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聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★救われるために何をするか

2007-08-10 | 「信仰と救いについて」

               

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)。 
 
冒頭に記した聖句にありますように、聖書が語っていることは、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる。」ということです。ここで言っている「救い」というのは、この世の多くのご利益宗教が説いているものとは、全く違います。病気からの救いのことではありませんし、貧困からの救いのことでもありません。また、人生のいろいろな悩みや苦しみからの救いのことでもありません。ここで言っている「救い」は、人類が神に罪を犯して神から離れた結果の罪の生活と、死と死後の永遠のさばきからの救いを意味しているのです。ですから、これは、あなたも含めて「すべての人」と関係があるのであり、「私には関係ないですよ」とは言えない重大な真理なのです。

ある方からのご質問ですが、「友人のクリスチャンに勧められて聖書を読み始めたのですが、聖書の中で、救われるためにはどうしても知らなければならないる必要不可欠な真理は、一体何なのでしょうか?」という丁寧な文面のメールでした。聖書は単なる道徳の書でもなく、文学の本でもなく、歴史の本でもなく、また宗教の教典でもありませんから、これは的を得た大切な質問であると思います。文章の書き方や文面から、人生を真摯に真面目に考えていらっしゃる方であるとの印象を強く受けました。聖書は、多くの重要な真理を教えていますが、救われるためにどうしても知らなければならないこととして、以下のような真理(事実)を選んで記しましたので、どうか、ご自分に当てはめて吟味なさってください。

【1】まことの神は唯一であられます。
聖書は、神は唯一であることを断言しています。聖書の記述は明確であり、ここに曖昧なことは一つもありません。真理は一つなのです。これは、人間の考えではなく、唯一の神がご自身で啓示なさった真理なのです。

●「神は唯一です。」(テモテ第一2:5)
●「わたし(God)は初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。」(イザヤ書44:6)。
●「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメ。 」(Ⅰテモテ6:15,16)。
●「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。 」(イザヤ書45:22)。


【2】神は天地万物の創造者であり、また、神ご自身の愛の対象として人間をご自身に似せてお造りになられました。
人間は、けっしてアメーバーから進化した偶然の産物ではありません。もし、そうであれば、人間が生きる意味も目的も真の希望もないことになります。聖書の記述は、この点に関しても明瞭です。

●「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。
●「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
●「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)
●「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 」(創世記1:27)。


【3】人間は神の権威に反抗して、罪人となりました。
ある人は、「私は、神に反抗などしていない。神を馬鹿にするようなことも言っていない。」と言います。でも、あなたは、今まであなたを生かしてくださった神を無視した生活をしたことがないでしょうか。親を無視している子どもがいたとしたら、それは、大変な親不幸です。でも、あなたを生かしてくださっている神を無視して生きることは、もっと大きな罪ではないでしょうか。

●「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)
●「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず‥‥」(ローマ人への手紙3:23)。


【4】それゆえに、人間と神との交わりが断絶してしまったのです。
人間は、真の神を礼拝し、交わる代わりに、木や石や金銀で作った偶像を拝むようになり、真の神の代用品として、生きている人間や動物、その他いろいろなものを拝む対象としているのです。肉体的には生きていても、神から離れた人間は霊的には死んでいると聖書は語っています。

●「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:2)。

【5】人間の罪の結果は死(死後のさばき)です。
これは、だれも認めたくないことだと思います。恐ろしいからです。でも、聖書は厳粛にそのことを告げているのです。どんなに否定しても、真理は変わることはありません。他人が極悪非道な犯罪を犯した場合、その人は当然、さばかれるべきであると人は考えます。しkし、人は自分のことになるとそれを否定したいのです。正義の神の前に、人間の罪がさばかれるのは当然であはないでしょうか。

●「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)
●「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9:27)。
●「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。‥‥そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録20:15)。


【6】神は、罪人である私たちのために、救いの道を備えて下さいました。
神は正義の御方であると同時に愛の神ですから、あなたが、必ず来るこの御怒りを逃れるために、救いの道を備えて下さったのです。愛なる神は、ご自身の御子イエス・キリストを救い主として遣わしてくださいました。

●「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。‥‥私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。
●「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(Ⅰテモ1:15)。


【7】イエス・キリストは、あなたがその罪から救われるために、この世においでになられれ、罪のない聖よいご生涯を送られましたが、罪を犯した全人類のために十字架に掛かられ、身代わりとなって神の刑罰を受けて死んでくださり、墓に葬られましたが、三日目によみがえられました。
それでは、あなたは、救われるために何をしなければならないのでしょうか?上に記した聖書の事実(真理)をそのまま信じ、受け入れることです。そして、イエス・キリストが、あなたを愛され、あなたの罪のために死なれたこと、葬られたこと、三日目に目に見える栄光の体で死者の中から復活された救い主であることを個人的に心から信じることです。それ以外に救いの道はないと聖書は断言しています。

●「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネの福音書17:3)。
●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。
●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。
●「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒の働き16:31)。
●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。
●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。


ですから、あなたが心からご自分の救いを望まれるのであれば、神の御前に跪いて次のように真剣にお祈りしてみたらいかがでしょうか。神は真実なお方ですから、必ず、その祈りを聞いてくださいます。
===「神様、この罪人の私をあわれんで下ださい。キリストは私の罪を十字架ですべて背負って私の身代わりとしてご自分の御血を流して死んで下さいました。また、死後三日目に、死者の中から復活されたことも心から信じます。どうか、私の罪を赦して下さい。そして、聖書の約束通りに、信じる者に永遠のいのちを与えて下さい。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。」===
 
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

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★十字架のことば(福音)の力 

2007-02-17 | 「信仰と救いについて」
         
 

●「十字架のことば(福音)は、滅びに至る人々には、愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)。

 あなたは、この聖書の一節をお読みになられてどのようにお感じになられるでしょうか。このみ言葉は、使徒であり伝道者であったパウロが、ギリシャのコリントという街の信者に書き送った手紙の中の一節です。コリント(アテネのすぐ近くにあった街)はギリシャの一大都市でありました。ギリシャは当時の世界における文化の中心地であり、そこに住む人々はこの世の哲学的な知識を重んじるあまり、キリストの十字架の福音のメッセージを浅薄この上もない愚かなものとして、軽蔑していたのです。この世の知恵によって、神の奥義であるキリストの十字架の福音を理解することはできないのです。しかし、パウロは、この十字架のことばにこそ、「神の力」があると大胆に力説しました。

 この一節に、「滅びに至る人々」と、「救いを受ける私たち」という二種類の人々が出て来ます。、「滅びに至る人々」とは、キリストの十字架の福音(良き訪れ)を拒んで、死後において永遠の滅び(地獄)に入る人々のことです。「救いを受ける私たち」とは、パウロを含めて、イエスがキリスト(メシヤ:救い主)であることを認め、そのイエスが全人類の罪の身代わりに十字架で死なれたことを信じたクリスチャンのことです。クリスチャンとは、キリストが自分の身代わりに十字架で死んでくださり、よみがえられたことを信じて永遠のいのちを得て、罪と永遠のさばきから救われた人たちです。真のクリスチャンたちは、救われた確信をもっており、確かな希望をもって天国に向かって旅をしている人たちです。

