聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★聖書の真実性について

2005-01-31 | 「聖書について」

 

  昔、ある英国人が、旧約聖書の出エジプト記2章3節に「瀝青」(アスファルト:石油からの蒸留残留物・古代には壁面のつぎ目に使用した・ギリシャ語で asphalton)ということばを見て、エジプトの地下に石油があることを確信し、掘削するためにエジプト政府の許可を求め、友人に出資を求めました。友人は、彼の無謀を止めようとしたのですが、彼は、「神のことばたる聖書に誤りがあるはずがない。私は聖書を確信している。モーセの母が『瀝青』を用いたからには、この附近に石油があるに違いない。」と言って友人の忠告を拒み、試掘し、石油層を掘り当てて莫大な富を得たという話があります。これは、フィクションではなく、実話なのです。
  
 しかし、あなたは彼よりも更に幸福な人になることができるのです。彼は「瀝青」ということばを聖書中に見い出して、エジプトに石油があることを確信したのですが、聖書には、もっともっと重大な価値のあることばがあることに気がつきませんでした。それは、「永遠のいのち」ということばです。死ぬべき人間にとって、「石油」と「永遠のいのち」とどちらが大切でしょうか。ちなみに、過去に繰り返された戦争の多くが石油を奪い合う争奪戦であり、現在、世界で起こっているいくつかの戦争は石油をめぐる争いであるとも言われています。

 イエス・キリストは次のように語られました。全世界の富よりも尊いものは、人のいのちです。そして、そのいのちは、この地上だけのいのちではなく、死後も天国で、神様との親密な交わりの中で永遠に生き続ける「永遠のいのち」こそ、もっとも価値のあるものなです。あなた自身が永遠のいのちを得るために、神様が聖書を全人類への贈り物として与えられたのですから、あなたも、どうか真剣に、この聖書を買い求めて、お読みになって下さい。聖書は、読めば読むほどにすばらしい書物であることが分かります。そして、永遠のいのちをご自分のものとなさってください。これは、イエス・キリストを救い主と信じる者に無代価で与えられるのです。

●「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」 (マルコ8:36,37)。 
 
 聖書の中には、全人類の罪のために身代わりに死んでくださったイエス・キリストを信じる者に与えられる「永遠のいのち」について、多くの記述がありますが、その一部だけを紹介しましょう。どうぞ、ご自分で聖書をお読みになってお確かめになってください。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネ3:16)。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)。

●「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』 」(ヨハネ4:14)。

●「わたし(キリスト)は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。 」(ヨハネ10:28)。

●「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。 」(ヨハネの第一の手紙5:13)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 」(ローマ人への手紙6:23)。

●「‥‥『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。 」(テモテへの 第一の手紙1:15,16)。
  

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★罪人を愛する神

2005-01-28 | 「神の愛について」



  「腐った魚は肥やしになるが、腐った人間は何になるか!」と言った人がおりましたが、確かに、今の世の中、益々腐りきってしまったような人が多くなって来ました。宗教家も、政治家も、学校の先生も、警察官や裁判官さえも、何か倫理観が欠けており、不道徳なことを平気でする人が多くなり、腐敗ここに極まれりといった感があります。最近は、「振り込め詐欺」などという巧妙で悪質な犯罪も増加し、気の毒な被害者が続出しています。「今の世の中もう腐りきってしまってどうにもならない。」と嘆いておられる方も多いのではないかと思います。

しかし、聖書の神は愛の神ですから、その腐ったような人間を愛して下さるというのですから、誠に不思議であり、人知を超えた神の愛であります。ごみ箱に捨てるしかないような者まで、忘れることも捨てることもしないで愛してくださるというのです。私たちは、自分の子供が肥溜めに落ちたとしたら、「ああ~汚い!」と言って見捨てるようなことをするでしょうか?とんでもないことです。まして、愛なる神は人から見捨てられるような屑のように思われる人間さえ愛してくださるのです。

ある方から、「それなら、神様は愛なのに、どうして一人残らず、天国に入れてくださらないのですか?」と聞かれたことがあります。私は、しばらくそれに対して何と答えるべきか躊躇していましたが、次のように答えました。「神様は愛の御方で、私たち一人残らず天国に入れたいと願っておられるのですが、また神は聖い方ですから罪人をそのまま天国に入れることは出来ないのです。」

適切な例えかどうか分かりませんが、ちょっと、考えていただきたいのです。みなさんに小さな子供さんがいるとします。その子供さんが外で遊んでいるうちに下水溝にでも落ちたのでしょうか、足の先から頭の頂まで、体中を汚して泥んこになって帰って来たとします。みなさんなら、その子をそのままで部屋に入れるでしょうか。きっと、玄関で裸にして、お風呂で洗ってきれいにしてから部屋に入れるのではないでしょうか。

