聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★身代わりの死によって

2005-11-29 | 「神の愛について」


●「ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。・・・・』」(創世記1:29)

 神様は、最初に人を造られた時、人に食物を備えてくださいました。神様がもしその食物を備えてくださらなかったなら、私たちの肉体は一日も生きられないのです。ところで、神様が肉体の生命を維持するために食物として人に与えたのは種を持つ草や木の実である植物であります。神様が人を生かすために何か別の方法があったかもしれませんが、そこには深い意味が隠されているように思われるのです。よくよく考えて見ますと、人間が毎日このように生きているということは、必ず他の何かのいのちが身代わりになって犠牲になっていることを意味しているのであります。

 「あるものが死ぬことによって別のものが生かされている。」という”犠牲の原則”があります。この犠牲の原則は日常生活の中に恵みとして絶えず表されているのですが、私たちは案外そのことに気づいていないことがあります。そして、この事実は神を全く認めようとしない人にも及んでいるのです。すなわち、人間の肉体は他の有機体の生命(いのち)ある動植物が殺されることによって生きているということであります。私たちが毎日口にするご飯やお惣菜もすべては、他の植物や動物が犠牲になって、その身代わりに死んだ動植物のおかげで私たちは生かされているのです(ちなみに、肉食が許されるようになったのは、ノアの大洪水の後のことです)。神様は創造の初めから身代わりの死による人類救済のご計画をお立てになっておられたことを暗示しているのではないでしょうか。

●「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3:21)。

 神様は、人間(アダム)が罪を犯した直後にすでに人のために救いの道を用意しておられました。アダムとその妻エバは、エデンの園において自らの裸の恥を覆うためにいちじくの葉をつづり合わせて自分たちの腰の覆いを作ったのです。しかし、愛なる神様は、彼らをあわれみ、皮の衣を作って彼らに着せてくださったのです。このみことばの背後には、神に近づく道としての身代わりの犠牲のことがすでに暗示されています。「皮の衣」を着せるためにはどうしても動物の血が流されなければなりませんでした。これは、明らかに神のあわれみによるものであります。そして、それは「身代わりによる贖い」ということであります。人間の肉体でさえ他の命の身代わりによって生かされているのであれば、神に罪を犯した人間の本体である霊的ないのち(たましい)が生かされる(贖われる)ためには、更に強力な何かの身代わりが必要であることは明らかなことではないでしょうか。

 旧約時代には、律法によって定められた多くの動物の血が流されました。民数記28、29章によると、主が定めた公的な犠牲の動物だけで、一年間に1,273頭もの動物をささげなければならなかったのです。モーセからキリストまでの約1,500年間には神が定めた公的な動物だけでも、約200万頭の動物の血が流された計算になります。しかし、これは年間行事の最低必要数であって、私的にささげられたものを合わせると、天文学的数字なります。ちなみに、ソロモンは神殿の奉献の時に一度に何と羊と牛を合わせて14万2千頭のいけにえをささげたことがありました。Ⅰ列王記8:63参照。14万2千頭もの動物が一度にささげられた場面を想像してみてください。犠牲の動物は山と積まれ、動物の血は海を赤く染めるほどであったと思います。

 さて、このような膨大な量の動物は一体、何を示すのでしょうか。それは、一つは人間の罪の大きさであり、二つ目には、キリストの身代わりの死の価値の絶大性ということであります。それほどの天文学的数字の膨大な量の犠牲がささげられましたが、それでもたった一人の人間の罪を取り除くことすらできなかったのであります。どうしても、罪のない神のひとり子イエス・キリストの十字架の身代わりの死が必要であったのです。

 物の値打ちは、それを贖う代価によって比較することができます。人間の罪を贖う代価は、どうしてもキリストのいのちでなければならなかったのです。それよりも低い代価では決して贖うことができないのであります。たとえば、ある罪人が死刑の判決を受けたとすれば、だれでもその犯した罪がどれほど大きなものであるかを判断することができます。イエス・キリストの十字架の身代わりの死が私たちにとってどれほど大きな代価であったのかを是非、真摯にお考えになってください。

