goo blog サービス終了のお知らせ 

枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

緩やかな想い

2011年06月17日 | Weblog

 このところ仕事での落ち込みが大きい。歯車がかみ合わない。ともすれば、自信がなくなるのだ。躊躇する時間が、気後れになってしまう。心が凪ぐ。どうしたらいいのか不安を伴う。足が竦む。どうすることもできないで、蹈鞴を踏んでしまうのだ。 自分を見失うので、更に身動きがとれなくなる。ため息がでてしまう。

 自分で、乗り越えていかねばならない。という課題なのは、充分承知している。手際が悪い上に、表面だっては自信たっぷりにみえるのか?何やら反感を買うようだ。上手くやろうちうより、慣れていないことが原因か。帰宅すると、どっと疲労困憊になる。この仕事に、向いていないのだろうか?

 可愛いお婆ちゃんではありませんから。え?そうですよね。考え方も、生き方も、環境でさえ違うのです。一律に、可愛いお婆ちゃんである筈がない。同時に、そんな人間には、誰もがなれるものでもありません。性格の善し悪しであれば、顔も違うでしょう。当然、喋り方も異なります。そういった個々の部分を持ったのが、一人の人間なのです。

 神沢利子さんの『くまの子 ウーフ』が、自問自答します。自分は、一体何でできているのだろうか?おしっこもすればうんちもする。体の中に、血も流れています。髪の毛も、爪もあります。そうしてやっと、ウーフは気づきます。ウーフはウーフで、できていることに。娘が小学校の時の、教科書に載っていました。

 童話は、子どものための小説です。書き手は大人です。『天才えりちゃん きんぎょをたべた』は、就学前の子どもさんが書いていましたが、その発想が、大人では考えられないようなことでした。『ろくべえ 待ってろよ』、子ども達の健気で真剣な様子がいいです。灰谷健次郎さんとお会いできた時、感激のあまり、涙が止まらなかった。

 差し出された手の温もりは、今以って忘れられません。私の永遠の恋人です。著作の中では、『兎の眼』に、とても強く惹かれました。主人公、鉄三の飼っている生き物がネックです。心を緩やかに囚われられたようで、とても印象的でした。サインもしてくださって、すごくうれしかったです。亡くなられたことが信じられない。

 青い色の、デルフィニューム。花束は、青色系か、白が好きですね。笹小百合の、緑かかった白い色は深い奥行きがあるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨月

2011年06月16日 | Weblog

 満月である。残念ながら雨で観えない。薔薇の挿し芽をする。夏枯草が満開です。うつぼ草とも言います。青紫の花が涼しげに、玄関の両脇に群れている。梔子は、蕾がなく、寒さにやられた模様です。花が咲くには、一定の暖かさが必要なんですね。どんなに季節が巡ろうと、寒さが残っていては、咲かないこともあるのですね。

 挿し芽をしたのがついて、蕾がつくと顔が綻ぶ。何だかくすぐったいような思いだ。勤務先で、小さな葉が落ちていたので持って帰った。挿していたらついた。花も咲いているよ。緑の指ではない。旧暦に合わせただけ。満干潮にしても、暦に書いてあることは、おおむね当たる。農事歳時記には、必ず使うのだが、大いに役立っている。

 通勤途上の枇杷の実が、少し色ついてきた。早いのは、この日曜日から食べられるか?我が家のは、袋をかけているので、ちょっとめくって見るが、それよりも、枝が折れそうになっている。孫たちも、枇杷狩りを楽しみにしててくれる。下の枝に手が届きそうだ。楽しみである。枇杷酒を、たくさん作ろう。

 小さな実がついた。摘芽をし、寒冷紗をかけ、ひたすら待った枇杷葉。この時期には、子どもの指先位の大きさである。この後、二日かかりで袋をかけた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月没帯食

2011年06月15日 | Weblog

16日未明、月が欠けながら沈む、珍しい現象が起きます。時刻はAM3:22.6分から始まり、AM4:21.1分の終了です。天気が左右しますから、どうともいえませんが、自然から起こりうる未知数の出来事を、今一度考えてみるのも、いいかもしれない。原発が安全・安心なら、自然の現象も変えられるでしょうけれど・・・