●「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリント1:21~25)。

 今日も、当時と少しも変っていません。自ら「クリスチャン」であると自称しながら、キリストの十字架の福音を知らない人たちが多くいます。キリストを信じて罪が赦されたという確信も喜び持たない人たちもいます。また、キリストの人格や教訓や模範は説くけれども、キリストの「十字架の贖い(救い)」や「身代わりの死」を全く語らない教会もあるようであります。しかし、パウロは、そうではありませんでした。「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」と言っています。人々から愚かと思われていた、「十字架につけられたキリスト」による救いを宣べ伝えました。

 パウロは、この世の知恵を重んじたコリント人に向かって、「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」(Ⅰコリント2:2) と、大胆に語っています。現代においても、真のクリスチャンは人々が信じても信じなくても、受け入れても受け入れなくても、どんなに軽蔑され愚か者と呼ばれても「十字架につけられたキリスト」こそが神の力であり、そこにこそ神の救いがあるのです。甘言をもって人々を誘い、耳障りの良いことばを語っても、そのメッセージの根底に十字架がなければ、それは、純福音ではありません。

●「みことば(十字架の福音)を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。 」(Ⅱテモテへの手紙4:1~5)。

 この手紙は、パウロが殉教直前に若い伝道者テモテに宛てて書かれたものです。終わりの時代には、耳障りの良い話、すなわち、聖書を開いても罪も神のさばきも語らない、そして、十字架と復活のないキリストが語られるようになるので、時が良くても悪くても、「みことば(十字架の福音)を宣べ伝えなさい。」と教訓と警告を与えたのです。パウロは、もう間もなくこの世を去って主のみもとに行こうとしていた時に、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と、きっぱりと言い切ることが出来ました。

 刻々と終末が近づいている昨今、世界中に「われこそは、世界(人類)を救う救世主である!」と豪語する偽キリストたちが続々と現われています。しかし、そこには十字架がないので、偽者であることをすぐ見抜くことができます。イエス・キリストは、約2000年前、旧約聖書が預言されていたように救い主として来られ、そして、その生涯の最期に十字架に架かられ、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分でわからないのです。」と、とりなしの祈りをされ、息を引き取られる前には、「完了した」(ヨハネ19:30)と宣告されました。

●「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。」(ローマ人への手紙1:16)。

●「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われる名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒の働き:4:12)。

●「わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。


 今の時代の真のクリスチャンたちも、世に迎合することなく、世と妥協せず、十字架の福音を恥じることなく、まっすぐにキリストの十字架(と復活)の福音を語らなければならないことを聖書から教えられるのです。もし、あなたが、まだイエス・キリストをご自分の救い主と信じておられないならば、永遠のいのちをもっていないことになります。どうか、ご自分の今までの神に背を向けた罪の生活を悔い改め、キリストを信じて救われて下さいますように心からお勧めいたします。 
 
◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」


★神に「ゆだねる」とは?

2007-01-09 | 「信仰と救いについて」



 最近、ある方から「”神(またはキリスト)にゆだねる”とは、どういうことでしょうか?」というご質問をいただいたのですが、同じような内容のご質問を別な時にも何度か受けたことがあります。それで、今年最初のブログの記事にそのことについて少し書いてみたいと思いました。私はこの質問をいただいた時に、ある場面を想像して見たのです。お母さんの腕の中にスヤスヤと気持ち良さそうに眠っている幼子(または赤ちゃん)の姿です。そして、そのお母さんは温かく優しい眼差しでわが子を見ています。みなさんもちょっと頭の中で、そのような場面を想像してみて下さい。そのようなことは想像しなくても、みなさんは何度もそのような場面をご覧になったことがあると思いますので、分かりやすいと思います。

 お母さんの懐(ふところ)の中にぐっすりと眠っている幼子は、とても幸せそうですね。そして、お母さんの顔も幸せそうに見えますね。いや、幸せそうに見えるだけでなく、実際に幸せなのです。お母さんにゆだねきったこの幼子は私たちに何か語っているように思われませんか?このことから、はっきり言えることは、その幼子は、お母さんの愛を信じきっています。ですから、安心してお母さんの腕の中に自分をゆだねて眠っていることが出来るのです。私たちが神様を信頼しきってゆだねることもこれと同じようなことではないかと思います。神様は肉眼では見えませんが、実在される御方であり、また人格をお持ちの御方です。そして、神様は私たち一人一人を個人的に愛しておられる優しい御方なのですね。

●「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」(詩篇131:2)。
 このダビデの詩篇を読むと、私は彼が神様の愛を信じてゆだね、乳離れした子が母親の前にいるように、安心して神様の御前にいる姿を想像することができます。それは、何と平安で幸せな姿ではないでしょうか。神は愛であると同時に、真実な方でもあります。そして、また同時に全知全能の御方であります。あなたが、何かとても大切なものを誰かに託すとすれば、全く信用できない人にその大事なものを委ねることは決してなさらないでしょう。その人が信頼できる人であるかどうかをまず考えると思います。あなたの持っている何かではなく、あなたの人生、あなたの将来、いや、あなた自身をゆだねることを考えるならば、決していい加減なものにゆだねることはあり得ないと思います。

●「私たちは真実でなくても、彼(キリスト)は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(Ⅱテモテへの手紙2:13)。

 イエス・キリストはこのように常に真実な御方であります。人を信頼しても、私たちは度々、裏切られることがあります。また、あることを約束しても守らない人もいます。人間は、自分も含めて誰でも弱さがあります。最初は約束を守るつもりでいても、結果的に守れなかったということもあります。また、最初は人を裏切るつもりなど全くなくても、結果的にその人を裏切ってしまい、大切な友人を失ってしまうということもあり得ます。それが人間の弱さであります。しかし、父なる神様もイエス・キリストも、本質的に真実な御方であり、そのようなご本質をお持ちの御方なのです。裏切ったり、約束を破ったりなさることは決してありません。

 もし、あなたがまだキリストを自分の救い主として受け入れ信じることを躊躇なさっておられるのならば、是非、あなたの罪のために身代わりに十字架に掛けられて死んでくださった御方(イエス・キリスト)を信じる決心をして、あなたの人生をいっさい神にゆだねてください。そうすれば、救いの確信と平安が与えられます。また、あなたの人生に重荷や思い煩いがあるのでしたら、それらをいっさい神様にゆだねて下さい。そうすれば、人知を超えた平安が神様からいただくことができるのです。もし、あなたに将来の人生設計や計画があるならば、それを主にゆだねてください。そうすれば、神様はあなたのために最善を成してくださるのです。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。