●「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。 」(ヘブル人への手紙10:10)。

 正しい意味において、「罪人の身代わりになる資格(必要条件)」は少なくとも三つ考えられます。
①まず第一に、「人であること」です。
当然のことですが、人の身代わりになるためには、人間でなければなりません。家畜や犬や猫ではダメなのです。猿もその外側の姿は人間に近いと言われていますが、人の身代わりになることはできません。大変次元の低い話ですが、ハイジャック事件があった場合、その人質の代わりに犬や猫を連れて行っても、犯人は人質を解放することは決してありません。
②次に、「罪が全くない正しい人であること」が必要であります。
罪のある人間は罪人の身代わりになることはできないからです。それは、溺れている人が溺れている人を救えないのと同様なことです(もちろん、罪の全くない正しい人というのはこの地球上に一人も存在したことはありません)。
③人間以上の存在、すなわち、「神であること」が必要であります。
なぜなら、もし万が一、この世界に罪のない一人の人がいたとしても、その人はただ一人の人間の身代わりにしかなれません。ですから、世界中の人類を贖うためには、人間以上の存在、すなわち、神であることがどうしても必要であります。

 そして、この三つの条件を満たすことの出来る方は、ただ一人、比類のないイエス・キリストだけであります。神の御子であられるイエス・キリストは、人の姿を取ってこの地上に誕生され、人として完全に罪のない聖よい生涯を送られました。聖よく正しい方であるイエス・キリストが私たち罪人の身代わりとなって死んでくださったのです。聖書の次のみことばにある通りであります。 

●「キリストも一度(人間の)罪のために死なれました。正しい方(キリスト)が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(Ⅰペテロの手紙3:18) 。

 これは外国であった古い話ですが、ある時一人のクリスチャンの青年が路傍伝道をしていた時、群集の中から一人の男性が「あなたがたはキリストが十字架で身代わりに死んだと言われるが、私は他人の死によって恵みを受けようとは思わないね!」と嘲りました。すると、そのクリスチャンの青年は「あなたはそう言われるけれども、あなたが履いている靴は、死んだ牛の皮で作ったものですよ。あなたの被っている帽子は、死んだウサギの毛で作ったものですよ。あなたの着ている服やシャツは羊の毛から作ったものですよ。あなたの持っている鞄(かばん)は、ワニの皮で作ったものですよ。また、あなたは家で食事をするとき、牛肉や鶏肉を食べたことはありませんか?」と言いました。このことばに、その男性は無言で去って行ったそうであります。

 神様は愛なる御方であり、大変恵みに満ちた御方です。私たちの健康の維持のためにすべての必要なものを与えられる方は、同時に私たちの最大の敵である罪より解放するためにイエス・キリストをも十字架につけて全人類の贖罪とされたのであります。イエス・キリストの身代わりの死を信じる者は、だれでも罪と神のさばきから救われ、永遠のいのちを受けることができるのであります。そして、死後には天国に入ることができるのです。神は愛なる御方です。

    

★「痛み」の意味を知る

2005-11-23 | 「人生の試練と逆境」
   
        

 私たちは、何かの病気や疾患や怪我などで痛みを覚えるときに、その辛さに「どうして早く痛みが治まらないのか‥‥」と思う時があります。また、「体に痛みがなければ、どんなに楽だろうか。痛みを感じることがなければいいのに‥‥」と思うこともあるでしょう。しかし、考えて見ますと人間にとって痛みはどうしても必要なものであることが分かります。「痛み」は、私たちの体の防御装置であり、生命を維持して行くために必要不可欠のものであると理解することができます。
   
 ある医者は「医療は痛みに始まり、痛みに終わる。」と言いましたが、これは含蓄のあることばではないでしょうか。なるほど、医者の仕事の中の多くは「痛みを見分けること」から始まると言っても過言ではないと思います。「頭が痛い。喉が痛い。胸が痛い。胃が痛い。お腹が痛い。腰が痛い。関節が痛い。目が痛い。耳が痛い。歯が痛い。足が痛い。背中が痛い。」など、いろいろな痛みを持って、人々は病院にやって来ます。病気の初期の段階においては、医者はその人の痛みの訴えを聞きながら、何が問題なのかを探って行くのです。痛みは、私たちの体の中に何かの異常があることを知らせてくれる警報装置の役目を果たしているのです。

