聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★皮の衣を着せてくださった神

2007-08-16 | 「神の愛について」

     
    
●「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記3:6,7)。

●「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3:21)。


冒頭に記した二つのみことばは、創世記3章の出来事の中に書かれてあるものですが、今日はこのみことばを中心に少し考えてみたいと思います。創世記というのは、家に譬えると「玄関」のようなもので、旧約新約聖書66巻の「入り口」のようなものです。家に入る時には玄関から入らなければなりません。裏口や窓から入ることも出来ますが、通常は玄関から入ります。それから、創世記というのは、いろいろなことの「初め(起源)」について書いてあります。最初が分からないと、その後を読んでも、なかなか理解できないのです。ですから、創世記には、「宇宙の起源」「地球の起源」「生命の起源」「人類の起源」「結婚の起源」「人類の罪の初め」「罪の贖いの黙示(予告)の初め」「言語の起源」「文化の初め」「民族の初め」「選民イスラエル(ヘブル民族)の初め」など‥‥etc。

さて、神様は最初に人間を創造されて、すばらしいエデンの園に住まわせてくださいました。「エデン」とは、「喜び」「歓喜」「楽しみ」などの意味があることばです。アダムとエバさん夫婦は、エデンの園で神様との親しい交わりを喜び、平和と満足を味わい、愛と光といのちに満ち溢れたすばらしいところであったのです。そこには、憎しみや戦争もありませんでした。当然、人殺しもありませんでした。妬みや悲しみもありませんでした。苦しみもありませんでした。死もなく、涙もありませんでした。空虚な気持ちとか、孤独を感じることもありませんでした。神様が、人間が生きるために必要なすべてのものを満たしてくださっていたからです。エデンの園は、ほんとうにすべてが満たされたすばらしいところでした。神と人との間に何の隔たりもなく、幸いに交わることができたのです。

ところが、創世記3章に入ると、人類のすべての悲しみと苦しみと混乱の根源である罪が入って来たのです。アダムとエバは、禁断の木の実を食べて神に反逆し、罪を犯してしまいました。これが人類のすべての不幸の始まりとなったのです。罪の結果、彼らがもった最初のものは、羞恥心と有罪感であったのです。これが、神のいましめに背いて、善悪の知識の木の実を食べた悲しい結末であったのです。次に、彼らは自分たちの裸をおおうために、「いちじくの葉」をつづり合わせて、自分たちの腰の覆いを作ったことでした。このいちじくの葉は、朝早く取った時には、新鮮で、みずみずしく、美しく見えたかもしれませんが、太陽が昇ると、その太陽の熱でしおれ、夕方になった頃にはもう枯れてしまっていたに違いありません。

これらの事実は、人間の自己義認を示しており、また、自らの罪を覆うための人間のあらゆる努力がいかに空しいものであるかをよく示しています。人間が作り出した世界中のあらゆる宗教も、哲学も、その裸の恥(人間の罪)を覆うことはできません。どんなに難行苦行を積み重ねて修業してみても、認罪の意識を取り除くことはできないのです。人間はみな自分の羞恥心と有罪感をおおい隠そうとして、高度の学歴と教養を身に着け、道徳的にも努力をしますが、それは、一時的には役立つかのように見える「いちじくの葉」のようなものなのです。いちじくの葉は、夕方にはもう枯れてしまい、役に立たなくなってしまうのです。あなたが、今、一時的に満足しているあらゆるものは、人生の夕方には、枯れてしまう空しいものとなるのです。
 
しかし、この創世記3章には驚くべきことが書かれているのです。すでに、罪を犯した人類に対する神の救いのご計画が記されているのです。神は人を誘惑した蛇(サタン)に対して「わたしは、おまえ(サタン)と女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫(キリスト)との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼(キリスト)のかかとにかみつく。」(創世記3:15)と宣言しました。神は、驚くべきことですが、罪に対するさばきとともに、救いのご計画を啓示されたのです。これは、神の救いに対する最初の約束なのです。ここで、「女の子孫」というのは、ヘブル語の原語では複数ではなく、「単数」になっているので、メシア、すなわち、キリストを示しています。ここに、キリストよるサタンへの勝利が示されており、キリストの福音が予表されているのです。

「おまえ(サタン)の頭を踏み砕き」は、サタンとその力に対する完全な勝利を表しています。敵の頭を打ち砕くならば、それは致命的なものとなります。しかし、それに対して、「(キリストの)かかとにかみつく」は、相手に激しい苦痛を与えるものとなっても、それは、致命的なものとならないことを示しているのです。「キリストのかかと」と「悪魔の頭(かしら)」との比喩的表現は、キリストが十字架の死ののちに復活されることに対して、悪魔は最後には、決定的にうち滅ぼされてしまうということを示しています。この3章には、神のさばきと、人間が神に背いた結果、罪がこの世に入って来たことを示していますが、同時に、神の愛と慈しみが記されており、神の恵みがすでに記されていることは驚くべきことではないでしょうか。

さらに、もう一つの驚くべき神の愛と哀れみが記されています。それは、冒頭の二番目の聖句です。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」というこの短い聖句に神の限りない深い哀れみと、キリストの十字架による救いのご計画が暗示されているのです。つまり、アダムが自分で作った手製の衣(いちじくの葉をつづり合わせたもの)に代えて、神は、アダムとエバのために、皮の衣を作って、着せてくださったのです。そして、特に注目していただきたいのは、皮の衣を作るためには、どうしても動物を屠って、血を流す必要があったということです。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とありますが、これは、こののち数千年後に成就するキリストの十字架の贖いを予表しているのです。
 
神が人に与えた皮の着物は、日が昇ると枯れてしまうような一時的な衣ではなかったのです。神が与えた衣は、血を流すことによって得た皮の衣であったのです。これは、キリストの十字架の贖いの血を信じるすべての者に与えられるキリストの義の衣を表しているのです。イエス・キリストの義の衣を着せられたクリスチャンたちはそ恵みをどんなに感謝しても、し過ぎることはないのです。私たちが自分で正しいと思ってした行いも、聖よい神の御目からご覧になると、汚れた(不潔な)着物のようであると聖書は厳粛に告げています。あの預言者イザヤも召された時に言いました。「ああ。私は、もうだめだ。私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。」(イザヤ6:5)と。

●「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。」(イザヤ書64:6)。 

●「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ書61:10)。

●「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。 」(ガラテヤ書3:26,27)。

●「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。』 」(ルカの福音書15:22)。
 

この放蕩息子の父親のように、愛に満ち給う神は、永遠に有効な「一番良い着物」を用意して、あなたが、罪を悔い改めて神に立ち返るのを待ち望んでおられるのです。その永遠に有効な一番良い着物とは、イエス・キリストが十字架でご自身の血を流して贖いのみわざを成し遂げてくださったことを信じることによって、あなたにも与えられるのです。私が若い時、聖書に精通したある先輩の兄弟が、「聖書は、旧約新約合わせて、1,189章あるけれども、人類の罪がなかった時代は最初の2章だけです。3章から罪が入って来て、全人類は死の恐怖の奴隷になっています。聖書には3章から、ずっと、目に見えない黒い線(人類の罪)が引かれています。しかし、同時に赤い線(キリストの十字架の血)も引かれているのです。」と。あなたは、どう思われますか。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

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