聖書から人生を考えよう

私のプログへようこそ!!
お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★ある方の質問へのお答え 

2007-06-25 | 「キリストの復活」

 みさなん。お元気でお過ごしでしょうか。最近、私のブログの記事を読まれたある方(Mさん)からメールをいただきました。初めにこの方を簡単にご紹介しますと、Mさんはクリスチャンの両親の元に生まれ育ち、幼いころから教会に通い、聖書に書かれていることはすべて事実だと信じていたそうです。ところが、Mさんは成長するに従い、いろいろと疑問が増えて来たそうです。そして、聖書に書かれていることがすべて事実であるとすれば、つじつまが合わないことが多過ぎると思うようになり、ついに信仰を捨ててしまったそうです。しかし、信仰を捨ててからもさらに疑問は増える一方であるというのです。今は教会とはまったくお付き合いがなく、両親とも絶縁状態だということです。それで、だれにも相談する方がおられないので、私のサイトを見て、ご相談くださったというのです。真面目なご質問なので、私も真面目に誠実にお答えしたいと思います。

 ====さて、最初に申し上げておきたいことは、すでに本人のご意志で、ご質問の内容をブログに公開してくださって答えてくださってもよろしいですということですので、ご了承下さい。編集の都合上、Mさんのご質問の要旨を簡略にまとめて書きますが、私の復活に関する記事を読まれての疑問(質問)を書かれたものです。その疑問点の要旨は、復活したイエスが姿を見せたのは、自分の弟子たちやマグダラのマリア、そして500人のクリスチャン(兄弟)など、イエスの「信者」だけではありませんか。なぜ復活したイエスはポンテオ・ピラトのもとに現れなかったのでしょうか。他に、イエスを裁いた大勢の人々、処刑に携わったローマの兵士など、そういう信者でない「否定派」の人々の前に現れなかったのは何故ですか。復活したイエスが会ったのは自分の信者だけで、否定派の人々前に現れていないのは矛盾していませんか。

 それに、イエスが昇天するまで40日も地上にいたのに、その間、イエスは一体何をしていたのでしょうか。そんなに長い間地上にいたなら、否定派の人々にも多くの目撃証言があるはずです。もしも、大勢の群集の前で死刑になった人が蘇って街を歩いていたら、誰もがびっくり仰天するはずです。ピラト本人も復活したイエスに会っていたか、少なくとも復活の噂は多くの人から耳にしていたはずです。イエスの復活の話は、「信者だけ」によって作られた話としか思えません。もし真実なら、信者でない否定派の人々の前にも現れているはずです。否定派の前に現れなかったのはおかしいと思いませんか。‥‥‥概要は、大体このようなご質問でした。====

 お答えする前に、まず、これはあくまでも信仰の問題であり、信じるか信じないかは、全く本人の自由であり、これはだれからもその自由を拘束されるものではないということをご承知下さい。私は、どなたとも論争したりするのを好みません。私は、聖書は100%神が啓示された神のことばであると信じる者として、聖書の真理の福音を確信してブログによって発信しています。私は自分が確信していないことを他人に伝えたり、発信するつもりはありません。もし、私が神の真理でないことを、神からのメッセージであるかのように伝えるなら、真理を曲げて伝えることになりますので、私は神に敵対する大嘘つきということになります。ですから、私はあなたに対しても、自分の意見ではなく、聖書に基づいてお答えしますので、ご理解下さい。

【1】まず、最初に知っていただきたいことは、聖書には実際にあった事実をすべて記している書物ではありません。神が記述する必要があると認めたことだけを記しています。
★聖書には次のような聖句があります。

●「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書き記すなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」(ヨハネの福音書21:25)。 
 イエス様がこの地上で行ったことを全部書き記したなら、世界中の図書館を集めてもその記録した書物を入れることはできなかったと思います。ここでいう「世界」は何を意味しているか、私は分かりませんが、この聖書記者が言わんとすることは理解できるはずです。この記述は大袈裟に書いたものではなく、その通りであると私は信じています。ですから、聖書に書かれていないことは、起こらなかったという結論にはなりません。復活後、イエス・キリストは、主に弟子たちに会ったことを記録していますが、その他の人に会わなかったというように断言するのは間違いであると思います。

