西暦2013年2月4日は、立春であるが、旧暦では12月24日である。
立春と元日(旧暦)が一致するのは珍しいので、それを愛でた万葉集編者(とされる)大伴家持は、掉尾でこう歌った。(通説読み)
新(あらた)しき 年の初めの 初春の
今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)
ところで、きのうの goo ニュースで、電子化名著、国会図書館13作品、3月末まで、などと報じられた。NDL(国立国会図書館)のディジタル図書公開とは、とさっそく訪問してみたら、意外に進んでいるのに驚く。私の別ブログ(※)、万葉集についてはどうかな、と見ると、その量にまず圧倒されてしまった。その中から、NDL が「『万葉集』最古の刊本で、伏見版(円光寺版)の木活字を使用し、不足の文字を新雕[しんちょう]し印行したものとされる。万葉仮名の本文のみで、無訓本と通称されるもの。」と紹介するものを、瞥見する。無訓本だが非常に綺麗な木版活字なので、私にも読めるのがうれしい。以下は上の家持歌の、原文である。(便宜的に私が分かち書き)
新 年之始乃 波都波流能
家布敷流由伎能 伊夜之家余其騰
〇「千載集」は、「古今集」から「詞花集」の六勅撰集に続く、第七勅撰集。寿永二年(1183)、後白河院が俊成入道に「近古」以来の和歌を撰集するように命じた。
〇寿永二年二月の下命、七月の平家都落ち、文治四年(1188)に撰集完了。撰者は宇多源氏の俊成。平氏政権の凋落と源氏政権の胎動。
〇部立ては、万葉・古今にならって二十巻。巻一は春歌上、巻二十は神祇歌。巻名でいちばん多いのは、恋歌。恋歌一から恋歌五まである。歌数は、源俊頼から藤原光範までの、全1288首。歌番号は「新編国歌大観」。
〇恋歌の始まりは 0641。悠山人参考表記による。
0641 難波江の藻に埋もるる玉柏 現れてだに人を恋ひばや 源俊頼
ysz0641 難波江の藻に隠れたる玉石の 現れてこそまことの恋なれ 悠山人
〇岩波書店、新 日本文学大系10、「千載和歌集」参照。
1 大伴坂上郎女(母)
夫大伴宿奈麻呂とのあいだに、娘坂上大嬢。大伴旅人とは異母兄妹。「万葉集」での別名=坂上郎女。大伴郎女。郎女。大伴宿祢坂上郎女。大伴氏坂上郎女。佐保大納言卿之女。母。姑(をば)。初出歌=第379歌(長歌)、全歌数=長歌6首、短歌77首。
2 大伴坂上大嬢(娘)
父は大伴宿奈麻呂、母は坂上郎女。集中での別名=大嬢。大伴坂上家之大娘(おほいらつめ)。大伴宿奈麻呂卿之女。坂上家之大嬢。坂上家大嬢。坂上大嬢。坂上大娘。家婦。初出歌=第581歌、全歌数=短歌11首。(以上おもに講談社版『万葉集事典』参照)
*「万葉短歌-悠山人編」では、4月27日に大嬢(おほいらつめ)歌が初出予定。
飛ぶ鳥の
明日香の川の
川上に
茂る玉藻は
川下に
流れて靡く
玉藻なし
寄り添い合って
靡いては
愛する人の
たたなづく
柔肌どころか
剣太刀も
身に添わせずに
褥して
荒れましょう
だからこそ
どう慰めて
よいのやら
もしや逢えるかと
玉垂の
越智の岡辺で
朝露に
裳裾を乱し
夕霧に
衣を濡らせ
旅をする
君に逢いたい
君に逢いたい
【訳者(悠山人)注】柿本人麻呂作。夫忍壁(川島)皇子の死を悼む妻泊瀬部(明日香)皇女。底本西本願寺本。
【電網版原文】http://manyou.utakura.com/index.htm#002
松花江上 作詞・作曲 張寒暉
我的家在東北松花江上,
那里有森林煤鉱,
還有満山遍野的大豆高粱。
我的家在東北松花江上,
這有衰老的父多娘。
”九一八”,”九一八”,
従那個悲惨的時候,
”九一八”,”九一八”,
従那個悲惨的時候,
脱離了我的家郷,抛奔那無尽的宝蔵,
流浪,流浪,整日価在関内流浪,
口那年口那月,
才能句多回我那可愛的故郷?
