聖書から人生を考えよう

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お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★神との和解と十字架

2005-07-30 | 「キリストの愛」
         
これは、かつてアメリカであった出来事ですが、ある一人息子が父親と激しく口論して家出をしました。何年間も家に帰らなかったのですが、ある日、病気で「ハハキトク」の電報がその息子に届きました。その息子はお母さんに対しては悪い気持ちは持っていなかったのですぐ帰りたかったのですが、どうしても帰りたくない理由があったのです。それは、息子が憎んでいる大嫌いな父親に会いたくなかったということです。しかし、息子は思い悩んだあげく、ついに決心して、家に帰ることにしたのです。そして、列車で長い旅をして家に着いたのです。

 お母さんが伏している部屋に入った時には、お父さんはベッドの右側に立っていましたが、息子とお父さんはお互いに何も挨拶をしないで、目を合わすこともしませんでした。息子は、お母さんのベッドの右側に立って、お母さんをじっと見ていました。そのとき、お母さんはもう虫の息だったのです。お母さんの最後の願いは、父と息子が和解することでしたが、その可能性は全くないように見えました。ところが、そのとき、その母親は自分のほんの僅かしか残っていない力を振り絞って、片手を出し、夫(お父さん)の手を掴みました。そして、今度は、もう一つの手を出して、息子の手を引っ張って、とうとう二人の手を合わせたのであります。しかし、ちょうどその瞬間にお母さんは静かに息を引き取り、この世を去ったのでした。けれども、このお母さんのしたことによって、父親と息子は和解させられたのです。そして、その時、何年間にも亙る憎しみは完全に消えたのです。

さて、キリストはこの母親と同じようなことをしてくださったのであります。人間は愛する神に背を向けて反逆し、神に敵対するようになったのですが、「神を憎む者」と聖書で言われるほどの者になりました。しかし、神は決して人間を憎んだり、敵対しているわけではないのです。イエス・キリストは神に遣わされて、この世に来られ、私たち人間の罪の身代わりとして十字架で死んでくださいました。そして、三日目に復活されたのであります。このキリストが、今、まことの神との間に立って仲介者となってくださったのであります。私たちは神の前に自分の救い主として信じるように、神が求めておられるのです。

先程のお母さんは、父の手をも息子の手をも引っ張らなければなりませんでした。けれども、神はそのようなお父さんとは違います。神の愛の御手はもう、私たちに伸ばされているのです。キリストは、遠く離れていた私たちの手を、ご自分の愛の御手で掴んで、神の御手に合わせようとしてくださったのであります。私たちは、自分に与えられた自由意志で、その愛の御手を拒む(断る)こともできます。しかし、そうすれば、私たちの罪は赦されることなく、私たちは神に立ち返ることができません。どうか、神が伸ばしていてくださる愛の御手を無視しないでください。神様は、ずっと長い間、私たちに愛の御手を差し伸べておられます。

●「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。 」(ローマ人への手紙10:21)。

●「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。 」(ローマ人への手紙5:7~:11)。

●「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 」(コロサイ人への手紙1:20)。

●「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。 」(コリント人への手紙5;20)。《使徒パウロのことば》

●「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 」(テモテへの第一の手紙2:4,5)。


●「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカの福音書23:34)。 

どうか、イエス・キリストが十字架上で流された血潮の代価と、キリストの十字架上における愛のとりなしを、無になさらないでいただきたいのであります。これは、私からの心からの懇願でもあります。どうか、神との真の平和の交わりをあなたもご自分のものとなさってくださいますようにいのります。

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★人生の七転び八起き

2005-07-27 | 「人生の試練と逆境」
          

  人生には、いろいろなつまずきや挫折があります。受験の失敗、失業、倒産、離婚、病気の苦しみ人間関係のつまずきなどです。そして、多くの人が決定的な打撃を受けて立ち上がれなくなるのを見ることが多々あります。私たちの周囲にそのような人はたくさんいるのではないでしょうか。昔から日本にある諺に「七転び八起き」というのがあります。これは、人間の頑張りに訴えて、奮起を促しているという面があります。「七回転んでも、頑張ってもう一回起きるんだよ!」ということを言っているわけです。人生の試練に直面しても、挫けないで頑張りなさいということを教えているのだと思います。

●「正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。」(箴言24:16)。

 しかし、この箴言のみことばの「七たび」というのは、「七」という回数を言うのではなく、ヘブル語の「七」は完全数を意味しますから、「七たび倒れる」といのは、完全な「ノックダウン(knockdown)」の状態であります。完全に打ちのめされても、どんなに頑張っても、奮起しようとしても、もう二度と起き上がれない状態を意味しているのであります。それにも拘わらず、聖書は「また起き上がる」と言っていますが、これは、どのような意味なのでしょうか。この「正しい者が起き上がる。」というのは、日本の格言とは根本的に違うものなのです。

 つまり、ここでいう「正しい者」というのは、正しい神を認め、信仰に生きる人のことであり、新約時代に当てはめれば、キリストの十字架の贖いの恵みによって、罪赦され、義(正しい)と認められた人のことです。このように神に正しい者と認められた人は、神に全幅の信頼ををもってより頼む人のことであります。キリストの中に罪の赦しを見出す人は、罪に汚れた過去から立ち直ることができます。また、キリストの中に完全な愛を見出す人は、千万人の敵の中でも、立ち上がることのできる人なのです。

 日本の格言七の「七転び八起き」は、人間の頑張りと努力に訴えて奮起させようとするものですが、しかし、人間のがんばりには、限界があります。人間は、誰でも色々な苦しみや悲しみに押し潰されそうになり、立ち上がれない状態になることがあります。人間には、非常に強い面もありますが、どんなに努力しても辛抱しても、そこには自ずから限界というものがあります。しかし、神を信じより頼む人は、エネルギー(Energie)の根源が自分の頑張りや忍耐力にあるのではなく、無限の力を持つ全能の神につながっている人です。

 そのような人は、人間の努力やガンバリでは二度と立ち上がれないほど、完全に打ちのめされても、神の力によってまた立ち上がることができるのです。全能者である神に、どこまでも信頼する人は幸いな人であり、もう立ち上がれないという状況になることはないのであります。新約時代にの、有名な使徒パウロの生涯において、その実例を見ることができます。パウロの信仰生涯においては、何度も、何度も、四方八方から苦しめられることがありましたが、窮することはありませんでした。途方に暮れてしまうような試練がありましたが、しかし、行き詰ることはなかったのです。