【2】イエス様の弟子たちや主に従っていた女たちは「肯定派」であり、ポンテオ・ピラトや、ローマの兵士たちを「否定派」という分け方は果たして正しいでしょうか。私はそのようなことは聖書に根拠がないと思います。

 イエスを裁いたローマ総督ピラトは、三度も「この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。」(ルカの福音書23:4、15、23)というようなことを言って、彼は何度もイエスを釈放しようと努めています。けれども、彼は自分の今の地位や立場を失うのを恐れ、自己保身のために、イエスを十字架につけるように要求したユダヤ人たちの圧倒的な声に敗北し、妥協して良心の呵責を感じながら、彼は「イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた」(ルカ23:25)のです。ピラトは、イエスの復活を否定していたわけではなく、肯定していたわけでもなく、ある意味で、ユダヤの宗教的なことなどに関してはどうでもよかった「無関心派」であったと言っていいでしょう。現代も大部分の人はそうではないかと思います。

 また、イエス様の12弟子たちやその他の弟子たちは、最初からイエスをキリスト(罪からの救い主)と信じていたわけではありませんでした。その中には、イエスを裏切ったイスカリオテのユダもいました。12弟子も、イエス様の計り知れないみ心とご計画によって選ばれたのですが、最初から信者(クリスチャン)であったわけではありません。イエス様が、弟子たちに、ご自身の十字架と復活について予告された時に、イエスの側近の一人であったペテロは、イエス様を引き寄せて、いさめ始め「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」(マタイ16:22)と語っているのです。もちろん、ペテロはその少し前に「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)と告白しています。
 
 しかし、彼は正しい意味で理解して告白したのではなく、ただ単に、ローマ帝国の支配からユダヤを解放するメシヤとして認めたに過ぎないのです。他のユダヤ人も、キリスト(救い主)については、殆どがその程度の理解しかありませんでした。ですから、キリストが、ご自身の十字架の死と復活について予告された時、ペテロはその直前の信仰告白とは裏腹に、非常に驚いたわけです。他の弟子たちも、同様でした。イエス様は、三度も予告されたのに、キリストの復活など信じている弟子は一人もいませんでした。イエスが逮捕された時は、弟子たちは、「みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。」(マルコ14:50)のです。もし、ほんとうに信じていたら、なぜ逃げる必要があるでしょうか。ですから、彼らは、最初はあなたが言うところの「信者」(肯定派?)ではありませんでした。

 また、実際に、イエス様の十字架の死後三日目の復活された時に、弟子たちが復活を信じていたなら、早朝に墓に急いで、イエスの復活を待っていたはずですが、弟子の中でだれひとり、信じている者はいなかったので、日曜日の朝、墓に急いだ者は皆無だったのです。複数の女たちが、日曜日の早朝、イエス様のご遺体に防腐のために油と香料を塗りに行ったのですが、墓からイエス様のご遺体が無くなっているのを知らせた時も、弟子たちは最初は、なかなか信じようとはしませんでした。あなたは、すでに聖書を何度も読まれたと思いますので、いちいちその箇所を示しませんが、お分かりのことと思います。ですから、このような弟子たちは信者(クリスチャン)であり、肯定派ということが正しいでしょうか?詳細について書くスペースがありませんが、弟子たちが真の意味で信者になったのは、キリストの復活があって、その後の聖霊降臨によって、真に信じる者と変えられたのです。

【3】あなたが言うところの最大のの「否定派?」は、実はユダヤ人の指導者たちであり、彼らがイエスを妬み、憎しみを抱き、十字架に付けたのです。

 そして、その先頭に立って、イエスに反対し、信者を迫害していたのは、有名なあのサウロ(のちのパウロ)であったことはあなたもご存じのことと思います。あなたは、「イエスが昇天するまで40日も地上にいた」と書いていますが、これは、ルカが書いた使徒の働き1章3節にはっきり記されていますね。あなたは、そのルカが書いた「使徒の働き」を信じてそれを引用されたのだと思いますが、その同じ「使徒の働き」の9章をご覧下さい。そこには、キリストに猛烈に反対し、クリスチャンを迫害していた最大の敵とも言えるパウロに、栄光の姿の復活のキリストが現れているのです。