口那年口那月,
才能句多収回我那無尽的宝蔵?
父多娘口阿,父多娘口阿,
何時候才能歓聚在一堂?
わが家は東北、松花江のほとり
そこには森林と鉱山
さらに山野に満ちる大豆と高粱がある
わが家は東北、松花江のほとり
彼の地にはわが同胞、そして年老いた父と母がいる。
ああ、9・18、9・18
あの悲惨な時から、わが故郷(ふるさと)を脱出し、
ああ、9・18、9・18
あの悲惨な時から、わが故郷(ふるさと)を脱出し、
無限の宝庫も捨て去って、流浪、また流浪、
関内をさすらいつづけている。
いつの年、いつの月、
私の愛する故里へ帰れるのだろうか。
いつの年、いつの月、
いつ、私のあの無尽の宝庫をとり戻せるのだろうか。
父よ、母よ、喜んで一堂に会するのはいつだろうか
日本語訳・澤地久枝(「もうひとつの満州」澤地久枝著 文芸春秋刊)
http://blog.livedoor.jp/yanagi470/archives/1536291.html# から再引用。
劇団四季の「李香蘭」の劇中歌、「松花江上(Songhuajiangshang 1114)」が気になっていたので、調べてみた。きょうは「九・一八」。
【資料】たまきはる2 [ ]内は悠山人の挿入
[万葉集第0003歌(舒明天皇の長歌)への返歌]
0004 たまきはる宇智の大野に馬並めて
朝踏ますらむその草深野 [中皇命]
[たまきはる うちのおほのに うまなめて
あさふますらむ そのくさふかの]
舒明天皇が、その在位中、今の奈良県五条市宇智の荒野に鳥獣を狩った時に、狩場の幸を予祝して献じた歌と思われる。中皇命[なかつすめらみこと]については諸説があるが、神々と天皇との中(あいだ)にあって祭祀を司る女性の神名的呼称(神としてとらえた場合の呼称)と見られる。中皇命には、天皇ときわめて血の近い女性が選ばれるのが常であったらしい。舒明期において「中皇命」になりうる人は、舒明天皇の娘で、中大兄皇子の妹、大海人皇子の姉にあたる間人皇女[はしひとのひめみこ]をおいては考えにくい。
[中略]
◇たまきはる […]魂が極限の状態になって、あるものの中にみなぎる意か([…])。
(伊藤博・著『万葉集釈注一』集英社、1995、p.38)
『万葉集』に最初に現れる「たまきはる」だが、表記原文には「玉尅春」「玉剋春」の二本がある。また伊藤注は、「尅」は「刻」に同じ、とする。なお次の用字も参照。http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/105_22.htm
【資料】たまきはる1
枕詞。語義は未詳。『万葉集』において、「命」「うち」「幾代」「磯」「世」「我が」などに掛かる例を見るが、その掛かり方ははっきりしない。その後平安時代中頃まではほとんど用いられず、院政期に歌学の発達と『万葉集』の再評価の中で発掘された言葉である。たとえば『堀河百首』における「玉きはる命も知らず別れぬる人を待つべき身こそ老いぬれ」(一四八二・藤原顕仲)などである。このように「命」に掛かる例が時代を通じて最も多い。以後、「秋の月たまきはるよの七十路にあまりて物は今ぞ悲しき」(拾遺愚草・一四三五)など、藤原定家を中心に新古今歌人の間で流行を見た。「命」「我が身」「世」などに掛かるその用法は、強い自己意識を背後に抱え込んでいる。中世では、「おちまさる袖の涙の玉きはる此の身やかぎり恋は尽きせじ」(草根集・六六五〇)など、正徹が独自な使用法を見せている。(渡部泰明)