 「先天性無痛覚症」という非常にまれな病気があることをある本で読んだことがあります。生まれつき「痛み」の感覚がない病気です。痛みがないために怪我をしても気がつかないのです。凍傷や火傷になっても痛みがないので、分からないことも多いのだそうです。傷はそのまま放置されるので、そこから菌が入って深刻な感染症を引き起こします。また、制御作用としての痛みがないために力を入れすぎて自分の骨を折ったり、筋肉や関節に傷をつけたりしてしまうのです。自分の歯を抜いたり、自分の眼球まで取り出してしまう子供たちの例もあるそうですから驚きです。性格的な特徴は、共通して短気で怒りっぽく、自己中心的、かつ冷淡であるという性質を持っているということだそうです。

 このように、痛みというのは、私たちの健康を維持する上で不可欠であるばかりでなく、人格形成においてもきわめて重要であることをこの疾患は物語っています。「痛み」を知らない者は他人の痛みも知ることができないので、思いやりが欠けた人間になるわけです。いつでも、苦しみは苦しく、痛みは痛いのです。しかし、人間は苦しむことによって人間らしくなり、痛みを経験して人間らしくなるのです。痛みはいつも人間を成長させるとは限りません。しかし、痛みを経験することなしに人間は成長しないということは確かなことではないでしょうか。人生のいろいろな挫折や悲哀、失敗を繰り返して他人の痛みが分かる人間に変えられて行くのです。 

 ある癌に罹った医者がいました。余命はあと二、三年と診断されたのです。そして、その医者は癌と診断されてから変わってしまったのです。彼は、悩める患者を医師が治療するのではなく、悩める患者と同じ悩みを持つ医者がともに痛みを担いつつ、治療する医者に変わって行ったそうです。常に患者の側に立って、患者の側から見る(診る)医者に変貌したのです。彼は、どうして医者でありながら、患者の側から物事を見ることが出来たのでしょうか。それは、明らかに彼自身が患者になり、その痛みを共有するようになったからであるということです。

●「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ書63:9)。

 さて、下に記したイザヤ書のことばは、人類の救い主となられた神の御子が人の姿をとってこの地上に誕生される七百年以上も前に、預言者イザヤによって預言された旧約聖書のことばであります。ここで「彼」というのは、メシヤとして来られるイエス様のことを示しているのです。救い主イエス様は、私たちの病を知り、その痛みを担われた方であります。主イエス様は痛み苦しむ者の痛みをお知りになられ、共に苦しんでくださった方です。主イエス様は人々の涙も痛みも知っておられます。このような御方が私たち罪人のために身代わりに十字架にかかられて尊い血を流して死んでくださったのです。
  
●「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 」(イザヤ53:3~7)。

●「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』 」(マタイの福音書8:16、17)。


 キリストを信じて贖われ、罪から救われた者たちが行こうとしている天国では、もはや痛みや苦しみというものがないのです。どのような種類の痛みもありません。肉体的な痛みも心の精神的な痛みも、もはや永久に過去のものとなるのです。クリスチャンにとって、痛みと苦しみというのは、この地上にいる時だけのものです。しかし、キリストの救いを拒む者の行く所は、「永遠の苦しみ」が続くところです。「彼らは、永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(ヨハネの黙示録19:10)とあります。どうか、私たちの痛みを共に担い、最後には十字架で死んでくださったイエス様の愛を拒むことなく、信じて救われてくださいますように心からお祈りします。


●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみ(痛み)もない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:4)。  



★イエス・キリストのご謙遜

2005-11-15 | 「キリストの偉大なる生涯」
     


 何かの本で読んだことのあるうろ覚えの記憶ですが、こんな話があります。一本の大木が倒れて、深い谷の上に自然の丸木橋を作っていました。その丸木橋の上を根元の方からA さんが、また梢の方からB さんが同時に渡って来ました。当然、A さんとB さんは橋の中央で出会うわけですが、丸木橋の上で体を入れ替えることができないのです。そして、AさんもB さんも、互いに自分の誇りにかけても、後へ引き返すことはしないのです。そして、ついにA さんは、腰の鋸で丸木橋の真ん中をゴリゴリと切り始めました。そして、B さんは真ん中から切り離された木の梢といっしょに、「あっ~!負けた~!」と叫びながら、谷底にまっさかさまに落ちて行くのです。
  