 一昨日、銀行に行って、花瓶に花が活けてあるのが眼に留まった。葉が萎れている。顔馴染みの行員さんなので声をかける。もらった花で、花瓶に挿したが、葉だけ萎れてしまった。水切りもしたのに。と言う。ふむ、なぜだろう?考えられる原因は、冷房で寒いことでしょ。花瓶は備前焼だし、花はしゃんとしてるから。

 水揚げの方法として、藤や紫陽花の花は、一文字か十文字に切り込みを入れ、そこに大豆を噛ませる。芍薬は濡れた新聞紙に包んで、切り口を焼く。水を換えるのは勿論です。そこで思いついたのは、祖母がしていた方法だった。酢だ!あれも殺菌作用がある。で、冷房の通らない場所への移動と、水の中に少量のお酢を入れてみたら?と言い置いた。

 翌日、用事で行ってみれば、花が、葉が、しゃきっとしているではないか。瓢箪から駒である。まあ、理屈としては、花が咲くのは暖かくなってです。寒かったり、北風の中で咲くとは思えませんし、温んで動かない水は、腐っているのも同然です。要は、花はそこに咲いているから、綺麗なのです。花が好きといい、平気で手折る心にはなれません。

 枇杷葉の実が大きくなっているか、枝がしな垂れてきた。鈴生りなので、緩やかな曲がりようだ。折れないかな?心配になる。リエさん、サンタさん、りささんに、少しばかり送れるのが愉しみ。枇杷葉の木も、サンタさん枇杷や、りささん枇杷を決めているので、これらに花が咲き実が生れば、収穫して贈れるのだが、今は未だ、未知数です。

 開き戸の手前で、じっと耳を澄ます銀河。誰かに呼ばれた?何処に往こうとしていたのだろう。まるで『霧笛』の深海龍のように、空気のざわめきに、聴き入っていた。食欲も戻って、食事をした。持ち直して、元気になるかと思えたのに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅雨の晴れ間に

2011年06月14日 | Weblog

 天気ですが、クシャミが出る。梅雨時の肌寒さに、衣類の調整をしなくては。薔薇の蕾がついている。桃色と白だ。赤も膨らんでいる。雨が上がると、枇杷エキスを撒いている。殿様バッタがさばっている。人間にはきれいな花も、昆虫には餌であるのだ。何やら矛盾した思いが交差するのが、そも間違いなのだろう。

 ドクダミの花が、満開になっている。触ると臭いがするが、体内の十の臓器に影響して、毒素を出すのだ。嫌うどころか、感謝せねばならない。寒中に掘った根茎は、臭いが少ない。お茶にして飲むと甘味がある。最も私は、自然の香りとして飲用しているので、何等問題はない。薬臭さでなくて丁度いいのだ。

 日中の温度が上がり、晴れたものの蒸せる。朝のうちは、風があって涼やかだったのが、昼過ぎから暑くなってしまった。梅雨時の特徴です。夏日になったら、この比例ではない。体力・気力共に、今から体を慣らしておきたい。冷房を無闇につけるのではなく、衣類や体の機能をコントロールしたのがいい。

 梅と氷砂糖の連携で、エキスが染み出ている。今年も、美味しい梅ジュースができる。大いに楽しみです。散歩中に、隣接する小学校の裏に、枇杷の木を見つけていたが、なんと枇杷の実が鈴生りである。今年は、生り年なんだろう。熟れたら分けてもらおう。先月の台風でだろう。青い実がたくさん落ちていた。

 この青い実を、わざわざ拾って食べる人はいないでしょう。カラスも、電線に止まって、莫迦にしたように見下ろす。あほ~!いやいやカラス。知識のある者は、これで殺人をするのです。方法はいくらでもありますよ。完全犯罪をやれるのです。お~っと。危ないあぶない。そんなに簡単には教えられません。

 春の庭先に咲いた、ラナンキュラス。寒かったのか、花が少なく、少し淋しい風景です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨に唄えば・・・