神様も同じなのです。罪で汚れた私たちを、まず、キリストが私たちを救うために十字架で流された血潮で聖よくしてから、天国に入れて下さるのです。聖よくされることを拒んで汚れたままにしていては、神様の救いを受けることができません。永遠の滅びに入る以外にないのです。神様は罪や汚れを憎まれる方ですが、罪人を愛してくださり、キリストの十字架によって、救いの道を備えてくださっているのです。何とすばらしい神様の偉大な愛ではないでしょうか。

●「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 」(ガラテヤ人への手紙1:4)。

●「‥‥私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5:8)。

●「‥‥御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(ヨハネの第一の手紙1:7~10)。


          
 

★悲しき勘違い

2005-01-25 | 「キリストの偉大なる生涯」



  ある読み物に書いてあった感動的な話です。スイスのある村に「バリー」という名の主人に愛されていた賢い犬がいました。バリーは、世界によく知られたセントバーナード犬でした。この犬は、スイスのアルプスの雪の中から、それまでに合計して41人もの遭難者を救い出したことのあるすばらしい犬でした。吹雪になると、いつでも、バリーは恐ろしい死から人々を救うために、すぐにでも吹雪の中へ、飛び出そうとします。そして、生来の敏感な嗅覚によって、雪崩などで深い雪の中に埋められた遭難者を、すぐに見つけ出すことができました。

さて、このセントバーナード犬バリーに悲しい事件が起こりました。それは、バリーが42人目の遭難者を救い出そうとした時のことです。バリーは、雪に埋もれ死にかけている男の人を掘り出してから、訓練されたとおり、自分のからだをその男の上に伸ばして暖め、死にかけている男の人の命を回復しようとしたのです。しばらくして、犬の体温で暖められた男が、ぼんやりと目を覚ますと、自分の体の上に犬がいるではありませんか。

男はそれを見て、自分を殺そうとしている狼だと思い、とっさにナイフで、バリーの脇腹を刺してしまったのです。バリーは鳴き声もたてずに、飼い主の所へ這うようにして帰って行きました。その犬の歩いたあとには、雪の上に赤い血が点々と残っていました。飼い主の所まで、やっとたどり着いたときには、とうとう玄関の前で息が絶えて死んでしまったのです。吹雪の中を、バリーは人を救うために行ったのに逆に殺されてしまったのです。なんと、悲しい出来事でしょうか。

どうして、その男の人はそのような残酷なことをしてしまったのでしょうか?それは、バリーの目的を勘違いしてしまったからなのです。バリーは彼を救おうとして、彼の体の上に乗って暖めていたのに、彼はバリーが自分を殺そうとしていると思ってしまったのです。もし、あなたでしたら、どうなさるでしょうか。命を失うような危険な場所にいたとして、あなたを救いに来た人を刺すでしょうか。しかし、事実は大勢の人々が、その男の人がしたようなことを歴史の中でしたのです。

約2,000年前に天から下って来られた神の御子イエス・キリストは、貧しい馬小屋で赤子として誕生され、大工の子として両親に仕えられ、成長されました。30歳になられてから3年半の公生涯は、生まれつきの盲人の目を開かれたり、人々から忌み嫌われていたらい病人を癒されたり、手足の萎えた人や中風の人や、その他多くの可愛そうな病人や障害者の人に優しく接してくださり、友達のいない孤独な人、貧しい人々、社会から疎外されている人々、人から見下げられていたような罪深い人々にも救いの手を差し伸べてくださいました。また、死人が葬られた墓の傍らで同情の涙を流されたこともありました。そして、イエス・キリストは、死人をさえ蘇らせるという力あるわざもなされたのです。

イエス・キリストは、この地上の生涯において、人を愛する以外に何もなさいませんでした。しかし、この罪の全くない愛に満ちた御方が、33歳の時に十字架に貼り付けにされて、残酷な姿で殺されたのです。もちろん、その十字架の背後には、神様の驚くべき偉大なご計画があって許されたことでありました。それは、私たち罪人の身代わりに神様の刑罰を受けて下さったことを意味しています。人間の側から見ると、キリストに対するユダヤ人指導者の妬み、弟子の一人であるイスカリオテ・ユダの裏切り、人々の憎しみ、ローマ総督ピラトの保身的な意図と政治的な判断など、諸々の理由が混在していますが、神の側から見ると、キリストが十字架に付けれて死なれることは、みこころであり、人類を罪とそのさばきから救うための唯一の救いの道であったのです。