●「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。 」(コリント人への第二の手紙4:8,9)。

●「‥‥私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。 マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、‥‥私たちを慰めてくださいました。」(コリント人への第二の手紙4~6)。


 パウロは、このみことばにもありますように、精神的にも何度も何度も打ちのめされそうになったことがありましたが、神が彼を慰め、立たしめ、奮起させてくださったのであります。パウロは、倒されるようなことがあっても、滅びることはありませんでした。また、彼の宣ベ伝えているキリストの福音も滅びることがありませんでした。

●「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。 」(コリント人への第二の手紙11:23~27)。

 パウロのこのような告白を読みますと、迫害や飢えやその他数々の試練に遭い、パウロがいかにひどい苦難と過酷な逆境を経験したかを知ることができます。まさに、それは壮絶なクリスチャンの生涯でありました。しかし、そのような状況にあっても、パウロは絶望することなく、主は、そこから彼を救い出し、再起させてくださったのです。その生涯の間、パウロを支えてくださったのは真実なる神なのです。

●「わたし(キリスト)は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。 」(ヨハネの福音書10:28,29)。

 このようにパウロを強くしたのは、神を信じる信仰のみであります。確かに「倒されても決して滅びることがない」人生であったのであります。キリスト信者が倒されても倒されても、また、起き上がることができるのは、キリストを信じて永遠のいのちを受け、死んでも復活するという永遠の希望を持っているからであります。このような「決して滅びることがない」という約束は、キリストを信じる者に強い確信を与えるのです。彼は、信仰によってこの世の単なる幸福やご利益を求めていたのではなく、真の確信と永遠につながる希望があったのです。

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★人生という旅について

2005-07-24 | 「聖書と人生」

    私たちの人生は、よく旅に譬えられますが、旅にもいろいろな旅があります。観光旅行もあれば、仕事の出張での旅、急な用事が出来ての旅、家族の慰安旅行など、様々です。 また、気ままな一人旅もあれば、集団で行動する団体旅行もあります。

●「私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。 」(詩篇119:19)。

●「私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのす。 」(詩篇39:12)。


 ここで、この詩篇の記者は、自分のことを「旅人・寄留者」と言っていますが、「旅人・寄留者」というと、何となく寂しさとか、孤独感を感じさせる響きがありますが、確かに人生とはそのようなものではないでしょうか。しかし、ここに「あなたとともにいる旅人」とありますね。何よりも神がともにおられる人生の旅は幸いであります。人生は、確かに長い旅ですが、「人生」を旅にたとえて、いくつかのことを考えてみましょう。

【1】旅と地図。
 まだ、行ったことのない新しいところを旅する場合、どうしても必要なものは地図であり、また、道しるべであります。最近は車で知らない土地を旅行する時も、「カーナビ」という便利なものまで出来ました。私たちの人生の旅においても地図と道しるべが必要ですが、それが実は「聖書」なのであります。人生は毎日が新しい経験であり、どうしても人生の指標となり「道しるべ」が必要であります。聖書のみことばに頼る人生こそ、絶対に安全で確実な旅をすることができる幸いな人生であります。人生の暗い夜道も、みことばの光によって導かれる時、常に平安であるのです。

●「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。 」(詩篇119:105)。

【2】旅と荷物。
 旅に慣れていない人は、あれこれと色々な物を持ち過ぎて、あとで後悔したりすることがありますね。旅をするとき、あまりに大きな荷物、多くの荷物を持ちますと、非常に疲れてしまうことがあります。特に長旅の場合は、荷物が多いと疲れてしまいます。「人生の旅」も同様ではないでしょうか。日光の東照宮にある徳川家康の遺訓に、「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし。」というのがあります。確かに私たちの人生は、様々な試練や困難に直面するのであります。このような多くの悩み、苦しみの重荷があり、様々な試練や困難に直面するのであります。このように多くの重荷を負いつつ、長い人生の道程(みちのり)の旅をしているのが現実の人間の姿ではないでしょうか。

 しかし、イエス・キリストは、私たちの人生の重荷を全部負ってくださる方であり、旅の疲れを癒してくださる方であります。重い荷物を持って歩いている時に、誰かがその荷物を持って助けてくれるときに、急に体が楽になってとても助かることがありますね。イエス様は、私たちの心配事や悩み、罪の重荷など、人生の様々の重荷を負ってくださる方なのです。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。

【3】旅と道連れ。
 さて、旅が楽しいものになるかどうかは、どのような道連れと共に歩むかによって決まることが多いのではないでしょうか。旅の途中で気疲れするような気の合わない道連れと一緒になって、旅が全然楽しくなかったという経験をされた方もおられるかもしれませんね。また、とんでもない道ずれといっしょになって荷物もお金もみな奪われてしまったという話も何度か聞いたことがあります。結婚して夫婦になることも、人生の途中で出会って生涯ともにする道連れであります。しかし、私たちの人生の旅において、どうしても歓迎しかねる二つの道連れがあります。それは、「罪」と「死」という道連れです。

 ある方は自分の道連れとなっている「罪」に気づいているかもしれませんが、ある人はそのことに気づいていないかもしれません。しかし、人が気づいていてもいなくても「罪」とう同伴者がいることはいることは確実であります。同伴者というよりも、その人のうちに住み着いているというのが、本当だと思います。これは誰にとっても嫌な道連れですね。そして、もう一つの歓迎しかねる道連れは「死」といういやな同伴者なのです。

●「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。」 (Ⅰサムエル記20:3)。

 このみことばは、イスラエルのダビデ王が語ったことばですが、彼だけではなく、すべての人について言えることであります。人間の「死」をテーマにした「化石」(井上靖著)という小説があります。この本の中に癌のために余命一年と宣告された主人公が登場するのですが、彼は、どこへ行っても何をしていても「死」という同伴者がいて、いつも語りかけ、囁きかけるので心が暗くなって行くのです。そのような時に、主人公は数日前、元気で別れた健康ではちきれんばかりの友人が突然、死んだという悲報を聞くのです。そして、彼は、「だれでも死がいっしょに歩いているが、それに気づいていないだけではないかと考えるのであります。ですから、人生ははかないものであり、いつ、この世を去るか誰も分からないのです。