 そして、パウロの人生はこの時から一変して、キリストの迫害者から、キリストを大胆にべ伝えるキリストの伝道者に変えられたのです。そして、新約聖書の手紙は、「ローマ人への手紙」から始まって、「ユダの手紙」まで全部で21ありますが、その中の少なくとも13は、パウロが書いたものです。ヘブル人への手紙の著者は明確でありませんが、おそらくパウロであろうと思われます。もし、そうだとしたら、14はパウロが書いたことになります。もし、復活がないとしたら、これをどのように説明できるでしょうか。ですから、あなたが言うところの「否定派」に、復活のキリストが現れなかったというのは、事実ではありません。私は、キリストの復活を示す証拠を一つ上げなさいと言われたら、躊躇せず「パウロ」の名前を上げると思います。

【4】「イエスが昇天するまで40日も地上にいたのに、その間、イエスは一体何をしていたのでしょうか。」というご質問ですが、聖書にはっきり書かれています。
 
●「イエスは苦しみを受けた後、40日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(使徒の働き1:3)。

(1)弟子たちに、未来の神の国のことを語っていました。
(2)何度も弟子たちに現れて、数々の証拠をもって、ご自分が生きていることを弟子たちに示されました。なぜでしょうか。少なくても三回も、弟子たちに復活について予告したのに、全く覚えてさえいなかった鈍い弟子たちです。ですから、繰り返し繰り返し、現れてご自身が生きていることを彼らに示す必要があったのだと思います。一回か二回現れても、弟子たちの中に「いや、あれは幻に過ぎなかったのだ!」と言う人が現れるかもしれません。ですから、彼らに強い確信を持たせる必要があったのだと思いますが、いかがでしょうか?

 前途多難なその後の、使徒たちの歩みを考える時に、そのような強い確信はどうしても必要であったのではないでしょうか。弟子たちに、そのような確信を持たせ、訓練するためには、40日でも足りないくらいです。そして、その昇天の10日後に、あの聖霊降臨(ペンテコステ)があったのです。聖霊に強められた使徒たちは、人を恐れず、益々大胆にキリストの復活を宣べ伝えたのです。あなたが信じて引用された使徒の働きの中で、使徒たちが宣べ伝えたメッセージの中心のテーマは、「キリストの復活」です。もし、キリストの復活がなかったとしたら、どうしてそのように殉教するまでに、福音を証しできるでしょうか。弟子たちは、その後の働きと寿命は違いますが、みな殉教して行ったのです。

【5】「イエスの復活の話は、信者だけによって作られた話としか思えません。」と、あなたは言われます。

 しかし、イエス様が復活について語ったとき、弟子たちのうちだれ一人として、信じていなかった彼らが、どのようにして、そのような「作り話」を考え、そのウソだと分かっていることのために、命を捨てるまでに、熱心になれるでしょうか。もし、あなたがその立場だったら、その嘘と分かっていることのために、命をを賭けるほどに熱心に伝道できるでしょうか。復活を信じない方が、信じるよりも、はるかに多くの矛盾を抱え込むことにならないでしょうか。私個人のことを言えば、キリストの復活は、自分の信仰において、何の妨げにも躓きにもなりません。却って、キリストの復活がないと仮定したら、多くの矛盾点が出て来て空しくなるばかりです。書けばきりがありませんが、要するに、これは信仰の問題であり、否定したい人は、どんな理由でも持って来るのです。

【6】「なぜ復活したイエスはポンテオ・ピラトのもとに現れなかったのでしょうか。」とのご質問ですが、現れたか現れなかったか、私は分かりませんが、現れないとしても何の矛盾もありません。
 
 イエス・キリストは、復活されたあと「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(マルコの福音書16:15)と、弟子たちに命じられたのです。全世界にキリストの十字架と復活の福音が宣べ伝えられることはが、キリストの求めておられることです。なぜ、ピラトに現れる必要があるでしょうか。ピラトに何度か現れたとしても、ローマ総督の彼が世界中に伝道に出かけたことをあなたは想像できますか。人間は、自分に関心のないことや都合の悪いことは、賄賂を使ってでも、その真理を曲げようとするのです。マタイ28章を読むとそのことが分かります。

