聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人生で最も大切なこと

2005-03-31 | 「キリストの復活」

      

  イエス・キリストは私たちの罪のために身代わりに十字架で死なれ、三日目に復活されましたが、昇天される前に、弟子たちに次のように世界宣教を命じられました。ですから、忠実なクリスチャンたちは、この約2,000年の間、多くの反対と迫害と困難の中で、その主のご命令に従って「福音」を宣べ伝えて来たのであります。日本でも戦時中は、その福音を宣べ伝えたために、数年間投獄された先輩のクリスチャンたちもおります。もう大分前に天に召された知人のクリスチャンですが、原爆が広島に落ちた時、広島の地下牢の中に入れられていたために助かったという不思議な経験をされた方もおられます。今のような生ぬるい時代に生きている私たちは、先人の労苦に心から敬意を表したいものです。

●「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:15,16)。

●「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (マタイの福音書28:18~20)。


 では、その「福音」とは何でしょうか。神のことばである聖書は次のように明確に記しています。これは、使徒パウロがコリントの教会(集会)に宛てて書かれた手紙の一部です。

●「兄弟たち。私は今、あなたが福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書(旧約聖書の預言)の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。 」(コリント第一の手紙15:1~7)。
  
 紀元30年頃のあの日曜日未明に起こった事件、イエス・キリストが墓の中から復活したという出来事は、人類の歴史を全くひっくり返してしまいました。それは、今の今まで、失意のどん底にあった者に喜びを与え、力を与え、確信を与えたのです。このキリストの復活の喜びを告げる足は、全世界に向かって進んで行きました。そして、21世紀に生きる私たちにさえも、今伝えられているのです。

 しかし、キリストの復活はあまりにもあり得ない話で、当時のイエス様の弟子たちでさえ、イエス様から何度もご自身の復活について、直接聞いていたのに、最初は信じることが出来ませんでした。キリストに従う者たちや、彼を慕っていた人たちは、失意のどん底にありました。慕い従い、そして一生を託すお方としてのイエス様が、あの残忍なローマ法のもとに引っ張られて行き、無残にも極悪人の死刑台であった十字架刑で、死んでしまったのですから‥‥。悲しみと嘆き以外に何があるでしょうか。

 イエスの回りの女たちは、涙の中にも女らしい優しい愛情を込めて、キリストの死体を香で装おうと、あの日曜日の朝、墓に行ったのであります。しかし、墓は空(カラ)だったのです。そして、そこにいたみ使いが言いました。「驚いてはいけません。‥‥あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(マルコの福音書16:6)と。不思議な出来事です。でも、これは、事実でした。信じなければならない不思議な事実でした。その日、多くの弟子たちは墓から復活されたイエスにお目にかかったのです。幽霊ではありません。まさしく、両手、両足、そして脇腹に釘跡、槍で刺された傷跡のある主イエスを見たのであります。三日前、あの十字架で絶命され、墓に葬られたはずの主イエスが今、自分たちのテーブルで食事を共にしておられるではありませんか。彼らの心が歓喜に満たされたのは当然であります。
 
 このキリストの復活は、世界歴史の中で実を結んで行きました。幾度も、迫害に包まれたこともありました。しかし、それにもかかわらず、キリストが復活して生きておられることを伝える良き訪れ(福音)は、東に西にぐんぐん伸びて行きました。なぜなら、救い主イエス・キリストは確かに生きておられるからです。そして、罪に悩む者には赦しを、苦しむ者には慰めを与え、酔っ払いは真人間に変えられ、そして、多くの人々に真の希望と生きがいを与え続けているのであります。そして、クリスチャンの真の希望は、この地上にあるのではなく、この地上では旅人であり、寄留者に過ぎないのです。やがて、天から私たちを迎えに来てくださる主イエス・キリストを待望するところに真の喜びがあるのです。

●「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14:3)。 

            

★キリストの比類なき愛

2005-03-28 | 「キリストの愛」

                     
  これは、あくまでも例え話であり、フイクションですので誤解のないようにお願いします。ある中国人の青年が道を歩いていると、深い井戸に足をすべらせて落ちてしまいました。彼は水の中で溺れかかって、大声を出して助けを求めました。すると、側を通りかかった一人の白髪の老人が「子どもよ、一体どうしたのか。」と聞きました。そこで、彼は井戸の中から叫んで、「はい、私は誤って井戸に落ちてしまったのです。」と答えると、その老人は「あなたが、もし私の教えをよく守っていたなら、井戸に落ちてしまうことはなかったであろうに‥‥」と言って去って行ってしまいました。この人は「孔子」であったというのです。
 
 ところが、しばらくして、もう一人の老人が通りかかって、「子どもよ。一体どうしたのか。」と、同じような質問をしました。「はい、私は誤って井戸に落ちてしまったのです。助けてください!」と救助を求めました。すると、その老人は、「ああ、そうか、それでは、静かに目を閉じて瞑想してみなさい。」と答えました。そこで、彼は目を閉じてみたのですが、水を飲み、溺れ苦しみながら目を上げると、すでに先ほどの老人も去ってしまって、そこにはいませんでした。この老人は「釈迦」であったというのです。