 しかし、神の御子イエス・キリストは、この人間の「罪」と「死」という縄目から私たちを解放してくださるために、父なる神から遣わされ、十字架で死んでよみがえってくださった救い主なのです。

●「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されまし。 」(Ⅱテモテ1:10)。

●「‥‥これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 」(ヘブル人への手紙2:14、15)。


 ですから、キリストを信じる者にとっては、十字架で死んでよみがえられたイエス・キリストが新しい道連れとなってくださるのです。

●「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」(ルカの福音書24:13~15)

 復活なさったイエス・キリストは、その日の午後、疲れ果てて悲しみに沈みながらエマオという村へ向かっていた二人の弟子たちのところに現れました。そして、彼らといっしょに歩いてくださったのです。今日も、同様であります。キリストを信じる者は「罪」と「死」という道連れから解放されるばかりでなく、今度は、全く新しい道連れである主イエス・キリストが常に共に歩んでくださるのであります。これは何と幸福な人生ではありませんか。イエス様は、私がキリストを信じた21歳の時から今日まで、40年以上の間、常にいっしょに歩み、慰めと安心と希望をお与えくださったのです。

●「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)。

           

★人間の罪の影響力

2005-07-21 | 「人間の罪の問題」
            
  人間の罪の問題について三つのことを考えることができます。すなわち、罪は、第一に自分を傷つけ、第二に他人(ひと)を傷つけ、さらに神のみ心を傷つけるものであるということです。  

【1】罪はまず自分自身を傷つけるのです。
 暴飲暴食、酒やタバコ、覚せい剤、不道徳な生活などの不節制によって、どれほど、自分の体の健康を害することでしょうか(病気の原因のすべてがそうであるという意味ではありません)。そのような不節制に勝つことが出来ずに、体を痛め、心配と気苦労で自分の命を縮めることもあるのです。また、心の不安や悩みがどれほど健康を害することでしょうか。言い換えれば、人々は神を離れた心の不安や罪のために自分のいのちを縮めることがあるのです。

 罪はまた、自分の環境に悪い影響を及ぼします。一例を上げると、若い時から酒がもとで、放蕩生活に陥り、ついには宿る家もない放浪者のように落ちぶれの身となることもあります。自分が蒔いた種は刈り取らなければならないのです。罪はまた自分の心を不安にします。罪は人の心から安心と平安を奪ってしまうものであります。「清い良心はもっとも良い枕である。」という諺がありますが、心にやましいことがなければ、何の煩悶もなく安らかに眠ることができますが、罪があれば心に平安がありません。「世の中の人は知らねど罪あれば、わが身を責むるわが心かな」と詠った人がいますが、悪いことをした犯罪人は、寝返りばかりして、夜、床に入っても苦しまなければなりません。
 
●「悪者は、追う人もないのに逃げる。」(箴言28:1)。

 かつて、大阪で金庫破りの窃盗犯があった頃のこと、ある日、芦屋川の附近を一人の男が歩いていました。後ろから一人の巡査が何気なく歩いていたのですが、ふと石に躓いた瞬間、前につんのめるようになったのです。すると、、前を歩いていたその男がものに驚いた馬車馬のように急に走り出したのです。これは怪しいとにらんだ巡査は後を追いかけて、「コラー!」とばかりに襟首を捕まえて、取り調べると、それこそ、金庫破りの窃盗犯であったというのです。重罪人が罪を犯してから捕まるまでには必ず、数㎏は体重が減っていると言われています。人間には良心がありますから、罪を犯して平気でいることができないのです。

 また、罪というのは、自分の一生を駄目にしてしまうものであります。罪はそれを犯す度毎に、一つの習慣性となって人間の道徳性を破壊して行くもので、人の意志の力は弱くなり、良心は麻痺して行きます。そして、終わりには、人間そのものが台無しになってしまいます。飲酒や不道徳も、その人の人格を破壊してしまうものであります。また、繰り返し繰り返し嘘をついていると、それが習慣性となり、良心は麻痺してしまい、嘘をついても平気でいるようになってしまうのです。

【2】 罪は、また、他人を傷つけます。
 一つの石を静かな湖面に投げますと、その波動が池全体に広がって行くように、罪は必ず、四方の人々にも影響を与えます。罪には伝染性があるのです。誰かが、人の悪口を言ったり、中傷したりすれば、間違いなく、それは周囲に伝染して行きます。罪の小石の一つが家庭の中に投げられると、一家の平和も団欒もすぐ破られてしまいます。短気な夫、すぐヒステリーになる妻、道徳的にだらしない親がいたらどうでしょうか。それは、間違いなく、家庭の平和を奪うものとなります。罪は、人を傷つけずにはおかないのです。怒り、妬み、恨み、高慢、貪り‥‥‥これらは、言葉に、態度に、顔の表情に必ず表われて、他人の心を傷つけてしまいます。

【3】罪は、神のみこころを傷つけます。
 子供の親に対する罪は親不幸であり、大きな罪です。また、夫婦以外で性的な関係を持てば、妻が夫に、また夫が妻に対して不貞の罪を犯すことになります。また、国民の国に対する罪は法を犯す犯罪となります。そして、最も大きな罪は、人間の神に対する不信仰の罪であり、これほど恐ろしい罪はないのです。子供の喧嘩を見て、もっとも心を痛めるのは親なのです。同様に、この世の中で人々が憎み合い、争い、傷つあっているのを見て、人を創造された神様は心が張り裂けるばかりにその御心を痛め、悲しんでおられるのです。私たちの毎日の罪がどれほど、神の御心を痛め、悲しませていることでしょうか。次のみことばは、あのダビデ王が犯した罪の大きさを悟り、悔い改めて告白したときのものです。

●「私はあなた(神)に、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」(詩篇51:4)。

 かつて、ある都市が大震災に見舞われた時、一人の子供は家の棟木の下に足を敷かれて逃げることができないでいました。父親は何とかしようとして焦るのですが、力及ばず、火はだんだん廻って来て、一刻の猶予もならない状況になりました。いよいよ見切りをつけた父親は、、何を思ったのか、手斧を持って来て、子供に言ったのです。「せがれ、許してくれ。俺はお前の命を助けたいからお前の足を切るぞ!痛いだろうが我慢してくれ!」と、まるで薪(たきぎ)でも切るかのように斧をふるって足首を切ったのです。そして、やっとのことでわが子を助け出したということなのです。親の愛というのはもの凄いものだと思います。