●「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロの手紙5:7)。

●「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

●「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16:3)。

●「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。」(詩篇31:5)。


 この詩篇31:5のみことばは、イエス様が十字架上で息を引き取られる時の最後の祈りでありました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカの福音書23:46)。父なる神様と御子イエス様との間には、完全な信頼関係があり、そこには微塵も疑いの入る余地もなかったのであります。そこには全き平安があったのです。イエス・キリストは、あなたのために十字架で身代わりに死んで下さり、よみがえられた方であります。キリストの地上の生涯は、人々の嘲笑と罵倒、苦難と迫害、そして十字架の耐え難い苦痛と渇きがありました。しかし、いついかなる時も完全に父なる神にゆだねて切っておられたのであります。下に記したみことばのとおりであります。

●「キリストは罪を犯したことがなく、その口には何の偽りも見出されませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方(父なる神)にお任せ(ゆだね)になりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。・・・・」(Ⅰペテロの手紙1:22~24)。

 「ゆだねる」ということは、また「自分を明け渡す」ということでもあります。自分の計画や意志や考えを捨て、神様に一切を明け渡すことです。中途半端な明け渡しは、返って疲れるだけになるだけかもしれません。例えば、疲れ果てているあなたの前に椅子があるとします。でも、その椅子に座れば、休むことができると頭では理解しても、実際に座らないと休息することができません。また、その椅子は自分の全体重を支えられるだろうかと心配して、その椅子に恐る恐るその椅子の前の半分を使って、中腰になって座ったとしても少しも休むことができません。その椅子に全身をゆだねきって、初めて真に休むことができるのです。

 それと同様に、どうか、あなたもあなたの救い主イエス・キリストに全幅の信頼をおいて、いっさいをゆだねてください。そうすれば確かな安らぎが来るのです。そして、信仰生活は、決して「自分の力で頑張る」ことではないのです。愛なる神と、イエス・キリストにすべてを明け渡し、ゆだねるのです。私は海上保安学校時代、18歳の時に初めて海で泳ぎを習ったのですが、自分の力で一生懸命泳ごうとしても益々沈んでしまうのです。そのとき、教官が「お前、そんなに力を入れなくてもいいから全身の力を抜いて見ろ!!」と言われ、そのとおりにやってみたら、確かに海水の上に仰向けになって寝るようにしたら、体が浮いたのです。その時の感動は今でもはっきり覚えています。神を信じることも同じことなのではないでしょうか。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

                 
 

★信じるだけで救われる

2006-07-15 | 「信仰と救いについて」
    
    
           
●「あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、あらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ人への手紙2章8~10)。
 
 神のことばである聖書が教える真理は、人間は、何かの良い行いや慈善や修業をしたり、難行苦行をしたりしなくても、戒律や規則を守らなくても、念仏を唱えたり、多額の献金を差し出さなくても、何かの組織や団体に入らなくても、信じる者が救われるのです。多くの新興宗教は、お金を何らかの形で要求したりすることがありますから、要注意です。聖書は信じるだけで人は救われると教えているのです。もちろん、クリスチャンは良い行いをしなくてもいいとか、そういうことを言っているのではありません。クリスチャンは、救われるために何かの良い行いをするのではありません。救われた喜びをもって、感謝の心から良い行いをするようになるのです。これは、すべて神様の恵みなのです。「善人が死んだら天国に行く」というのは、少なくとも聖書の教えではありません。

 では、一体何を信じるならば、人は救われるのでしょうか? それは、すべてのものを創造された唯一の本当の神様が存在されること、そして、その神が、ご自身のひとり子であられるイエス・キリストを遣わされたこと、さらにキリストが、あなたと世界中のすべての人々を救うために十字架の上で身代わりに死んでくださったこと、そして、キリストは死後三日目によみがえってくださったことを信じるのです。これらのことを、ただ信じるだけで、あなたは救われるのです。聖書は確かにそのように教えています。聖書は神の啓示の書であり、全幅の信頼をもって信じるべき書物であると私は堅く信じております。

 それでは、一体何から人は救われるのでしょうか。それは、この世の罪の生活と死後のさばきである地獄(永遠の火の池)からの救いなのです。多くの方は、救いと言いますと、病気が治ること、心が安らぐこと、良い職場で働き、また人間関係もうまくいき、仕事が順調に進み、家庭の諸々の問題が解決すること、受験に合格し、よい職場に就職でき、経済的に裕福になることなどを考えられると思います。しかし、これらは、本当の救いではないことは明らかです。これらのものが与えられたとしても、人生の最後には、すべての人に平等に必ず死が来るのです。キリストを信じることは、そのようなこの世のご利益宗教とは全く異なるものです。

 すべての人に死の日は、確実に迫っているのです。そして、申し上げにくいことですが、間違いなく、あなたも必ず死ななければならないのです。そして、死後、神の前で、あなたが生きている間に犯した罪(悪い考え・自己中心・うそ・ねたみ・高ぶり・そねみ・暴力・姦淫・偶像礼拝)などが明らかにされ、その刑罰として、永遠の苦しみを受けることになります。この地獄から救われることが本当の救いなのです。ただ、地獄に行かないだけでなく、天国にまで入れてくださるというあり難い救いなのです。そして、この救いを受けるなら、死に対する恐れから完全に解放され、何があっても変わらない本当の喜びと、希望を持つことができるようになります。では、なぜ、ただ信じるだけで救われるのでしょうか。

 それは、神がご自身の御子を通して、その救いのみわざを完成してくださったからです。神は聖よく正しい方ですから、罪人であるあなたをさばかなればなりません。しかし、神は愛であり、あなたを愛しておられ、あなたを裁きから救おうとされました。そこで神は、ひとり子のイエス・キリストを遣わされ、この方が、十字架にかかって、あなたの身代わりに、罪の裁きを受けて死んでくださいました。このことによって、あなたの罪の裁きは終わりました。神がすべてをしてくださったので、あなたは救われるためには何もする必要はないのです。この救いを受けるのに必要なことは、ただ心でキリストを信じることだけなのです。

 「本当に、信じるだけで救われるのですか?」と聞かれる方が多いのですが、神の霊に導かれて書かれた聖書がそのように語っているのですから、その通りなのです。これは、あくまでも信仰の問題であり、理屈ではありません。「あなたは、そう断言するけれど、その証拠は一体どこにあるのか?」と反論されたり、疑問を投げかけて来られる方もおられます。でも、これは、繰り返しますが信仰の問題です。そして信じることも信じないことも自由であります。私は、このブログで、自分が正しいと信じることを発信していますが、これを読まれる方に無理に信じて下さいとは言っていないのです。人が何を信じるか、それはその人の自由であります。しかし、その人が何を信じたか・・・・その結果はやがて必ず明らかになる時が来るのです。

 イエス・キリストが十字架の上で、息を引き取られる前に、「完了した。」(ヨハネの福音書19:30)と宣言されました。神が私たちに求められるすべてをキリストが完成してくださったので、私たちはそれに加えて何かをしなければならないということは何もないのです。よく救われるためには何々をしなければならないとか、たとえば善行を励むとか修養、努力をしなければならないのではないかと言われますが、決してそうではありません。もしそうであれば弱い人間は救われることができません。神はすべての人にただ信じること(キリストが私たちのために十字架上ですべてを成し遂げてくださったことを信じる)によって救ってくださるのです。