そして、2,000年過ぎた今日においても、イエス・キリストがこの世に来られた目的を正しく理解していない多くの方がおられることは誠に悲しいことです。キリストに対する様々な誤解、勘違いがあるのです。あなたは、キリストを単なるキリスト教の教祖とか、道徳家と勘違いなさっておられませんか。聖書のみことばから、どうか正しく理解なさってください。あなたを救うために来られて、十字架にかかってご自身のいのちを捨てるほどの愛を示してくださったイエス・キリストを信じて永遠のいのちを得てくださいますようにお勧めいたします。

●「あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男(バラバ)を赦免するように要求し、 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」(使徒3:13~15)。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(Ⅰヨハネ3:16)。

●「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 」(Ⅰヨハネ4:9)。

●「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。」(Ⅰペテロ3:18)。 
 

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★人間の貪欲の罪

2005-01-22 | 「人間の罪の問題」



 「人間と豚と、どちらが食いしん坊か」と尋ねたら、多分、多くの人は豚と答えるでしょう。ところが事実は逆で、人間の方がずっと食い意地が張っているのだそうです。ある人が実験してみました。豚に好物を腹いっぱい食べさせました。鼻の先にご馳走を突きつけ、後ずさりして、いやいやするほど食べさせたそうです。そして、後で豚の胃袋を解剖して調べてみると、胃袋には、シワが寄っていて、まだいくらかは余裕があったというのです。豚はどんなご馳走でも腹八分目で止めるのです。

 人間の場合、ご馳走を満腹になるだけ十分食べたあとの胃袋をレントゲンで調べると、ぱんぱんに膨れ上がり、テカテカに光るほどになっているのだそうです。そこで、子供の頃からよく聞かされたことばを思い出す方も多いと思いますが、「食事は腹八分目にしなさい」と。「腹八分目にしなさい」という忠告は、人間だけに必要なのでしょうか。

 なぜ人間はこんなに食べるのか。ある人は、それは、人間が食物を料理することを知ったからだ、と言います。食事が美味しいので、暴飲暴食するというわけです。それも確かに一理ありますが、もっと大切なことがあります。それは、豚は神が与えた本能のコントロールによって生きているのですが、人間は自由意志を働かせて生きていることです。食べること、食べないこと、どちらでも自由に選ぶことができるのです。そこに人間の本質と特徴があります。

 ですから、日常生活の中で自由意志の訓練が大切なのです。人間の心の働きには、知性、感情、意志があります。ところが、人間は神に対する不従順の罪によって、神から離れ、神との交わりがなく、神のいのちから切断されているので、心が正常に働かなくなっているのです。すなわち、知性は曇ってつむじ曲がりになっています。感情は混乱し、特に性的な関係において、ハートの歪みが露わになっているのです。そして、意志は薄弱無力になっています。そして、正しく意志を働かせることができないのです。高等教育を受けても、人間の貪欲という罪は直らないのです。

 先日、車を運転中にラジオで聞いたことばなので、記憶が定かではありませんが、有名なガンジーが言った名言で、「この地球には人間が生きて行くのに必要なものはみな備わっているが、人間の貪欲を満たすだけのものはない。」という意味のことを言っています。私はなるほどと思いながら聴いていました。今日、人間は非常に貪欲になっています。しかし、世界の貧しい国々では、毎日何万人も飢えに苦しみ餓死しているという矛盾した事実があります。

 自由意志を正当に働かせるために、そして人間が人間らしく生きるためには、どうしても神の救いが必要なのです。イエス・キリストによって、知性、感情、意志の全人格的な新生が必要なのです。神の御子イエス・キリストは、このように罪によって歪んでしまった人類を救うために、人となってお生まれになられ、十字架で私たちの自己中心という罪の身代わりに死なれた救い主なのです。

●「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカの福音書12:15)。

●「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。 」(ヤコブの手紙1:14,15)。

●「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。 」(ヤコブの手紙4:1~3)。
 

私たちに、本当に必要なのは、貪欲に胃袋を満たすことではなく、心の飢えと空洞を満たす天からのパンを食すること、すなわち、イエス・キリストを心から信じ、受け入れることなのです。あなたも、どうか、そのことに一日も早くお気づきになられますように。

●「わたし(キリスト)がいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネの福音書6:35)。

●「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント人への手紙5:17)。 


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★逃げ出さない幸福

2005-01-20 | 「人生の幸せと平安」



 みなさんは、中国の故事から来ている諺で「人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)」ということばをお聞きになったことがあると思います。
「人間(じんかん)」とは日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。また、「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな)=老人」という意味です。「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」という事を教えている諺なのです。
人生の幸不幸や運命は、計り知れないものがあって、予測できないものである。」という意味ですが、本当にその通りだと思いませんか。
 