2011年06月12日 | Weblog

 午前中は天気がもつか?と、思っていたのが、昼前から音もなく小雨模様。しかし出かける予定は、中止にする様子もない。車中から眺めることにして、決行する。ドライブである。梅雨の時期に見える、紫陽花と花菖蒲だが、今年の開花時期は遅れているのか、あまり咲いていなかった。途中の休息所で、ソフトクリームを買い食べる。花より団子。

 深緑の木々の美しさは、さして眼に映っていなかったようで、ちょっとした散歩になってしまった。出かけたこと自体がうれしいと、しょげ返る私を慰めてくれ、感謝やお礼の言葉を言われたのには、更に落ち込んでしまった。四季折々の花を見に行くことは、その季節に咲く花を知っていなければならず、案内することの難しさを反省する。

 車は便利ではあるが、ちゃんと見ることや、ゆっくり見て歩くことが忘れられている。既に、現役を退いているのだから、悠々自適であって然りなのだが、今も変わらずという思いが大きい。現実との谷間を行き来する。元気であることの思いに反比例して、体の伴わないことが、理不尽になるらしい。

 仕出し屋の手前の家に、枇杷があった。日当たりがいいのだろう。黄色に熟れていた。未だ青いのもあったが、思わぬところで見つけて、運転手さんにバックしてもらう。鈴生りの枇杷に、生き生きと輝く目が、印象的だった。桑の実もそうだが、昔にはこういった物が、おやつであったのだ。買えばいいとかいう問題でなく、当たり前の風景だった。

 ナルニア国物語。カスピアン王子の角笛を買う。明日は休みに付き観る。ピーターも、エドモンドも、スーザンやルーシーにも、遭えたことがうれしい。そして、ルーシーの言う、信じるという台詞には、純粋さが込められている事に気づく。見えないのではなく、視ようとしないから。というのも頷ける。

 アスランの、何故遭いに来なかった?と、いう問いかけもいい。同時に、ルーシーの恐れる気持ちにも同感できる。自然の物、そこに存在している物への畏怖は、外でもない神そのものなのだから。信じなければ達成できず、成しえた時に、そこから去らなければならないことも、潔く受け入れなければならない。決めるのは、自分でもある。

 すくすく育つ、りささんの枇杷葉。鉢仕立てです。下に見えるのは、クリスマスローズです。我が家の枇杷葉は、クリスマスローズと相性がいいのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉は未知数・・・

2011年06月11日 | Weblog

 人間の心に反応する言葉には、とても強い魔力があり、言った人のオーラが、そのまま伝わることもあれば、変化してしまうことも、或いは闇に紛れ込んでしまうこともある。そうしてそれが、何処に行き着くかは、誰にも明確にはならない。不可思議であり、真実の結果にしかならない。つまりは、相手を呪って言葉を発すれば、即ち、我が身が滅ぶのだ。

 言葉に、真実があれば尚よく、更に信があれば実を結ぶ。たった一言に込められた刃が、鋭い刃先で突き刺せば、たちどころに命を奪う。優しい言葉を幾重にもかけ続けて、思わぬ結果になることもある。それほどに、言葉の持つ意味合いは深い。どんな綺麗な言葉も、行き着く間に、醜く歪んだり、汚れてしまったりもするのだ。

 言葉が文字として活字になると、加わる力に依るが、魔力を持つことにもなる。古代から密やかに隠れていたものが、姿を現すのかもしれない。不意に力をつけて、形を成すのかもしれない。中国の、絶世の美女の一人褒娰は、黒蜥蜴の変じた者らしく、闇に吸い込まれるように、姿を消したと言う。

 覆水盆に返らず。とあるように、言葉も、口から出た後は、どのように言い繕っても意味がない。正しいとか、間違っているとかでなく、それ自体が姿を現せて歩き出す。そうなると手がつけられず、消し去ることも不可能になる。こうしている途中でさえ、不穏な動きが耐えない。螺旋を描いて、四方八方に飛んでゆく。

 今春、咲いたチューリップの双子。球根の状態が、不良品であったらしい。今年は、三つ子も四つ子もあり、原因不明です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食中毒への対策