 イエス・キリストは、十字架上で悔い改めて、イエス様を救い主と信じた強盗に対して、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたし(イエス)とともにパラダイスにいます。」と約束されたのです。もちろん、この強盗犯は、ローマの法律を破る重大な犯罪を犯した死刑囚でしたから、十字架で処刑されました。しかし、イエス・キリストの十字架の身代わりの死によって、彼は確かにパラダイスに行ったのです。イエス・キリストは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、ローマ兵や周囲を取り巻いていた見物人のためにも、愛と赦しの執り成しの祈りをなさった方です。このような愛に満ちたお方のお言葉をどうして疑うことができるでしょうか。

 では、救われてクリスチャンになるには何をすればよいのでしょうか。クリスチャンになるには次の二つのことが必要です。まず、一つは自分の罪を聖よい神様の前に告白してその罪を悔い改めることです。もう一つは神の御子イエス・キリストが自分自身の罪の身代わりとなって十字架に死んで罪の赦しを与え、復活していのちを保証してくださった救い主であることを信じることです。約2000年前に十字架に架かられて死んで三日目によみがえられたという歴史的真理を自分の個人的な救い主であると信じ受け入れることによって救われるのです。すなわち悔い改めと信仰によってクリスチャンになることができるのです。

●「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロの手紙1:8,9)。

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★救いは神の恵みである

2006-05-24 | 「信仰と救いについて」


 
最近、聖書を読んでおられる方で真剣に救いを求めていると思われるある青年からこんなメールをいただきました。「私は救われて天国に行きたいのですが、良い行いをたくさんして善行を重ねると天国に行くことが出来るのですか?」というような内容のものです。今回はその青年と同じような疑問をお持ちの方もおられるかもしれませんので、この真面目なご質問にお答えいたします。私は、聖書に基づいてこのブログを書いていますので、このご質問に対しても聖書に基づいてお答えしたいと思います。

 多くの日本人は、もし天国と地獄があるなら(実際にあるのですが)、修業を積んで善行をたくさんした立派な人が天国に行き、悪行を行い、殺人、強盗、詐欺、誘拐などの極悪な犯罪を行った人が地獄に行くのだろうと漠然と考えているようですが、真実はそうではないのであります。聖書を読んでいる方の中にもそのような誤解をなさっておらっれる方が多いのも事実ですが、神のみことばである聖書は決してそのようには教えていないのです。人の考えと神のみ心とご計画は明らかに違うことが分かります。

 私が若い頃、道を歩いていたら、自転車に乗った二人の外国人(白人)に呼び止められ、一枚の紙切れを渡され、たどたどしい日本語で何か話してくれたことがありました。あとでその紙切れをよく見ると、それには絵が描いてあり、その絵というのは、一人の男性が小船に乗り、二本の櫂(かい:Oar)で船を漕いで前に進もうとしている絵でありました。そして、その二本の櫂の一本には、「信仰」と書いてあり、もう一本の櫂には「行い」と書いてありました。つまり、その絵は、天国に行くには、信仰と行いの両方が必要だという意味だったのです。これは、明らかに間違った異端の教えであり、聖書の教えではありません。

●「あなたがた(クリスチャン)は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 」(エペソ人への手紙2:8,9)。

 このみことばは、使徒パウロがエペソに住んでいたクリスチャンたちに宛てた手紙の一部ですが、明確に書かれていることは、次のことです。
人が救われるのは、まず神の「恵み」によるものであること。
人が救われるのは、キリストを信じる「信仰」によるということ。
人が救われるのは、神からの「賜物」であるということ。
人が救われるのは、決して人の行いによるものではないということ。

 まず、最初に恵みとは何かということを理解する必要があります。「恵み」というのは、それを受ける価値のない者に示される神の愛です。神が、ご自身に反逆している罪深い人間を愛されるなら、それは恵みであります。目上に対する愛は尊敬であり、同等の者に対する愛は情愛であり、そして、目下の者に対する愛が恵みであると考えると、「恵み」を理解するのに役立つと思います。私たち人間は聖よい神様の前にはみな汚れた罪人であり、当然の裁きを受けるべきなのですが、神はご自身の限りない愛を持って私たちを愛してくださっているのです。「恵み」とは、この世の最も悪い者をも救うために天の最も良いもの(神の御子)を与えてくださったことです。

 聖書を読めば分かりますが、恵みは人の善行とか行いには全く関係がないことをはっきりと教えています。もし、人が善行によって救われるのならば、救いは恵みではなく、(善行に対する)報酬ということになります。神は、人間に対して何の負い目もありませんし、罪人(すべての人)を救う責任も義務もありません。神が人に与える「救い」は、神が人間に対して果たすべき義務や責任ではなく、まったくの好意の贈りもの(神の賜物)なのであります。そして、「信仰」というのはその神からの贈り物を受け取るために差し出す手に例えることが出来ると思います。

●「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。 」(ローマ人への手紙4:4,5)

●「もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」(ローマ人への手紙11:6)。


 ですから、恵みと律法を混同してはならないのです。人は律法を守ることによって、または善行によって救われるのではありません。律法は人間的に善人であり正しいと思われている人をも罪ありとします。また、恵みは最も悪い人をも救うことができるのです。殺人を犯した犯罪者であっても、罪を悔い改めて、キリストを信じる信仰によって救われることが出来ます。しかし、この世の人々の目には善人に見える人であっても、神に対して悔い改めてキリストを受け入れないならば永遠の滅びに入るのであります。

 イエス様が全人類の罪の身代わりになって十字架に架かられたときに、その両側に二人の強盗が十字架に付けられました。そしてそのとき、二人の強盗は十字架上のイエス様を罵っていました。ところが、一人の強盗は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23:34)とご自身を十字架に付けた者たちのために祈られたり、十字架上のイエス様の崇高なお姿を見ているうちにがイエス様が救い主であることを悟り、悔い改めてイエス様を救い主と信じて、その信仰を告白したのであります。その時、イエス様は彼に次のように言われました。

●「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカの福音書23:43)。

 ですから、もし人が救われるとすれば、神の恵みによるのであります。しかし神が聖であられますから、罪を見過ごすことはできません。罪を罰せられるのです。聖書の福音は、神がご自分の聖さを保持しつつ恵みによって罪人を救うことがどのようにして出来るかを、私たちに教えます。神の御子イエス・キリストは人間の罪に対する神の怒りと審判とを身代わりにお受けになられました。この御業によって、神は主イエス様を信じる者の罪を赦してくださることができるのです。繰り返しますが、救いはキリストを信じることによってのみ与えられる神の恵みのみ業であり、賜物であります。

●「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ人への手紙3:22~24)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。


 どうか、あなたもご自分の善行や修業、または世の宗教などに頼らずに、神が人類に与えたれた唯一の救い主イエス・キリストを信じて救われてください。

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◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」  