 さて、次にもう一人の30代の若い方が来られました。彼は、憐れみに満ちた声で、「子よ、一体どうしたのか‥‥」と、尋ねました。すると、井戸の中から、「はい、私の不注意のために落ちてしまったのです。もう溺れて死にそうです。早く助けてください!」と叫ぶ青年の声が聞こえて来ました。彼は、このことばを聞くや否や、自分の体をロープで縛り、直ちに、深い井戸の中まで降りて行って、その溺れている青年を力強い手で捕まえて、水の中から引き上げて救出してくださったのです。そして、優しく彼の手を取って、「さあ~、子供よ、これから再び落ちたりしないように、わたしといっしょに歩いて行こう‥‥」と言われたのです。そして、この方こそ、イエス・キリストであるというのです。

 イエス・キリストを信じることは、すばらしい教えを守って行くことでもなければ、難行苦行をすることでもなく、また、瞑想したり精神統一したりすることでもありません。キリストの十字架によって救っていただいた者が、生涯の間、イエス・キリストといっしょに歩いて行くことなのです。溺れている人に必要なのは、良い教えでもなければ、道徳や宗教でもありません。イエス・キリストによる「救い」が必要なのです。神の御子イエス・キリスが人の姿をとって、この世に下って来られたのは、罪の中に苦しんでいる人々を救い、天国に着く時までいっしょに歩んでくださるためなのです。

 釈迦も孔子も、人間的には大変立派な方であります。そして、この世の中には、立派な教えを説く人や、良い教えを広める宗教家もたくさんおられるでしょう。しかし、溺れている人に必要なのは良い教えや道徳などではありません。溺れている人に必要なのは、緊急な「救い」であります。聖書によれば、人間は聖なる神の前にはみな罪人であって、溺れている人と同様であります。イエス・キリストは、この世の多くの宗教家とは比べることのできない比類なき御方であり全人類の救い主なのです。

 あなたに、真に必要なのは、あなたの罪のために身代わりに死んでくださったイエス・キリストを信じて受けることのできる「救い」であります。キリストは、私たちを罪と永遠のさばきから救ってくださり、この地上の生涯の悲しい時、辛い時、また試練の日にも、天の御国に入るその時まで、共に歩んでくださるお方なのであります。何と、幸いな人生ではないでしょうか。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさば くためではなく、御子によって世が救われるためである。 」(ヨハネの福音書3:16,17)。

●「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」 (使徒の働き4:12)。

●「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 」(Ⅰテモテへの手紙1:15)。

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 」(Ⅰテモテへの手紙2:4,5)。

●「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合ってい た。 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。 」(ルカの福音書24:13~15)。

●「‥‥‥見よ。わたし(キリスト)は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (マタイの福音書28:19、20)。


 どうか、あなたも主イエス・キリストを心から信じ受け入れて、一日も早く救われてください。神様も、そのことを望んでおられるのです。


          
 

★ある老人の悲しい死

2005-03-24 | 「人の死とその備え」



  北海道の今年の冬は異常に降雪が多い年で、三月に入っても、まだ雪が降り積もっていたのです。最近になってやっと、雪解けが始まり、春の足音が近づきつつあるのを感じる季節となりました。
昨年の冷たい木枯らしが吹く初冬の頃であったと思いますが、私は隣町に住んでいた73歳になるTさん(男性)から、聖書のことを知りたいので訪ねてほしいとの連絡(はがき)をいただいて、何度か訪ねたことがありました。彼は、十年ほど前に奥さんを病気で亡くされ、長い間連れ添った妻に先立たれたTさんは、身寄りもなく、ひっそりと暮らしていたのです。

 最初に彼の家を訪問した時、玄関で立ち話をして帰ろうとしたのですが、勧められるままに、部屋に案内され、飾り気のない居間は雑然としていて、一目で老人の一人暮らしと分かる質素な生活ぶりを感じることができました。彼は、定年退職したあと、友人の保証人になったためにかなりの借金があり、それを返済するために、老骨に鞭打って、近くの高校の夜警の仕事をしていたのであります。そして、やがて来るであろう自らの「死」について、寂しげに話していたのが印象的でした。 その後、彼は聖書の福音を伝える集会 に熱心に集うようになり、聖書の話を頷きながら熱心に聞いていたのです。

 この3月の半ばの頃ですが、彼に電話しますと、その日の夜は仕事もなく、集会に出られるということで、とても喜んでいたのです。隣町までは、交通の便が悪いため、私は彼が集会に出られる時は、夜七時半からの集会に間に合うように車で迎えに行くようにしていたのです。そして、その日もいつもと同じように、七時十分頃、いつもの待ち合わせの場所まで、彼を車で迎えに行ったのです。
ところが、いつも時間に几帳面で私が行くのを待っているのが常であった彼が、その日は何故か、その場所に来ていませんでした。時間がないので、急いで彼の家まで走って行って見ましたが、玄関は鍵もかかっていない状態で、家には灯りもついていませんでした。私は、集会の時間があるので不審に思いながらも、急いでまた車を走らせて自宅に戻ったのです。

 気になっていたので、翌日、数回彼の家に電話をしてみましたが、通じなかったのです。 そして、三日後に友人からの電話で、昼前のテレビのローカル・ニュースで、Tさんが落雪事故で亡くなったことを報じていたとの知らせに、私も愕然としたのであります。あとで、新聞報道で知ったことですが、彼は、昨年12月に亡くなった友人宅(当時は空き家)の軒下を一人で除雪していた時に、屋根からの落雪に埋まり、窒息死したらしいということであります。彼は、二日以上の間、雪の下に埋もれたまま、だれも助ける人もなく、孤独な死を遂げたのであります。彼の人生はなんと、寂しい人生ではなかったでしょうか。そして、なんと、孤独な死ではないでしょうか。皮肉なことに、彼の家のすぐ近くに駐在所もあったのですが、誰も気づかなかったようです。

