7月16日 平成17年1月1日より 2,388 日目
歩いた歩数 その距離
本日 15,092 歩 10,564m
総計 33,294,359歩 23,306,051m
イラン・トルコ、ギリシャを経てシシリー島カタニアを経てイタリヤ半島ナポリに向かう。後 242,207m
伊勢社
区の氏神様 伊勢社の祭礼 昔は神社の境内に櫓が建てられ、朝から祭囃子が流れてきたが、今は公民館の庭がメーン会場。紅白の幔幕が貼られ、夕方からはプロレスの興行もあるという。私は寂しい祭りの話は後回しにして大東亜戦争の裏話で穴埋めをする事とする。
昭和17年私は東京私立芝商第二本科の3年生だった。第二本科と云うのは夜間授業で、今の定時制だ。当時は全国から受験生が殺到して2浪・3浪の同級生もたくさんいた。その中に群馬県からやって来て現役で入学した台君は軍令部の給仕をしていた秀才だ。その台君から軍令部を案内すると声を掛けられた。
省線の新橋であったか有楽町であったか記憶にないが、17年の夏のある日の晩、授業が終ったその足で軍令部に向かった。、軍令部と云えば海軍の最高指揮機関だが赤いレンガ作りの余り目立たない建物だった。陸軍なら歩哨が武装して立哨していて物々しいが、軍令部の正面玄関の両側には下士官が腰掛けて居た。台君が声を掛けると「よし」と云った。陸軍なら歩哨は用件を尋ねて待機させ、上官の指示を待つのが筋だが、あっさりと通されたことに驚いた。台君の日頃の勤務が評価されての結果か?
ここが総長室、永野修身大将の部屋。これまでは伏見宮様が居られたと付け加えた。そして次の間、この机に居た課長が航空母艦赤城の艦長になって、ミッドウェイでやられてしまった。艦長は航空母艦と共に運命を共にしたと言った。私はハワイで大勝利、ミッドウェイでも大戦果、我が方の被害は軽微なり、という大本営発表を信じていたので、名誉の戦死と受け止めただけだった。
後になって判ったことだが、日本海軍の暗号はアメリカに解読されていて、作戦はすっかり手の内を読まれて待ち伏せに会い、航空母艦4隻をはじめ多数の軍艦を失い、攻撃に参加した航空機は帰る母艦が無く航空兵と共に海に突入してしまった。完全な大惨敗だったのだ。この後、制空権・制海権を奪われた日本軍は坂を転がり落ちるように反転・転進・退却と敗戦の道を辿って行くことになってしまった訳だ。
17歳の少年が何の疑いも持たれずに、海軍の最高指揮機関に出入りできたと云う事実からも、機密情報対策があまりにも簡略で抜け道だらけで、肝心の作戦でさえ解読されていたことさえ気づいて居なかった。山本五十六連合艦隊司令長官の前線視察も解読されていたというのだからやりようがない。
両軍の被害 (ウィキペディア)より転載
日本軍側
- 沈没喪失
- 重巡洋艦:三隈、700名
- 大破、のち自沈処分
- 大破
- 駆逐艦:荒潮
- 中破
- 重巡洋艦:最上92名
- 航空機:喪失艦載機289機(内、21機はミッドウェー配備予定の第六航空隊。水偵4機)
- この中には「十二試艦爆」を含む。
- 戦死[428]
上記の沈没・損傷艦の他、筑摩航空搭乗員3名、利根航空搭乗員2名、駆逐艦谷風11名、朝潮21名、荒潮35名、嵐1名、風雲1名、給油艦あけぼの丸10名が戦死した。総計3,057名を失い、その中には友永丈市大尉(戦死後中佐に二階級特進)ら121名の航空機搭乗員を含んでいた。各母艦別の搭乗員損失は、赤城7名(艦戦4、艦爆1、艦攻2)、加賀21名(艦戦6、艦爆6、艦攻9)、蒼龍10名(艦戦4、艦爆1、艦攻5)、飛龍72名(艦戦11、艦爆27、艦攻34) 。搭乗員損失率は反撃を実施した飛龍が最も多い。空母上で米軍機空襲とその後の誘爆により戦死した搭乗員は、赤城4名、加賀13名、蒼龍4名、飛龍8名である。
なお、文献によっては熟練搭乗員多数を失い、以後の航空作戦に支障をきたしたとする論調で評価するものがあるが、これは上記にもあるように誤解である。搭乗員の多くは空母が沈没する前に脱出しており、激戦を経た飛龍を除く三空母の搭乗員は大半が健在だった。
- 6月10日大本営発表は「空母エンタープライズ型1隻、ホーネット型1隻撃沈。米軍機120機。日本軍損害 空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失」、6月18日の大本営発表で「空母1隻撃沈を取り消し、大破認定。巡洋艦1隻、潜水艦1隻撃沈」と訂正発表した。南雲機動部隊の戦闘詳報では、エンタープライズ型空母2隻撃沈、サンフランシスコ型大巡1隻大破、米軍機173機撃墜である。米空母2隻撃沈は山口多聞少将(中将)も誤認しており、山口は真実を知ることなく空母「飛龍」と共に戦死した。
アメリカ軍側
- 戦死
-
- 空母ヨークタウン86名(航空搭乗員含む)、空母ホーネット53名、空母エンタープライズ44名、駆逐艦ハマン84名、駆逐艦ベナム1名、ミッドウェー基地46名。合計362名(航空搭乗員208名、基地・艦乗組員154名) 。高級士官の戦死は無かった。
当時より 苦労をし 今があります 元気で 長生きした人が勝ちです
戦時中の体験談 生きているうちに記して行こうと思ってます。
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