 あなたは、「信仰を捨ててからもさらに疑問は増える一方である。」とおっしゃっておられます。神を信じるのを止めて、心が平安になったという人に、私は会ったことがありません。益々、不安と恐れとが増すばかりです。そして、人生に絶望的になってしまう方が多いのです。どうか、あなたの人生は、あなた自身がお決めになられるのですが、素直な気持ちで、聖書のみことばを受け入れ、イエス様を信じて、神に立ち返ってくださることを切に望みます。私は、この文章を纏めるのに多くの時間を費やしました。どうか、その時間が無駄にならないことを祈ります。神様は、あなたのことを忘れずに愛していますよ。私があなたにお会いしたのも、神様の導きかもしれません。どうぞ、主の恵みを無駄にしないでくださいますようにお祈りしています。
(尚、このお答えに納得がいかなければ、再度ご質問くださっても結構です。何度でもお答えいたします。今のところ、そのような再度のご質問はございませんが・・・・。)

●「もし、私たちがこの世にあって、キリストに単なる希望を置いているだけなら(復活を信じないなら)、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(Ⅰコリント15:19)。  

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

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★復活されたキリスト

2007-06-21 | 「キリストの復活」

                  

 主イエス・キリストの復活ほど、人生に真の希望を与えるものはないということを私は堅く確信しております。この世の中のすべてのものは、移ろいやすく、すべてが古くなり、やがて消滅して行くのです。人も物もみなやがて朽ちて行くのです。ところが、イエス・キリストは、十字架の上で死なれ葬られたのですが、その聖よいお身体(からだ)が朽ち果てるのを神は許されないで、ついにその墓から蘇(よみがえ)らされたのです。それは、まさしく、長い時代(旧約時代)を通して、神が預言して来られたことの成就であったのです。そしてまた、キリストご自身がその三年半の公生涯において自らの復活を預言されていたのですが、そのことが現実に起こったのです。

(1)旧約のキリスト復活に関する預言。

●「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」(詩篇16:10)。
 
 この聖書の箇所は、新約時代に、あの使徒ペテロがキリストの復活を預言するものとして引用しています。この預言が成就したことを、あの使徒ペテロは、ペンテコステ(五旬節)の日に力強く語ったのです(使徒の働き2:22~29をご参照ください)。

(2)イエス・キリストが、ご自身の復活を預言したことば。  

●「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(マタイの福音書16:21)。  
 
●「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。『人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。』すると、彼らは非常に悲しんだ。」(マタイの福音書17:22,23)。
●「さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。』 」(マタイの福音書20:17~19)。
 

 このように、主イエス様は、弟子たちに少なくとも三度、ご自身のよみがえられることを預言されたのですが、それがそのお言葉通り、実現したのです。普通の人は、そのようなことを適当に(また、でたらめに)預言したとしても、そのとおりに復活することなどできるはずがありません。しかし、イエス・キリストは、神の御子であり、救い主であることをご自身の復活によって、はっきりとお示しになられたのです。 

 ところで、聖書に死が人間の世界に入って来たのは罪の結果であると教えています。つまり、神への不信仰、すなわち罪が私たちの人生に死をもたらしたことを聖書は告げています。ところが今や、キリストが十字架の上にてその罪の力を打ち破られ、罪に勝利されたのです。つまり悪魔の力を打ち破られたのです。ですから、もはやキリストは死の中にとどまることができませんでした。皮の固い木の実でも一旦地の中に埋められると、その固い皮を破って芽が出て来るのです。それはなぜでしょうか。その固い皮の中に命が入っていたからです。その命が活動を始めた時、もうその殻の中にとどめておくことはできないのです。殻を破り、地の中から新しい命となって芽を出して来るのです。

 同じように、主イエス・キリストは、人類の罪のための贖いのみわざをなし終えた時、もはや死はキリストをその死の中にとどめておくことはできませんでした。神はその偉大な力によって、イエス・キリストをその死の中から復活させ、もろもろの名に勝る一番高い権威ある名を与え、神の唯一の御子であることを証しされたのです。ですから、キリストは、死んだ救い主ではなく、今も生きておられる神の御子なのです。一度は死なれましたが、死に打ち勝ったのです。もはや、キリストの前には、死は何の力もないのとなったのです。キリストの復活と再臨こそ、クリスチャンの唯一最大の希望なのです。