昔、中国の北方の城塞に住んでいる老人がいました。その老人は名馬を持っていたのですが、ある日、その馬が逃げ出してしまいました。近所の人が彼を慰めると、「これが幸福のもとにならないとは限らない。」という返事です。やがて、馬が戻って来たのです。しかも、すばらしいたくさんの名馬を連れて・・・。近所の人々がお祝いを言いに行くと、今度は「これが不幸のもとにならないとも限らない。」と答えたのです。その名馬が産んだのも立派な馬だったのですが、その馬に乗った老人の息子が落馬して足を骨折してしまったのです。
人々が慰めると、「これが幸福のもとにならないとも限らない。」という返事です。その後、戦争が起こって、多くの若者が兵士として駆りだされて戦死しました。しかし、その息子は足が不自由なために、戦争に行かずに済んだのです。その後のことは、よく分かりませんが、これが、「人間万事塞翁が馬」という諺のもとになった中国の昔話です。   

「人間万事塞翁が馬」の「人間(じんかん)」とは、日本で言う人間(にんげん)の事ではなく、世間(せけん)という意味です。「塞翁」というのは、城塞に住んでいる「翁(おきな):老人」という意味です。要するにその意味するところは、「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍へ、また禍から福へと転々と彼の人生に変化をもたらしたように、まったく禍福(不幸と幸福)というのは予測できないものである。」という意味なのです。

「やっと、目指す有名大学に入れたと喜んでいたら、病気になった。」とか、「素晴らしい結婚が出来たと思ったら新婚旅行で事故死した。」とか、「職場にも慣れて来て喜んでいたら、倒産してしまった。」とか、「マイホームを建て、ローンの返済も済んだと一安心していたら、地震による津波で、家が流失してしまった。」など、とかく、「幸福」というものは、掴んだと思ったら逃げ出して行くのです。多くの人々の一生は、この幸福を追いかける鬼ごっこと、たまたま捕まえた幸福を逃げ出さないように、閉じ込めようとする、空しい努力の中に費やされているのではないかと思われるのです。

間違いのもとは、「幸福」というものを外から捕まえて来ようとするところにあるのです。「逃げ出さない幸福」はその人の内に持つべきものなのです。人の外側、つまり、事情や境遇に具合の良いことが起こることを指して「幸福」というなら、そういう幸福は遅かれ早かれ逃げ出して行くのではないでしょうか。例えば、日本のある宗教では「宿命論」を説きます。「一切の出来事は、あらかじめ決定されていて、なるようにしかならず、人間の努力もこれを変更できない。」というのです。「めぐり合わせが悪かった。」とか、「悪い星のもとに生まれて来た。」というのですが、もしそうだとすれば、人間の運命を決めるにはあまりにも不明確と言わざるを得ません。

聖書の神が与えようとしている「幸福」は、環境や境遇に関係なく、常に心の内に持ち続けることのできる平安であります。聖書では、「神の摂理」ということを教えています。摂理とは、何かと言いますと、創造者であり、愛の御方である神がご自身の主権と意志によって、私たち一人一人の人生の一切を最善に導いておられるということです。人間的には不幸と思えることの中にも、愛の神の摂理が働いておられることを認めることができるのです。

すべてのことを益としてくださる愛の神を認める時に、確かに今までとは全く違ったものの見方ができるようになります。決して逃げ出さない、失われない幸福を神は与えてくださいます。それは、この地上だけでなく、永遠までも続く幸福であります。決して逃げ出すことのない、不動の平安と幸福があるのです。あなたも、是非、神様がイエス・キリストによって備えられたこのようなすばらしい救いと「幸福」を得てくださいますように、心からお勧めいたします。このような幸福は、この地上にある物質的で一時的なものではなく、永遠に神に祝福される幸いであり、死を超越したものなのです。

●「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28)。

●「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 」(ピリピ人への手紙4 :12)。

●「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 これは、信仰の結果である、た ましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロの手紙1:8,9)。

    

★キリストの生涯

2005-01-17 | 「キリストの偉大なる生涯」

  今から約2,000年前、自然法則に逆らって、一人の貧しい処女から生まれた方がおられます。彼は、小さなユダヤという国の田舎の貧しい馬小屋で誕生し、飼葉桶に寝かせられました。彼の父親は大工で、彼は生涯の間、貧しく質素な生活をしました。彼は、外国に旅行したこともなく、自分の国の国境を越えたのは、一回だけでした。幼い時に、両親と共に亡命したことがあったのです。この方には、お金や財力も政治的な影響力もありませんでした。また、彼には特別な学歴があったわけでもありませんでしたが、少年時代には何人かの偉い学者たちをその知恵によって驚かせたことがありました。
 