 しかし、神の愛はもっと凄いのです。何とかして、罪の刑罰から救い出そうとしてご自身のひとり子を世に遣わしてくださり、私たちの身代わりに十字架にまでつけてくださいました。どうか、神の犠牲的な驚くべき愛を無になさらないで、イエス・キリストを信じて、神に背を向けた罪の生活から救われてくださいますようにお願いいたします。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。 もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。 」(マルコの福音書9:43~45)。


 神は愛なる方ですから、どんな大きな犠牲を払ってでも、恐ろしい永遠の地獄からの救いを願っておられるのです。神は真剣です。サタン(悪魔)も抵抗しています。どうぞ、あなたも真剣になって、この罪と死の恐怖から解放された幸いな生活を求められませんか。

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★人生の真の幸福とは何か

2005-07-16 | 「人生の幸せと平安」

  「青い鳥」という有名な児童劇があります。1909年にベルギーの詩人メーテルリンクが発表した作品です。貧しい木こりの子、チルチルとミチルが同じ夢を見たのです。仙女(せんにょ)の病気の娘のために二人は「青い鳥」を探して旅に出るのであります。 仙女が貸してくれた不思議な帽子の力で、思い出の国、夜の国、死者の国、死の国、未来の国などへ行き、様々の不思議に出会いました。-----しかし、「青い鳥」はとうとう見つけることができませんでした。朝、目覚めてみると、目指す青い鳥は自分たちの家の鳥籠にいたという物語です。
  
 この青い鳥は幸福のシンボルとして書かれているように思われます。人間は、幸福を求めて遠くへ遠くへと遍歴の旅をするのですが、幸福は実は自分のすぐ近くに身近にあるというこの作品のテーマだというのです。-------人間は、この世に生まれ落ちた時から、幸福を求める旅に出るような者であります。みんな、だれもかれも幸福になりたいのです。そして、幸福を求めて旅をするのです。しかし、探している幸福はどこにも見つからないということなのです。
 
●「弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。‥‥‥」(ルカの福音書15:11~16)。

 イエス様が語られたこの例え話に出て来る弟息子も、やはり幸福を探し求めて旅に出るのです。お父さんが生きているうちにお父さんから、財産の分け前をもらって遠い国に旅に出ました。そして、何年も経たないうちに彼はどん底に落ちてしまいます。一文無しになってしまって、彼は食べるにも事欠くほどに落ちぶれてしまったのです。豚の世話をしながら豚の食べる餌をも食べたくなるほどひもじくなったとき、彼は、彼は父の幸福の旅を求める旅がいかに空しいものであったかを痛いほど知らされるのです。そして、彼は父の家を思い出して悔い改めて帰って行く話です。彼は、遠くへ行けば行くほど、そこに幸せがあると考えましたが、間違っていたことがわかったのです。息子の帰りを待っていた父は彼のような放蕩息子を抱いて何度も何度も口づけして迎え入れました。

 では、人は何に幸せを求めるのでしょうか。①物とお金。②名誉と権力。③快楽。人間の愛。これらのものには、二つのものが決定的に欠けています。一つは、これらのものには永続性がないということ、二つ目は心の底まで満足させる質(クォリティ)がないということであります。魂のふるさとである永遠の中に真の幸いを見出さなければならないのであります。戦国時代の英雄、豊臣秀吉が臨終の床で詠った歌に「つゆと起き つゆと消えぬるわが身かな なにわのことは夢のまた夢」というのがあります。また、死の床である博士号をとった人が詠った句があります。「秋風や 博士も墓の かざりかな」という歌です。人が求めてこれが幸福だと思って掴んだものもいかに空しいかを考えさせられます。

 しかし、神の御子キリストの十字架を通して神に立ち返った人の心に与えられる平安と幸福は、決して空しいものではありません。永続的な確信を与えるものであり、心の底から満足を与える内面的な平安であります。真の幸せは、①環境に左右されないもの。②境遇に支配されないもの。③年齢に関係ないもの。④永続する確信を本人に与えるものです。死の前には人間はみな無力なものであり、絶対的な望みというものを持っていないのです。しかし、真のクリスチャンは、死を超越した望みというものを持っています。
使徒パウロは次のように語っています。

●「‥‥私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 」(ピリピ人への手紙4:11、12)。

●「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。 」(テモテへの第二の手紙4:6~8)。
   <パウロの殉教直前の手紙の一部です>。 

 「幸福は安全の背後にある。」と言った人がいます。事実、その通りであります。安全が確認されていなければその時点でどんなに幸福だと思っていても、本物の幸福ではありません。自分の死後に対する解決なしに地上のどんな恵まれた生活も幸福とは言えないのではないでしょうか。人が神の前に罪赦されることは、最大の神の祝福であり、イエス・キリストを真に信じるもののみがこの祝福を受けることが出来るのです。

●「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。 」(詩篇32:1、2)。

●「しかし、私にとっては神の近くにいることが幸せなのです。」(詩篇73:28)。


   

★孤独な人生からの解放

2005-07-14 | 「人生と孤独」
 
 トルストイは、「人間が最後に必要とするのは自分の死体を埋める穴一つだ。」と人生を皮肉って言いました。しかし、これでは、私たちの人生はあまりにも孤独で淋し過ぎるとは思われませんか。私たちの魂はみな、もっと別な何かを求めて叫んでいるのではないでしょうか。私たちに本当に必要なのは、死体を埋める穴ではなく、心の「空洞」と「孤独」を埋める何かではないでしょうか。何年か前に自殺したハリウッドの有名な女優は、美貌の上に金持ちであり、この世が与えるすべての楽しみを味わい、人もうらやむ華やかな生活をしていましたがその遺書には、「私は耐え切れないほど淋しいのです‥‥」とあったそうです。人は、外見的にどれほど恵まれた環境にあっても、本心は「孤独」なのです。

  そして、毎日職場に拘束され、時間に追われてあくせくと働く現代のサラリーマンも、家事に追われる家庭の主婦も、受験勉強に疲れている学生さんも、あるいは、間もなく定年を迎えようとされている方も、老後をどのように過ごそうかと考えあぐねて悩み、人生の最後の時が刻々と近づいているお年寄りの心の中の奥を覗けば、言い知れぬ不安と孤独感でいっぱいなのではないかと思います。一見すごく幸せそうに見える夫婦や家庭にも、お互いの価値観の違いなどで意思の疎通がうまく行かず、いつの間にか、すれ違いが起こり、気づいた時には深い溝が出来ていて、隙間風が吹いているということもあるのではないかと思います。人間の心はみな、心の奥底のどこかで深い孤独感を味わい、渇いて求めているのではないでしょうか。