2011年06月10日 | Weblog

 梅雨時の青い梅は、猛毒である。枇杷の実にも含まれるアミグダリンが、激しい腹痛を起こし、七転八倒を繰り返す。運が悪ければ、死に至る。青酸カリに匹敵するという、アミグダリンの毒は、がん細胞を食べてくれる。しかし尚、危険であり、致死量に到らなければいい。と言う問題でもないので、止めておいたのがいいでしょう。

 子どもの頃、祖母が言うことには一理あり、屁理屈を捏ねると、悲惨な結果になった。腹も痛いと言うものでなく、声も出ない上に、冷や汗が出る。祖母には、科学的な知識はなく、工夫や経験で知っていたものと思える。薬になる物も、使い方を誤れば命を奪う。その微妙な頃合いを、匙加減と言い、人間は知恵で乗り越えてきた。

 日本の四季が失われて、季節感が殆どないが、それでも道端に咲く花や、宇宙の星に眼を向けて、知識を深めてほしい。月の移り変わりや、田畑の様子。蛍が飛ぶ頃の夕闇の色を、知っていてほしい。言葉は、あいうえおをランダムに並べて、組み合わせることで、どんなことも通じ合う。情緒ある、日本ならではの言葉を使ってほしい。

 花は好き嫌いを除けば、どんな花も綺麗です。美しいのです。言葉で表現するのに、綺麗だけではなく、白く可憐だったり、地上に降った星の欠片のような青さだったり、太陽を閉じ込めたような美しさであるのでしょう。安房直子さんの『きつねの窓』には、山に咲く桔梗が書かれています。手に取るように、色がわかるのです。

 本が読めることは、何という贅沢であろうか。と、感謝します。知識を深め、自分の知らないことを教えてもらえることに、一種の興奮を覚えます。岡山県出身の、緒方洪庵は、医者を志す門下生に、学ばせる工夫として、とてもユニークな試みをしたそうです。昔も、今も、そういった取り組みをすれば、向学心に燃える職員も増えるのではないかしら?

 亡くなる1週間前の銀河。じっとして動かない日が続き、食欲も失くした。それでも、トイレにはちゃんと行った。ほんとうに頑張ったんだね、銀河。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桑の実が熟れて・・・

2011年06月09日 | Weblog

 桑の実が熟れていた。おお~っ!鈴生りではないか。生協で買った苗で、3年になる。昨年までは、しょぼしょぼだったのが、今年は思いの外生った。少し、勤務先に持って行こうと思い、取りかけたが、熟れ過ぎていて、下に落ちてしまう。慌てて箱を探す。大きいのは、親指大はある。糠を入れただけなのに、ものすごいことになった。写真に撮っておく。

 何か当ててもらいたかったのだが、普通の桑の実の、3倍はあるので、見ただけではわからなかった。入れ物をテーブルに置いて食べてもらう。珍しさも手伝ってか、皆さん手が出たが、何しろちょっと摘んだだけで、直ぐに指先が赤くなる。甘い!美味しいと言ってもらうが、桑の実とは気づかない。桑の実によく似ている。と、言われて苦笑する。

 我が家の桑もだが、李や杏も植えている。木ばかり育って、一向に生らない。プルーンもある。実を生らせないなら、伐ってしまうか。場所ばかり取る。何れも、孫たちの喜ぶ顔が見たくて植えた。自然栽培を目的としているので、農薬は一切使わないでいる。肥料も、糠と塩以外は、殆ど枇杷葉を、お茶で飲んだ後、枇杷湯にしてから肥料にする。

 夏分の水遣りは欠かせないが、できる限り、風呂の残り湯を使う。枇杷葉を焼酎に漬けた後のエキスは、農薬の代わりにスプレーで撒く。木搾酢も使う。珈琲の糟も、無農薬なので入れる。野菜屑も入れる。ゴミで出すより、再利用にし、資源を有効活用している。エゴにならないよう、気をつけている。昆虫や、虫の棲む環境になる工夫をしている。

 風力発電を設置したいのだが、安くなかった。自家発電で電気を造り、余った電力は買い上げてもらう。そういう取り組みは、とてもいいと思うが、誰でもができることではない。政府は自由に、電力の供給を行なえるよう、選択肢をもたせてほしい。車も、ガソリン以外で動くよう、設計をしてほしい。安定したエネルギーは、必要不可欠です。