●「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(Ⅰコリント15:51~57)。
 
 さて、やがて死ぬべき人間にとって、最も必要なものは、癌が治る薬でもなく、自殺者を減らすことでもなく、貧困を無くすることでもありません。この世界から戦争を無くすることでもありません。なぜなら、人間が、例え、病気が治っても、核戦争が起こらなくても、交通事故がなくなっても、また、金持ちになっても、必ず、死ぬ時が来るのです。人間の死亡率は100%なのです。私たちは、決してなくならない永遠不滅なもの、真実なものを求めています。それは、やはりイエス・キリストを他にして、この世の中に見出すことは絶対に不可能なのです。死に打ち勝ったキリストであればこそ、私たちの醜い汚れた心を新しく造り変えることができるのです。

 また、死の恐怖におののいている方も、その不安と恐怖から解放され、真の平安と希望を持つことができるようになるのです。死後の世界の永遠について不安を御持ちの方、確信が持てない方がおられるでしょうか?イエス・キリストは、現在の生活だけでなく、永遠から永遠に至るまで、あなたの幸福の保証人となってくださるのです。どうか、まだイエス・キリストを救い主として信じておられない方は、今すぐにでもイエス・キリストをあなたの個人的な救い主と信じて、このすばらしい救いをご自分のものとなさってください。信じるなら、必ず、すばらしい主イエス・キリストと共にある幸いな生活、すなわち主のご再臨と自らの復活を待望できる幸いな生活を経験することができるのです。

●「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死(と復活)によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 」(ヘブル人への手紙2:14,15)。

●「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。‥‥主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:14~18)。

 
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★人間には良心がある!

2007-06-14 | 「人間の罪の問題」



 人間であれば、どなたにも「良心」というものがあります。これは、天地万物の創造者なる神様が人間に与えてくださったすばらしいものの一つなのです。人間は、アメーバーから、偶然に進化したものではなく、最初から神の愛の対象である「人間」として創造されたのです。多くの人が信じている進化論によっては、「良心」というものを決して説明できません。しかし、人間の良心は、注意していないと、あなたが置かれている環境によって、あるいは子供から大人に成長するにつれて、罪を重ねる度に鈍感になって行くことがあるのです。最近は、恐ろしい殺人事件などが続発していますが、人間の良心も長い間、汚れた罪を犯していると麻痺してしまうことがあるので、よくよく注意する必要があります。 

 ある外国人が「良心」について次のような説明をしたのを聞いたことがあります。つまり、「良心とは、譬えて言えば、三つの角(かど)のあるものが心の中に入っていて、もし、私が悪いことをするとそれがぐるぐる廻り、角があるので、心の中を傷つけ痛みを感じるのです。しかし、なお悪いことを続けると、それがぐるぐると廻り続けているうちに、いつの間にか、その角がすり切れてしまうのです。するともう悪いことをしても、痛みを感じなくなってしまいます。良心とはそういうものなのです。」という説明です。それを聞いて、「なるほど!」と納得したのを覚えています。それが良心の麻痺というものでないかと思います。何かの異臭がする部屋に住んでいる人は、その異臭に慣れてしまいますが、外から来た人はすぐその臭いに気づきます。

 ところで、「良心」ということばの真の意味は何でしょうか。それは、「何々と共に知る」という意味を持っています。そして、それは、「神(God)と共に知る、判断する。」ことを差しているのです。つまり、神が私たち人間に「良心」というすばらしい見張り役(番人)を与えてくれたのです。この番人は、神と共に協力して働き、決して悪いことを見逃したり、大目に見たり、おべっかを使ったりしないで正義の神に服従するのです。ですから、私たちが真の神を知らないとしても、この良心によってしばしば善悪を見分けることができるのです。これは神の与えてくださったすばらしい賜物であり、知恵です。

 昔、ギリシャの哲学者で、ピタゴラスの弟子の一人がある靴屋で一足の靴を、他日お金を払う約束で買って帰えりました。そして、その約束の日が来たので、代金を払いに靴屋に行きました。すると、その主人がすでに死んでいて、そこに居なかったのです。そこで彼はただで靴が買えたと心ひそかに喜びながら帰ったのですが、彼の良心がそれを許しませんでした。毎日責められた末、とうとう堪え切れなくなって、再び靴屋へ行き、その代金を靴屋に置き、「彼は、すべての人にとって死んでいたとしても、私にはなお生きているのです!!」と叫んだのだそうです。だれでも、彼の心中を察することができると思います。