 人間の一生は、百人百様、みなその生き様も通る道も違っており、また、いつ死ぬか、いかなる死に方をするかも、だれも知ることができないのであります。病死、自然死、事故死、自殺、‥‥etc。そして、病死にしても千差万別、数え切れないほど、いろいろな種類の病気があります。事故死にしても、交通事故、海や山での遭難事故、あるいは、災害による事故など、挙げれば切りがありません。しかし、確実なことは、すべての人は、必ず、自らの死の時を迎えなければならないということであります。その備えは、あなたに出来ているでしょうか。そして、すべての人は死後に神に会うのです。

●「あなたは、あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス書4:12)。

●「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(伝道者の書3:1,2)。

●「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。・・・・・・・それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:10~12)。

●「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27:1)。

●「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。 」(伝道者の書7:2)。
 
 聖書の中には、上記のような勧めのみことばもあります。「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」とは、一体どういうことなのでしょうか。喪中の家に行くことによって、人生の空しさと儚さを悟り、人生がいかに短いかを知り、知恵をもって生きなければならないことを学ぶので、祝宴の家に行くよりもまさっているという意味であります。人間の死について、あまり人は聞きたくないと思います。しかし、今晩、敢て私は、このことについて書かせていただきました。

 Tさんとこの地上で電話で交わした最後のことばは、「では、今晩またお会いしましょう‥‥」でありました。Tさんが、雪に埋もれている僅かな時間に、聞いていた福音を思い出して、イエス・キリストを信じて主のみもとに召されたのか、あるいは、信じないで神に会う備えのないまま逝ったのか、それは、Only God knows(神のみぞ知る)であります。さて、あなたは、死に対する備えが出来ておられますか?  

 

 

★傷ついた葦のような人間

2005-03-22 | 「キリストの偉大なる生涯」

           

 パスカルは、「人間は、自然の中でもっとも弱い葦である。 しかし、それは考える葦である。」と言う有名な言葉を「パンセ」に残しています。人間というのは、肉体的にも精神的にも確かに弱く、また、非常に傷つきやすい存在であります。今日は、この中の「考える葦」の部分ではなく、「弱い葦」である人間について考えて見たいと思います。「人間の心の中にはいかなる困難も乗り越えて生き抜こうとする逞しさと、針の先ほどの些細なことが原因で絶望的になってしまう脆(もろ)さが同居している存在である。」と語った人がいますが、まさにこれは名言ではないでしょうか。 

 確かに、私たち一人一人はどんなに強そうに見えても、「葦」のように弱く、傷つきやすい者たちではないでしょうか。猫に引っかかれて手足に傷つけられたとしても、そんなことで何日も悩んだりする人はまずいないでしょう‥‥。しかし、人間は、他人の中傷や陰口などのことばには簡単に傷つき、そして一度傷つくと、夜床に入っても、なかなか寝付かれなかったり、何日も癒されないことがあります。ただ、癒されないだけでなく、ちょっとした他人の不注意なことばに、深く傷つき、自殺した若者の話も聞いたことがあります。また、人は困難や試練に遭遇して、傷んだ葦のように弱くなり、萎縮してしまうこともあるのです。若い人だけでなく、年を重ねても、このような人間の性質はあまり変化がないようですね‥‥。

 ●「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。 彼(キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。 異邦人は彼の名に望みをかける。」 (マタイの福音書12:19,20)。 

 この新約聖書のみことばは、旧約のイザヤ書にあることばで、メシヤの特色を預言してイザヤが記したものですが、「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。」というのは、非常に柔和で温和な謙遜なメシヤの姿を描いているのです。また、「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。」ということばも、キリストがいかに優しく、思いやりの深いお方であるかをよく表しています。

 また、上記のみことばは、この福音書の記者であるマタイが記しているように、イエス様が片手の萎えた人の手を癒された後に、イザヤ書42章のことみことばの成就としてこれを引用しているのであります。それは、イエス様が片手のなえた人を癒された愛のみわざを通して、イエス様がそのように優しく、謙遜なお方であることを示すためなのです。

 主イエス様は、人がいたんだ葦のようになり、また、くすぶる灯心のようになっている現実をご覧になって、深く同情されるお方なのです。そして、いたわりと優しい心をもって近づき、接してくださるのです。これは決して、葦を折らず、灯心を消さないという消極的なことではなく、積極的に「傷ついた葦」を立たせ、「くすぶる灯心」をもう一度明るく輝かせてくださるという意味であります。イエス様ご自身が、人間的に見るならば、いたんだ葦のようになられ、またくすぶる灯心のようになられたので、葦のように弱い私たちを理解し、また、同情することの出来る方なのですね‥‥。

 さて、この「いたんだ葦」と「くすぶる灯心」について少し考えて見たいのですが、「葦」は湿地や沼地帯に生えています。葦はそよ風にも大きく揺れ動く弱い植物ですが、それが、傷ついて痛んでいるのです。ですから、「いたんだ葦」がどれほで、弱い存在であるかが分かると思います。また、「灯心」は、器に油を入れて、その芯を燃やして部屋を明るくするものですが、この「くすぶる灯心」は、油が切れ、芯が消耗し、もはや赤い残り火も見えなくなって、今、まさに消えかかってくすぶっている状態です。部屋のドアが開いてわずかの風が入って来るだけでも消えてしまうような灯心です。