-出典:久保田淳・馬場あき子編『歌ことば歌枕大辞典』、角川書店、p.533f。
五言詩「去者日以疏」は、作者未詳ながら、多くの漢文教科書に載る。私の記憶している以外に、僅かな違いのある一首を見つけたので、記録しておく。なお、日本では「疏」ではなくて、「疎」が流布する。
繁体字(日本漢文、台湾公用)、簡体字(現代中国)、拼音(へいおん、ピンイン。現代中国の公用ローマ字)については、各種電網を参照した。「閭」の対応拼音「lU」の「U」は「U-ウムラウト」。繁簡については、一部例外もある。
1 通常の一首(本文は「百度百科」による)
古诗十九首·去者日以疏
【年代】东汉 【作者】无名氏 【体裁】五言诗
去者日以疏,来者日以亲。
出郭门直视,但见丘与坟。
古墓犁为田,松柏摧为薪。
白扬多悲风,萧萧愁杀人。
思归故里闾,欲归道无因。
去者日以疏,來者日以親。
出郭門直視,但見丘與墳。
古墓犁為田,松柏摧為薪。
白揚多悲風,蕭蕭愁殺人。
思歸故里閭,欲歸道無因。
quzheriyishu, laizheriyiqin. 43431, 23431.
chuguomenzhishi, danji'anqiuyufen. 11224, 44132.
gumuliweitian, songbaicuiweixin. 34222, 13121.
baiyangduobeifeng, xiaoxiaochousharen. 22111, 11212.
siguigulilU, yuguidaowuyin. 11432, 41421.
2 異同のある一首(本文は「星島文化」2005年12月、による)
去者日以疏,生者日已亲。
quzheriyishu, shengzheriyiqin. 43431, 13431.
出郭门直视,但见丘与坟。
古墓犁为田,松柏摧为薪。
白杨多悲风,萧萧愁杀人!
思还故里闾,欲归道无因。
sihuangulilU, yuguidaowuyin. 12432, 41421.
去者日以疏,生者日已親。
出郭門直視,但見丘與墳。
古墓犁為田,松柏摧為薪。
白楊多悲風,蕭蕭愁殺人!
思還故里閭,欲歸道無因。
「源氏」時代の仮名 見えた/「古筆切」千年前の紙と判明
古風な仮名文字で和歌を記した古筆切を、中央大の池田和臣教授(平安文学)が年代測定したところ、ほぼ千年前の紙と判明した。ちょうど源氏物語が書かれたころに当たる。年代の明確なこの時期の仮名文字はごく少数しか現存しない。紫式部や清少納言はこんな文字を使ったのだろうか・・・・・・。歴史の空白に、最新の年代科学が新たな手がかりをもたらした。(渡辺延志)
○爛熟期 少ない資料
ふゆこもりさえしこほりをあか(ね)さすあをみなつきのものとみるかな
漢字を用いた万葉仮名から草仮名(草書の万葉仮名)を経て、平仮名は平安前期の9世紀後半ごろに誕生し、10世紀後半~12世紀初めに洗練、爛熟したとされる。
池田さんが5年前に骨董市場で見つけたその古筆切には現存資料には残っていない和歌が仮名で記されていた。
由(ゆ)・无(も)・散(さ)・之(し)・保(ほ)・遠(を)・佐(さ)・美(み)・奈(な)・川(つ)・支(き)・那(な)などが元の漢字の面影を残しているのに池田さんは注目した。草仮名の特徴だ。枕詞を二つ使うなど歌の表現や技法も古風だ。来歴不明のこの古筆切を池田さんは入手。微量を切り取り、昨年、加速器質量分析法(AMS)で測定したところ、10世紀末~11世紀初頭との結果だった。