彼は、30歳を過ぎてから、公にご自身を現され、自然法則に逆らって、嵐を静めたり、海の上を歩いたり、その他数々の奇蹟を行って人々を驚かせました。彼は薬を使うこともなく、無料で大勢の病人の病いを癒されました。彼は病院を持っていませんでしたが、内科、外科、婦人科、眼科、耳鼻科、皮膚科、小児科、心療内科‥‥などに属するあらゆる病いと患いを癒されたのです。そして、多くの悩み苦しめる者に深い同情を示され、愛と恵みに満ちた心をもって接しられ、また優しく救いの手を差し述べられました。彼は、約2,000年の間に、世界中の医者が癒したよりもたくさんの寂しい心を癒し、苦しんでいる人の心に慰めを与えました。

彼は、一冊の本も書きませんでしたが、彼について書かれた本は数え切れないくらいあります。彼が創設した学校は一つもありませんが、不思議なことに彼にはたくさんの生徒がいます。その数は、世界中の学校の生徒の数に勝るとも劣りません。もちろん彼は、志願兵を募ることもなく、武器で人を撃つこともしませんでしたが、彼ほど多数の志願兵を持つ将軍はいつの時代にもいません。彼の唯一の武器は「愛」という武器だったのです。そして、彼を信じて従う者たちは、一発の銃声もとどろかすこともなく、大勢の敵対者たちを無条件降伏させたのです。それは、ただ「愛」という武器によってです。

昔あった多くの国々の偉大な政治家の名前は泡沫のごとく消えて行きました。また、幾世代の多くの科学者や哲学者の名前も次第に忘れ去られて行きます。しかし、この方の名前は人々から忘れられるどころか、益々地の果てまで知れわたるばかりなのです。

この「彼」とは、一体どなたなのでしょうか?実は、この方こそ、主イエス・キリストなのです。人々は、イエスを十字架につけましたが、死後三日後に死人の中からよみがえって墓から出て来られました。当時のローマ帝国は彼を無き者にしようとあらゆる手を尽くしたのですが、彼はまことの神の力によってよみがえらされ、その時から2,000年過ぎた今日も、「すべての人々の救い主」として、世界中で宣べ伝えられているのです。

彼は世間からは、田舎のただの大工の息子と思われていましたが、実は、全知全能の神の御子であり、人間の罪とその結果の死の恐怖に慄いている者たちを解放し、すべての問題を解決する比類なき方として宣べ伝えられているのです。どなたもイエス・キリストというお方について知れば知るほど惹きつけられますが、このお方のことは、すべて「聖書」という書物に書き記されています。是非、聖書をお求めになられて、神が示しておられるすばらしい愛と救いをご自分のものとなさってください。それによって、あなたの人生は益々豊にせられます。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。 」(テモテへの第一の手紙2:4~6)。

●「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(テモテへの第一の手紙1:15)。

●「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒の働き4:12)。


●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。     
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★「雪」に想うこと

2005-01-14 | 「聖書と人生」

  昨日の朝、目覚めて玄関から外に出て見ると、ふあ~と柔らかい綿のような雪が数十センチ降り積もっていた。どうやら、寝ているうちに昨夜から降り積もった雪らしい・・・。
冬の空から降って来る雪はみな同じように思われがちだが、実はいろいろな表情があり、地吹雪のように下から舞い上がるような猛々しく荒れ狂ったような雪もあれば、音もなく、しんしんと降り積もる雪もある。

太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ 次郎の屋根に雪ふりつむ。
 

これは、三好達治の「測量船」の中の「雪」という有名な二行詩である。小学校の時の国語の教科書に載っていたのを読んだ記憶があり、何か郷愁を誘う詩である。田舎に住んでいた子どもの頃を思い出すのだ。たった二行ではあるが、雪国のしんしんと降りしきる雪の情景が浮かんで来るのである。
ことばというのは不思議なものである。多くを語っても何も心に残らないこともあるが、たった一行でも心に残ることばもある。雪国に住む者なら、だれでも、この二行を読むだけで、静かに深々と降り積もっている夜更けの冬の情景を思い浮かべるのではないだろうか。

「雪」には何かとっても不思議な魅力がつまっているような感じがするのは、私だけであろうか。四季の風物の中でも、「雪」はとりわけ不思議な存在ではないだろうか。天から静かに舞い降りて来る雪のひとつひとつはもちろん冷たいのだが、場合によっては温かさももたらしてくれる。その結晶は、拡大して見ると六角形をベースにした、実に美しく繊細な模様で、驚くことに、一つ一つの形がみな違うというのだ。 そして、一夜にして音もなく何万トンも降る雪は、夜の世界の雑音を吸い込んでしまい、不思議な静寂さで夜を包み込んでしまうのだ。