 彼の「良心」は、昼も夜も休むことなく彼の行いについて責めたのでした。彼はその良心の呵責には勝てなかったのです。私たちにおいても同じです。私たちは、何か悪いことを心に企てたり、悪事を働くと、良心が強く責めるのです。実はそれは、神様からの警告のランプなのです。私たちは、それを無視することができません。私たちはどんなにしても自分が犯した罪を隠すことができません。良心は、天の真の神様と共に働いているのです。だれに対しても、特別扱いをして見逃してくれたりは決してしないのです。この良心が正常に働いていて、その良心の呵責を敏感に感じる人は幸いです。

 今から約三千年前、あのイスラエルのダビデ王も、姦淫の罪と殺人罪を犯してしまいました。姦淫の罪を覆い隠すために、ダビデの忠実な部下であった彼女の夫を戦場の最前線に行かせて、死なせてしまったのです。彼は、一つの罪を隠すために、さらに罪を犯してしまい、二重に罪を犯しました。そして、心の中で「よし、これで大丈夫だ!」と完全犯罪を企て、それをやり遂げたつもりで平然とした顔をしていましたが、彼の良心は決して彼を許しませんでした。下に記した詩篇の一部を読めば分かりますように、神の御手が昼も夜も彼の上にあって、彼は良心の呵責によって苦しめられたのです。

●「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32:1~5)。 

 しかし、聖書はすばらしい慰めと救いの道を教えています。ダビデがそうしたように、心からへりくだって自分の犯した罪を神様の前で告白し、赦しを求める時に、あわれみ深い神様は、その罪を赦してくださるのです。そして、その罪からの救いの道を開いてくださった方が、イエス・キリストなのです。イエス・キリストが、十字架の上で私たちの罪の身代わりとして死んでくださり、流してくださった血は、イエス様を信じ受け入れる人の心を雪よりも白く洗い聖めてくださるのです。それによって、もう罪の責めで苦しむこともなく、むしろ、感謝と喜びと希望に満たされた心で神様にお仕えする日々を送ることができるのです。
 
●「‥‥後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており‥‥」 (1テモテ4:1,2)。
 
●「彼ら(異邦人)はこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。―― 私の福
音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。」(ローマ人への手紙2:14,15)。

●「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(ヘブル人への手紙9:14)。

 私たちは、外側を飾ることにはとても気を使うのですが、心の中のことには無関心、無頓着に過ごしていないでしょうか。しかし、もし自分の心の中を見ることができるなら、それこそ目を覆いたくなるのではないかと思います。タバコを吸う人の食道は、キセルの管の中のようにヤニでいっぱいだそうです。肺癌になったとしても不思議ではありません。同じように、私たちの良心が罪に汚れていては、やはり心の平和も喜びもないのは当然です。不安と恐れだけが襲って来ます。どうか、心がきよめられ、平安を得る救いを真剣に求めて下さい。十字架のイエス様のもとに行くまでは決して心の平安は得られません。十字架の血潮によってお互いに心をきよくしていただこうではありませんか。

●「‥‥御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1:7)。
●「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義(正しい者)と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)。
 

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

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★敵でさえも赦す愛

2007-06-05 | 「神の愛について」



 人間は、だれでも自分が誰かに何かよくないことをした場合、心から赦されたいと願うと思います。しかし、いざ自分が他人の罪や失敗を赦すとなると、これは簡単ではないということに気づきます。人間にとって、一番難しいことの一つではないでしょうか。以前のことですが、とても心温まる美しい話を聞きました。それは、もうかなり昔の話ですが、トルコ人によるアルメニヤのクリスチャンの迫害があった時のことです。一人のアルメニヤの少女とその兄とが、血に飢え渇いたトルコ兵にに追跡され、遂に兵士は二人を田舎の小道に追いつめ、その少女の目の前で彼女の兄を殺してしまったのです。彼女は、やっとのことで、逃げのび、のちに看護師となって働くようになりました。