  聖書によれば、「孤独感」というのは霊の父である真の神様から、分離している魂の叫びではないかと思うのです。ですから、その孤独は、私たちの魂が神に帰るまで、この世の何ものによっても満たすことができないものなのです。あの有名なパスカルは、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は神以外のものによっては埋めることが出来ないのだ。」と言いました。聖書の中に登場する人物の誰を見ても、神から離れた人間の心には、孤独の陰があることが分かります。今から三千年も昔のイスラエルのソロモン王は、この世の名声も地位もお金も快楽も、この世が与えることのできるあらゆるものを手にしましたが、その心の空洞を埋めることはできませんでした。彼は、「空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦してもそれが人に何の益になろう。」(伝道1:2,3)と告白しているのです。

  しかし、新約聖書には、心の空洞のすべてを満たしてくださる方が紹介されています。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(ヨハネ14:18)と言われたイエス・キリストであります。キリストは、神の御子でありながら、家畜小屋で誕生され、人の子としてひっそりと暮らされた30年の生涯の後、3年半の公生涯を送られました。そして、群集に近づかれたイエス・キリストは、心やさしく、温和で、忍耐深く、人々に対する愛に満ちておられました。病める者を癒され、罪人の罪を赦し、心の病んでいる者を慰め、貧しい者に希望を与え、苦しんでいる者を救うために食するひまもなく、枕する所もないほど質素で多忙な日々を送られたのです。

  そして、その生涯の最後に、イエス・キリストは、あなたを孤独の深い淵に落とし入れた原因である罪を背負って、十字架で神のさばきを身代わりに受けて死んでくださり、しかも、三日目によみがえって、あなたが神に立ち帰る道を開いてくださいました。どうか、あなたもご自分の罪をお認めになられ、悔い改めて、キリストを信じ受け入れてくださることをお勧めいたします。そうすれば、世の何ものによっても満たされないあなたの心も、神の愛で満たされるのです。そして、キリストを信じる者には、罪の赦しと永遠のいのちが与えられます。そして、永遠の慰めに満ちた天国に向かって、希望に満ちた人生の旅を歩むことが出来るのです。

  これが、聖書が語る救いであり、福音(良きおとずれ)であります。キリストを受け入れたならば、たとい、外見上は一人ぼっちであっても、キリストはあなたとともにいてくださり、もう孤独ではありません。それは、この上ない幸福であり、すばらしい平安に満ちた生活です。使徒パウロが、殉教直前に獄中で書いた手紙の中で、彼は人間的には大変孤独でしたが、次のように書いています。彼は死の直前の獄中にあっても、決してひとりぼっちではありませんでした。主が共におられるという確信に満ちていました。

●「私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。 主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。 」(テモテへの第二の手紙4:16~17)。 

●「わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。

●「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。 」(イザヤ書63:9)。


●「‥‥見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:20)。  

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★見ないで信じる者の幸い

2005-07-11 | 「信仰と救いについて」

●「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように。』と言われた。 それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』 トマスは答えてイエスに言った。『私の主。 私の神。』 イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』 」(ヨハネの福音書20:26~29)。 

  これは、イエス様の弟子の一人であった「懐疑論者トマス」に言われたことばです。人間にはだれでも疑う心があります。しかし、逆に言えば、人間には信じる能力があるからこそ、疑うこともあるのです。動物は信じることもありませんが、また疑うこともないのです。人間は、時と場合によって疑うことも必要であります。盲目的に何でも信じることは正しいことではありません。怪しげな新興宗教を信じて、その人の一生が破滅的な大打撃を受けた例も決して少なくありません。また、人は、詐欺師に騙されて大変な損害を被る場合もあります。しかし、「信じる」ということは人間が生きて行くことにおいて基本的に大切なことなのです。

 トルストイの言葉に「信仰とは、人生の力である。」というのがあります。確かに人間は何かを信じなければ生きることができません。その証拠に、一人の人間が何も信じられなくなったとき、「死」を考えるようになります。私たちは、無意識のうちに本能的に実に多くのことを毎日信じて生きています。夜、床に入る時に、一夜が明けると、東の空から太陽が昇って明るい朝が来ることを信じて安心するのです。夜のまま暗闇が永遠に続くなどと考えたら、床に入るのも怖くなるでしょう。朝の来ない夜はないのです。車でトンネルに入るとき、必ず出口があると信じて走っています。出口のないトンネルを考えたら、ちょっと怖いですね。子供はお母さんの作ってくれたご飯とお味噌汁をおいしそうに食べています。お母さんを信じているからです。この味噌汁に毒が入っていないかな?などと考える子はいないでしょう。

 病気になった時に医者に行くのも、医者を信じるからです。医者と患者の間に信頼関係がなければ、医療行為は成立しなくなります。愛し合う二人の男女は互いに相手を信じて結婚に踏み切ります。夫婦というのは、血のつながりがないのに最も親密な関係になります。その土台はやはり信じ合うということです。家庭も夫婦や親子関係が信頼しあってこそ、成り立つのです。信じるということがなければ、家庭に平和や安らぎがあるでしょうか。小さな子供でさえ父親や母親を信じます。「信じる」という能力は、非常に不思議なものであり、人間だけが持っているものです。

●「信仰がなくては神に喜ばれることができません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなけれならないのです。」(ヘブル人への手紙11:6)。

 さて、神と人を結ぶものは「信仰」です。神と人を結ぶものは信仰以外には決してありません。これは基本的に大切なことであります。線の切れた電話は何度掛けても通じません(現在の携帯電話やコードレスは考えないでください。これは譬え話ですから‥‥)。また、電流の流れていない電灯は光や熱を出すことができないのです。また、電車も上の電線に触れてこそ、電力を受けて走るのです。それと同様に人間も力と生命の源である神に連なってこそ力と命を受けることができるのです。神との接触がなければどうして、神の力を知ることが出来るでしょうか。パウロは、自らの弱さを知っていた人ですが、「私を強くしてくださる方によって、どんなことでも出来るのです。」(ピリピ人への手紙4:13)と言っています。