しんしんと降り積もる雪は、醜いものも、汚れたものも、俗なるものも、分けへだてなくあまねく包み込んで、白一色にコーティングしてしまうのである。全てを赦し、癒し、受け入れ覆ってしまう大きな「愛」にも似ているのではないだろうか。雪は、それはそれは寛大で、静かに森羅万象を瞑想させ、きよめてくれるようにも思われるのである。それは神がもたらしてくれた美しさの中でも、特別に神秘的なものの一つではないだろうか‥‥。

このような白く美しい雪を見ると、私は聖書の中から少なくとも三つのことを想起させられるのである。

(1)六角形をベースにした雪の結晶の形がみな一つ一つ違うというのは、神秘と不思議に満ちており、それを設計したディザイナーであり、創造者である「神の存在」を疑う余地がないということである。

●「神は雪に向かって、地に降れ、と命じ、夕立に、激しい大雨に命じる。」(ヨブ記37:6)。

●「あなたは雪の倉にはいったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか。(ヨブ記38:22)。


(2)キリストの十字架の愛は、自らの罪汚れのために身代わりに死んでくださったキリストを信じる者たちのすべての人々の罪を覆ってしまう偉大な愛そのものである。

●「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」(箴言10:12)。

●「何よりもまず、互いに愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
                         (ペテロの第一の手紙4:8)。
 
(3)人間はみな罪人である。しかし、人類の罪のために身代わりに死なれたキリストの十字架の愛のみわざが、信じる者のすべての罪を雪のごとく真っ白に聖めるということである。

●「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のように(白く)なる」(イザヤ書1:18)。 

 聖歌710番「罪の世人らに」の中に、次のような一節がある。

♪ わが罪のために いばらをいただき 十字架を背負いて 苦しみしイエスよ 
罪を悲しみて 来たれるわれをば 白くなしたまえ きよき血潮にて 
雪よりも 雪よりも 白くなしたまえ きよき血潮にて ♪ 


      

★人を赦すことと神の愛

2005-01-11 | 「聖書と人生」

  人間にとって、最も難しいことの一つは「人を赦す」ことではないでしょうか。どなたにも、何度か人を心から赦すことができないで苦しまれた経験があるのではないかと思います。そして、人を赦さないことの心の葛藤と苦悩の方が、赦すよりもはるかに大きく、それが自らの精神的なストレスとなって疲れてしまうのです。そのことが頭では分かっていても、赦すことができないのが人間の弱さではないではないかと思います。

新約聖書の福音書の中で、イエスの弟子の一人であるペテロが、主のみもとに来て尋ねました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」(マタイの福音書18:21)。ところが、その質問に対して、イエスは何と、「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」とお答えになられたのです。「七度を七十倍するまで」と言うのは、490回という意味ではなく、無限に赦すという意味なのです。ユダヤ人にとって「7」という数字は完全を意味する数字であり、そのまた70倍というのは、「無限」を意味するのです。

そして、イエスはそのことを具体的に示すために一つのたとえを語られたのです。
「‥‥王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。‥‥」(マタイ18:23~28)。

この例え話の中で「王」は愛なる神を表わし、「しもべたち」は人間を表わしています。
一万タラントとは、莫大な金額であり、当時のユダヤでは、労働者の賃金は一日一デナリであり、一タラントは六千デナリになります。つまり、一万タラントとは、約20万年分の賃金ということになります。こんな莫大な借金を返済することは誰にもできません。
要するにこれは、人間が父なる神に対し、償うことのできない罪を犯していることを示しているのです。

この借金のあるしもべが、王に返済の猶予を申し出ると、「王はかわいそうに思って」その借金を全部免除してやったのです。一万タラントを全部免除することなど、常識では、とても考えられないことであります。
しかし、実は、愛なる神はこれ以上の豊かなあわれみと恵みを私たち人間に示してくださったのです。すなわち、神はご自身の御子をこの世に遣わされ、罪の全くない御子が十字架に架かられて、私たちの罪の赦しのために身代わりに尊い血潮を流して死んでくださったのです。これは、人知をはるかに超えた神(キリスト)の愛であります。

ところで、この借金を赦されたしもべは、自分の同僚に貸していたたった百デナリのはした金(一万タラントと比較して)の借金の返済を迫ると、同僚は「もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。」と懇願したのですが、彼はそれを容赦せず同僚を投獄してしまったのです。これは何と愛のない、狭量で冷酷な行為ではないでしょうか!!しかし、実は、これは私たち一人一人の人間の愚かな姿なのです。

愛とあわれみに富む神はキリストの十字架によって、私たちの生涯のすべての罪の赦しのためにその道を開いてくださいました。イエス・キリストの十字架の愛と赦しを信じて、神によって自分の罪が豊に赦されたことを知り、その恵みを感謝することのできる者は、自分の友人や隣人の失敗や罪も心から赦すことができるようになるはずであります。あなたも、人を心から赦すことのできる優しい人になりたいとは思われませんか?