 ところが、A さんは根がついているために半分になっても落ちないで残っている片方の丸太の上で鋸を構えて、「ざまあ~見ろ~!」と言わんばかりに立っているのです。しかし、Bさんの強情は、自分を谷底へ突き落とし、一方のA さんの高慢は、B さんを谷底に突き落としていい気分になっているのですが、A さんの最初の目的であった谷をこちらからあちらに渡るということを不可能にしてしまったのです。人間は、みな自己中心で高慢なものであり、人間の「高慢」によって生み出されるものは何もなく、それは破壊的であり、空しい悲惨な結果しか残らないということを教えられますね。

ちなみに、アンデス山中の山羊(やぎ)は、非常に険しい狭い岩棚で山羊どうしが出会った時には、すれ違うには狭過ぎてどうしようもないので、どちらも引き返さなくて済むようにどちらか一方の山羊がその場に膝をついて座り込んでしまうそうです。すると、残った方の山羊はこの座っている山羊の上を乗り越えて前に行くという話を聞いたことがあります。座って相手に自分を踏みつけさせて行かせることは、屈辱のように思えます。しかし、この危険な岩場では、いつも、道を譲って跪いて下にいる山羊の方が安全であるということです。アンデス山中の山羊は、人間より賢く、知恵があるようにも思えるのですがみなさんはどう思われますか。人間の世界では、いつも我を通そうとして争い、常に危険にさらされているというのが現実ではないでしょうか。

ところで、キリストのご謙遜は、とても通常の人間には考えられないようなものでありました。「謙遜とは、橋のようなものである。」とある方が言いましたが、橋が人をこちら側からあち側に移すように、キリストは私たち罪人を死からいのちへ、永遠の滅びから天国へと移す橋となってくださったのであります。キリストは永遠の昔から存在されておられた神の御子であられますが、約2.000年前に、人の姿をとってこの地球上に誕生されました。神の御子がユダヤの田舎のベツレヘムの馬小屋で誕生せられ、飼葉桶に寝かせられました。そして、貧しい大工の子として成長され、30歳になられてから3年半の公生涯を送られ、数々の愛のみわざを行われ、最後に地球上のすべての人類の罪のために十字架上で身代わりに死なれたのです。

●「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ人への手紙2:6~9)。

●「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイの福音書20:28)。

●「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネの福音書14:6)

このヨハネの福音書14章のみことばは、イエス様が13章の最後の晩餐の食事の際に、跪いて弟子たちの一人一人の足をお洗いになられた後に語られました。当時、ユダヤでは客人の足を洗うのは、奴隷のする仕事であったのです。しかし、イエス様は神の御子であられ、世界を創造されたほどの偉大な御方でありながら、この私たち罪人を救うためにこの地球に誕生され、西走東奔されて人々に仕える日々を送られ、罪無き33年のご生涯の果てに十字架上に磔にされ、ご自身のみ体を鮮血で染められて、6時間の惨い激痛と渇きに耐えられて死なれたのです。これほどまでにへりくだって、真の愛をもって人類の罪の贖いのみわざを成してくださった御方を無視して救いを拒む方となられませんように。イエス・キリストのご謙遜は、私たち罪人を天国へと導く橋(道)となるためであったのです。
  
 (昨年11月に、どれだけ続くだろうかと不安を抱きながらこのブログを始めたのですが、あれから今日でちょうど丸一周年となりました。拙い文章で読みにくいところも多くあったと思いますが、これまでご訪問くださった方々に心からのお礼を申し上げます。)  
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★良き羊飼いなるキリストの愛

2005-11-10 | 「キリストの愛」

                 

●「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカの福音書15:4~7)。

 北海道では、今日初雪が降り、朝目覚めた時には、家々の屋根も畑も白一色になっており、いよいよ寒い冬の季節の到来です。
さて、前回にも記しましたが、ここに書きましたのは、イエス様が語られた三つの例え話の中の最初の話ですが、神の愛、キリストの愛を分かりやすく教えている箇所です。素直な心で読むならば、決して難しい話ではありません。百匹の羊を持っている羊飼いがいました。この羊飼いは、雇われた人ではなく、これらの百匹の羊の一匹一匹をかけがえのない羊として心から愛していました。ある日、数えてみると、一匹がいなくなっていることに気づいたのです。この「羊飼いの愛」はどのような愛であったのかを考えてみましょう。