池田さんは名古屋大年代測定総合研究センターの小田寛貴助教と共同で、古筆切の年代測定に10年ほど前から取り組んできた。その50点以上の積み重ねから、この測定法の信頼性の高いこと、古代の紙は作られてからあまり時間を置かずに使用されるのが一般的であることがわかっていた。
「源氏物語が書かれたころの文字だ」と池田さんは判断した。源氏物語が記録に初めて登場するのは1008年のことだ。
だが、源氏物語と同時期に書かれたことが明確な仮名文字は、藤原道長の日記「御堂関白記」に和歌があるぐらい。完成された平仮名とされる古今和歌集の写本のほとんどが11世紀半ば以降のものだ。
○切り刻まれ確認難航
古い書跡が確認しにくいのは江戸時代以来、古筆切として珍重されたからだ。絵巻や写本は数行単位で切られ、茶室の掛け軸などに仕立てられた。切り刻まれてしまったので筆者や年代を特定する手がかりは乏しい。「伝○○筆」とされるものは、江戸期以降に鑑定されたもので科学的根拠はなく、偽物も多い。
紫式部が愛し、こだわった仮名がどのような姿だったのかに迫りたいと池田さんは願い、最新の年代科学を手がかりにたどりついたのが今回の古筆切だった。「紫式部の時代の字姿の一端が見えた」と池田さんは考える。
源氏物語研究で知られる国文学研究資料館の伊井春樹館長は「感動的、眼福ですね」と語り、「ぼくとつで古風、まだ慣れていない仮名文字という印象。どこまでが時代を反映し、どこまでが書いた人の個性なのだろう」と思いをめぐらす。「和歌は身構えて書く特別なもの。源氏物語は400字の原稿用紙にして2300枚もありますから、もう少し日常的な文字で書いたのでは」と考える。
その一方、書道史の視点からは、筆遣いの面などから異論もある。書家の石川九楊さんは「科学的にわかったのは紙の年代にすぎない。どの時代の文字なのかを考えるには、さらに研究が必要でしょう」と慎重な姿勢を示した。
○美的な洗練進んだ時期
この時期の仮名文字への関心が高いのは、美的な洗練が進んだと考えられるからだ。
よろづの事、昔にはおとりざまに、浅くなり行く世の末なれど、
仮名のみなむ今の世はいと際なくなりたる
光源氏の言葉だ。「すべてのことが昔より劣って浅薄になってゆく末世だけれど、仮名だけは今の時代がこの上なく素晴らしいものになっている」と美しさをたたえる。筆跡は源氏物語の人物像形成に欠かせない要素だ。六条の御息所は「このうえなく秀逸」で、秋好中宮は「入念で優美だが、才気がない」、朧月夜の君は「自由奔放で癖がある」といった具合だ。
伊井さんは「日本人は仮名文字を持つことで思いや悲しみを表現できるようになった。だから源氏物語も生まれたのです」と仮名の役割を説明する。
複写写真=「元になった漢字の面影を残しているのが特徴。縦27.6㌢、幅5.1㌢=池田和臣さん提供」〔略〕
出所=朝日新聞、2009年03月05日(木)。
以下は、ブログ「悠山人の新古今」(2009年03月05日(木)付け)から移動。
【memo-源氏期古筆切と判明】けさの新聞に、「『源氏』時代の仮名 見えた/『古筆切』千年前の紙と判明」と大きく載っていて、とても驚いた(2009年03月05日、朝日新聞東本版、文化欄)。取敢えずは、その和歌切を転載しておく。
ふゆこもりさえしこほりをあか(ね)さすあをみなつきのものとみるかな
〔草仮名の実物写真、略〕
以下は記事を参考にして、引用者(悠山人)が相当変体仮名に復元したもの。(未確認)