★「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ人への手紙4:32)。 

★「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ人への手紙3:13)。
 

            

★厳しい試練の冬

2005-01-07 | 「人生の試練と逆境」

  みなさんの中に、今、辛い悲しい試練に遭遇して、失望と落胆のうちに沈んでおられる方がおられるでしょうか。でも、そのような方に少しでも励ましと慰めを与えることができればと心から願って書いてみました。 

熱帯地方は一年中暖かく、植物を育てるには理想的な地域だと考えていましたが、実際はそうではないことが最近分かりました。ほとんどの温帯性の木は、熱帯ではそれほどよく成長しないのだそうです。同じことが、スイセン、チューリップ、ヒヤシンスといった春咲きの球根植物にも言えるのです。これらの植物は、熱帯だと最初のシーズンはうまく育つように見えますが、葉や花が散ってしまうと、一種の冬眠状態に入り、それっきり再び目覚めることはほとんどないのだそうです。
 
もし、ナシやモモの木を冬の間、暖かい室温にずっと保っておいたとしますと、致命的な害をこうむってしまうのだそうです。このことは、温帯植物にとって「寒さ」が重要な意味を持っていることをはっきり示しています。温帯植物は明らかに寒さを必要としているのです。落葉樹や球根類は、秋に葉を落としたあと休眠に入りますが、再び成長を始めるには、必ずその前にある程度の寒さにあわなければならないのです。

私たちの人生においても「厳しい試練の冬」を経験することがあります。
試練の寒さもいろいろです。難病に苦しみつつ病床に伏しておられる方もあれば、癌を宣告されて途方にくれておられる方、他人から酷い中傷を受けて傷ついておられる方もおられるでしょう。
私の知人(まだ、30代半ばの女性ですが)で、最近二度の離婚を繰り返して、今、二人の子供さんと三人でこれから生きて行こうとされておられる方がいます。ご本人にとっては、とても辛く悲しい寂しい経験だと思います。これから先のことを考えると、私も同情の涙を禁じ得ません。

 しかし、聖書の中には、かつて五人の男性と結婚し、その後、6人目の男性と同棲している女性の話が出て来ます。砂を噛むような空しい日々を送り、人目を避けるようにして生活していたその女性は、ある日、水を汲みに行った井戸の側で休んでおられたイエス様と出会うのです。しかし、イエス様は、彼女を一人の女性として暖かく受け入れ、接してくださいました。そして、イエス様はその女性にやさしく言われました。

●「この水(この世の楽しみ)を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネの福音書4:13,14)。 

 彼女は、イエス様を信じて永遠のいのちを受け、幸福で、積極的な女性となりました。そして、イエス様と出会ってから、彼女の人生は180度変わってしまったのです。イエス様による救いの喜びを周囲のみんなに証しする人に変えられたのです。人生の試練の冬は、神に立ち返る絶好の機会として、神様が備えられた恵みではないでしょうか。新約聖書の中に次のようなみことばがあります。

●「 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。 」(ヘブル人への手紙12:11)。

●「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(コリント人への第二の手紙10:13)。

●「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。 ‥‥‥苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 」(詩篇119:67,71)。
  
●「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)。 
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★死に対して備えよ!

2005-01-06 | 「人の死とその備え」
 
  私たち人間が、この世に生まれて来る出産の模様は、だれでも大体同じと言ってもいいのではないかと思います。約280日間母親の胎内で、成長を続けた胎児は、陣痛と共に娩出され、「オギャ~!」と産声を上げてこの世の仲間入りをします。仮死状態で生まれる場合を除き、正常分娩の赤ちゃんの生まれ方は、大体同じであります。
 
 それに比べて、人間の死に方はなんと千差万別ではないでしょうか。安らかに大往生を遂げる人もあれば、七転八倒の苦しみのあとに、死を迎える人もあります。また、交通事故で急死する人もあれば、癌のように徐々に死に至る場合もあります。死ぬ年齢によっても、死はその人にとっても、また、家族の人にとっても、かなりの差を生じます。たとえば、90歳の老人が老衰のために死ぬのと、働き盛りの一家の主人が癌で死ぬのとでは、家族に与える影響もかなり違ってきます。
 
 人間、医者であっても、みなと同じように病気に倒れることがありますし、死を免れることができないわけです。肺癌になった50代の国立病院の内科医が、見舞いに来た同僚に言ったそうです。「人間であることって、辛いですね。みな死ななければならないのですから。」。この言葉を聞かされたその人は、死を覚悟された先生の気持ちを思い、言葉に詰まったと述懐していたそうです。