[ 1 ] 《かけがえのない愛》
 この羊飼いの愛は、いなくなった一匹の羊を捜す「かけがえのない愛」であります。この一匹を他の羊で代用することはできないのです。この羊飼いは、このいなくなった一匹を愛していました。それと同様に、イエス・キリスト(神)は、人類を十把一絡げにして愛するのではなく、私たち一人一人を個人的に愛しておられるのです。神とキリストの愛は、私たち一人一人の人格を愛する愛なのであります。物であれば、他の物で代用できますが神の愛は親がわが子を愛するように他の人で代用できるものではありません。

[ 2 ] 《打算のない愛》
 この羊飼いの愛は、「打算のない愛」であります。計算しない愛であります。この羊飼いは、99匹の羊を野原(荒野)に残して、迷い出た一匹の羊を捜しに出かけました。実際的なこととして、一匹を捜しに出かけて行っているうちに、野原に残した99匹の何匹かは、狼などの野獣に襲われて食べられてしまうかもしれないのです。でも、この羊飼いはそのような計算をして、捜しに出かけたのではありませんでした。その失った一匹を愛していたからです。人間の愛の中にも、母親がわが子を愛するように、全く打算のない純粋な愛もあります。成長したわが子に、「あなたを育てるのに、これまで(      )円かかったから、その分のお金を払いなさい。」という親はいないでしょう。しかし、一般的には人間の愛は打算的で、自分の利益にならなければ、愛することを止めてしまうような安っぽいものもあるのであります。キリストの愛も、まったく打算のない無償の愛であります。

[ 3 ] 《忍耐深い愛》
 この羊飼いは、「いなくなった一匹を見つけるまで捜す」という「忍耐深い愛」であります。真の愛は途中で、諦めることをしないのです。この羊飼いは、歩き疲れたからといって、捜すのを止めることをしなかったのです。捜すのが困難だからと言って止めることをしませんでした。もし、わが子が行方不明になった場合、親は決して諦めずに来る日も来る日も血眼になって必死に捜し続けるのではないでしょうか。それが、親のわが子に対する愛というものであります。「眠くなったから‥‥」と言って寝てしまわないのです。中学生の時に、某国に拉致された娘さんの帰りを数十年も待ち続け、現在も捜し続け、そのために運動しているご両親の話は感動的であります。イエス・キリストの愛は、それよりもはるかに「忍耐深い愛」であります。真の羊飼いなるキリストは、今日もあなたを捜しておられることをご存じでしょうか。

[ 4 ] 《優しい愛》
 この羊飼いの愛は、傷ついた羊をいたわる「優しい愛」であります。羊飼いは、「羊をかついで」帰って来ました。弱っている羊の首に縄をつけて無理やりに引っ張ってきたのではありませんでした。この羊飼いには、傷つき、疲れ果てていた迷子の羊に対する思いやりといたわり、同情心がありました。彼は優しい羊飼いであったのです。「優しい」という字は、「人を憂う」と書きますね。他人のことを真心から心配するのが本当の優しさであり、愛であります。キリストの愛も同様であります。

[ 5 ] 《喜びを分かち合う愛》
 この羊飼いは、迷子の羊を見つけた時、大喜びでその羊をかついで帰って来て、友達や隣近所の人たちを呼び集め、「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」と言ったのであります。「喜び」というのは、分かち合うからこそ、喜びなのです。分かち合うからこそ幸せなのであります。何か嬉しいこと、楽しいことがあってもその喜びを分かち合う人がいなければ、それは本当の喜びと言えるでしょうか。嬉しいときに、自分の部屋でただ一人で、喜んでも少しも楽しくないのではないでしょうか。「喜び」の本質は、それを分かち合うところにあるように思えるのですがいかがでしょうか。イエス・キリストは、失われ迷子になった羊のような私たちを、このような大きな愛で愛してくださっているのです。罪人である私たちが、悔い改めて神に立ち返るときに、天においては、大きな喜びが湧き起こるのです。

[ 6 ] 《いのちを捨てる愛》
 イエス・キリストは、ご自身で「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネの福音書10:11)と言われました。羊よりも羊飼いの方に価値があることは明らかであります。しかし、その羊飼いが羊のためにいのちを捨てるのです。これは、理屈に合わない矛盾した話です。しかし、これよりもはるかに大きな愛があるのです。創造者である神の御子が、神から迷い出てしまった罪人である私たちのために十字架にかかってご自分のいのちを捨ててくださったのです。何という驚くべき愛でしょうか。