 また、この「葦」と「灯心」には一つの共通点があります。それは、葦は「水」がなければ枯れてしまいます。葦の一切は水に依存しています。また、「灯心」は油がなければ灯火をともすことができません。しかも、くすぶっている灯心です。どちらも、自分自身では、自分を支えることも、自分にいのちを与えることもできません。この両者は、初めから他に依存しており、私たち弱い人間の状態をよく示しているのではないでしょうか。同様に、人間はそのすべてを神に依存しており、神なしにはただの数分も生きることができないのです。(あなたは、自分の意志で、心臓を動かしたり、呼吸したりしていませんね・・・。人はみな神に生かされている存在なのです。)

 イエス様は、あるとき、エルサレムのベテスダの池のほとりで、38年もの間、病に臥せっていた病人に対して、深く同情され「よくなりたいか。」と声をかけられ、そして、彼を癒されたのです。また、ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられ、イエス様のところに連れて来られましたが、この女性は、まさに「いたんだ葦」「くすぶる灯心」でありました。しかし、イエス様は、彼女に対しても優しく語りかけられ、彼女をもう一度、ご自身の愛によって立たしめてくださったのであります。「真の愛は人を生かすもの」であることをこの記事は示しております。

 また、ルカの福音書19章には、取税人ザアカイとイエス様の出会いの場面が記されてあります。ザアカイの心の傷は何でしょうか。孤独と空しさです。表面上は幸福そうに見えたかもしれません。しかし、彼の心には、何ものによっても埋められない空洞があったのです。彼も、やはり、いたんだ葦でありました。しかし、イエス様は孤独なザアカイの心をご存じであり、彼に優しく語りかけられ、その孤独な心はイエス様によって埋められたのであります。そして、彼は、自分の罪を悔い改め、真の神様に立ち返りました。

 ペテロの生涯においても、また、失敗し落胆し、意気消沈して「くすぶる灯心」のように弱い状態になることがありました。しかし、イエス様は、ペテロの信仰の回復のために、やはり、全力を尽くしてくださいました。主は傷つき、弱っている者を必ず立たせてくださいます。私たちは、だれでも自らの弱さを認め、キリストの保護と助けと慰めが必要なのです。

●「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。』と言われた主のことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」(ルカの福音書22:61,62)。

●「私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル人への手紙4:15)。


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★罪は二度さばかれることはない

2005-03-18 | 「キリストの愛」



  私がまだ若い頃のことですが、東北地方に住んでいるある一人のクリスチャンから大変興味深い話を聞いたことがあります。この話は明治5年12月に実際にあった出来事なのです。それは、「日本死刑史」という本に記録されていることですが、絞首刑史としては非常に珍しい稀有な事件が起こったのです。その年の夏、石鉄県(現在の愛媛県)の群や村で、騒擾事件が起こった時のことですが、租税課出張所に放火した犯人○○○○が逮捕され、裁判の結果死刑を宣告されました。そして、同年の11月28日に死刑が執行されました。間違いなく、死刑は執行されたのです。 

 親族の者から「死体引き取り」の願書が出ていたので、死体を下げ渡し、遺族がその死体が入った棺をかついで帰る途中、四里半(18㎞位?)ばかり来たところで、なんと、死体が少し脈を打ち始めたのです。みなが非常に驚いて見ている中に、その死刑囚は完全に蘇生したのです。その報告を聞いて驚いた県聴こう課は、急いで確かめに行くと、間違いなく生き返っているではありませんか‥‥‥!!。これは、驚天動地の出来事であったことはだれも否定できません。

 そこで、県では、どう始末したらよいか困り果て、進退伺いを提出したのです。ところが、この伺いに対し、明治6年9月18日、「スデニ絞罪処刑後、蘇生ス。マタ、論ズベキナシ。直チニ本籍ニ編入スベシ。」という指令が発せられたのでした。絞首刑は既に執行されたのであるから、法的処置はすべて終わっている。また再び死刑を執行する論拠もない。直ちに、本籍に入れて、平常人の生活に戻ってよいというわけである。これは、日本で、実際にあった過去の事件です。

 私はこの話を聞いた時、即座に、私たち罪人の身代わりとなって十字架で死なれたイエス・キリストのことが脳裏をかすめたのであります。私たち人間は例外なく、聖にして義なる神の前にはみな罪人であります。そして、聖書に、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(ヘブル人への手紙9:27)と明確に語っているように、だれ一人、自分は神にさばかれるような罪は犯していないと言うことのできるような人はいないのです。他人からは善人と思われているような人も、聖なる神の前では「私には罪はない。私は正しい」と、胸を張って言うことができる人はだれもいないのです。聖書は次のように厳粛に告げています。

●「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。‥‥‥すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず‥‥ 」(ローマ人への手紙3:10~23)。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「神は、罪を知らない方(キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 」(コリント人への第二の手紙5:21)。

●「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。 三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。 」(マタイの福音書27:45~46)。


 イエス・キリストが十字架にはりつけにされて処刑された場面で、午後三時頃に、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と、絶叫されたことはよく知られていることですが、これまでの約二千年の間、この御言葉ほど、多くの方々に誤解されて来たみことばはないと思われます。このイエス・キリストの叫びは、実に、私たち罪人の身代わりになって、神にさばかれ、捨てられた叫びなのです。ですから、イエス・キリストを自分の個人的な救い主として信じ受け入れるならば、もう、決して死後において、その罪のさばきを受けることがないという事実を強調したいのです。

