庭の枇杷葉。見た目はどうということもなし、同じ枇杷葉なのだが、ちと違う。それぞれに個性がある。植えた年月や条件、種類は元よりだが、育ててみればその違いに気づく。葉の大きさに始まり、木丈、葉の繁り具合、バランスも、微妙に違っている。
それには、置いている場所も、異なっているのは当然ながら、土の善し悪しや、水捌けにもよる。そして何よりも、声をかけるという行為が、とても重要であるようにも思えるのだ。どの枇杷葉にも、無関心ではないが、ちょっとした言葉の違いでしょうか。
芥川龍之介の、蜘蛛の糸・地獄変を読みつつ、何かこう、ストンと落ちてきてわかった。ああ・そう言えば、あの時に。というようなことが、胸の中に湧き上がってきた。自分では無意識にだが、優位に立っての言葉であった。
地球上に棲まう、同じ命としての共生でなく、人間と植物という区別からである。事実は、人間こそ、自分では何も作れず、独りでは生きていけない生物に他ならない。大きな過ちである。自然という恩恵を、感謝していると言っても、この程度なのだ。
やはり、こちらの都合のいいことに解釈し、勝手な言い分を押し通すのだ。自分の思い上がりに愕然とした。自然にしてみれば、片腹痛いということか。反省は猿でもするが、能力的には劣るかもしれない。
季節外れに咲いた紫陽花。隅田の花火。挿し木でけっこう増えます。