 どなたの人生にも最後は死をもって終わるわけですが、もう何年も前のことですが、「生命とは何か」を最も深く考える職業は何かという問いを約2,000人の医師にしたたそうです。
その結果は、①医師:49.3%、②宗教家19.3%、③哲学者15.8%であったそうです。
そして、「医師が生命を強く意識する時は?」の問いには、①患者が死亡する時:50.9%、②生命が誕生する時:34.7%、③闘病の姿を見る時:30.7%、‥‥などとなっているそうです。

 人が死んで行くのを見る時に最も生命を強く意識するというのは、頷けることであります。「命」は神のものであり、人間の力の及ばない領域のものであります。ですから、人間は生命を与えておられる神の前に恐れの心を持たなければならないのであります。人に命を与え、生かしておられる絶対的な主権者は創造者なる神であります。

 そして、大切なことは、人は死んですべてが終わりなのではありません。肉体は滅んでちりに返っても、人間のたましいと霊は永遠に存在するのです。そして、死後において私たちに命を与えて生かして下さった神の前に出なければならない時が必ず来るのであります。聖書には、次のような厳粛なことばが書かれており、死に備えるようにと、警告しておられます。

●「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。‥‥神は善であれ、悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者の書12:7,14)。

●「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」
(ヘブル人への手紙9:27)。

●「あなたは、あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス書4:12)。

 そして、神は聖なる方であると同時に愛の神ですから、死後の恐ろしいさばきから救われる道もすでに用意されておられるのです。イエス・キリストは、約2,000年前に、全人類の救い主として、この世に下って来られた神の御子であり、33歳の時に私たち罪人の身代わりとなって、十字架に架かられ死なれたお方であります。そして、死後三日後に復活され、死を征服された御方なのです。

●「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」 (使徒の働き4:12)。
      

★「真理」を求めて

2005-01-03 | 「聖書について」

  新しい年の初めに、私たちの人生において最も大切な「真理とは何か」について考察してみましょう・・・・。

「群盲象を撫でる」あるいは、「群盲象を評す」という諺があります。多くの盲人が一人づつ象の一部を撫でてみるのですが、腹に触れた者は、「大きな太鼓のようだ」とか「大きな壁のようだ」と言い、耳に触れた者は、「大きなうちわのようだ」と言い、足に触れた者は、「太い柱のようだ」と言うのです。また、象の鼻に触った者は、「木のようだ」とか、「長い管のようだ」と言うのであります。

各自の手に触れた部分だけで,象の全体を判断してしまうのであります。通常、凡人とは大体そういうものではないでしょうか。物事の一部にとらわれて大局的な判断ができないことのたとえであります。また、物事の一部は分かっていても常に全体を知り、把握できないものであるという大切な教訓でもあります。一般的に、自分の知っていることだけで、全体をつかんだつもりになるのことが多いものであります。真実の一部をつかんで、真理のすべてを知ったように考えるのです。
 
それは、人間の歴史にも言えることではないでしょうか。今日、科学は飛躍的に進歩し、科学が人類に与えたものは数え切れないほどであります。そこで、人間の高慢によって、錯覚が生じるわけであります。人間には、自分の見たもの、触ったものだけで、これが真実のすべてであるかのように判断する過ちに陥るのです。「宗教」にも、真理のほんの一部を伝えるものがあるかもしれませんが、だからといってそれが真理のすべてではないということを知っていただきたいのです。
 
人間は、長い歴史の中で、常に真理を追求して来ました。ある人は、宗教によって、またある人は哲学によって、またある人は科学によって、またある人は文学によって、それぞれ真理を追求して来たのです。しかし、誰ひとりとして、「これこそ正しく真理である」と断言することのできた人は、いまだに一人もいないのです。「聖書」こそは、神が全人類に啓示された「真理の書」であり、私たちは、これによって、初めて「真理とは何か」を知ることができるのです。

真理の書である聖書は「神の実在」についても、明確に語ります。

●「‥‥不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。‥‥‥それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。 」(ローマ人への手紙1:18~25)。

また、パウロは「キリストの福音」についても、明確に証ししています。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。 」(Ⅰテモテ2:4~6)。

昔も今も、いつの時代にも、神の真理が啓示されても、その真理を阻み、それに逆らう人はいるのであります。
ですから、伝道者パウロは、力強く次のように語っています。

●「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、 恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。 」(Ⅱコリント4:2)。

●「私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。 」(ガラテヤ2:5)。

●「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。 」(Ⅱコリント13:8)。


そして、聖書を深く学ぶ時に、イエス・キリストこそ、聖書全体のテーマであり、「真理」そのものであることを知らされるのであります。そして、真理を知ることによって、人は真の自由を得ることができるのです。

●「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』‥‥」(ヨハネの福音書14:6)。