 さて、ある日のこと、彼女の働いていた病院に、一人の負傷した兵士が血だらけになって担ぎこまれて来ました。彼女は、しばらくしてからその兵士こそ、かつて自分の兄を殺した人であることに気がつきました。しかし、その兵士の状態は、注意深い看護がなければ生命が危険にさらされるほどの重傷であったのです。彼女はその兄を殺したトルコ兵を、それこそ骨身を惜しまず、日夜看護にあたったのでした。その丁寧な配慮の行き届いた看護のお陰で、その兵士は日毎に快復に向かって行きました。そしてある時、その負傷兵は、その看護師こそかつて自分が殺した人の妹であることを知ったのです。

 不思議に思ったその兵士はある日、「何故あなたはあなたの兄を殺した私のためにこのように親切にしてくれるのですか。」と彼女に訪ねました。すると、彼女は答えました。「私は、私が敵対していた神様が私の罪を全部赦してくださったので、私に敵対する人をも赦さないでいることのできない信仰を持っているのです。」と。彼女は、神の愛のゆえに、イエス・キリストの十字架によって自らの罪が赦されていることを確信していたので、自分の敵であっても心から赦さないでいることができず、神の愛を実践して、その敵対者に打ち勝つことができたのです。これは、何と心打つ感動的なお話しではないでしょうか。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ人への手紙12:21)のみことばを実践したのでした。

 「敵をも赦すことのできる信仰」‥‥‥彼女が持っていると言ったこのような崇高な信仰、これは、今日のように乱れた世の中においては、最も必要なものではないでしょうか。この他人を赦す心があれば、私たちの生活はどんなに変ることでしょうか。憎しみや妬みに代わって赦しの心がこの社会に満たされたら、どんなにこの世の中は変ることでしょう。しかし、この世の中は決して良い方向に向かっていないことは確かであり、聖書もそのように語っています。この他人を赦す心は、決して自分だけの力や努力では真似できないものであり、不可能なのです。この敵でさえも赦すことを実践できるのは、神が私たちのために遣わされた救い主イエス・キリストの十字架の福音を心から信じることによって、初めて経験できることなのです。

 イエス・キリストは、この地上の33年半のご生涯は、常に完璧な模範を示され、彼は他人に教えられる前に自らそれを実践なさいました。イエス様は、たった一人の人をも憎みませんでした。人々に謙遜と愛の極みまでもお示しになられました。どんな扱いを受けても、決して呪いのことばを返すようなことはありませんでした。イエス・キリストは、酷い迫害や仕打ちに対しても、最後まで忍耐し続けられました。人々の憎しみと反抗は、キリストを十字架につけることにより頂点に達したのです。その時、キリストはどうされたでしょうか。キリストは、血を吐くような苦しみの絶頂においても、十字架の上で、天の御父なる神に向かって、静かに次のようなとりなしの祈りをなさったのです。

●「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23:34)。 

 キリストは、人間の側からはとうてい理解できないくらい、人間を愛し通されたのです。キリストは、人間の心の中にある罪を憎んでも、その人を憎むことはありませんでした。心から愛されたのです。罪に支配されている哀れな人間に、ますます赦しの心をもって接してくださいました。イエス・キリストは、人に赦し合うことを教える前に、まず、ご自身が人の罪を赦す道を開いてくださいました。ご自分を殺そうとたくらむ人たちのためにすら祈り、そして、ご自身のいのちまでも奉げられたのです。ここに、すばらしい真の神様の愛(アガペーの愛ア)があります。

 この神が遣わされたすばらしい救い主であられるイエス・キリストを信じて、罪が赦された者は、他人の罪や失敗をも心から赦すことができる人になるのです。憎悪と悪意、憎しみと殺意に満ちた今の世界で、「人を真心から赦す心」こそ、今日もっとも必要とされているものの一つではないでしょうか。憎しみは、破壊につながります。家庭を破壊し、人と人の繋がりを破壊し、人としての親しい交わりを破壊し、国を破壊します。しかし、「他人(人)を赦す」ことは、常に建設的です。家庭の中に、職場の中に、人と人との交わりの中に平和を建設します。すなわち、世の中に平和を作り出す人になるのです。キリストを信じて、神にすべての罪が赦された確信を持った人だけが、他人を赦すことができるのです。

●「‥‥しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。 」(ローマ人への手紙4:8~10)。

●「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。 」(エペソ人への手紙4:32)。 

●「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイの福音書5:44)。

●「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ人への手紙3:13)。
 

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