●「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 」(ローマ人への手紙8:1)。 

 冒頭に記した実話は、キリストの十字架の真理の一面を示すために挙げたのであって、十字架のすべてを語るものではありません。「一度、さばかれた罪は二度と決してさばかれることはない。」という真理を強調するために例話として引用したものです。この点を、どうか誤解なさらないでいただきたいと思います。
 
 あなたの罪のさばきは、キリストが代わりに受けてくださったので、もし、あなたが神の御子イエス・キリストを、あなたの個人的な救い主として信じられるならば、もう死後においては永遠に二度とさばかれることはあり得ないないということをお知らせしたかったのです。これは何と尊い救いではないでしょうか。しかし、もし、神がご自身の御子を十字架につけてまであなたに、このようなすばらしい救いを提供しておられるのに、それを拒まれるならば、あなたの死後には永遠の滅び以外にはないということも事実なのです。どうか、この聖書の福音の真理を深くお考えになっていただきたいのです。そして、どうか、永遠の神の裁きから救われて天国に入る方となっていただきたいのです。
 



★なぜ泣いているのですか

2005-03-14 | 「キリストの復活」



  私たちは、この世で人生を生きている限り、多くの悲しみの涙を流すことがあります。別離の涙、肉親や親友と死別した時の涙、友人に裏切られ、あるいは傷つけれた時の涙、だれも自分を理解してくれないと感じて孤独な状況に追い込まれた時の涙もあるでしょう。重病の床で呻吟し、余命短いであろう自らの先行きを思って流す涙、苦しんでいる人の姿を見て流す同情の涙、職場を解雇され、あるいは事業に失敗し、人生に行き詰まって流す涙や悔し涙もあります。しかし、何が悲しいと言っても、肉親やわが子を失ったときほど、悲しいことはないと思います。

 新約聖書を読みますと、イエス・キリストというお方は、人の目から涙を取り去ってくださる慰めと力に満ちたお方であることを知ることができます。 
イエス様は、ある時、弟子たち一行を連れてユダヤのナインという町に行かれたのですが、 その町の門の近くで葬式の行列に出会いました。ちょうど、やもめであった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであったのです。町の人たちも大ぜいその母親につき添っていました。 そのとき、イエス様はその母親を見てかわいそうに思い、優しくも、しかし、力に満ちた声で「泣かなくてもよい。」と言われたのであります。 そして、イエス様は彼らに近寄って棺に手をかけられると、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われると、なんと、その死人が起き上がって、ものを言い始めたのです。その母親の喜びは容易に想像することができると思います。

 また、あるとき、12歳になる少女が亡くなって人々はみな、その娘のために泣き悲しんでいました。イエス様はその少女の家を訪れ、泣き悲しんでいる人たちに向かって、「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」(ルカの福音書8:54)と言 われました。人々は、その少女が死んだことを知っていたので、イエス様をあざ笑いました。 ところが、イエス様はその少女の手を取って、「子どもよ。起きなさい。」と 叫んで言われたのです。すると、その少女の霊が戻って、彼女はただちに起き上がったのです。 両親がひどく驚き、大変喜んだことは言うまでもないことです。

 また、ヨハネの福音書に書かれてあることですが、ベタニヤという町に、マルタとマリヤの二人の姉妹がおりましたが、その兄弟のラザロと共に仲良く暮らしておりました。ところが、弟のラザロが瀕死の重病にかかり、姉妹たちは、イエス様のところに使いを送って、「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」と、言わせたのです。ところが、イエス様は、なぜか、急いでラザロのところに言ったのではなく、死んで墓に葬られて四日も経ってから、そして、マリヤや親戚の人たちが泣いていたところに、やっと到着したのです。そのとき、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)と書かれていますが、間もなく、墓の所に行き、「その石を取りのけなさい。」と命じられ、彼らはイエス様の言われる通りにしました。そして、イエス様が大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれると、死んでいたラザロが、手と足を長い布で巻かれたままで出て来たのです。二人の姉妹たちは、どんなに慰められたことでしょうか。

 イエス・キリストご自身が十字架につけられて死なれ、葬られましたが、三日後の日曜日の早朝、何度も聖書の中に預言されてあるとおりによみがえられたことが、四つの福音書に生き生きと記録されてあります。これは、フイクションではなく、歴史的な事実なのです。新約聖書の中の次の個所は、ヨハネの福音書に記されているキリストのよみがえりに関する場面の一部です。

●「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。『だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。』‥‥‥しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。 ‥‥‥彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが 立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。 イエスは彼女に言われた。『なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。』彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」 イエスは彼女に言われた。『マリヤ。』彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ(すなわち、先生)。』とイエスに言った。」(ヨハネの福音書20:1~16)。

 イエス・キリストは、福音書の記述にあるとおり、3人の人をよみがえらせた方であり、また、ご自身も十字架の死後、三日目に復活された方です。あなたが、この御方を救い主と信じられるなら、死への恐怖と不安は去り、人生で辛い出来事に出会って、一時的に涙を流すことはあっても、真の希望を持つことができます。私がみなさんにお伝えしているのは、「キリスト教」ではなく、キリストの福音であり、キリストという御方がどんなにすばらしいお方であるかということです。

●「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)。

●「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなた(主)が私とともにおられますから。」(詩篇23:4)。

●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:4)。
 
 この尊い救い主イエス・キリストを信じるなら、あなたは、死の恐怖や不安から解放され、死後の世界に真の希望を持つことができます。やがて天国では、イエス様はあなたの目から涙を拭い取ってくださる方なのです。






★神が見ています!!