 枇杷葉の木の傍に、クリスマスローズを置いている。夏の暑さに弱く、日陰を好む。冬には日当たりがよくなければ、蕾がつかない。水も切らせない。遵って、ここが一番好いのだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冷やかな夏

2011年06月07日 | Weblog

 天気が定まらず、曇ったり、晴れたり、時雨れたりである。人間にとっては、晴れているのがいいようにも思えるが、植物や動物には、決してそうではないようだ。自然界が、上手く周っていくためには、其々に餌になったりしなければ、地球上に生き物が溢れかえって、棲む場所がなくなる。

 人間にも、神さまは警告する。その意味するところが、何かを知れば、自分の命を大切にもし、相手を思いやり、生きることの深さに気づくのではないか。ところが、自分に都合よく考えるばかりなので、神の怒りを買う事にも陥る。この世で一番大切な物って、何だろう?そんなことこそ、存在しないのかも。

 原発の安全神話が崩壊した。加えて、人間の考えられる知能を、遙かに超えた未知数の現実に、人間は立ち向かっていかなければならなくなった。原発の現場で昼夜を問わず、働いている人たちは、自分の命を投げ出しても尚、子々孫々に残しておきたい棲む場所が、せめて存在することを願う。

 生きるという事の裏返しには、厳しい現実がある。その一瞬を、生きなければならない現実がある。何かの文句を言う前に、全てのことに想いを馳せ、全力で尽くしたいと考えてしまうのは、人として当たり前の姿に思えるが、誰もがまた、そうでもないのだろう。被爆していかれることに、胸が痛む。

 祖母の好きだった、庭桜。故郷の庭に、春の訪れと共に、咲き乱れていた。白いコゴメ花と対になって、とても綺麗だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉈豆の発芽

2011年06月06日 | Weblog

 一粒万倍日に、鉈豆の種を植えた。殆どが発芽する。ところが、それをバッタが食っておるではないか!そりゃ、おいしいでしょうよ。軟らかくって、青々とした新芽ですもの。枇杷葉の新芽にも止まっている。2cmほどのバッタだが、もう夢中で食うておるのだ。腹立つわな。

 薔薇が満開になった。大輪の赤と薄桃が見事だ。今年の芍薬は、寒さでやられた。花が6つほどで終わった。椿も同じである。石竹や撫子が咲き乱れ、つりがね草が競っている。それにしても、ドクダミの花の可憐なことか。枇杷と一緒に群れている。

 五月晴れになったので、布団を干した。毛布も片付けたいが、やはり夜干しがしたい。体臭は気にならないが、エコ生活には、これに限る。天日干しに、夜干しのセットが安上がりである。土用まで待つかな?雨に濡れては、元も子もない。バッタが、賑やかに飛んでいる。

 Aさんちの枇杷葉が植えてある場所は、土もいいが、日当たりも良く、条件としては文句なしだ。知人の方が、蜜蜂の箱を置かせてほしい。と、言われたとか。枇杷蜜は高いのよ。是非置いてくださいね。お相伴に預かりますわ。今年たくさんの実に、気をよくしているAさん。

 我が家の庭に、友人の掘ってくれたシモツケが、たくさんの蕾をつけた。今年は無理か、と半分くらい諦めていたのが、とてもうれしい。どんなことでもそうだが、花に関しては、咲いてくれないと、酷くがっかりするのだ。咲かないのは淋しい。薔薇も、今度はピンクと白が咲く。

 かすみ草が、勢いよく伸びている。カラーの葉も大きくなった。齧るのは、バッタである。小さいのやすばしこいのや、色々腹立たしい。蛙は、枇杷葉の葉の上で、じっと療養しているのが、とても可笑しい。癒しているのかな?とても気持ちがよさそうですね。

 枇杷苗は、一昨年の物で、移植した状態です。パンジーは、たくさんの花蕾をつけていき、目を愉しませてくれた。白茂木の種の発芽したが、上手く育たない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする