立場に立って、聖書を読む時に、今まで見えて来なかった真理が見えてくるようになります。霊で書かれたものは、霊によらなければ、理解することが出来ません。聖霊は、私達のへりくだった魂に、降りて来てくださるのです。どうぞ皆さん、この聖霊主体、御言葉主体の本物志向で、聖書の真髄を味わってみてください!(Ako)


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