★神を信じるということ

2005-12-23 | 「信仰と救いについて」
   


●「‥‥それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。 』 トマスは答えてイエスに言った。『私の主。 私の神。』 イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』 」(ヨハネの福音書20:27~29)。

  イエス様は、よみがえられたのち、疑い深いトマスに対して、「‥‥信じない者にならないで信じる者になりなさい。」と優しくおっしゃって下さいました。人間はだれでも、疑う心があります。しかし、逆に言えば、人間には信じる能力があるからこそ、疑うこともできるのです。動物は何かを信じることはありませんが、また疑うこともしないのです。人間は、時と場合によっては疑うことも必要であります。聖書は、決して何でもおかまいなしに信じるようには教えていません。盲目的に何でも信じることは正しいことではありません。特に最近は世の中暗いニュースばかりで、詐欺的な行為で人を騙して金儲けの手段にしたり、善人の顔をしながら悪意と汚れた下心をもって子供に近づいて危害を加えたりする人も多いので、このような人に騙されないように細心の注意を払うことは必要なことであります。しかし、それにもかかわらず「信じる」ということは人間が生きることにおいて基本的に大切なことではないでしょうか。

 よく考えて見ますと、私たちは無意識のうちに本能的に実に多くのことを信じて生きていることに気づきます。例えば、必要な切手を貼って封書を投函すれば必ず相手に届くと信じます。書留にすれば確実に、そして速達にすれば通常より早く届くと信じて出すのです。また、キップを買って電車に乗れば目的地に着くと信じるのです。食堂で前払いで食券を買うと必ずその目的の食べ物を食べることが出来ると信じます。医者に行くのも医者を信じるからであります。あまり評判の良くない医者には行かないのです。土地や家などの不動産などの売買など、何かの契約を結ぶ場合においても、互いに相手を信頼して、契約書を取り交わすのです。しかし、これらのことはみな相手が人間ですから、事故もあれば間違いもあり、騙されて悲惨な結果になることもあり得るのです。

 しかし、それでも私たちは日々何かを信じて生きている存在なのです。人を信用するのも度合いがあります。通常、いつも約束を破る人はあまり信用されません。また、誠実に仕事をする人に対しては、「あの人に仕事を任せておけば安心だ。」と信用して任せます。頻繁に約束したことを破ったり、時間を守らなかったり、いい加減な仕事をする人を私たちはあまり信用しないのではないでしょうか。ですから、何を信じてもいいというのではありません。正しいことを信じなければならないのです。信じる価値のあるものを信じなければならないのです。しかし、私は神は100%信頼できる真実な御方であることを確信をもって断言することができます。

 「聖書」は、永遠に変わることのない神のことばであり、私たちが信じると信じないとを問わず、真に事実である多くのすばらしい事柄を記しています。人が信じても信じなくても聖書に記されている事実(真理)そのものは決して変わることはないのです。しかし、神と神のことばを信じるかどうかということは私たちの永遠の未来をも決定するほど大切なことなのです。聖書は、神が実在することについて記して、また人間は神によって造られ、神に似せて造られたことが記されてあります。また人間はアダムの罪以来、すべての人が罪を犯すようになったことが記されています。人は死後において神のさばきを受けるべき存在となったことが記されています。

 そして、愛なる神は人類の救い主としてご自身の御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、旧約聖書の預言通り処女(マリヤ)の胎を通して誕生されたことが書いてあります。そして、罪の全くない聖よい生涯の後に、十字架で身代わりに死んで墓に葬られ、三日目に復活されたことが書いてあります。そして、昇天された主イエス・キリストはやがて再び来臨されることが書かれています。信じる者をご自身のみもとに携え挙げ、信じない者をさばくためなのです。これらのことを信じるように聖書は勧めているのです。

 ある人は「死ぬ直前に神(キリスト)信じればいいのではないか。」といいます。確かにそれでも天国に行くことはできます。天国に行くにはそれで十分であります。でも、こんな質問をする方の動機を考えて見ると、何か大きな思い違いをしているのではないかと思います。その間違いというのは、次の三つです。

◆(1)「クリスチャン生活は退屈でつまらないものである。」と考える間違い。
天国に入るまでのクリスチャン生活は暗くて退屈で、何の楽しみもないもので、良いことは何もないと思っておられる方がいます。だから、なるべくその期間を短くしようとして、それまで好き勝手な罪の生活を送ることを考えるのです。しかし、それは大変な誤解です。キリストを信じて受ける救いの恵みは、ただ死んでから天国へ行けるというだけのものではないのです。この世に生きて限りキリストと共に生きる人生であって、いつも愛され、守られ、導かれているので、こんなに喜びと平安に満ちあふれた幸いな人生は他にないのです。年を取ってからキリストを信じたある人は、「キリストを信じた今、私はたった一つ後悔していることがあります。それは、なぜ、もっと早くキリストを信じなかったのかということです。」と述懐しているのです。

◆(2)死の時はいつ来るかだれも分からないという事実を忘れています。
若い人は、みな自分は70~80歳位まで生きられると思い込んでいます。しかし、あなたの命を握っておられ、ご支配なさっておられるのは全能の神様です。「死の直前になってから神を信じよう。」という人生の計画を立てて、その通りになることが果たしてあるのでしょうか。もちろん、神様の憐れみはあると思いますが、私はそのような話を聞いたことがありません。信じるに必要な福音の知識と理解がありながら、何十年も信じないままでいることなどできないのです。また、もし、福音の知識なしにいるなら、死ぬ直前になって「早く教えてくれ~。何をどうやって、信じたらいいのか早く教えてくれ~。」と叫んでも多分間に合わないと思います。そして、加齢と共に人は益々頑固になり、信じることが難しくなるのです。

◆(3)信じることができるのは、神様の恵みであるということを忘れています。
ある人は、自分はいつでも信じたい時に信じられるとお考えかも知れませんが、救い主イエス・キリストを「信じる」ことは、神様の恵みであり、聖霊の助けがなければ、決して信じられないのです。人間の心は非常に頑なです。そして、年と共に益々人の心は頑なになるのです。

 それでは、いつ信じるべきでしょうか。できるだけ、早い方がいいのです。いや、今こそ信じるべき時なのです。明日、あなたが確実に生きているという保証はないからです。どうでしょうか。今日、今夜、いや、今すぐイエス様を受け入れる決心をなさいませんか?明日では遅過ぎるかもしれません。全く罪のないイエス・キリストが、あなたの罪の身代わりになって自ら進んで十字架に架かられて死んで下さいました。驚くべき神の愛ではないでしょうか。
どうか、真剣になってこの大切な聖書の福音についてお考えになって下さい。
 
●「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカの福音書1:37)。

●「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)。

●「きょう、もしみ声を聞くならば、荒野で試みの日に御怒りを引き起した時のように、心を頑なにしてはならない。」(ヘブル人への手紙3:7~8)。

●「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ書45:22)。

●「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(イザヤ書55:6)。
  

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★神様の賜物と信仰

2005-12-18 | 「信仰と救いについて」
      
          