 では、何を信じてもいいのかというと、そうではありません。正しいことを信じなければならないのです。信じる価値のあるものを信じなければならないのです。聖書は、私たちが、信じると信じないとを問わず、真に事実である多くの事柄を記しています。神の存在。人間の罪。天国と地獄の存在。キリストが神の御子であること。キリストの復活の事実。キリストの再臨の事実。人が信じても信じなくてもその事実そのものは変わることはありません。しかし、それを信じるかどうかということは、私たちの将来(永遠の未来)を決定するほど、重要なことであります。では、一体、何をどのように信じるように聖書は教えているでしょうか。次の七項目に注目しましょう。

(1)神が天地万物を創造されたこと(宇宙も地球上の生物も人間もすべて)。
●(創世記1:1~31)
(2)すべての人は神の前に罪人であること。
●(ローマ人への手紙3:10)
(3)私たち罪人のために、死んでくださった救い主がおられること。
●(Ⅱペテロの手紙3:18)(Ⅰペテロの手紙2:24)
(4)キリストご自身が救い主であり、来るべき救い主であることを証明されるため
   に死からよみがえられたこと。
●(ローマ書1:4)(使徒17:30)
(5)神は私たちに救い主キリストを信じるように望んでおられること。
●(Ⅰヨハネの手紙3:23)
(6)キリストを救い主として信じることは私たちの救いを保証すること。
●(使徒の働き16:31)
(7)救われる他の方法はないということ。
●(使徒の働き4:12)(ヨハネの福音書14:6)。


 ある人は、次のように言われます。「キリストがで死なれたのは二千年前のことなのに、どうして私たちの罪の赦るしと関係があるのか?」と。二千年前の日本はまだ弥生時代でした。弥生時代にどんなに偉大な人物がいたとしても、現代の私たちには、全く無関係であります。確かにキリストが単に過去の偉人であるならば、実質的に無関係です。しかし、キリストは単なる偉人ではなく、神の御子であり、全人類の罪の赦しのために十字架で身代わりに死なれた御方なのです。キリストの死が、すべての人の犯した罪を赦す力を持っていることは次の二点で明らかです。

(1)神は全能のお方で、未来のすべてを見通しておられるということです。人間は未来のこと(5分後のことすら)は分からない者です。しかし、神はすべてのことをご存じであり、ですから、二千年後の私たちのこともすべてご存じであり、その上で、十字架に架かられたのです。

(2)イエス・キリストは、今も生きておられるということです。もし、キリストが十字架で死なれたままなら、今、彼に何の力もないことになりますが、キリストは復活せられて今も生きておられ、天において人々のために執り成しておられるのです。

●「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおで きになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。 」(ヘブル人への手紙7:24、25)。

 皆様が、是非一日も早く、この尊い救いをお受けになられますようにお祈りしています。冒頭の聖句にありますように、イエス様はトマスに対して、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。この頃から約2.000年の間、クリスチャンになった人たちは、みなキリストを肉眼で見ずに信じて来た人たちなのです。聖書は神のことばですから、そのまま信じる時に心からの平安と救いの確信を得ることができるのです。

●「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(ペテロの第一の手紙1:8,9)。
 
●「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。 」(ヘブル人への手紙11:1)。



★大切なのは信仰の対象

2005-07-08 | 「信仰と救いについて」



     一般的な話ですが、若い人たちは互いに相手を「この人ならきっと私を幸福にしてくれる」と信じて、結婚生活に入ります。ところが、しばらくの結婚生活の後、信じられない人であることが分かり、幸福な結婚生活も一夜の夢とはかなく消えて、深い手傷を負い、悲しみに沈まなければならないこともあります。家や土地を買うときも、交渉相手を信じて騙されることもあります。ことば巧みに騙されて家のリフォームの工事を発注してとんだ被害をこうむることもあります。

  また、学校では、児童に「変なおじさんを信じて、着いて行ってはいけません。」と、教えなければならない時代です。最近は「振り込め詐欺」など手の込んだやり方で年寄りを騙してお金を取られる事件も多発しています。このように考えてみますと、世の中に生きている限り、(私もあなたも含めて)100%信じ得る人など、厳密な意味においては、一人もいないことが分かります。
 
  益々、今の世の中、人を信じられない時代になって来ました。不誠実と不真実と虚偽とがまかり通っているのです。善人のように振る舞い敬虔そうに見えても、実は「羊の皮を被った狼」であることもあるのです。学校の先生も、警察官も、大学教授も、医者も、いや、キリスト教会の牧師と言われている人たちの中にさえ、とんでもない破廉恥な行為をする人もいる昨今なのです。 

  「不審者を見かけませんでしたか?」とか、「不審者にご注意ください。」などと書かれた貼り紙を見たことがありますが、「不審者」と「不審者でない人」と、どのように見分けることができるでしょうか?「私は不審者です」という顔をして悪いことをする人は稀です。大部分は善人の顔をして悪いことをするのです。しかし、それにもかかわらず、悲しいかな、人は人を信じなければ生きていけないのです。信じることなしに生きることができない存在なのです。

  でも、この世の中の人間がいかに堕落の一途を辿り、道徳的に腐敗したとしても、100%信じられる御方がおられます。「いわしの頭も信心から」と言われていますが、それは偽りです。大切なのは何を信じるか、誰を信じるかということであります。ですから、問題は信じる対象が何かということです。日本人は、キツネのような動物でも、人間(生きている人も死んだ人も)でも信仰の対象にしてしまい、その「信心すること」自体に大きな価値があるように錯覚している方が多いのです。

  人を信じて度々裏切られた経験のある方は、「もう、だれも信じられない、神なんかいるものか!」と悲観的になってしまいます。
しかし、100%信じて決して裏切ることのないお方は聖書が示す「真実な神」(創造者)のみであります。また、神のことばである聖書も100%信頼できる書物であることを私は確信してみなさんに紹介しているのであります。聖書をどうぞ、手にしてお調べになってください。どこを調べても矛盾がなく、全幅の信頼を置いて読むことの出来る本であります。

●「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。‥‥」(ローマ人への手紙3:3,4)

●「私たちは真実でなくても、彼(イエス・キリスト)は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(テモテへの手紙2:13)


●「しかし、この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた(believe)人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 」(ヨハネの福音書1:12)。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる(believeth)者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「御子を信じる(believeth)者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネの福音書3:36)。