2005-03-10 | 「神の存在について」




 大変興味深い話を聞いたことがあります。かつて、ある所に、善悪を弁えない一人の不心得な男がいました。ある日、小学生であった自分の子供を連れて、他人の畑にこっそりと入って行きました。そして、その男は「これから俺は野菜を盗むから、お前はここに立って番をしていろ!そして誰か見ている者があったらすぐ知らせるのだ!分かったな!」と、自分の子供に厳しく命じました。  

 ところが、この少年は日頃、神の存在とキリストについて教える集会の日曜学校に行っていて、真の神様について聞いていましたので、お父さんの言いつけがとても悲しくもあり、また、恐ろしくてたまらなかったのです。それでも、父親の言いつけなので、しばらく我慢して、その場に立っていましたが、とうとう我慢できなくなって、大声を張り上げて次のように言いました。「お父さ~ん、見ている人がいます!」その男は驚きあわてて、「なんだと、本当か、だれが見ているんだ!」と聞き返しました。すると、その少年は、大声で「神様が見ておられます!!」と答えたのです。お父さんは自分の子供に何も答えることが出来なかったそうです。 

 この少年は、本当に賢い少年だと思います。「誰か見ている者があったらすぐ知らせるのだ。」と、お父さんに命じられたので、忠実にお父さんの言われるとおりに命令を実践したのです。そして、「神様が見ておられます!」と、大声で叫んだのです。それにしても、この少年は本当に賢い少年でした。子供の時から聖書の話を聞き、神様の存在を教えられると、人は確かに賢くなります。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)とある通りですね。新約聖書に登場するテモテという人物も幼少の頃から母親に神様のお話を聞き、聖書に親しんでいたので、とても知恵のある人でした。

 神は全知全能のお方であり、また、どこにでもおられる偏在のお方であります。神に見えないものは一つもありません。これは、人間の理解力を超えている事実であります。旧約聖書に登場するあの有名なモーセという人物(ユダヤ人)は、神の摂理の中にあって、エジプトの王宮で育てられたのですが、彼が40歳になった時、自分の同胞であるひとりのヘブル人がエジプト人に打たれているのを見て、血が騒ぎ、「あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、」(出エジプト1:12)彼は、そのエジプト人を打ち殺し、その死体を砂の中に埋めてしまいました。しかし、あたりを見回し、人がいないのを確認したはずなのにその罪を隠すことはできませんでした。そうです。神がすべてを見ておられたのです。

 また、旧約聖書に出て来る当時のイスラエルの王ダビデは、王国も安泰で、気が緩んでいたのでしょう、ある日の夕暮れ時、ダビデは昼寝の床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの非常に美しい女を見て、使いの者をやり、その女を召し入れて、姦淫の罪を犯してしまいました。そして、ダビデはその女がみごもったことが分かると、今度は、その悪行がばれないように画策して、その女の夫を戦場の最前線に出させて死ぬように仕組み、その忠実な部下の兵士ウリヤを殺してしまったのです。彼の妻は、夫ウリヤが戦死したことを聞いて、非常に悲しんだのは、当然です。ダビデは完全犯罪を企てましたが、後に、神は預言者ナタンの口を通して「あなたがその男です!」と直言させ、彼の二つの罪はすべて暴かれ、白日のもとに晒されたのであります。

●「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。 」(箴言15:3)。

●「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。 」(ヘブル人への手紙4:13)。

●「主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。 御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。 主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。 」(詩篇33:13~15)。

●「わたしは近くにいれば、神なのか。遠くにいれば、神ではないのか。 人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。天にも地にも、わたしは満ちているではないか。」(エレミヤ23:23,24)。

●「たとい、私が『おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。』と言っても、あなた(神)にとっては、やみも暗くなく、夜は昼のようです。暗やみも光と同じことです。」(詩篇139:12)。

●「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。 」(伝道者の書12:14)。
 

 あなたは、いかがでしょうか?今までの人生を振り返ってみて、すべてをご存じの神の前に良心が責められるようなことがありませんでしょうか。どうか、あなたも自らの人生を顧みて、神の前にご自分の罪を悔い改め、神が備えられたイエス・キリストの十字架による救いの道を拒むことのありませんように。十字架に架かられ、三日目によみがえられた キリストを信じる者は、すべての罪が赦され、神のさばきから救われるのです。これが、キリストの福音です。
 
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★復活を信じる者の幸い

2005-03-08 | 「キリストの復活」



  「信じる」ということばは、にんべん(人)に「言」と書きますが、今日、人間のことばはなかなか信じられないものになっています。現代はあまりにも空虚な言葉、不真実なことばが氾濫している時代です。人間は互いに信頼し合って生きるように造られたのに罪が人類に入って来た時から、互いに不信感と猜疑心をもちながら生活しなければならなくなったのです。学校の先生も人を疑うことを教えなければならない本当におかしな時代です。でも、神のことば聖書は100%信じられる書物です。

●「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。 」(ヨハネの福音書20:19、20)。

●「12弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。‥‥八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように。』と言われた。 それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』 トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』 」(ヨハネの福音書20:24~29)。
         
 
 約2000年前の出来事です。主イエス・キリストがよみがえられた日曜日の夕方、主は弟子たちのいる所に現れて、ご自身の御手と脇腹を見せられた時、「弟子たちは、主を見て喜んだ 」と記されてあります。十字架で死んでしまったはずのキリストが復活されて、弟子たちの前に現れたということは、弟子たちにとって非常な喜びであったことは、容易に想像することができます。しかし、12弟子の中で、何故か、分かりませんが、トマスという弟子だけは主イエスが復活された日に他の弟子と共にいなかったのです。