 ある方から、「”キリストを信じるだけで人は救われるのです”とクリスチャンの方はよく言いますが、それが私にはどうも納得がいかないんですがね~‥‥」とのご質問をいただきましたので、今回そのことに関して少し聖書のみことばから考えてみたいと思います。最初に一つの例を上げますが、もしあなたの誕生日かあるいは何かの記念日に、あなたの親友からすばらしいプレゼントが贈られたとします。その時、あなたはどうなさるでしょうか。あなたが素直な方であれば、多分嬉しそうに笑みを浮かべて、「ありがとうございます!」と言ってそのプレゼントを喜んで受け取るのではないでしょうか。

 もし、あなたが「それはとても高価なものですから、今お金を払いますから、ちょっと、待ってください。」と言って財布を出してお金を払おうとしたら、相手の人には大変失礼になりますし、その方はとても不愉快な気分を味わうに違いないと思います。あなたにそのプレゼントをしてくれた贈り主はそれを素直に感謝して受け取ってくれたらそれが一番嬉しいのではないでしょうか。贈り物は、何の代価も払わないで、いただくからこそ、それは贈り物であり、プレゼントなのです。お金を払っていただくプレゼントなどあり得ないのであります。プレゼントを贈る人は、相手が何をあげたら喜んでくださるだろうかといろいろ思案し、それを受け取った人の喜ぶ顔を見て嬉しくなるのです。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

 「救い」の問題を考える時に、最初に知らなければならないことは、聖書が教える救いは、対人関係の悩みとか、苦しみ、貧しさ、病気の苦しみ、不安と孤独感などからの救いではなく、罪と死後の神の永遠の刑罰からの救いについて語っているのです。聖書の福音は、単なるご利益宗教とは違います。これが分からないと、救いも福音も分からないということになります。そして、「信仰」というのは、神様から送られたプレゼント(贈り物)あるいは「恵みによる救い」をいただくために「差し出す手」に例えることが出来ると思います。「手」を差し出さなければその高価な贈り物を受け取ることができないのです。

 愛なる神様は、全世界のすべての人に主イエス・キリストの十字架の贖いを通して「永遠のいのち」という賜物を与えようとして提供しておられるのです。それを感謝して受け取るかどうかは、その人自身の自由意志にゆだねられています。救いは、恵みと愛に満ちておられる神様から一方的に与えられる「永遠のいのち」という賜物なのです。私たちは、その「永遠のいのち」の賜物を「ありがとうございます!」と言って、信じて感謝して受け取るだけでいいのです。それが、聖書が語る単純な福音であり、新約時代の恵みなのであります。それでも、ある方はなおも「でも救われるためには何か慈善とか良い行いが必要ではないのでしょうか。」と言われます。しかし、聖書は下に列記したみことばのように、一貫してイエスを信じる者が恵みによって救われ、「永遠のいのち」が与えられることを教えています。

●「あなたがた(クリスチャン)は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 」(エペソ人への手紙2:8,9)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネの福音書3:36)。

●「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 」(ヨハネの福音書5:24)。

●「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネの福音書20:31)。

●「聖書は何と言っていますか。‥‥ 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働き(行い)もない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方(神)を信じるなら、その信仰が義(正しい者)とみなされるのです。」(ローマ人への手紙4:3~5)。


 救いは行いによらないことを他の例をもって説明しましょう。入場料が10,000円の催し物があったとします。5,000円持っている人が2,000円持っている人に向かって「私はあなたより3,000円多く持っていますよ!」と威張ってみても、いざその会場に入ろうとした場合、どちらも入ることができないのです。その会場に入るためには、そのお金は何の役にも立たないのです。人間の行いも、それと同様に、どんぐりの背比べのようなものであります。聖よい神の前には、人間が自分では正しいと考える善行でさえ、みな汚れた着物のようであると語っており、正義の神の前にはその聖よい基準に達することはできません。ですから、どんなに良い行いを積重ねてもそれによって救われて天国に行くことはあり得ないのです。

 もう一つ、別な譬えを挙げたいと思います。もう大分古い話ですが、外国のある大きなホテルが火事になって、100人以上の方が被災し、亡くなった悲惨な事故がありました。近所の消防自動車が出動しましたが、当時そのホテルには散水装置が備えられていませんでしたので、火はあっと言う間に建物全体に広がりました。ある人は煙に巻かれて窒息し、ある人は窓から飛び降りて死亡しました。このような大惨事になった理由の一つは、消防自動車が出動したのですが、その梯子が短くて救助を待つ人たちの階上まで届かなかったからでした。永遠の滅びから救われる道は、主イエス・キリストの十字架の御死による以外に絶対にないのであります。もし、他に道があるなら神の御子イエス・キリストが身代わりに十字架にかかられる必要はなかったのです。人間のどんな努力も修業も、宗教の力も、あの短い梯子と同じで天国に至る救いまでは届かないのです。

●「・・・そして、ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。』と言った。 ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と言った。」(使徒の働き16:30、31)。

 これは、昔、パウロとシラスという二人の伝道者がヨーロッパで最初に伝道したピリピという町で起こったできごとです。二人の伝道者がキリストの福音を宣べ伝えたために投獄され、その夜、神様の不思議なご介入があり大地震が起こって、その看守が震え慄いて、パウロとシラスの前に跪き「救われるためには、何をしなければなりませんか!」と叫びました。そうしたら、二人は声を合わせて「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と単純明解に答えたのであります。そして、間もなくこの看守の家族はみな救われ、全家族そろって神を信じたことを心から喜びました。救われることは、決して難しいことではありません。あなたの罪を悔い改めて、キリストを自分の救い主として個人的に信じることだけで救われるのであります。あなたも、遅くならないうちに是非、この尊い救いをご自分のものとないませんか。

         

★すべての人のために

2005-10-13 | 「信仰と救いについて」



   私は、バスという乗り物が好きです。特に、昔のあのボンネットが前に突き出たかたちのバスが田舎道を走るのを懐かしく思い出すことがあります。子供の頃、塩狩峠の近くに住んでいたので、家のすぐ近くにバス停があり、街(和寒町)まで、買い物や用事を親に頼まれてよく利用したことがあります。バス停に停まる度に、いろいろな人が乗ったり降りたりするのですが、腰の曲がったお爺さんもいれば、買い物に出かけるお母さん、仕事帰りのお父さんもいます。お母さんに手を引かれた小さな子供も乗って来ます。

  乗客の一人一人の表情を見ていると飽きることがありません。田舎のバスは、定刻に来ることもあれば、遅れて来ることもあり、のんびりしていました。昔のバスは車掌が乗っていましたが、今はほとんどワンマンカーになってしまいましたね。現在住んでいる市にもバスが走っていますが、最近は、自家用車をよく使うのでバスに乗る機会がほとんどなくなってしまいました。ところで、英語のバス(Bus)は、元々はラテン語のオムニバス [omnibus](乗合自動車)から来たもので 、これは 「すべての人のために」という意味があるのをご存じでしょうか。