●「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる(believeth)者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 」(ヨハネの福音書5:24)。

●「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じる(believe)ため、また、あなたがたが信じて(believing)、イエスの御名によっていのちを得るためである。 」(ヨハネ20:30,31)

●「そして、ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。』と言った。 ふたりは、『主イエスを信じなさい(Believe on the Lord Jesus Christ)。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と言った。 」(使徒の働き16:31)。

 
  こんな話を聞いたことがあります。ナイアガラの滝の上流でボートが転覆しました。そして、二人の青年が水の中に投げ出されました。それを発見した人が、岩から素早くロープを投げ、その青年の一人はそのロープに掴まって救われたのであります。しかし、もう一人の青年はちょうど、そこに太い丸太が流れて来たので、それに掴まったのです。しかし、彼は、間もなく滝から真っ逆さまに落ちて死んでしまったのであります。初めの青年が救われたたった一つの理由は、掴まっていたロープによって「陸」とつながっていたからです。それと同様に、イエス・キリストを信じる信仰によって神につながっている人生は、滅びから救われて「天国」に行くことのできる安全な人生であるのです。

●「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』‥‥ 」(ヨハネの福音書14:6)。

●「信仰(faith)がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを信じ(believe)なければならないからです。」(ヘブル人への手紙11:6)。


 私たちの永遠の滅びからの救いと希望のすべては、私たちの信仰が強いか弱いかにかかっているのではなく、神にかかっているのです。十字架上で、私たちの身代わりに死んでくださり、三日目によみがえられたキリスト、救いのすべてはこのキリストをよみがえらせたキリストにかかっているのであります。ここにこそ、私たちクリスチャンの確信があるのです。人間の書いたいかなる書物の著者も過ちを犯す可能性があり、この救いの確信は聖書以外から来ることはありません。もちろん、私のブログもみなさんが信仰を持つためのお手伝いをさせていただいているだけです。

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★現代人の心の病い

2005-07-04 | 「人生の幸せと平安」

 ある男の人が医者のところへ行って、「最近、何か気が滅入ってしまうことがあるんです!どこが悪いか診てもらいたいんですが‥‥。」というような話をして先生に診察をお願いしました。医者はくまなく彼を診察したあと、「どこにも悪いところは全く見つかりませんでしたよ。」と、その男に伝えました。「あなたは公園へ行って子供たちが遊ぶ姿に見惚れ、自分を忘れる必要がありますね。そうすればよくなると思いますよ。」ところが、「だめです。そんなことは何度もやってみましたが、役に立ちません。」と男は答えました。

 「そうですか。では、映画でも見に行って、スリルのあるわくわくするような場面でも見て、楽しんで来たらどうですか?」と医者は勧めました。「先生、それもだめです。映画も数年観ていますが、あんなものの中には、私は満足を見出すことができません。」と、その病人は言いました。そのとき、あることを思い出したように、医者の顔は急に輝きました。というのは、彼はその男の人に対する最後の治療法を思いついたからです。「あなたにとって良いと思われることを私は知っています。」と、その医者は言ったのです。

 「私は、昨日、町へ来ているサーカスの大行進を見ましたが、その中の一人の道化師がいましてね、いや、もう私は抱腹絶倒というか、死ぬほど笑いましたよ。私はあんな面白い滑稽な男は今までに見たことがありません!あなたもあのサーカスへ行って、あの道化師を見たらどうですか。あの男は、きっと、君のすべての悩みを忘れさせてくれると思いますよ!」 しかし、その男は首をうなだれるようにして答えるのでした・・・・・。「先生、あなたはお分かりにならないでしょうが、実は、私がその道化師なのです・・・・・・。」 それに対して、「・・・・・・・・・・・」その医者は驚き、何も答えることができなかったのです。

 みなさん、これこそ、現代の数多くの人たちの偽らぬ姿ではないでしょうか。彼らは、顔では笑っていますが、心の中では、ひそかに悩んでいるのです。街角や信号待ちをしながらメールを打っている女子高生や公園のベンチでひとり考え事をしているご老人の姿も孤独に見える時があります。デパートで家族そろって買い物をしている人たちを見ると、一見幸福そうにみえますが、やはりその人たちの中にも目には見えない心の悩みがあるかもしれません。
 
 また、急ぎ足で出勤して行く人々の背にも、私は何か孤独な人間の姿が見えて来るのですね。人を笑わせる仕事をしている人たちの心の中を覗くと、他人(ひと)には言えない悩みがあるでしょう。そして、その面白いテレビ番組を見て、声を出して笑っている人たちも、一時の寂しさを忘れさてくれるかもしれませんが、自分の部屋では孤独を噛み締めているのかもしれません。

 道に迷って泣いている子供を見たことがあるでしょうか?でも、その子供にお菓子をあげても、泣き止みませんね。お父さんか、お母さんの顔を見ると、ニコッとした笑顔が戻って来て、ホッとすることがありますね。それと同様に、人間は愛なる真の神様から離れては、国がどんなに経済的に繁栄し、物が豊かになっても人の心は神に帰るまで満足がないのです。

 人間は、対物ではなく、対人関係の中に生きており、「人間」は「人の間」すなわち人間関係がうまく行かないと幸福であるとは言えません。そして、神との正しい交わりがなければ、人とも関係もうまく行かないのです。また、同様に人間は霊的な存在として造られているので、真の神様との交わりなしに本当の幸福であるとは言えないのです。この世のお金や名声、快楽などは迷っている子供に与える”玩具”のようなものではないでしょうか。

●「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。 笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。 」(箴言14:12,13)。
 
 正しいように見える道であっても、究極的には、それは死と滅びに至る道であります。それは、人間が神から離れ、自己中心の罪の中を歩んでおり、その心が曲がっているからであります。自らの死のことを考えると、「笑い」は、人間の心を一瞬だけ忘れさせるだけであります。神に立ち帰るまで、本当の平安は得られません。どうか、神に立ち帰る勇気を持ってください。

 ルカの福音書15章のイエス様がなさった譬え話に、有名な「放蕩息子」の話がありますが、この息子は私たち神から離れた人間を示し、父親は神を示しています。この譬え話は、本当は「父親(神)の愛」の話なのです。息子が悔い改めて帰って来たとき、父親はどうしたでしょうか。ここに、神があなたの帰るのを待ち望んでおられる神の愛が余すところなく示されています。キリストの十字架で流された赤い血潮によって、すでに、罪人が神に帰る道は備えられています。それは、今から約2000年前の出来事です。
 