 よみがえられたイエスにお会いした他の弟子たちは、トマスに対して、「私たちは主を見た」と告げたのですが、トマスは「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言って、首を横に振ったのであります。このことから、彼は「懐疑論者トマス」というレッテルを貼られてしまったのです。しかし、トマスだけではなく、事実は、最初は12弟子の中の誰一人として、主の復活を信じる者はなっかったのです。よみがえられたイエスが弟子たちの前に現れたときに初めて信じることが出来たのです。

 私も、最初は神の存在も、キリストの十字架と復活も、信じることができませんでした。しかし、繰り返し繰り返し読むうちに、聖書の記事をすべて神の真理の書として信じる以外にないことが分かったのです。だれでも、最初は聖書を読んだとき、キリストの処女降誕の記事やイエスがなさった数々の奇蹟の記事を読んですぐ信じることのできる人は皆無に近いのではないかと思います。

 トマスは心の奥底では、「信じたい」心があったのではないかと思います。でも、その証拠を実際に見なけれが信じられない気持ちもあったのです。このようなトマスの心の中を主イエスはご存じであったので、8日後にイエス様は再び弟子たちにご自身を表されました。そして、今度こそは、トマスも他の弟子といっしょにいたのです。イエスは、自分だけ信じられないで寂しい思いをしているトマスの心中を察して、わざわざ、彼のために足を運んでくださいました。イエス様の忍耐深い愛が感じられる感動的な場面であります。主イエス様は、信じることができないで悩み、孤独を噛みしめておられるあなたの心の中のことも、すべてご存じなのです。
 
 イエス様がトマスの弱く鈍い心を叱責された様子はありません。ただ、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われました。トマスは、復活の主を見て、手を伸ばして確かめるまでもなく、「私の主。私の神。」と告白してキリストを礼拝しました。 そして、トマスは信じる者となったのです。「死人がよみがえる」などということは、簡単には信じられないことです。しかし、神様の恵みによって「信じる者」とされた時に「幸いな者」と変えられるのです。

 「信じない者にならないで信じる者になりなさい。」というイエス様のおことばは、トマスだけでなく、今日の私たち一人一人にも語っておられる幸いなおことばであります。人間は時と場合によっては、疑うことも必要です。盲目的に何でも信じることは危険であり、正しいことではありません。しかし、「信じる」ということは、人間が幸福な人生を生きて行くために基本的に大切なことであります。「信じる」ことは人生の力なのです。神から遣わされた御子イエス・キリストを救い主として受け入れ、信じることは、この地上だけではなく、死後の永遠の未来の幸福をも約束するものです。

 トマスは肉眼で、復活されたイエス様を見て信じました。しかし、「見ないで信じる者」は更に幸いであるとイエス様は言われたのです。この時から、今日までの2000年間、クリスチャンになった人たちは、みな、「見ないで信じた人たち」です。これは、神様の恵み以外の何ものでもありません。私も、その中の一人であります。未来に対して大いなる希望をもっています。家内も、今、血液の癌を告知されて5年目になりますが、死に対する不安はありません。

●「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。 」(ヨハネの福音書20:30、31)。    

      


★母親の愛とキリストの愛

2005-03-04 | 「キリストの愛」



  若い頃、何かの本で読んだ話です。ある所に、百合の花のように美しい少女が母親と一緒に住んでいました。ところが、その少女の母親は、見るも気の毒なほどのひどい火傷(やけど)で、その顔はケロイド状になり、知らない人が見れば、そのあまりにも醜い姿に顔を背けたくなるほどであったのだそうです。そして、その少女は、いつも友達からお母さんの悪口を聞かせられては、泣いて家に帰ったのです。

 「なぜ、私のお母さんは、あんな顔なのだろう・・・。お友達とお母さんと同じであったら、どんなに嬉しいか分からないのに・・・・」と、一人、部屋で泣き悲しんでいました。そして、お母さんの顔があまりにも醜いので、お母さんと二人で外を歩くことさえも避けるようになったのです。心に思うことは自然と顔に表れるものです。母親は、いつしか娘の日々の様子を見て、彼女の気持ちを察したのでした。

 そして、ある日、母は娘を自分のひざ近くに呼んで、かつてのありし日の出来事を話し始めました。それは、少女がまだ幼い頃の冬の夜のことでした。真夜中に、ふと、目を覚ますと、恐ろしい焔(炎)が家を包んでいたのです。僅かの時間さえも、じっとしてはいられない危険が目の前に起こっていることが分かりました。しかし、母親は眠っている幼児に怪我をさせてはならないと考え、寝巻きの袖で幼児を包み、腕でかばって、命がけで燃え盛る火炎の中を必死で逃れ、安全な場所に避難しました。

 幸いに、少女には何の傷もなかったのですが、母親は、全身に炎を浴びて、そのために、見るも無残なほどの恐ろしい火傷の顔になったのでした・・・・・。その少女は、お母さんの話をじっと聞いていましたが、そのうちに自然と涙が溢れ出て来て、とうとう泣き出してしまいました。その幼児というのが、自分であることを悟ったからです。母親の壮絶ないのちがけの愛で彼女は救われたのです。その後、彼女は、母親の火傷で爛れた顔と手とに限りない感謝の気持ちを抱くようになり、友達には、誇りにさえ感じるようになり、決して母親を恥じるようなことはなくなったという感動的な話です。