  確かにバスはすべての人のためにその定められた路線を走っています。「あなたはこのバスに乗ることができませんよ!」と、特定の人を差別したり排除されることはありません。お金さえ払えば誰でもそのバスに乗車することができるのです。立派な紳士でなくても、野良着を着た農夫や作業服を着た労働者であっても、服装や身分などに関係なく、自由に乗降することができます。しかし、バスはすべての人のために走っているのですが、そのバスに乗らなければ、目的地に行くことができないのは当然のことです。
 
  ところで、あなたは神様がすべての人のために用意してくださった「バス」のことをご存じでしたか。イエス・キリストはすべての人を救って天国にまで運んでくださるために神様が遣わしてくださった御方なのです。これは、本当にすばらしいことです。街の路線を走るバス(Bus)は、乗るためにお金を払わなければなりませんが、天国行きのバス(乗合自動車)は、善行を積んだ人や、修業を重ねた立派な人や、宗教家や、身分の高い人とか、そんなことには一切関係なく、どんな貧しい人でも、どんな極悪な罪人でさえも、一円もお金を払わずに無料で乗れるのですから、これは本当にあり難い話ですね。これが、キリスト福音(うれしいニュース)なのです。
 
●「‥‥というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人(キリスト)がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(Ⅱコリント人への手紙5:14、15)。

●「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」(ヘブル人への手紙2:9)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 」(ローマ人への手紙1:16)。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(テモテへの第一の手紙2:4~6)。


  愛なる神様は、私たち「すべての人のために」ご自身の御子イエス・キリストを救い主として遣わしてくださいました。これはとても大きな神様の愛による犠牲のみわざです。御子イエス・キリストは十字架に架けられて、私たち罪人のために身代わりに死んでくださり、三日目の日曜日の早朝によみがえられた方なのです。そして、そればかりではなく、神様は「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる」方なのです。

  神様が用意してくださったバスの名前は「キリスト福音号」です。乗車のためにお金を払う必要はありませんし、何の代価も必要ではありません。神様は無料でこのバスを用意してくださったのです。そして、このバスの行き先には「天国行き」と書かれてあります。天国以外のところに連れて行くことがありません。そして、このバスに乗ると途中下車はできません。天国に直行するのです。

  この天国行きのバスは、今日もあなたのために走っています。バス停に佇んでいるあなたが、開いたドアから乗り込もうとせず、神の愛を拒んでおられないでしょうか。あなたが救われるためには、神様が用意してくださった天国行きのバスを信じて、運転手(キリスト)にすべてをゆだねて、それに乗り込む必要があるのです。どうぞ、あなたも救われるためにその勇気を持って下さい。イエス・キリストをどうぞ、信じて救われて下さい。
 
          

★見ないで信じる者の幸い

2005-07-11 | 「信仰と救いについて」

●「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように。』と言われた。 それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』 トマスは答えてイエスに言った。『私の主。 私の神。』 イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』 」(ヨハネの福音書20:26~29)。 

  これは、イエス様の弟子の一人であった「懐疑論者トマス」に言われたことばです。人間にはだれでも疑う心があります。しかし、逆に言えば、人間には信じる能力があるからこそ、疑うこともあるのです。動物は信じることもありませんが、また疑うこともないのです。人間は、時と場合によって疑うことも必要であります。盲目的に何でも信じることは正しいことではありません。怪しげな新興宗教を信じて、その人の一生が破滅的な大打撃を受けた例も決して少なくありません。また、人は、詐欺師に騙されて大変な損害を被る場合もあります。しかし、「信じる」ということは人間が生きて行くことにおいて基本的に大切なことなのです。

 トルストイの言葉に「信仰とは、人生の力である。」というのがあります。確かに人間は何かを信じなければ生きることができません。その証拠に、一人の人間が何も信じられなくなったとき、「死」を考えるようになります。私たちは、無意識のうちに本能的に実に多くのことを毎日信じて生きています。夜、床に入る時に、一夜が明けると、東の空から太陽が昇って明るい朝が来ることを信じて安心するのです。夜のまま暗闇が永遠に続くなどと考えたら、床に入るのも怖くなるでしょう。朝の来ない夜はないのです。車でトンネルに入るとき、必ず出口があると信じて走っています。出口のないトンネルを考えたら、ちょっと怖いですね。子供はお母さんの作ってくれたご飯とお味噌汁をおいしそうに食べています。お母さんを信じているからです。この味噌汁に毒が入っていないかな?などと考える子はいないでしょう。

 病気になった時に医者に行くのも、医者を信じるからです。医者と患者の間に信頼関係がなければ、医療行為は成立しなくなります。愛し合う二人の男女は互いに相手を信じて結婚に踏み切ります。夫婦というのは、血のつながりがないのに最も親密な関係になります。その土台はやはり信じ合うということです。家庭も夫婦や親子関係が信頼しあってこそ、成り立つのです。信じるということがなければ、家庭に平和や安らぎがあるでしょうか。小さな子供でさえ父親や母親を信じます。「信じる」という能力は、非常に不思議なものであり、人間だけが持っているものです。

●「信仰がなくては神に喜ばれることができません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなけれならないのです。」(ヘブル人への手紙11:6)。

 さて、神と人を結ぶものは「信仰」です。神と人を結ぶものは信仰以外には決してありません。これは基本的に大切なことであります。線の切れた電話は何度掛けても通じません(現在の携帯電話やコードレスは考えないでください。これは譬え話ですから‥‥)。また、電流の流れていない電灯は光や熱を出すことができないのです。また、電車も上の電線に触れてこそ、電力を受けて走るのです。それと同様に人間も力と生命の源である神に連なってこそ力と命を受けることができるのです。神との接触がなければどうして、神の力を知ることが出来るでしょうか。パウロは、自らの弱さを知っていた人ですが、「私を強くしてくださる方によって、どんなことでも出来るのです。」(ピリピ人への手紙4:13)と言っています。

 では、何を信じてもいいのかというと、そうではありません。正しいことを信じなければならないのです。信じる価値のあるものを信じなければならないのです。聖書は、私たちが、信じると信じないとを問わず、真に事実である多くの事柄を記しています。神の存在。人間の罪。天国と地獄の存在。キリストが神の御子であること。キリストの復活の事実。キリストの再臨の事実。人が信じても信じなくてもその事実そのものは変わることはありません。しかし、それを信じるかどうかということは、私たちの将来(永遠の未来)を決定するほど、重要なことであります。では、一体、何をどのように信じるように聖書は教えているでしょうか。次の七項目に注目しましょう。

(1)神が天地万物を創造されたこと(宇宙も地球上の生物も人間もすべて)。
●(創世記1:1~31)
(2)すべての人は神の前に罪人であること。
●(ローマ人への手紙3:10)
(3)私たち罪人のために、死んでくださった救い主がおられること。
●(Ⅱペテロの手紙3:18)(Ⅰペテロの手紙2:24)
(4)キリストご自身が救い主であり、来るべき救い主であることを証明されるため
   に死からよみがえられたこと。
●(ローマ書1:4)(使徒17:30)
(5)神は私たちに救い主キリストを信じるように望んでおられること。
●(Ⅰヨハネの手紙3:23)
(6)キリストを救い主として信じることは私たちの救いを保証すること。
●(使徒の働き16:31)
(7)救われる他の方法はないということ。
●(使徒の働き4:12)(ヨハネの福音書14:6)。