●「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(ルカの福音書15:20)。

●「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ書55:7)。

●「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。 」(ヨハネの福音書14:27)。



 

★人間の罪と心の汚れ

2005-07-01 | 「人間の罪の問題」

  私たち人間は、だれでもうわべを美しく飾って、人の前に自分をきれいに見せようとする傾向があります。美容院が繁盛するのも、化粧品が飛ぶように売れるのもその一つの表われではないでしょうか。しかし、私たちの心の汚さについては殆どの方が無関心です。
 
 心の中のことは口に表われるものですが、私たちが毎日いろいろなことばを口から発しますが、そのことばは、すべて誰に聞かれても恥ずかしくないものでしょうか。冷静な時は、まだよいとしても、少し感情が高ぶったり、人から中傷されたりして嫌な思いさせられたりすると、人間は顔に似合わないような汚いことばを平気で吐くものです。私たちが毎日語ることばを録音して、それを一日の終わりに聞くとしたら、私たちは、きっと顔を赤くしてしまうのではないでしょうか。

 昔、一人の少年を連れた老人が病院を訪れて、「私はまだ医者にかかったことがないのが自慢ですが、わしの子供たちはみんな弱くて小さい時に死んでしまった。一人残った子供の父親もこの間、結核で亡くなってしまった。残されたこの子も弱くて年中風邪ばかり引いて困ったものです。」と訴えるのです。おかしいと思った医師は老人の胸にレントゲンをかけて見たら、一家の病原菌は、この老人の胸中に発見されたという皮肉な話があります。

 自覚症状のない病気ほど恐ろしいものはありません。真面目に働き、特別悪いことはしていないから‥‥と自分は善人であると思っておられる方はおられないでしょうか。私たちは、通常、法律的な犯罪以外は、罪であると意識しないかもしれません。しかし、聖書が教える罪というのは、それだけではなく、心の中の罪や汚れこそがすべての表に表われる犯罪の源であるというのです。
 
 レントゲンで胸を診られるとき、誰でもちょっと怖い感じを持つのではないでしょうか。もしかしたら、胸に空洞があるかもしれないという不安があるからです。人間は、自分で見られないところを見るのが怖いのです。それと同様に、人間は神の前に出るのを恐れるのですね。人間は神の声を聞きたくないのです。本当の自分の姿を見たくないし、また知りたくないからです。
 
 聖書は、人間の心を写す鏡のようです。聖書を真剣に読むなら誰でも自分が不完全な人間であり、罪人であることが分かって来ます。でも、神の前に、すべてをさらけ出す勇気を持っていただきたいのです。神様はあなたの心の中のすべてをご存じの御方であります。そして、その心の中の罪と汚れ、罪のさばきからの救いも用意してくださっておられるのです。

 人間というのは、罪の力に対して無力であり、一人の人間が真面目に生きようとすれば、もうそれだけで容易ではないことに気づきます。孔子は「不善を改むることあたわず、これわが憂いなり。」と言い、王陽明(学者)は、「山中の賊は平らぐるに易く、心中の賊(罪や汚れ)は、平らげ難し。」と、言いました。また、あの使徒パウロでさえ、「私には、自分のしていることが分かりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。‥‥‥私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙7:24)と告白したのです。これは、すべての人の心からの叫びではないでしょうか。人間には善をしたい心があっても、それを行う力がないのです。

 暗い部屋の中では、どれだけの塵(ちり)があるか分かりません。しかし、戸の隙間から漏れる朝日の光に照らされると、千万無数の塵が飛び回っているのが見えて来ます。光が強ければ強いほど、小さい塵までも見えてくるのです。それと、同様に聖書のみことばの霊的な光によって、自らの心中が照らされると、自分の罪深さを初めて知るのです。
 
 一体、人間はどこで罪を犯すでしょうか。あなたの手で物を盗んでも手が痛くなるでしょうか。いいえ。口でウソをついたら口が痛くなるでしょうか。いいえ。目で汚れたものを見たら、目が痛くなるでしょうか。いいえ。あなたの心が痛むのです。人間には良心があるので、良心の呵責を覚えるのです。手も、口も、目も、あなたの心の中から出て来る罪を犯す道具のようなものに過ぎません。そして、-----人間の霊魂は肉体的な死の後にも存在しますから、その罪のさばきを受けるのは当然なのです。

 一つの石を池に投じれば、最初小さな波動が起こり、それがやがてその波紋が全面に広がって行くように、心の中に潜む罪もいつか外に表われて、周囲の人々にも害毒を及ぼします。怒り、恨み、妬み、高慢、貪りも、あるいは言葉に、あるいは行為に、あるいは態度に表われて、人の心に痛手を与えます。怒りに満ちた一言は刃物のように他人を傷つけ、高慢と恨みに燃える目の一瞥は、人の心に毒矢を射込むのです。「罪を犯すことは仕方のないことだ。そんなこと周りの人がみんなやっているではないか。」と言う人がいますね。
 
 しかし、その言葉を言っている人が被害者の立場に立つと、相手が言う「仕方がないではないか!」という言葉を決して受けつけません。また、法律的な罪を犯した場合、裁判官に「仕方がないではありませんか。」と言っても通用しないのです。ですから、私たちの罪が永遠の地獄に値すると言われる神の前に立った時に、同じような言い訳をしても通用しないのです。それは空しい口実に過ぎないし、罪の生活を続けたいからに他ならないのです。

●「クシュ人(エチオピヤ人:黒人)がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう。 」(エレミヤ書13:23)。

●「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよ。 」(エレミヤ17:9)。

●「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。 」(ヤコブの手紙1:14,15)。

●「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねた み、そしり、 高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコの福音書7:20~23)。

 聖書の中のこれらのみことばは、みな人間の罪深さを示しています。しかし、神は、私たちのように腐ってしまった人間を愛してくださり、ご自分の御子をこの世にお遣わしになられ、十字架につけられ、罪なきキリストが私たちの身代わりに神の刑罰をお受けくださったのです。この尊い救い主を信じる者はみな罪赦されて天国に入ることが出来るのです。なんと、驚くべき神の愛でしょうか。

●「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6:23)。

●「神は、罪を知らない方(キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 」(コリント人への第二の手紙5:21)。

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