不由己无利散江之古保利遠安可□佐春 安遠美奈川支能毛乃止見留可那
冬篭り冴えし氷を茜射す 青水無月のものと見るかな
行きつけの図書館で、新着雑誌のコーナーを見ていたら、とつぜん時間が逆転した。「大東亜戦争」の赤文字が大活字で目に飛び込んで来たのだ。はやる気持ちを抑えて、まずは表紙をじっくり眺めると、上から下へ「歴史読本/論点検証 大東亜戦争/戦史解説 大東亜の戦略・戦術/大東亜戦争・昭和天皇・アジア主義/9/別冊付録 通巻1600号記念/復刻「人物往来」 昭和重大事件の真正報告」と、活字が並ぶ。背景にはセピア色の、「出征兵士」を囲む一族の記念写真。復刻誌との実質的な合本なので、分厚くて、「特別定価 1090円」である。発行は新人物往来社(以下、「S社」)。
六十三年前の八月に、外形的にはひとまずの終結を迎えた戦争は、その時間的始点と地理的範域をどう見るかによって、全く様相を異にする。現在では、第二次世界大戦とか十五年戦争などの表現が、穏当なところだろうと思うけれど、学界・政界・経済界などでは、戦争の呼称をめぐって揺れが止まらない。その中で最も有力なのは「大東亜戦争」の表現であろう。
S社の見方は、「特集グラビア1 頭山満 亜細亜的英雄の原像」に続く、検証劈頭の<「あの戦争」を呼ぶときに、一般的には「太平洋戦争」か「アジア・太平洋戦争」という言い方が流通している。>というリードに示される。署名(黒野耐)記事「キーワードで読む大東亜戦争」の6番目「大東亜戦争」は、次のように書く。
昭和十六年末から二十年夏にかけて、日本が米国、英国、豪州、オランダ、中国、ソ連を相手に戦った戦争は、「太平洋戦争」「大東亜戦争」「十五年戦争」などとさまざまに呼称されている。これらの呼称は、本戦争の歴史的意義をどのように評価するかという、歴史観にもとづいている。
当時の日本政府は昭和十六年十二月十二日の閣議で、この戦争を「今次の対米英戦争及今後情勢の推移に伴い生起することあるべき戦争は、支那事変を含め、大東亜戦争と呼称す」と決定した。閣議の二日前には、海軍側から「太平洋戦争」の呼称が提案されたが、支那事変も含め、対ソ戦争にも発展する可能性もあり、大東亜の新秩序を建設するという政治的意味を抑えて、「大東亜戦争」に決定された。
このような呼称決定の経過のなかに、勝算も戦争終結の目算もないまま開戦が決断されたという、惨憺たる情況が浮かび上がってくる。
日本は日中戦争の泥沼に足をとられた情況下で、米国・英国などの諸国だけでなく、ソ連とも戦争になる危険性をかかえ、同盟国ドイツとの連携は実質的に分断されていた。すなわち、本戦争は米英蘭豪中ソ六カ国による全面包囲下で、日本が孤立して戦った戦争であった。
「太平洋戦争」の呼称は、米国だけとの戦争という錯覚を起こしがちになる。日本が六カ国を相手に孤立して、太平洋・東亜全域で戦った戦争という実態を、イメージできる呼称は「大東亜戦争」である。
昭和天皇が「勝算なきものに対し戦争を始めるは如何」と述べたように、歴史観だけでなく、戦争の実態、勝算のない戦争を始めた問題、その政戦略などを総合して戦争の呼称を決めたほうが、戦争の真の姿を見ることができるのである。
付録(復刻版)について 1955(昭和30)年12月発行の「人物往来」も、なかなか目にすることのない記事ばかりである。花柳章太郎が「無法な打擲」を受けた話、「淫獣・小平逮捕」の話、とくに仁科芳雄が偽計によってサイクロトロンを壊滅させられた話には、胸が傷んだ。