噛み合わない会話と噛み合う会話
米テレビ討論会と親族の法要
( 画像は 川で憩うカワウやシラサギ )
昨日(日本時間9/30 午前)の米テレビ討論会は
ラジオで聞いていて正直酷かった!
あれでは 討論はおろか会話にもなっていないと思う
あの民主主義を標榜しているアメリカで だ
相手に遠慮はしないで歯に衣着せぬ物言いで
互いの考えや思いをどんどん主張し合うという
従来の日本人の多くが苦手とする討論や会話の形態を
欧米の人たちは好むようだ
だがしかし その特性は認めた上で
昨日のテレビ討論会は どんなに理由づけても
私はいただけないのではと思う
互いに相手の話の中に強引に割り込み
司会者の制止などにも聞く耳を持たず
一方的に自分の言いたいことを言い募る‥
訴えているのか?はたまた罵詈雑言なのか?
ほとんど見当もつかない状態‥
今朝のらじるラボを聞いていて 相手の話を聞かない悩みを取り上げていて 先ほどのテレビ討論会のことを思い出した
また その後 私は父の法要の席で 今は亡き母とおばたちの会話を思い出した
母やおばたちの会話は取り止めもないことについて みんながほとんど一斉に喋っていて お互いに相手の話はほぼ聞いていない?風だった その会話(放言?)を聞いていた私ら夫婦は
ほとんどついて行けず 誰が何を話しているか全くわからない始末だった‥
我が家に帰ってから カミさんは おばたちの会話?に驚き呆れたと感想を言った
ただ 母やおばの会話は 話の前提や相手のことがよく分かった上での会話だから その場で話すことや気分を共有することだけで 会話が成立するのだろうと思う その場で話したことが大事なのだ
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だけど 米テレビ討論会に限らず
第三者がいて 政治に関わる大事な討論会は
もう少し討論のルールを守ったほうがいいと思う
お互いに話す一言一言が 聞く人にとっては
自分たちの生活や将来に深く関わるとても大事なものだから 有権者や視聴者は
それぞれの主張をじっくり聞きたいのだ
そのアメリカや世界にとっても大切な
アメリカ大統領選挙に関するテレビ討論会は
おばたちの世間話と似たようなものであっては
困るのだ
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私が職場で働いていた頃
「悪魔の弁護人」という言葉を聞いたことがある
論者Aの主張aに対して
論者Bは 実際の自分の考えや立場は抜きにして
主張aに対して その欠点や欠陥などを
考え得る論拠や経験、他者の主張を
取り入れながら論破していくのだ
それを聞いた論者Aは
論者Bの主張bに対して 論者Aと同じようにして
反論して論破を試みていくのだ
そして 時間が来たら 第三者の聴衆C(多人数)が
論者Aと論者Bのどちらに説得性があったかを
評決するというシステムだ(全員が 論者A、B、聴衆Cの役割分担を交代する)
このディベートを積み重ねることによって
その場にいるみなの討論の力が身についていき
その後 実際の生活や仕事などでも活かすようにする実践スキルだ
会議の場で、あえて「悪魔の弁護人」の立場を
とることで、「その意見は違うのではないか」と
批判的に考えることはとても重要だと思う
また それだけの心の余裕や考えの違う人たちへの
寛容性も要ると思う
ps 2020.10.1 草稿 10.2 追記
今日(10/2)トランプ大統領夫妻が
新型コロナウイルスの陽性と判定されたという
ニュースを知り驚いた 今までの言動から
感染しはしないかと危惧していた
今のところ軽微な様子だが暫く夫婦で自粛・静養して
早く快癒されることを願っている
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この頃 ニュースや新聞・ネット記事などを見聞きしていて マスコミも視聴者も、評論家や専門家も 自分の狭い主義主張や考え、
少ない経験に頼りすぎていて相手の立場やものの考え方についてしっかり分析・研究して論破しようという努力の跡が見られないような感じがする
誰を幸せにしたいのか? 誰を気持ちを込めて諫めようとしているのか? どんな(誰もが住みやすい)社会を目指しているのか? 未来に生きる子どもたちが安心して健康に生きていけるそんな環境や社会創りはどうあったらいいのか? 我々の喫緊の課題は尽きない‥
政治や経済、教育現場の人たちは この世の多くの人たちが 行動や物言いを最大限許容され 他者の立場や存在を認め リスペクト(尊重、尊敬)し合う社会の在り方を本気になって研究し、探求し、責任を持って
我々国民、市町村民に提示してほしい
コロナ禍に在る今こそある意味チャンスなのではないか?
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