 私は、この話を思い出すたびに、イエス・キリストの十字架のことを考えずにいることはできません。イエス・キリストは、父なる神様から私たちの救い主として、遣わされた御子であり、私たち罪人の身代わりとなって、十字架で死んでくださったお方です。イエス様の頭にはいばらの冠がかぶせられ、その背中もローマ兵によって鞭打たれ、つばきをかけられて侮辱され、御手と御足は太い釘で十字架に打ち付けられ、イエス様の全身から真っ赤な血潮がしたたり流れました。そして、その血を吐くような苦痛と渇きの中で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカの福音書23:34)と、とりなしの祈りをなさったのです。私は、キリストの愛が分かったとき、涙なしにこの個所を読むことができませんでした。

 パウロは、最初はキリストを嫌い、クリスチャンを迫害していたのですが、そのパウロが、後に復活のキリストとの劇的とも言える出会いを経験し、今までの自分の間違いと愚かさに気づき、悔い改め、キリストの十字架の福音を恥とはせず、大胆に証ししたのは、キリストの愛を強く感じたからなのです。パウロは、殉教する最後の瞬間まで、忠実に主に従いました。

●「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ロ-マ人への手紙1:16)。

●「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。‥‥ 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使 いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 」(ローマ人への手紙 8:35~39)。

●「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。 」(コリント第二の手紙5:14、15)。 

●「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こ うして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ人への手紙3:18,19)。
 

              

★天国と地獄への分かれ道

2005-03-01 | 「死後の二つの行き先」

                

  人間は、だれでも必ず死ぬ時が来ることを知っていますが、「人は、死んだらどうなるのか」という問題に対して、殆どの方は漠然としていて、「分からない‥」と答えます。また、「死後は無であるに決まっている!」と断言する方もおられます。しかし、その根拠となるものはなく、ただの推測に過ぎません。 人間というものは、とかく自分が望んでいることを信じたがるのです。しかし、この「死と死後」の問題は、軽々しく取り扱うべき問題ではなく、非常に厳粛な事柄です。死後には永遠の世界があるからです。

 さて、死後の世界は無ではなく、明確に二つの世界があると神の言葉である聖書は告げています。その二つというのは、「天国」と「地獄」(火の池)です。地獄と書いたのは、日本人に分かり易く書いたのであって、文字通りには、「火の池」(英訳:Lake of fire )です。私は、ただ聖書に書いてある事実だけを皆様に紹介しています。そして、それを信じるか信じないかも自由であります。第一に、「天国」については、ヨハネの黙示録に次のように書かれています。

●「また私(ヨハネ)は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 ‥‥神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』‥‥」(ヨハネの黙示録21:1~4)。

 また、地獄(火の池)については、次のように記述されています。これは、大きな白き御座における人類の「最後の審判」の場面です。ヨハネは、神から啓示されてその見たままを記したのです。ですから、これは、うそ偽り無く、真実な言葉です。私は、これをそのまま信じております。

●「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。 それから、死とハデスとは、火の池(Lake of fire )に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録20:11~15)。

 そのすべてを紹介するスペースはありませんが、新約聖書の多くの個所で、死後には、間違いなく、二つの世界があることを語っています。イエス・キリストは次のように語られました。

●「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 」(マタイの福音書7:13,14)。 

 ここで、「滅び」とは永遠のさばきである「火の池」を示しており、「いのち」は永遠の慰めに満ちている天国を示しています。そして、殆どの方が永遠の滅びに至る広い道を歩んでいると、イエス様は警告されました。今の時代も同じです。神の存在や、地獄について語ると、人々はあざ笑うのです。しかし、それは聖書にもあらかじめ予告されていたことなのです。

 それでは、天国行きと地獄行きとの分かれ道は、どこにあるのでしょうか。日本人の多くの方が考えているように、殺人犯や極悪非道な犯罪者が行くところが地獄で、いわゆる善人とか、多くの慈善を行った人が天国に行くのでしょうか。いいえ。そうではありません。聖書には、次のように書かれています。これは、非常に重要な真理ですから、よくよくお考えになってください。

●「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ(天国に入る)が、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒り(神の永遠のさばき)がその上にとどまる。 」(ヨハネの福音書3:36)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。
 

 これらのみことばにありますように、死後の二つの世界を分けるものは、神が救い主としてこの世に遣わされた御子を信じるか否かにかかっているのです。神の存在を認めるだけでは、天国に入ることはできません。キリストの十字架がその分岐点です。パウロは聖霊に導かれて次のように書いています。

●「十字架のことば(福音)は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 」(コリント第一の手紙1:18)。 

 私たちの救い主として十字架につけられたイエス・キリストを信じ受け入れるなら、人は救われるのです。イエス様と共に十字架につけられたあの二人の強盗は、一人は地獄へ、一人は天国に行きました。それは、キリストを信じたか否かで二つに分かれたのです。そしてそれは、永遠の別離です。パウロは老人になり、福音のために牢獄に繋がれていましたが、殉教を目前にして、彼の最後の手紙にこのように書いています。そこには、死後の世界に対して、少しの不安もなく、確信に満ちていることが分かります。あなたも、今、永遠の分かれ道の分岐点に立っています。あなたはどちらの道を選ばれますか?どうぞ、勇気をもって賢明な決断をなさって下さい。

●「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。 」(テモテへの第二の手紙4:8)。