●「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(Ⅰペテロの手紙2:24,25)。

●「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(詩篇23:1)。
  
 キリストを救い主と信じて、キリストを羊飼いとして生きる者の幸いがここに記されています。私たちの真の牧者であるキリストのもとには、真の憩いと平安があります。神から迷い出た人間にとって、神の懐に帰る以外に決して平安を得る道はないことを、是非、お知りになってください。


   

★迷い出た羊を捜す愛

2005-11-03 | 「キリストの愛」




●「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。 」(イザヤ書53:6)。


 聖書によれば、人間はみな飼い主から迷い出た羊のようなものであると語っています。たとえ、自分でそのように考えなくても聖書はこれが人間の真実の姿であると語っているのであります。人間はそれぞれ、みな「ぼくはこっち」「私はあっち」と各々自分の道に向かって歩いているというのです。神様が心配しているのに、「大きなお世話さ」と言わんばかりに、神様のことなんか全くおかまいなしなのです。その上、さらに悪いことには、多くの方々が決して自分が迷子であることを認めようとしないのです。いや、事実、自分が迷っていることに気づいていないというのが本当の人間の姿であります。

 自分が迷っているのにそれに気づいていないことほど危険なことはありません。少なくとも、迷っていると分かれば自ら帰る道を探すのであります。帰る手立てを考えるのです。しかし、人間はみな街を歩いている人を見ても、「私は迷ってなんかいませんよ!」というような顔をして歩いている人ばかりのように思えるのです。子供を導くはずの学校の先生も、また交番で道を尋ねる人に教えているお巡りさんも、やはり自分は迷っているとは思っていません。多くの宗教家たちも、迷っている人に道を教えているように見えますが、実は盲人を手引きする盲人なのです。政治家も、医者も、大学教授も、学生も、法律家や裁判官も、家庭の主婦も、老人もみんな羊のように迷っていると、聖書は教えているのです。

●「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。」(詩篇119:176)。

 この詩篇の記者は、自分が迷い出た者であることを認めている人であります。この人は迷い出ているけれども、次の四つの点で幸いな人であります。
①自分が迷い出ていることを知り、それを認めています。 
②迷い出たままの状態が続けば、滅びであることを認めています。「滅びる羊のように‥‥」。
③自分で帰ることができない弱い者であることを認めています。「どうかあなたのしもべを捜し求めてください。」
④自分はどこに帰るべきかを知っています。神(あなた)のもとに帰らなければならないことを知っています。
   

●「また、(イエスは)群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。 」(マタイの福音書9:36)。

 当時のユダヤのこの群集の姿こそ、今、全世界の迷っている人々の姿を写しているものではないでしょうか。私は子供の頃、羊の世話をしたことがありますが、羊は迷いやすく、弱い家畜であり、敵に対して無防備で傷つきやすく、どうしても羊飼いが必要であります。しかし、この群集は羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れているのです。飼い主のもとを離れた迷子の羊に残されたものは何でしょうか。「飢えと危険と孤独」だけであります。やがて、疲れ果て、倒れ果てて、狼などの餌食になるだけであります。これらの羊同様に、神から離れ、迷い出た人間に待ち受けているものは、不安と孤独と、決して満たされることのない飢えと渇き以外の何ものでもありません。

 迷子に必要なのは、お菓子や玩具ではありません。お父さんお母さんのあたたかい懐(ふところ)です。それと同様に私たちに必要なのは、聖書が示すところのまことの神様に帰ることであります。イエス・キリストは、私たちを救い、助け出そうとして、天から下って来られ、人としてのご生涯を全うされ、私たちの罪のために身代わりとなって死んでくださいました。そのイエス・キリストを信じ導かれて神のみもとに帰り、その神の愛の懐に抱かれることこそ、私たちが全き平安を得る道であります。イエス・キリストは、今も、東奔西走しながら、半狂乱になって、迷子になったわが子を捜し廻る母親のように、必死になって、私たちの名を呼んで、捜し廻っておられる愛のお方であります。どうか、このような偉大なキリストの愛に一日も早くお気づきになられますように心からお勧めいたします。
 
●「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカの福音書15:4~7)。
  
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