 ある人は、次のように言われます。「キリストがで死なれたのは二千年前のことなのに、どうして私たちの罪の赦るしと関係があるのか?」と。二千年前の日本はまだ弥生時代でした。弥生時代にどんなに偉大な人物がいたとしても、現代の私たちには、全く無関係であります。確かにキリストが単に過去の偉人であるならば、実質的に無関係です。しかし、キリストは単なる偉人ではなく、神の御子であり、全人類の罪の赦しのために十字架で身代わりに死なれた御方なのです。キリストの死が、すべての人の犯した罪を赦す力を持っていることは次の二点で明らかです。

(1)神は全能のお方で、未来のすべてを見通しておられるということです。人間は未来のこと(5分後のことすら)は分からない者です。しかし、神はすべてのことをご存じであり、ですから、二千年後の私たちのこともすべてご存じであり、その上で、十字架に架かられたのです。

(2)イエス・キリストは、今も生きておられるということです。もし、キリストが十字架で死なれたままなら、今、彼に何の力もないことになりますが、キリストは復活せられて今も生きておられ、天において人々のために執り成しておられるのです。

●「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおで きになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。 」(ヘブル人への手紙7:24、25)。

 皆様が、是非一日も早く、この尊い救いをお受けになられますようにお祈りしています。冒頭の聖句にありますように、イエス様はトマスに対して、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。この頃から約2.000年の間、クリスチャンになった人たちは、みなキリストを肉眼で見ずに信じて来た人たちなのです。聖書は神のことばですから、そのまま信じる時に心からの平安と救いの確信を得ることができるのです。

●「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(ペテロの第一の手紙1:8,9)。
 
●「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。 」(ヘブル人への手紙11:1)。



★大切なのは信仰の対象

2005-07-08 | 「信仰と救いについて」



     一般的な話ですが、若い人たちは互いに相手を「この人ならきっと私を幸福にしてくれる」と信じて、結婚生活に入ります。ところが、しばらくの結婚生活の後、信じられない人であることが分かり、幸福な結婚生活も一夜の夢とはかなく消えて、深い手傷を負い、悲しみに沈まなければならないこともあります。家や土地を買うときも、交渉相手を信じて騙されることもあります。ことば巧みに騙されて家のリフォームの工事を発注してとんだ被害をこうむることもあります。

  また、学校では、児童に「変なおじさんを信じて、着いて行ってはいけません。」と、教えなければならない時代です。最近は「振り込め詐欺」など手の込んだやり方で年寄りを騙してお金を取られる事件も多発しています。このように考えてみますと、世の中に生きている限り、(私もあなたも含めて)100%信じ得る人など、厳密な意味においては、一人もいないことが分かります。
 
  益々、今の世の中、人を信じられない時代になって来ました。不誠実と不真実と虚偽とがまかり通っているのです。善人のように振る舞い敬虔そうに見えても、実は「羊の皮を被った狼」であることもあるのです。学校の先生も、警察官も、大学教授も、医者も、いや、キリスト教会の牧師と言われている人たちの中にさえ、とんでもない破廉恥な行為をする人もいる昨今なのです。 

  「不審者を見かけませんでしたか?」とか、「不審者にご注意ください。」などと書かれた貼り紙を見たことがありますが、「不審者」と「不審者でない人」と、どのように見分けることができるでしょうか?「私は不審者です」という顔をして悪いことをする人は稀です。大部分は善人の顔をして悪いことをするのです。しかし、それにもかかわらず、悲しいかな、人は人を信じなければ生きていけないのです。信じることなしに生きることができない存在なのです。

  でも、この世の中の人間がいかに堕落の一途を辿り、道徳的に腐敗したとしても、100%信じられる御方がおられます。「いわしの頭も信心から」と言われていますが、それは偽りです。大切なのは何を信じるか、誰を信じるかということであります。ですから、問題は信じる対象が何かということです。日本人は、キツネのような動物でも、人間(生きている人も死んだ人も)でも信仰の対象にしてしまい、その「信心すること」自体に大きな価値があるように錯覚している方が多いのです。

  人を信じて度々裏切られた経験のある方は、「もう、だれも信じられない、神なんかいるものか!」と悲観的になってしまいます。
しかし、100%信じて決して裏切ることのないお方は聖書が示す「真実な神」(創造者)のみであります。また、神のことばである聖書も100%信頼できる書物であることを私は確信してみなさんに紹介しているのであります。聖書をどうぞ、手にしてお調べになってください。どこを調べても矛盾がなく、全幅の信頼を置いて読むことの出来る本であります。

●「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。‥‥」(ローマ人への手紙3:3,4)

●「私たちは真実でなくても、彼(イエス・キリスト)は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(テモテへの手紙2:13)


●「しかし、この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた(believe)人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 」(ヨハネの福音書1:12)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる(believeth)者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「御子を信じる(believeth)者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネの福音書3:36)。

●「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる(believeth)者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 」(ヨハネの福音書5:24)。

●「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じる(believe)ため、また、あなたがたが信じて(believing)、イエスの御名によっていのちを得るためである。 」(ヨハネ20:30,31)

●「そして、ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。』と言った。 ふたりは、『主イエスを信じなさい(Believe on the Lord Jesus Christ)。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と言った。 」(使徒の働き16:31)。

 
  こんな話を聞いたことがあります。ナイアガラの滝の上流でボートが転覆しました。そして、二人の青年が水の中に投げ出されました。それを発見した人が、岩から素早くロープを投げ、その青年の一人はそのロープに掴まって救われたのであります。しかし、もう一人の青年はちょうど、そこに太い丸太が流れて来たので、それに掴まったのです。しかし、彼は、間もなく滝から真っ逆さまに落ちて死んでしまったのであります。初めの青年が救われたたった一つの理由は、掴まっていたロープによって「陸」とつながっていたからです。それと同様に、イエス・キリストを信じる信仰によって神につながっている人生は、滅びから救われて「天国」に行くことのできる安全な人生であるのです。

●「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』‥‥ 」(ヨハネの福音書14:6)。

●「信仰(faith)がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを信じ(believe)なければならないからです。」(ヘブル人への手紙11:6)。


 私たちの永遠の滅びからの救いと希望のすべては、私たちの信仰が強いか弱いかにかかっているのではなく、神にかかっているのです。十字架上で、私たちの身代わりに死んでくださり、三日目によみがえられたキリスト、救いのすべてはこのキリストをよみがえらせたキリストにかかっているのであります。ここにこそ、私たちクリスチャンの確信があるのです。人間の書いたいかなる書物の著者も過ちを犯す可能性があり、この救いの確信は聖書以外から来ることはありません。もちろん、私のブログもみなさんが信仰を持つためのお手伝いをさせていただいているだけです。

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